>第五話・二人きりの旅立ち
第四話・風の巫女目次第六話・見張りやぐらにて

「ちょっと待てよ、夜は朝を見つけるのが役目なんだろ。それが終わったんだ、旅立つ必要はなくなったはず」
「それは夜の役目だね。朝には朝の役目がある」
「あたしの……役目?」
「全ての終わりが夜ならば、全ての始まりは朝だね。私たちが奉ずる風の獣はね、人が覚えていられないほど昔に力を失ってしまったんだ。だから風啼き谷を私たちは追われて、同時に朝風も失ってしまった」
「そんなに昔に? いったい今まで、何人の夜が朝と巡り会えずにいたんですか」
「数えることも出来ないよ。夜の役目を持つものは確実に生まれてくるから、風の獣の眠りは守られている。でも朝が生まれないから、風の獣は眠り続けるだけだ」
 ノリスは痛ましげな表情で、少年少女の身体をまとめて抱きしめる。まるで壊れものを扱うかのような、優しい仕草だった。
「ノリス、さん?」
「ファルがここに一人で来たってことは、親兄弟はもういないんだね?」
「あたし一人が逃げ伸びているだけです」
「逃げ伸びてくれて、セナイと巡りあってくれて、生きるのを諦めないでいてくれて、本当にありがとうね、ファル。ここは孤児たちの家なんだよ。だからファルも私の子供だ」
「ノリスさんが、あたしの、お母さん?」
「すぐに旅立たせなくちゃいけないなんて、本当に辛いけど」
 何度も何度もノリスはファルの背をなでる。同じように抱きしめられているセナイが身じろぎをして、厳しい表情で母親を見つめた。
「旅立つって、どこにだよ?」
「朝が目指すべき場所は決まっている。かつて私たち風の民が住んでいた風啼き谷だよ。朝が鍵となって、道は開かれる」
「風啼き谷!? ノリス、あそこに行くための道がいまどうなっているのか知ってるだろ!?」
 勢いよくセナイは柔らかな拘束を振り払う。同時に小柄なファルの身体も奪い取り、守るようにぎゅっと抱きしめた。闇夜に光る猫の目のように、セナイは藍色の目をぎらぎらさせている。
「知っているに決まっているだろ、でも行くしかないんだ。夜が見つからぬ朝に焦がれて、何人も死んで行ったように。役目を持つ者はそれをやるんだよ」
「だからって、あんな危険なところに追いやるなんてさっ!」
「強要してるわけじゃないよ。わが身に宿る風の文様の意味を知ったとき、文様の持ち主は役目に焦がれるだろう? セナイは知っているはずだよ、夜だと知った瞬間に心を焼き尽くした朝への渇望を!」
「そ、それは……そう、だけど」
「ファルも、おんなじなんだよ。もう止められることじゃない」
 ノリスに促されて、セナイは腕の中に閉じ込めた少女の身体をそろそろと離した。ファルはおとがいをあげて、じっとセナイを見つめている。水色の瞳は石を投じられた湖面のようにゆれていた。風の集落に入りノリスを見たとき、意識を取り戻したときと同じように、なにか別のものを見ている目だった。
 ファルは今、たしかに風を見ていた。
 大きな風がうなりをあげ、ごうごうと流れながら一点を目指している。大きく口をあけた谷の底へと。
「鳥だ……風の、鳥……」
「ファルはさ、風の獣に会いたい?」
「会いたい。会いたいよっ! あたしとセナイを呼んでいるのが分るからっ!!」
「夜を呼んでいる?」不思議そうにセナイは首をかしげる。「風の獣が呼ぶのは、目覚めをうながす朝だけだよ。眠りを守る夜は呼ばない」
「違うよセナイ。一緒じゃないと駄目なんだ。それに、あたしだって一緒がいい」
 いったん言葉をきって、ファルはまばたきをした。
 風の形を見ていた視界が切り替わる。ファルを引き上げてくれたのは一つ年下のセナイだ。頼りたいわけでも、すがりたいわけでもないが、離れたくはない。
「行こう、一緒に」と口に出していった瞬間、ファルは凍りついた。
 冷たい憎悪を感じたのだ。
 氷の刃物で首筋を貫かれたかのように、背筋を凍らせる冷たい悪意。ぎこちなく視線を巡らせて、ファルは気づいた。
 うっすらと扉が開いている。そこから覗く、興味津々の様子で覗いている子供たちの目。青、緑、黒、茶、さまざまな色の瞳が、全てファルを見ている。
 けれど、一つだけ。ファルを貫く目があった。
 目は叫んでいる。
 ――なぜ?
