最終話・ゆりかごの守護者
第九話・光、みちびく場所へと目次

(セナイと引き離される!!)
 離れ離れになる様子が、やけにはっきりと想像できて、ファルは恐怖に震えあがった。
 少女の恐怖が、まるで矢のようにセナイの心を射抜く。
「ファル!」
 セナイは落ちてくる岩を確認して、そして異変に気づいた。
 すべての時の流れが、やけにゆっくりに感じられる。ファルが恐怖におののくのも、岩が落下してくる様子も、その全てがゆるやかになる中で、少年はついに聞いた。
『我の眠りを守り、我のゆりかごを守護する者。夜風よ、眠りを』
 たしかに、聞こえた。
 もう間違いなかった。これはセナイに話しかけてくる、風の獣の声だっ!!
「ファルーーっ!」
 風の獣の意志と力を感じながら、セナイは絶叫した。手を離せば二度とめぐり合えない予感に震えて、少年はがむしゃらに少女の手を引く。
 飛翔するかのように、痩せた少女の身体は少年の腕の中に飛び込んだ。セナイが受け止めたと同時に、二人の額にある風の文様が光を放つ。
 朝と夜と。相反するはずの風が、やすらぎとなって、風の獣の守護を失い、先に目覚めて朽ちようとしていた風啼き谷を包んでいく。
 少年と少女は互いに互いの存在を守るように抱き合ったまま、二人の周囲をめぐる風を感じていた。
「風の獣はまだ目覚めてはいないから、森はまだ眠れ」
 セナイが囁く言葉が力となって、再び森は眠っていく。
 殆ど消えてしまった光の残滓が、朝風と夜風を取り巻いて、二人の身体を支えながらゆっくりと下降を始める。
 視界が開け、見下ろす眼下に。
 ――集落があった。
 石で作られた用水路がある。
 石で作られた道もあった。
 石の家があり、石の壁があり、石の井戸がある!
 朽ちた様子はなく、今にも生活の音が響いても不思議のない集落だった。縦横無尽に道が整備され、中央にそびえたつ荘厳な建物へと続いている。
 建物の中庭に、石像が鎮座していた。
 今にもとび立ちそうな躍動感に満ちた、翼ひろげる大きな鳥の石像だ。
「セナイ、あれは……もしかして……」
 ふるえるファルの言葉に、セナイは頷くだけで精一杯だった。
 かつてあでやかな緑の中、谷を走る風とせせらぎの川に守られて、風の民が住まう美しい集落があった。
「風啼き谷の、集落……じゃあ、あれが、風の獣をかたどる石像なのか?」
 胸にこみあげる感動を現す言葉が見つからず、ファルは「綺麗」と呟いて目をうるませる。
 光と風に導かれるままに、ゆっくりと石像の前にと降り立った。最後に残った光の粒子が、名残惜しむように二人の周囲をめぐり、消えていく。
 歩くたびに、かつん、と音を立てる石畳を少年と少女は進んだ。
 石像の周りを、風がめぐる。
「セナイ、あたしたち来たんだね」
「うん。ファル、ここが……風啼き谷だよ。そして……」
「風の獣」
 高くそびえ立つ石像を、見上げる。
「ファル! 朝をっ!」
「え?」
 困惑顔の少女の胸元に手を伸ばし、セナイは彼女に贈った音を奏でぬ笛に触れる。
「風の呼び人は、その笛で風を呼んだ。今はおれにも分かる、呼ばれるのは風の獣だよっ!」
 セナイは笛を、ファルの口元に運ぶ。
「おれも呼ぶから。だから吹いて、ファル」
「風の獣を……一諸に?」
「うん。一諸に呼ぼう」
 セナイは少女に笛を手渡し、支えるために彼女の両肩に手を置く。
 ファルは目を伏せ、笛に唇をあてて思いを巡らせた。
 風を感じるときの気持ちに。
 ノリスに出会ったときに感じた風の形に。
 夜風であるセナイの風と、朝風であるファルの風に、思いを!
 ――風が、震えた。
 音は奏でず、風に訴える無音の旋律が、大気に広がっていく。
 静寂の森が、笛の音に答えて震えた。
 セナイの目の前に、とつぜん光の粒子が戻ってくる。二人の足元を中心にして、円を描く光の柱が立ち上った。
 目前の石像が大きくなった?と、セナイが疑問を覚えた瞬間、二人の身体は圧倒的な力に飲みこまれていた。
 猛き力にもてあそばれて、少年と少女は上空へと運ばれた。そして宙に投げ出される!
