第六話・見張りやぐらにて
第五話・二人きりの旅立ち目次第七話・合戦跡を越えて

 最初にファルが見たのは白だった。すぐにそれが消えて、変わりに前に出たセナイの背に視界を塗りつぶされる。彼はまろぶように前に進み、嬉しそうに声を上げた。
「トリク!」
「ねぇ、トリクって……もしかして、セナイが言ってた」
 ゆうにファルの二倍はある純白の熊がいた。見間違えでなければ、熊はひどく嬉しそうだった。前に出たセナイを剛毛に覆われた前脚で持ち上げ、そのままファルの前までやってくる。
「かわいい熊?」
「そうだよ、ファル。ここまで遊びに来てたんだな。おれの匂いがしたから、嬉しくなってきたんだろ? トリク、ファルだよ。おれと同じ風の民で、朝風だ」
 セナイの言葉がわかるのか、純白の熊は肯いてみせる。ふときょろきょろと周りを見渡すと、困ったように一声吠えた。
「分かってる、狼が帰ってくるんだよな。おれとファルを、東の果ての見張りやぐら側の休み場まで連れて行ってくれないか? 帰ってきたら、土産をもってくるから!」
「……セナイ、あの……熊と会話できるの?」
 真顔で熊に話しかける少年に、困惑してしまってファルが尋ねる。セナイは満面の笑顔で「大丈夫だよ」と言った。熊のトリクも同じように肯くと、軽々と小柄なファルを持ち上げてしまう。
 それからはもう、あっという間の出来事だった。熊のトリクは少年少女をかかえて、山をすべるように駆けていく。最初こそ困惑したファルも、トリクの優しさを理解するにつれ嬉しくなっていた。高い枝になる果実を渡されて、ためらうことなく口に運ぶ。
 高揚した気分のまま、ファルは疲れきっていることも忘れて、トリクとセナイに話し掛けていた。けれど限界をきたした体がそうそう簡単に回復するわけもない。セナイの返事が消えて規則正しい寝息になるころには、ファルもぐっすりと眠り込んでいた。
 風の集落から東に進路をとり、峻険な山を下りきれば、広大な平野が広がる。
 逆に西へ下れば別の山の隆起にぶつかることになる。山々の間には大きな湖を抱く盆地があり、セナイも行ったことがない国が存在していた。
 山に逃げた流浪者である風の民は、国境をこえる正規のつてを持っていない。広大な平野にある国々は互いに争っており、国境はつねに前線となっているため、逆にもぐりこむ機会をうかがうことが出来たのだ。
 山の東の果てに立つ見張りやぐらはかなり高く、頑丈な木で組まれている。それが二つあり、間を抜ける道を守っているのだ。
 いわばこれは扉のない門だ。
 やぐらの死角にあたる崖下に、大きな洞穴が存在している。とりで近くの休み場とセナイが称した場所がこれで、トリクは依頼どおりそこへたどり着いて途方にくれた。
 二人がまったく起きようとしないのだ。困った様子で首を傾げ、夜のとばりが落ちていることを確認し、熊は少年少女を腕に抱いて座り込んでしまう。
 翌日、早くに目覚めたのはファルだった。
 ごわごわと硬い毛の感触と、あたたかな温もりと、独特の獣臭を、目覚めてすぐに自覚する。半分眠っている状態のまま、彼女は呆然と目をぱちぱちとさせた。
「んー……あ、トリクだ!」
 言葉をぽんっと唇からこぼす。
 ファルの声に反応して、熊にすりよって眠っていたセナイも目を開けた。子供じみた仕草で目をこすり、大きく伸びをする。
「おはよ、ファル。あー、トリクも一緒か」
 セナイは熊の首筋をあやすように軽く叩いた。人間のような熊もそれで目覚め、大きな身体を起こして、つぶらな目を二人に向ける。
「トリク、ここまでつれてきてくれて、ありがとうな」
 にこっとセナイが笑うと、トリクも笑ったようだった。分かってるというようにうなずくと、巨躯を俊敏に動かして洞穴の外へと向かっていく。
「セナイ、トリク行っちゃうの?」
 あまりに素早い別れに、ファルは名残惜しんでつい声を上げた。
「トリクが目立てば、狙われるからな。あいつが狩人に狙われるなんて、おれは嫌だよ」
「あ……そっか。トリクが優しいってこと、みんなが知ってるわけじゃないんだもんね。矢とか犬に追われたら、あたしも嫌だな」
 恐ろしい光景を想像してしまって声が震えた。セナイが困って言いよどんだのに気付いて、ファルは大慌てで首を振る。
「風啼き谷の獣に会ったら、トリクも一緒にってお願いしようね!」
「あ、ああ、うん。ファルって、気に入るの早いんだなぁ」
「そうかな? ね、それより、ここってもしかして」
 セナイが大丈夫だという位置まで外に出て、ファルはぐるりと周囲を見渡す。山の奥深くとは異なるこの光景は、山に住まうセナイよりもファルのほうが詳しい世界だった。――水色の目を細め、少女はやぐらを見つめる。
 あのやぐらを、越えてきたのだ。遊牧の民に村を追われ、なにもかもを奪われながら、逃げてきたのだから!!
