第九話・光、みちびく場所へと
第八話・風啼き谷目次最終話・ゆりかごの守護者

 静かにたたずんでいた森が、音もなく動いて朽ちていく。
「セナイ、森が……森が、突然に壊れていくよ」
 静寂であったはずの風啼き谷へと続く森は、今は不思議な音に満ちて、二人の心に浮かぶ不安をあおっていた。
 とにかく森の崩壊が続く場所から逃げねばならないが、永遠に走れるわけもない。かなりの距離を走り、木が倒れる音が聞こえなくなったところで、セナイは足を止めた。
 いつのまにか崖の側に来ていたらしく、右手に休むのによさそうな岩室がある。
「セナイ?」
「少し休もうよ、ファル。音は遠くなってるし、しばらくは大丈夫だと思うから」
「う、うん。ありがとう」
 胸元に手をおいて、ファルは深呼吸を繰り返した。セナイは先に岩室の中を確認し、それからぐるりと周囲を見渡して眉をよせる。
「なんか、変だな……」
「なに、が? セナイ」
 光の流砂は岩室の中にまで入り込み、座り込んだ少女の身体をやさしく受け止めた。背負った荷物から水筒を取り出す。
「なんか、地面の上って感じがしないんだ。ここだって、まるで崖の途中みたいに見えるよ。それに」
 渡された水筒の中身を一口飲んで、セナイは岩室から出て一歩進む。
「下った記憶がないんだ」
「下った? ……あ、風啼き谷って、森の一番低いところにあるんだっけ」
「うん。だからさ、普通は下るんだよ。なのに俺らは、真っ直ぐに進んできたよな。走ってるときは単なる草むらだって思ってたけどさ、あれは木みたいだし」
「木?」
 むずかしい顔をしたセナイの緊張が移って、ファルも外に出てきて思案顔になった。ぐるりと周囲を見渡して、低い位置にある草むらを凝視する。
(あれ、たしかに、草じゃないみたい。木の葉? ええ?)
 誘われるように岩室から出て、ファルはしゃがみこんで木の葉を見つめた。セナイは近くの岩や土に触りながら、ぶつぶつと呟いている。
 ファルは、光の流砂の下になにかを見た気がして、両手を光の道につけた。ためらいもせずに額をこすりつけ、じっと目を凝らす。
(え? えっと、あれ?)
 首をかしげた拍子に、茜色の髪が贅沢におられた布地のように広がった。
 ファルの様子にセナイが不思議そうな顔をして、すぐ横にしゃがみこむ。
「なにしてんの、ファル?」
 尋ねた瞬間、セナイは腕をファルに取られた。
「そ、そ、ソラッ!」
「おれの名前はソラじゃない、セナイだ」
「そうじゃなくって、ソラなの!」
「あのさあ、おれちょっと悲しいぞ。ファルにとってそのソラって奴が特別だってのは分かったからさ。でもさ、おれだって」
「違うの!! 見て!! ここは、空の上なのよ!」
 ファルはつかんでいた少年の手を、思い切り強く引いた。「わぁ!」と情けない声を上げ、セナイは光の道に額ごとつっこむ。
 少年と少女のはるか眼下に、ごうごうと逆巻く川が流れていた。
「ソラって……そうか、ここは空の上なのか!」
 勢いよく顔を上げ、セナイは同じように顔を上げた少女と目をあわせる。
「あたしたちは今、空を飛んでいるようなものなんだね!」
 興奮気味にファルが叫ぶ。
 茜色の目がきらきらと輝き、周囲を取り巻いている光も手伝って、少女はひどく幻想的だった。
 セナイは思わず息を飲む。
 暗闇に落ちた山中で、しばられて転がされていた哀れな少女に出会ったのはほんの数日前のことだ。けれどその僅かな間に、セナイはファルの違った顔をいくつも見せられてきたのだ。
 出来るならもっと見ていたいと思ってしまって、少年は赤くなる。
 ファルが不思議そうに首を傾げたので、セナイは慌てて声を上げた。
「朝風を迎えてるんだよ、風の獣が」
 岩室に戻ろうと、セナイは立ち上がる。けれどファルが座り込んだまま、きょとんとした顔をしていたので、少年は首をかしげた。
「ファル?」