 目は呪っている。
 ――なんで、あんたなの?
 目はファルを殺そうとしている!
 視線に気づけば、もう耐えられなくなった。身体中が震えて、立っていられなくなる。そのままずるずると座り込み、唇を震わせてセナイを呼んだ。
 恐慌状態におちいったファルの頬に手を添えようとして、セナイは呟かれる声に耳をとめた。
 なんで、どうして、外から来て、なぜその女が朝風なのか!
 ぎこちない仕草で、セナイは声のする方向――少しだけ開いている扉に視線をやった。先程ファルの面倒を見た三才年上の少女を見つけて、あげかけた悲鳴を必死に飲み込む。
 戦乱の時代は、人から、思いやりを奪ってしまう。
「ノリスっ! 旅の用意をすぐにしてくれ! おれは行くよ、ファルと二人で最後まで一緒に!」
「セナイ、いったいどうした? いくらなんでも、今すぐに行くことはないよ。休んでからにすればいいんだ。風の獣の目覚めは、私たち風の民の悲願でもあるんだから。ちゃんと用意を整えてやれるんだよ」
「ちゃんとじゃなくったって大丈夫だよ、おれがなんとかしてみせる。距離はたいして離れてもいないんだ」
「でもあそこは戦場なんだよっ。様子を見て、情報を集めて、計画をたてたほうが」
「だからいいんだってば! 戦場であったほうが好都合だよ、関所がぶっこわされてるから。ああ、もう、いい!」
 セナイは全てを振り切るように叫ぶと、彼が起居する小さな寝台へと走った。そこにある様々なものを背のうにいれて、共同の外套を二着ほどひったくると、座り込んで震えているファルの手を取る。
 急を要する事態だと理解したノリスは、部屋を飛び出した。旅用の携帯食はいつでもそろえてある。ファルにも背負える大きさの背のうに水筒と携帯食をいれ、セナイ用にも同じ装備を用意すると同時に、玄関に走った。
 セナイはファルの手を引いたまま、まさに飛び出して行くところだった。「セナイ、ファル、受け取りなさい!」ノリスは割れんばかりの大声で叫んで、手にした装備を投げる。
 落とさずに受け止めて、少年はめったに見せることのない、泣きそうな顔をして叫んだ。
「母さんっ! おれたちが風の獣に出会えれば、みんな風啼き谷に戻れるんだろう!? そうなったら、もう誰も出て行かなくてすむんだろう!?」
「そのはずだよっ。風の獣は私たちを守ってくださるから」
「だったら、恨むな! 人を恨んで、変わってくれるなよ! 自分を売らなくてすむように、きっとなるから!」
 絶叫を残して、セナイは走り出した。わっと泣きだした少女の声が背を打ったが、もう振り向かなかった。手を引くファルの体温だけを感じ、走ることに集中する。
「風啼き谷の獣に会いにいく! 夜風が朝風を見つけたから! 朝は獣を起こしにいく!」
 集落の入り口にて叫ぶと、慌てたように門番が扉を開いて二人を送り出した。風の集落では夜風と朝風の言葉は絶大な威力を持っている。
 二人は限界を忘れて、ただ走った。
 ファルはまだ恐慌状態から立ち直りきれていない。
 セナイはファルを気遣うだけの余裕がない。
 風の集落を後にし、滝を越え、谷をおり、滝の号音がゆるやかな水のせせらぎに変わったところで、ファルは突然に倒れた。
 完全に手が繋がれていたこともあって、セナイは共倒れとなって後ろにひっくり返る。突然のことに頭が真っ白になりかけながらも、彼は少女ににじりよった。
 ぜえぜえと喉笛を鳴らすような音を繰り返す、ファルの唇は紫色だった。きつく眉を寄せた顔は苦悶に満ちていて、とても安心できる状態ではない。
「集落からここまで、どれくらい走った?」