「ファルはあそこを越えたことがあるんだな?」
「あるけど、もう正規にはこえられないよ。あたしがあの村の住人だったことを保証してくれるものは、取られちゃったから」
 ごめんとうなだれた少女の肩を、セナイは不敵な笑みと共に叩く。
「保証なんておれも持ってないよ。それよりファルがあのやぐらを知ってるってことのほうが、意味が大きい。いいか、おれらはあそこを越えなくちゃならないよ」
「風啼き谷は、あのやぐらの向こうなの?」
「戦場をつっきっていくことになる。迂回したくってもさ」
「戦場じゃないところのほうが、少ないもんね」
 二人、真剣な顔で頷きあった。
 日の高いうちから、やぐらを突破できるとは思えなかった。二人交代で様子を見守りながら、携帯食料と近くの森から集めた食材を使って腹ごしらえをする。そのあいだずっと、ファルは沢山しゃべっていた。セナイのことが知りたくて仕方がない。それは少年も同じだったらしく、面倒がるどころか望んで話をふってくる。
 生まれた場所のこと、育った村のこと、風習のこと――風の文様のこと。
「ねえ、セナイ。風の呼び人って言ってたよね。あれって……」
 少年から渡された、音の出ないという笛を指でいじりながら、ファルが尋ねる。答えようとセナイが口を開いたところで、ものものしい音が突然やぐらから響いてきた。
 腹の底から響くような銅鑼の音。
 常に人の目を盗んでやぐらを抜けねばならなかった風の民は、各国の合図の殆どを調べ上げている。
「ちょっと待てよ、いつもと音が違う? それに、今ひるがえったあの旗は……」
 音に耳をすまし、回数を数え、セナイは眉をよせる。ファルも青くなって首を振った。
「違うよっ! あれはあたしの居た国の旗じゃない!」
「……思いだした! あの国だ」
 セナイは少女の肩を強く握った。
 かつて宮廷儀礼を形作った礼節の王国がある。この国の動きがやけに活発だと聞いたことがあるのだ。
 身を伏せて様子を見守る二人の目の前で、やぐらと並立する建物から次々と兵が出てきて隊列をくむ。別の鮮やかな旗印がひるがえって、少年は眉を寄せた。
「なんだ、あれ?」
 雷閃の二文字が縫い取られているのだが、文字が読めぬ二人には意味がまったくわからない。部隊が続々と出立していくのを見て、セナイは決断した。
「いこう、ファル」
 少年の藍色の瞳が、厳しさをたたえてファルを見る。少女は無言でうなずくと、素早く荷物をまとめて背におった。とりでへと進む道を見据える少年に駆け寄ったところで、セナイに手を取られる。
 幾度となく繋いできた手を、初めてファルは意識した。
 少年の手は大人の男ほど骨ばっているわけではないが、彼女の手よりは大きかった。すっぽりと包まれている安心感に、慎重に道を選ぶセナイの背をみつめる。
 話しかけたくなって、ファルは少し手を引いた。「なに?」と、唇の動きだけで尋ねてくるセナイを手でまねき「セナイはやっぱり男の子だね」とささやく。
 犬の目によくにたつぶらな目を細めて、セナイは呆れ顔になった。それがおかしくて、ファルは笑い出す。ため息を一つ落とし、少年は少女の手を引いたまま歩き出した。
 とりでととりでの間に門はない。見張りの男たちは、出立していった軍の者となにか合図をしあっていた。
「右のやぐらの側に、でっかい木があるだろ? ここを飛び出して、登るんだ」
「登るって言っても。そんなことしたら、すぐに見つかると思うよ?」
「枝葉の中にまぎれれば分からないって。あの木は、やぐらの左右に伸びてる壁より高くってさ。登れさえすればこっちのもんだよ、向こう側なんてすぐなんだから」
 何度も警戒をすりぬけてきたセナイの言葉だが、納得しきれずにファルは眉をよせる。少年は思惑ありげに目を細め「おれたちなら大丈夫だよ」と笑った。
「おれたち? ……あっ!」
 二人は風を感じ、風を受け、風のように身軽に動くことが出来る。
「根元まで、見つからずに走れればいいんだ」
 大きな瞳を動かし、とりで近くで枝葉を広げる木を見つめた。彼女の身長の二倍程度の高さまで飛び上がれば、枝葉に身を隠すのは簡単だ。
「うん、やろうセナイ!」
 夕日にたゆとう黄金色の景色の中、やぐらにも彼等が住まう建物の窓にも人の姿はなかった。一、二、と呼吸を整え、一気に駆け出す。
 少年少女の背を風がぐんと押した。
 大樹が広げる枝葉の中に飛び込み、先に足場を確保したセナイが手を伸ばそうとする。
 派手な葉擦れの音が唐突に響いた。
「えっ!?」
 身体が持ち上げられ、首が締め付けられる。もがきながらも、セナイは枝に立ったファルの目が、見開かれるのを見付けた。
「セナイ!!」
 少年の襟首に太いものが差し込まれ、持ち上げている!
