光差す道行 [III]
[前頁]目次[次頁]

 ただテッドには、己の右手にある紋章が暴走していると感じられているだけだった。ぎりぎりと歯を食いしばり、冷や汗を伝わらせ、持ちうる魔力の全てをかけて押さえ込もうと必死になっている。
 テッドがここまでの魔力を持つことに、暴走する右手をおさえながら呆然とした。
(ここまで……ここまでの魔力を……)
 笑っていた親友の顔を思い出し、同時にソウルイーターを狙われ、ぼろぼろになった姿を思い出す。
(テッドが本気になっていれば! ウェンディの命を奪い取ることさえ容易だったんだ!)
 ただ、テッドに出来なかっただけなのだ。人を、殺すことを、自らが求めて行うことが!
(でも、違うっ! 今は違うんだっ! こいつが狙ってるのは、この船の人たちじゃない!! ソウルイーターはテッドを!!)
 暴走を食い止めることができず、ただ必死に届かぬ声で(逃げて)と叫ぶ。
 冥き光が、テッドの体を包みこんだ。 
 暖かな魂の力が、ゆるやかに吸い込まれてくる気配を如実に感じる。同時に吐き気がこみあげてきた。
 この感触には覚えがある。
 あの時、あの瞬間。
『呪われし紋章、ソウルイーターよ。今度はこの俺の魂をかすめとるがいい!』
 テッドはあの瞬間、そう叫んだのだ。
 誰よりも気高い目をして。誰も抗うことができぬはずの支配の紋章を、すでに宿主ではなかったにもかかわらずソウルイーターを従えることでねじ伏せて。テッドは自身の魂を喰らわせたのだ。
 あの、瞬間が。
 ここで再現されるというのか!!
(いやだっ!!)
 ぎりっと奥歯を噛みしめた、瞬間に先ほどしまったはずの扉が勢いよく開かれる音が響く。
「ウゲツ、シラミネっ!! 海に飛び込めっ! リーリン、二人を頼んだっ!」
 凛とした声が甲板に響き渡る。
 突然の出来事に目を白黒させて、なんとかテッドを救おうとしていた漁師である二人はぽかんとしてから、すぐに顔を見合わせて海に飛び込んだ。
 同じく海中に飛び込んだ水音がして、人魚たちの姿がちらりと視界に入る。
 けれど、なによりも視線を釘付けにしたのは、それではなかった。
(あれは……さっきの)
「テッドっ!」
 まるで子供ように笑って見せた、明るい笑顔を覇気に変えて。彼は迷うことなく左手を高々と持ち上げる。
「呪いから解放されし我が真なる罰の紋章よっ! その力を示せっ!」
 叫ぶと同時に、見たことのない文様が空中に描かれた。
(罰の、紋章? 真の紋章?)
 ソウルイーターへと流れ込んでくる魂のぬくもりに叫び続けた唇を、ふと止める。
 彼の左手から放たれた光は、まっすぐに暴走を続けるソウルイーター……テッドの持つ紋章ではなく自分の右手の紋章へとむかって来た。
 力と力。真なる紋章の力同士がぶつかりあい、それはすさまじい力を生んで、一気に霧散する。
(きえ、た? テッドっ!!)
 小さな体が、自分の目の前で、不安定にぐらりとゆれる。
 助けなければ、支えなければ。
 そう思って駆け出すが、差し伸べた手はなにもつかむ事ができず、手はただむなしく空をきった。
 かわりに、肩で息をした少年が、勢いよく甲板をけって飛び込んでくる。前にかたむいて倒れたテッドを受け止め、彼はそのまま力を受け流すようにして座り込んだ。
「テッド、テッドっ!」
 心底心配そうな色を目にたたえて、彼は叫ぶ。
 真っ青になっているテッドに生気というものはほとんどない。彼は右手の手袋をすぐにはずし、テッドの首筋にあてて眉を寄せた。
(鼓動は?)
 打っているのか、息はしているのか。それを確かめたいのに、自分には何もできない。ここがどこなのか、それはわからなかったが、自分がここにあるべき人間ではないことだけは理解した。
(ここはきっと、過去だ)
(ソウルイーターに取り込まれたのか?)
 あの時。レパントの死を聴いた瞬間、認めたくはないが、自分は確かに時間に取り残された自分を呪ったのだ。
 呪ったことが、正常な時間からの逸脱をさせたというのだろうか?
 ――時間を越えたのは、初めてではない。
 真の紋章は、世界を形成する力ともいうべき存在だ。だからこそ、その力の暴走は時の理さえも超えさせてしまう。
(あの時、俺がテッドの過去に干渉したように)
 違うのは、あの時は自分に”体”があったことだ。
 今回は干渉する”体”を持たず、ただ呪うべきソウルイーターの力だけを持ちこんでいる。
 青い目をした少年が放った、罰の紋章の力によってか、今は右手に宿るソウルイーターは静寂さを取り戻している。けれどいつ再び暴走するかわからぬ事実に、思わず震えた。
「テッド!」
 現実で力をもつ、そこにあるべき少年の声がさらに大きく響く。赤いバンダナをした彼は、このまま名前を呼んでいても埒があかないと判断したのか、意識のないテッドを背負って勢いよく走り出した。
(追わなくては)
 自分が起こしてしまったことを、見届けなければ、と思って走り出す。扉が閉まっても障害にはならず、体は全ての物質をすり抜けた。
(なんて大きな船なんだ)
 人々は走る少年を前に、目を大きく見開いたり、一緒に走り出したりしている。全員が全員心配そうな顔をして「大丈夫なんですか!?」「なにがあったの?」と口々に叫んでいた。
「大丈夫だから、しばらく俺の部屋には近寄らないでいてくれ。頼むから、ああっと、ジーンさんっ」
(ジーン? って、あのジーンさん?)