「ファルっ」
 落下の衝撃に目を開けるのも辛いのだが、セナイは懸命にファルを求めた。
「セナイ!」
 笛を離し、ファルも答えて叫ぶ。
 手を伸ばし、引き寄せあって、二人は必死に抱きあった。朝風と夜風の文様が光と熱を生じ、悲鳴を上げる。
『……よくぞ、ここまで来た』
 ――声。
 脳裏に響くのではなく、聴覚がとらえる声がする。
 身体を焼き尽くすような熱にうめきながら、目を見開いて二人は中空にて始まった異変を見た。
 空から森から集落から光が生まれ、呼ばれるように集まって、質量を増していく。光の流砂は形を作り、羽が生まれ、翼となって、そしてついに。
 ――意思持つ風が吹いた。
 眠りについて時をとめた、風の啼く谷が主人を得て真に目覚める!
 急速に落下する二人の体が、ふわりと浮き上がった。身体を焼くような熱がさり、正常を取り戻した空色と藍色の四つの瞳が、自分たちを受け止めた巨大なソレを前に見開かれる。
 驚きではない。それは、歓喜にだ。
 風啼き谷の上空を舞うのは、あでやかな鳥だった。
 朱色にきらめく深い色の瞳が二人を見つめ、風を起こす巨大な翼が悠然と羽ばたく!
「風の獣……あなたが、そう、風鳥なのね!?」
 ファルに答えるかわりに、風鳥は二人を背に乗せてさらに高く飛翔する。風呼ぶ鳥の翼下で、眠る森が静かな目覚めを迎えていく。
 朽ちるのではなく、生命力に溢れた緑の森が蘇るのだ。
 鳥がさえずった。
 森の住人である動物たちが動き回り、木々が枝葉をふるわせる。
 小さな者たちの命が、森の魂が、せせらぎの躍動が、やがて一つになって音楽を奏でる。
「セナイ、森が歌ってるよ。そっか、そういうことだったんだ。笛は音を出さないけれど、かわりに森が歌いだすんだ。なんて綺麗な歌なの……」
 静かな感動に胸をふるわせて、ファルはそっとかたわらの少年を見やる。
「セナイ?」
 少年が泣いていた。
 顔をくしゃくしゃにして、拳を握りしめて、耐えられぬ涙を落としている。
「どう、したの?」
 セナイの涙の理由が、ファルには分からない。その分からなさが、ティオスに貰った短刀に刺されたように、胸を痛ませる。
 少年は、あどけない子供のような仕草で首を左右にうちふった。
「なつかしいんだ、ファル。眼下に広がるこの光景が、懐かしくって仕方ないんだっ!」
 知らないのに、とセナイは身体をふるわせて、また泣く。
(やっぱり、あたしは違う。あたしは本当の風の民じゃない。だって……懐かしさなんて、感じない)
 ファルは冷水を頭からかぶせられた気がして、少し唇を噛んだ。それでも微笑んでみせて、そっと手を伸ばして少年の頬にふれる。
(セナイは風の民だから)
「ねえ、それは当然だよ」
 心の言葉はのみこんで、優しく囁いた。まるでファルの言葉に同意するように、風鳥がやわらかな風を贈ってくる。
「とう、ぜん?」
「だってここは、セナイたちがずっと昔に失ってしまった、故郷なんだもの。セナイたちだけのね」
「ファル?」
 少年がそっと眉を寄せていく。
 それに気付いたが、かまわずにファルは言葉を早囗でつむいだ。
「セナイの中に流れる風の民の血が叫ぶんだよ、懐かしいのは当たり前!」
「ファル!!」
 大声をだすことで、少女の言葉をセナイは強引にさえぎった。乱暴に手をのばし「いたいっ」と訴えるファルを無視して、存在を逃さないように強く抱きしめる。
「セナイ! 離してっ!」
「嫌だっ! 今のファルを離したらおれは後悔するっ!」
「な、どうしたの!? ねえっ!」
「ここは、おれにとってだけの故郷じゃないっ! ファルの故郷にだってなる場所なんだ!」
「……え?」
 ファルはセナイがなぜそんなことを言い出すのかが分からず、泣きたくなった。
 セナイはファルの顔がくもっていくのも知らずに、ただ叫ぶ。
「朝風も夜風も、風の獣を目覚めと共に役目は終わるかもしれない。でもおれが嫌なんだ! ファル、どこにも行くなっ!」