「なんか面白いのが釣れたな」
 宙吊りになったセナイを助けようと焦るファルの耳に、落ちてきた声が届いた。
 枝葉を広げる葉の奥に、上半身の素肌をさらし、外套を羽織った男が座している。実用的とはおよそ思えぬ大剣の鞘を、セナイの襟首に差し込んで持ち上げていた。
「ば、ばばばば!!」
「け者と語尾につなげれば、おれはこれを落とすぞ?」
 地を這うような声を放ち、男は翠色をした目をすがめる。
 ただ、それだけだというのに。
 背筋が凍るほどの恐怖にファルは貫かれて、口を閉ざした。
(なに、なに? この男、なに?)
 その目を、その声を、向けられるだけで身体が恐怖に震えてしまう!
「ファルを脅すなっ!!」
 懸命に身体をよじってセナイが声を上げた。鉛のように重くなった身体をのろのろと動かし、ファルは吊られた少年を見る。
「セ、ナイ」
「やれやれ。これじゃあまるで、おれが悪者だなぁ」
 大剣に少年をぶらさげたまま男が笑うと同時に、セナイの服が大きな音を立てた。丁寧についで着ている古い服は、少年の体重を支え続けるほどの強度はない。
「危ないっ!」
 今にも最後まで裂けてしまいそうな服に、ファルは頭が真っ白になった。木の上にあることも忘れて手を伸ばす。
「ばか! ファルまで落ちるっ!!」
 セナイの服が完全に裂けるのと、ファルが枝を踏み外したのは同時だった。
 一瞬の浮遊感ののち、身体に落下の重みがかかる。
 二人は懸命に手を伸ばしあい、指先がかすかに触れあった。次に来る衝撃を覚悟して唇を噛む。瞬間、力強い腕に受け止められた。
 二人の横を、身代わりになったかのように、勢いをつけて大剣が落下する。
「ったく、おれの目の前で、愛を見せつけながら死にかけんなよ」
「あ」「愛!?」
「違うってか? まあ本当のところ、愛があるかどうかの真偽に興味はねぇんだ」
 そっけなく言い放ち、男は両脇に少年少女を抱えたまま木から飛び降りた。二人を助けるために落ちた大剣を、器用に足で空中に跳ねあげてみせる。目の前にそれが迫ったので、セナイは反射的に受け取めた。
「お、重いっ。……というか、離せよっ! おれたちをどうする気なんだよ!!」
 大剣を持たされたまま、男が身を隠せない場所へと歩き出したことにセナイが焦る。ばたばたと足を動かして抵抗するのを見て、ファルも同じように暴れたが、男の拘束はびくともしない。
「どうもしねぇから暴れるなよ。服を台無しにさせて悪かったと思っただけさ。ああ、それに腹も減ったろ?」
 そう言うと、男は前触れもなく笑った。
 ファルはぽかんとした。彼女を恐怖に突き落とした、男の持つ底の知れない影が消えている。
 夕日を受けて笑う男は、まるで見知らぬ無邪気な子供のようだった。
 男の両脇に抱えられたまま、全く同じ感想を持った二人は、互いに視線を交わして首を振る。
「暴れたり、叫んだり、怖がったり、納得したりと、忙しい奴らだな」
 頭の高い位置で無造作に結ばれた金褐色の髪が、さらりと風に流れた。茜色の夕日に照らされた、優しい風だ。それが唐突に文様を持つ者にしか見えぬ形を取り、頬をそっと撫でてくる。
 ――三人の頬を。
「今のって……?」
 ファルは呆然とし、セナイは真剣な表情になって男を凝視する。
 軽々と少年少女を運ぶ男の額に、風の文様はなかった。

第五話・二人きりの旅立ち目次第七話・合戦跡を越えて