 山に慣れているセナイならば大丈夫だが、ごく普通の農村ですごしていたファルには負担が大きい。しかも普段と同じ速度で走ってきてしまったのだ。慌ててファルの足に手を触れて、あまりの熱さに息を飲む。
「おれ、なんてことをしちゃったんだよ! 休ませないと、でも、このあたりは」
 ぐるりと周囲を見渡して、セナイは青くなる。彼のいる場所は、夜ともなれば狼たちの寝床となるのだ。同じ山の住人として共存しているとはいえ、彼らの縄張り居つづけて許されるわけがない。どうにか先に進まねばならなかった。
 とにかく背負ってでも進もうと、立ちあがろうとして、へなへなとセナイは座り込んだ。足に力が入らない。慌てて確認をして、彼はほぞを噛んだ。
 足に不気味な二つの傷跡が残っている。気をつけすぎても足りないほどの山を、警戒なしに走ってきた報いだった。毒性は少ないものの、足をしびれさせる蛇にやられていたのだ。
「まさか、ファルもか?」
 のろのろと腕の力だけでにじりより、意識を失ってしまったファルの身体を確認する。蛇にやられた様子も、毒液にやられた様子もなかった。それには安心したが、このままでは狼の戻る日没までに移動は出来ない。
「こんな、こんなことで死ぬことになったら! おれはなんて謝ればいいんだよっ。とにかく、移動しないと」
 何度も何度も立ちあがろうとするが、その甲斐なく倒れこんでしまう。毒を中和する薬を塗布したが、効果を待つ時間もないのだ。
 日差しはどんどん消えて行ってしまう。焦っても、叫んでも、時間は止まらない。互いの顔が判別できぬ黄昏どきがすぐに来てしまって、最後の望みだけは捨てまいとセナイは必死に立ちあがった。
 少しだけ薬が効いてきている。背負えはしないが、一人だけならば進むことが出来るだろう。それを知って、セナイは悔しげに「おれだけじゃ意味ないじゃん」とはき捨てた。
「おれたち、こんなところで終わりになっちゃうんだな。ごめんな、ファル」
「セナイ」
 あるはずのない返事に、セナイはぎょっと目を見張る。すとんと身体を落として、彼は少女の水色の瞳を見つけた。倒れたときよりはましになっているが、苦しげであることに変わりはない。割れてしまった唇が痛々しく、セナイは思い出したように水筒を渡した。本当ならば上体を起こしてやるべきなのだが、その力が今のセナイにはなかった。
 ファルは淡く笑って、必死にみじろいで起き上がった。渡された水筒に口をつけ、ほっと息を吐き出す。
「あたし、諦めたことだけはなかったんだ。何があっても、出来ることがなくなるまでは頑張るって。セナイがそんな顔してるって事は、ここは危ないんでしょ?」
「夜になったらさ、狼の寝床になるんだ」
「そっか。じゃあさ、行こうよ。……一緒に。少しでも長く生きたほうがいいよ、それがあがきにしかならなくってもさ。あたし、そうやって生き延びてきたんだよ」
 痩せた顔では、大きな目はぎょろりとするばかりで、悪目立ちしてしまう。それでも笑えば愛嬌はあって、つられてセナイも笑い出した。
「よし、じゃあ、行こう」
「ん。ね、セナイ。手いい?」
 ファルがおずおずと差し伸べた手を、セナイは笑って取る。そのまま二人、地面を踏みしめるようにしてゆっくりと歩き出した。
 日差しは急速に沈み、山は恐ろしい顔を見せようとしていた。体力を消耗しきった二人の口は重く、耳だけが鋭さをまして周囲を警戒している。
 唐突に木を分ける音が響いた。とっさにセナイは一歩前にでる。ファルも遅れて前に出て、彼の横に並んだ。
 さらに近くで大きく音がした。二人が唾をごくりと飲んだ音が、やけにはっきりと響くと同時に、目の前が割れる。

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