 魂をふるわせて少年が叫ぶ。
 ――森がかなでる歌に、胸をしめつけられたセナイ。
 ――森がかなでる歌を、ただ綺麗だと喜んだファル。
 二人は同じ事柄を前にし、違う心を抱いて、結果知ってしまったのだ。
 ファルとセナイの間に存在していた、決定的な違いを。
 ――役目を果たしてしまえば、二人が共にあらねばならない理由まで失う現実を。
 セナイはたとえ山に親しむといえど、風啼き谷を故郷とする、夜風の文様を額にする風の民だ。
 ファルは朝風の文様を額に持つ風の民でありながら、地に足を付けて生きる大地の民でもある。
 ぎゅうっと抱きしめてくるセナイの温もりを全身でとらえながら、ファルは繰り返しためらい、最後にそっと彼の背に手をまわした。
「セナイ、あたし、風啼き谷にいたいって思うわけじゃないの」
「ファルにとって、ここは知らない場所だもんな。故郷でも、なんでもない」
「でも、あたし……あたしはっ!」
 思いのたけを全てこめて、ファルは少年の背に回した手に力をこめた。
 笑ったこと、怒ったこと、驚いたこと、怖かったこと、一緒に感じた全ての感情が、激流となってファルの中を駆けめぐる。
「セナイと一緒にいたいっ!」
「だったらずっと一緒にいればいいじゃないか! おれの側にいろよっ」
「でも、あたし、あたしはっ、ここに居る権利なんて……っ!」
『なにが風啼き谷に在る権利を奪うのだ、朝風よ?』
「……風鳥?」
 かつて共に眠りにつかせた森に目覚めをしらせたおおいなる風の化身は、少年と少女を背に乗せたまま大きく旋回し、風啼き谷の中心へと舞い降りる。
 音もたてずに石畳の上に戻り、二人をおろすと、風潮は独特の深みを持つ朱色の瞳を朝と夜の風へと向けた。
「だ、だって、ここは風の民のための……」
 どこか呆然とした表情で、風鳥を見上げてファルは言った。
 セナイは厳しい表情で首をふり、ただただ心配そうに少女を見守っている。
『ここに在る権利は、ここに在ろうと思う者に与えられる。朝風が否定するならば、たしかに権利はなかろうな』
 風鳥は、どうやら笑ったようだった。
 ファルはすぐに風鳥に尋ねようとして、ハッと目を見開く。
「セナイ! 風鳥の姿が、薄れていくよ!!」
「――え!?」
 はっきりとしていたはずの輪郭がぼやけ、風鳥が背後にしている、風の獣自身を模した石像が見え始めている。
「な、なんで!? だって、風の獣を目覚めさせる朝は、こうやってきているのに!!」
 少年は一瞬で取り乱し、すがるような眼差しで叫んだ。
 風鳥は、ふわりと、羽を広げた。
 急速に存在を薄れさせていく羽で、風を招いて二人に寄せる。
『我の目覚めは果たされた。我は、我に力を与える者を待つ』
「力を与える、者?」
『いましばらくは、形を保ち続けることが出来ぬのだ。我は力のほとんどを、失ったままであるから』
 ひどく優しげに風鳥がささやき、最後の形までもが風に流れた瞬間。
 朝風と夜風は、同時に、同じ光景を見た。
 ――見張りやぐらにて出会い、風の民と関係があるのだと言い、風の民にまつわる言い伝えを知っていた男が、二人のたつ風啼き谷に訪れる光景を。
「……ティオス・レナル・エイデガル?」
「あの男が、風鳥に力を与える、者?」
 二人、呆然とした顔を見合わせた。
「……なんでだろう、分かる気がする」
「おれたちに、また会えるって言ってたよな。……おれらが風の文様の使命を知っていたみたいに、あの男も知ってたのかな」
『てめぇはよ、使命だとか運命だとかを信じるか?』
 どこか苦悩の色をにじませた目をして、ティオスがいったことをセナイは思い出す。詳しいことはなにも分からないけれど、少年は頷いて、顔を上げた。
「なあ、ファル。風鳥は言ったよな、ここに在る権利は、ここに在ろうと思う者に与えられるって」
「うん」
「じゃあ、願ってくれよ、ファル。ここに在る権利は、きみの心しだいなんだから」
「あたしの?」
 問いに答えず、セナイは顔を上げた。