「さっきも言ったけど、風の獣はあたしだけを待ってるんじゃないよ? セナイのことも待ってるから、あたしたちを迎えてるんだよ」
「いや……でも、さ」
 言葉をにごらせたセナイを前にして、ファルはなぜか腹が立ってきた。立ち上がって岩室の中に入り、少年よりも先に座り込んでしまう。
 少女の機嫌を察知したのか、セナイは彼女の横に座り込んで、困ったように唇を尖らせた。
「ねえ、セナイ。あたしはね、風の民そのものではないから、風の民がどんなふうに生きてきたかはしらない。でもね、セナイたちが風の獣を強く求めてることは知ってる。風の獣が風の民を呼んでることも、感じるよ」
「……ファル」
「セナイの言うことが正しいなら、風啼き谷はあたしだけを迎え入れるってことになるんでしょ? でも、セナイは今、ここにいるよ?」
「え?」
「ここに」一旦言葉を切り、ファルはセナイの手を両手でとって、彼女自身の頬に寄せて目を伏せた。
「あたしと一緒に、いま、ここにいるんだよ? 空の上に光の道が作られるほど、不思議なことが起きるここに」
 ファルに触れた場所から伝わる心が、小さな傷だらけのセナイの手を――知らずに傷ついてきた少年の心を、静かに温めていく。
「セナイが求められていないなら、ここにはいれないよ?」
 風の獣がセナイを呼ぶ声だって、本当は聞こえるはずなんだからと、ファルは続ける。
 温もりが、少女の声が、少年の心を嵐のようにゆさぶった。
『風啼き谷は閉ざされ、風の待ち人を、風の呼び人を、待って眠るのみ』
 ティオスがそう言ったのを、唐突に思い出す。
『あたしとセナイを呼んでいるのが分るからっ!!』
 風の獣を感じて、ファルが叫んだ瞬間のことも。
 セナイの身体が震え始めた。頬に寄せた手からそれを感じ取って、ファルは瞼を開き、空色の瞳を静かに少年に向ける。
「ファル、おれたちはずっと、朝だけが鍵なんだって思ってたんだ」
「うん」
「おれはさ、風を感じることが出来たから。風が大好きだったから。風は朝風を求めてるって言われるたびに寂しくって。……悔しくって」
 訴える少年の声が、透明度を失って震えていく。
 ファルは小さくうなずいて、自分自身の頬に添えさせている少年の手を、守るようにぎゅっと包み込んだ。
「朝風を求めながら、朝風を憎んでもいたんだ! たった一人、風の獣に求められ続けている朝風がうらやましくて! 望んでも、望んでも、風の獣はおれたちを求めないのに! 現われもしない朝風だけがっ!!!」
 語尾が震えて、言葉は形を失う。年齢よりも大人びていた少年が、今はまるで小さな子供のように、泣きじゃくっていた。
 朝風を憎む言葉は、少女自身を呪う言葉でもある。けれど恐ろしい言葉を投げつけられた当人は、怯えるどころか逆に優しく笑っていた。
「セナイ、ねえ、教えて? 風の待ち人ってなあに?」
「ファル? なんだよ、いきなり。おれ、ファルのことを待ってて、探してたけど。でも憎んでもいたんだぞ! なのになんでそんな平気な顔して、そんなことを聞くんだっ!」
「じゃあ、いま、セナイはあたしのこと、憎んでるの? あたしはセナイと会えて嬉しかったのに」
「ファ、ル?」
「教えて、セナイ。大事なことなんだから。風の待ち人は?」
 少女は優しく微笑んでいるのに、拒否できぬ力を感じとって、少年はたじろぐ。取られていない方の手で涙をこすり、鼻をすすって、セナイは真剣な表情になった。
「……風の待ち人は、風を感じられなくなっても、ずっと存在を信じて、待っていられる人間のこと、だよ」
「セナイ、やっぱりそうなんだ」
「やっぱり?」
「風啼き谷は閉ざされ、風の待ち人を、風の呼び人を、待って眠るのみ。この言葉も、風の民に伝わってきたものなんでしょう?」
「そうだよ。なんであいつが知ってたのかは、分かんないけど」
「セナイ、なんで彼が知っていたのかは問題じゃないの。問題なのは、セナイが風の待ち人だってことだよ!」
「おれが!?」