 あまりの事実に、目を見張る。そうしているうちに、ビッキーまでもが走り出してきて「大丈夫なんですか? 陸までテレポートしますか!?」と心配そうな声を上げた。
「うん、悪いけどオベル王国に飛ばしておいてほしいんだ。ええと、ジーンさん」
「なにかしら」
「悪いんだけど、今すぐ俺に流水の紋章を宿して欲しいんです」
「いいわ。ちょっと待って」
 美麗な紋章師はそっと目をほそめて、暖かくも不思議な光を体にまとわせる。すぅっと空中に描かれた紋章が、静かに少年の右手の中に吸い込まれて消えた。
「じゃあ、本当に、しばらく誰も近づかないでいてよ! ええっと、敵襲をうけたら」
「まかせてくれ、俺たちでなんとかしておく」
 すっと、群集の中から一人が前に出る。
 独特の髪形をした男をみて彼は信頼した様子でほっと息をついた。「ケネス、頼んだ!」と右手だけでおがむようにして、部屋へと飛び込んでいく。
(彼は、ソウルイーターのことを知っている?)
 距離をとったからといって、ソウルイーターの力を防げはしない。自分は罰の紋章というものをしらないが、もしかしたらその紋章は近くにいる者になにか危害を与えるのかもしれないと、ふと思った。
(さっきテッドを助けようとしたときも、彼は周囲の人間を遠ざけた)
 だからきっとそうなのだ。そう思いながら、全員が去っていくのを見届けて、部屋の中へと入り込む。
 流水の紋章の癒しの力を注ぎながら、彼はそっとテッドの額に触れていた。
「いったい、さっきのってなんだったんだ」
(ソウルイーターの……暴走だよ)
 聞こえるわけがないのに、つい答えてしまう。
 少年はふるっと首を振り、懸命な表情で癒しの力をテッドに注ぎ続ける。どれほどの時間が経過したのか、ぴくりとも動かなかったテッドの瞼がわずかに動き、唐突にその瞼があいた。
 まるで穿たれた穴のように、生気を失っている目に強い光はない。みつめている自分と同じように彼も感じたのか、額にふれていた手をそっと滑らせ、彼は頬を包み込むようにした。
「テッド」
 彼が名を呼ぶと、初めてテッドはまばたきをした。
 一度、二度、それを繰り返したのち、瞳にはっきりとわかる絶望の色が唐突に浮き上がってくる。「僕はっ!」と声を上げ、ばね仕掛けの人形のようにいきなり起き上がった。
「行かなきゃっ!」
 大きな声を上げて、転げるようにベッドから飛び出そうとする。それを少年が「いくって、どこにっ!」と叫んで引きとめようとした。
「だって、おまえも見ただろうっ。ソウルイーターが、あんな……あんな暴走したことなんて、今までなかったのに!」
 テッドは完全に取り乱して、激しく頭をふった。逃げ出そうとするのをやめようともせず、全力で少年をおしのけようとする。彼はわずかに眉をよせ、逃げ出そうとするテッドの小さな体を強引にベッドに押し戻しておさえつけた。
 だん、と鈍い音が響く。力あまって、ベッドに引き戻されたときに壁に後頭部をぶつけてしまったのだ。
「つっ!」
「あ、ごめんっ!」
 けれどその痛みが、少しテッドの冷静さを呼び戻したらしい。
 テッドと同じくらい必死の顔をしていることを認識して、テッドはかすれた声で彼の名前を呼んだ。拒絶するのではなく、そこには少しだけ――ほんの少しだけ、救いを求めているような響きが含まれている。
(あんな、ふうに……テッドは……)
 自分が知っている彼は、いつでも笑っていた。
 どんなときでも、どんなに辛いときでも。――死に逝く瞬間でさえも、彼は強く笑っていたのだ。
 ソウルイーターに対してでさえ、彼はおびえるのではなく、御する者としての顔をしていたと。……思って、いたのだ。
(僕は、知らなかった。全然、知らなかった)
 時の放浪がどれほど孤独であるのかさえ。
 想像するものと、実際に体験していくのとでは、とてつもない隔たりがあることを知ったばかりだったから。
 あんなにも幼かった親友が、最初から明るく強く生きていられたわけがなかったのに。そう考える事ができなかった自分がなさけなくて、頭を抱える。けれどそれは誰にも見えることなく、真の紋章の呪いを知る二人はまるで敵と対峙するような目でにらみ合っていた。
「テッドはなにもしてない」
 きっぱりと、少年は言う。
 テッドをおさえつけたまま。まるでここで逃がしてしまったら、全てが終わると思っているかのような強さで少年はテッドをとらえていた。
「ソウルイーターだって暴走はしなかった」
「それは……おまえが、止めたからだろ」
「違う。俺がとめたのは、ソウルイーターがテッドの魂を喰らおうとしてたから。それをとめただけだよ。他のみんなにいこうとした力を、食い止めたのはテッドだ」
「……え?」
 テッドはどこか脆い子供の顔になって、不思議そうな色を目に宿した。そうなって初めて、問答無用で逃げ出そうとはしないと判断したのか、少年はそろりと手を離して体を起こす。それと同時に、彼は当たり前のように右手を出す。
 テッドもそれを素直に受け取って、起き上がった。
「わからないけど、そう見えたよ。ソウルイーターがテッドの魂を喰らおうとしてるって。だから俺は、暴走をくいとめるためにそうしているのかと思ったんだ」
「俺は……ただ、食い止めようと思っただけで」
「そう、なんだ。……テッド、昨日言ってくれたよな」

[前頁]目次[次頁]