 夜を迎えようとする藍色の瞳が、朝の清廉さを宿す空色の瞳をとらえる。
「ファル、おれは、きみが好きだ」
 まっすぐな言葉だった。
 空を見上げる緑がしずくを受けるように、少年の言葉は少女の心を満たしていく。
 少女の顔から、一瞬、感情が滑り落ちた。
 それを見て、少年が辛そうに唇を噛み、口を開こうとする。
 けれど、それよりも早くに。
 いきなり駆けだして、ファルはセナイに飛びついた。
 体勢を崩して後ろに尻もちをつきながらも、少年は少女の身体をかばう。上体に覆いかぶさられた形で、セナイは返事を聞いた。
「あたしも、セナイが大好きだよっ!」
 ファルは少年をぎゅうっと抱きしめながら、セナイは目を見開きながら、互いの顔を見合って見つめあう。
 互いに触れあう場所が、ひどく熱かった。
 その熱に誘われたように、少年と少女はごく自然に顔を寄せ、触れ合うだけの、互いの熱を感じとれるだけの、口付けを交わした。
「おれの手を離そうなんて、思うのはなしだからな」
「セナイが、あたしの手を離さないなら」
「離さない。だから、ファル、返事は?」
「ここに在る権利を持つための?」
「そう、ファルの答え」
 ざれあうようにささやきながら、セナイはもう一度かすめるようにして、ファルの唇にそれを重ねた。
 優しさに、ぬくもりに、幸せに、誘われて少女は綺麗に笑う。
「セナイが居る場所に、あたしは居るよ」
 

 風が、また、吹いた。


 意思はとりもどしたものの、まだ力を取り戻してはいない風鳥が、二人を祝福する風を贈る。
 二人は顔を見合わせ、あまりに近い距離であることを今更だが実感し、慌てて体を離した。立ち上がり、衣服についたほこりを払っていて、ふとセナイは手を止める。
 ティオスの手で腰にさげられた剣が、自己主張をするかのように、目に飛びこんできたのだ。
「セナイ?」
 ファルが首をかしげる。
 彼が驚いた表情で固まったままなので、少女は彼の見つめる剣を覗き込んだ。
 美しいこしらえの鞘に、向きの違いで、見せる形を変える文様があるのが分かる。
「え?」
 ファルは目を見開いて、セナイの額の夜風の文様を見つめた。
 セナイも顔をあげ、ファルの額にある朝風の文様を見やる。 
 ――掘り込まれた文様は、朝風と夜風の異なる文様を一つにあわせたものだったのだ。
 慌ててファルも自分の短刀を取り出し、同じ文様が刻まれていることを確認した。
「ティオス・レナル・エイデガルは、あたしたちが朝風であり夜風であることも知っていたの? だから、これを託した? いつかここを訪れる日のために、この剣が彼をここに導くのかな」
 ひどく驚いている様子で、ファルが首をかしげる。セナイはこたえるように悪戯っぽく笑うと、少女の手を取る。
「きっとな。まあ、待っててやってもいいさ、おれたちはここにいるんだし。それより、これからどうしようか? ファルはどうせ、こう言うだろうし」
「あたしが、なにを言うの?」
「お腹すいた!」
「あー! ひどい、それ、セナイだって思ってるでしょ! あたしのせいだけにしないでよっ! それに、残念でした! あたしが最初に要求するのは、別のことだもん!」
 わざと頬をふくらませ、ファルはセナイの手を振り切って走り出す。
 風を思うぞんぶん身に受けて、少女は茜色の髪を空に流した。
「まずは風啼き谷を見て回るの。それから、あたしたちが住む家を決めて、熊のトリクの家も決めるのよ! こんなに広いんだもん、トリクだって一緒にいられるはずだよっ!」
 高らかに告げる少女を見やって、少年は笑い出す。
 それから駆け出して、ファルの手を背後から捕らえて、声を上げた。
「じゃあ、行こう!」
 取られた手を支点にして、ファルはくるりと体を回転させる。
「うん、どこまでも一緒に!」

++終わり++

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