 思いがけない言葉に、セナイは目を見張って大声を出す。ファルはくすくすと笑って「当然だよっ」と答えた。
「だって、セナイはずっと信じてたでしょ。風の獣の存在が消えてしまっても、ほかの人たちが風を感じることが出来なくなっても。ずっとずっと信じて、目覚めを促す朝を探してた。ねえ」
 ぱっと、ファルは自分自身の頬にセナイを導いていた手を離した。そのまま手を伸ばし、今度は少年の頬を包み込む。
「セナイが風の待ち人じゃないなんて、どうやったら否定できるの? 風の待ち人の条件そのままなのに!」
「風の待ち人は……特別な意味を持つ文様を持つ存在じゃ、ない?」
「ずっとずっと昔になくした存在を、待ち続けたことが特別なんだよ」
「おれが? ……じゃあ、ノリスも?」
「そうだよ、それが答えなんだよ。風の民が、セナイが、風を待って」
「ファルが風を呼んだ」
 手を伸ばし、セナイも同じようにファルの頬を両手で包んだ。
 二人の距離が近くなり、まるで誘われるように、互いの額を寄せ合う。
 朝風と夜風。意味持つ文様が交わって、二人は定めを実感するけれど、使命よりも確かな温もりと優しさを感じあって、目を閉じた。
 触れ合っているのが心地よくて、二人はしばらくそのままでいた。
 どれほどそうしていたのか、殆ど同時に、二人は目を開ける。
「ねえ、セナイ。まだあたしを、朝風を憎む?」
「憎むもんか。憎めるわけなかったんだよ、だっておれはファルを……」
 感情を形にすることが出来ずに、セナイは言いよどむ。ファルはそっと笑って、また少し目を伏せた。
「ねえ、セナイは風の呼び人でもあるんだと思うよ」
「――え?」
「あたしを呼んでくれたのは、きっとセナイだよ。だから、セナイはあたしの風の呼び人」
「おれを待って、生き延びてきてくれたファルは……おれの風の待ち人、なのか」
 心の中にずっと巣食っていた、風の獣に求められていないのではという辛い気持ちが晴れて、セナイの表情から曇りが消えた。それがファルにはまぶしく感じられてしまって、今更だが赤くなる。
「ねえ!」なにか食べておこうかと続けかけて、少女は身体をふるわせた。
 ひどく不気味な、なにかがこぼれ落ちるような音が聞こえてくる。二人はとっさに背のうを背負い、そのまま岩室の入り口へと走った。
「セナイ、光の道がっ!!」
 確たるきらめきを放っていた、光の流砂が消えゆこうとしている。
 まるで指の隙間からこぼれ落ちるように、形を失ってどんどん霧散していくのだ!
「な、なんだよ、これ!! って、焦ってる場合じゃない! ファル!」
 叫ぶと同時に、セナイはファルの手を取って走り出した。
 光の流砂がこぼれ落ちていく、不気味な音の響きが広がっていく。
 風を受けて走る二人の速度は素晴らしいが、元々疲労していたこともあって、ファルの息はすぐにあがってしまう。少女の足はもつれ、少年に半分引きずられていた。
「ファル、頑張れっ! こんなとこで、あきらめるなっ!!」
「う、うんっ!」
 二人を支える光の道は、目を凝らさずとも下の景色が見えるほどに、薄くなってきている。
 地面にたどりつくのが先か、消えてなくなるのが先か、セナイは焦りに叫びだしそうだった。
「セナイ、朝が、朝が突然に来てしまったんだって!」
「ファル、なにをいきなり!?」
「風の獣が言っているの! まだ駄目なのに、先にまわりが目覚めているって! セナイを呼んでるよ、ねえ!!」
「おれを呼んでる? なんで!?」
「わかんないよ、風の獣がただそう言ってるの!! 自分が目覚めさせるはずなのに、先に目覚めて壊れていってるって! 止めてって!!」
 頭の中に直接飛び込んでくる、風の獣の叫び声に、ファルは混乱した。走らねばならないのに、息継ぎをしなくてはならないのに、口は訴えを続けている。
 二人の手が、極限まで伸びきった。
 そこを目がけて、唐突に大きな岩が落下してくる!

第八話・風啼き谷目次最終話・ゆりかごの守護者