光差す道行 [II]
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「あら、気にしないで。そんなつもりで言ったんじゃないんだもの。それに小さいのは事実だし、私たちはこの小ささを気に入っているのよ」
 小さければ、なにもかもを把握することができるでしょう、と港で働いている女はくもりない笑顔を作る。
 じんわりと胸が温かくなった。
(ここに)
(テッドはきたんだろうか)
 来ていたらいいのにと、強く思う。
 この島は本当に明るくて、優しい。
 ――長い放浪を、どのようにテッドがすごしていたかを、彼は知らなかったので、持ち前の明るさで、辛い放浪を乗り越えてきたのだろうと想像するだけだ。
 そんな彼が翼を休める場所として、ここはふさわしいように思える。今、現在放浪者となった彼自身が休む場所としても、だ。
 港を進めば、すぐに急な階段が現れた。
 上れば小さな繁華街があるのだと教えられて、彼は宿を先に確保しておこうと先を急ぐ。王国の兵士たちと、連絡船を守る海賊たちとが、やたらと大きな声で会話しているのが耳に飛び込んできた。
 他愛のない、海でみた魚の群れ話。別の島の酒場に入った、新しいかわいい娘の話。そして。
「なんでも、トランの初代大統領が死んだらしいな」
 海賊の一人が、いきなり、そういった。
 ぴたり、と。思わず足を止めてる。
 ――え?
 少し楽しい気持ちになっていた、その心がいきなり凍りついた。
 暖かいと感じた太陽の日差しが、周囲から消え果ててしまったような気がする。その上、さわやかに感じていたはずの風がいてつく氷のように感じられて、彼はぐらりと上体をゆらせた。
「おい、兄ちゃん!」
 ぎょっとした男の声が聞こえる。
 ひどく目を見開いて驚いている。なにか自分に大変なことが起きているらしいことはわかったのだが、何が起きているかはわからない。
(レパントが、死んだ)
(死んでしまった)
(みんなそうやって、僕を、おいていく!)
(時間、が)
 頭がぐらぐらとした。
 足元に広がっていたらしい水溜りに、黒い目と、黒い髪と、緑色のバンダナが映りこむ。永遠にかわらぬ――時からおきざりにされた、少年の顔。自分自身の顔が!!
(時が)
 あとのことは、覚えていない。
 男たちが走り出す音がして、膝から下の感覚がなくなって、誰かの腕に受け止められた感触だけを、ただ感じていた。



 ざーん、ざーんと。
 音がしている。
 まだ小さかった自分はその繰り返し響く音がおそろしくて、何度も何度も泣いたものだった。
『あれは波の音だよ』
 笑いながら言って、自分を抱き上げて肩車をしてくれた人がいる。恐ろしいものではない。あれは海が奏でる子守唄なのだ、とも彼は言って笑っていた。
 もうずっと昔に失った、失ってしまった、偉大なる父。
「うわわわ、なにやってるんすか!!」
 いきなり耳元で、とんでもなく大きな叫び声がした。
 海はな、と語ってくれていた父の声が遠くなってしまう。いかないで、と叫ぼうとしたところで「わーーー!」とさらに大きな声が響いた。
 仕方なく、目をあけた。
 いきなり広がった青。
(海? さっき、船を降りたはずなのに?)
 頭上にはまっすぐに上った太陽がある。ざーん、ざーんと響くのは、間違いなく波の音だ。
「シラミネの兄貴、ロープっ!! 早くおろさないとっす!」
「う、うむっ」
 二人の男が騒いでいる。双方共にタイ・ホーたちがまとっていた着物に似たものを身につけていた。ロープを片手に船のへりへと走り、それをおろして叫んでいる。
 名前を連呼しているところをみると、誰かが海に入ったらしい。なにやってるんすか、驚かせないでくださいっす!と叫ぶのを見ると、落ちたのではなく誰かが飛び込んだのだろう。
 二人に気取られぬように進もうとして、彼は(え?)と思った。
(影がない?)
 床を踏みしめたはずの足元に、続く影法師がない。あわてて両手を持ち上げれば、自分自身の手が透けて下の床が見えた。
(なんだ、これ? 大体、ここは?)
 呆然として首を振り、周囲を見渡して彼は眉をよせる。
 よくよく見ると、これは規格外に大きな木製の帆船のようだった。しかも使われている技術が、どれもこれもやたらと古い。過去の船の模型をみたことがあるが、それに似たものが多かった。
 二人の男はまだなにか騒いでいる。
 叫べば彼らは振り向くのだろうかと考えて、彼はすうと息を吸った。
(すみませんっ!!)
 めいいっぱい叫ぶ。
 が、二人はまったく気づきもしない。いったい何事がおきたのかと呆然とした彼をそのままに、二人はついに目当ての人物を引き上げて声をあげた。
「いったい何をやってるんすか!」
「いや、ちょっとね。暑かったから」
「暑かったからで、こんな大海の真ん中に飛び込まないでほしいっす! 凶暴な鮫がいることだってあるんすよ!」
「ごめんごめん。でもほら、飛び込む前に、危険な魚はこのあたりいる?っウゲツに聞いてから飛び込んだよ」
「そ、そりゃあ、いないって答えたっすよ! でも飛び込むなんて思わないっす! ねえ、シラミネの兄貴!」
「そうですよ、こっちの心臓をとめようって魂胆ですか」
「いや、イルカが一緒におよごうって誘ってきたからさ」
 ごめん、ともう一度笑って、二人が必死に救い上げた人物は顔を上げる。それからふるふるっと猫のように体を震わせて水滴をとばすと、へりに置いておいたらしい双剣を腰に下げた。
「あ、このことはリノさんには内緒にねっ!」
「いえないっすよ。そんなこと言ったら、俺たちしかられるっす」
 大きな体をウゲツは震わせる。
 くすりと笑って、彼は軽やかにきびすをかえして手を振った。そのまま走り出そうとして、ふと足を止める。
 少し緑がかった青い瞳が、じっとこちらを見てとまった。
(僕が、もしかして見えている?)
 なぜか、全てを見通しているような目だと思った。
 なぜ自分が誰にも見えていないのか、なぜ自分の体が透けているのか、大体ここはどこなのか。聞きたいことが色々とありすぎて、つい期待してしまう。
(あの)
 音にならない言葉を口にしかけた瞬間、彼はふっと目を細めていきなり笑った。
(……あ)
 なぜか心が温かくなるような、そんな笑顔だった。
 人が心に張り巡らせている檻を簡単に飛び越えて、中に入ってきて、手を差し伸べて引き上げるような――そんな力を持った笑顔。
『不思議ね、あなたをみていると、色々と話したくなってしまうわ』
 そんなことを、かつてオデッサは自分をみて言ったものだった。あの時は不思議なことを言うなと思ったのだが、あのときの彼女は、今の自分と同じような感覚を得たのかもしれないと思う。
 少し長い茶色の髪に水滴をしたたらせたまま、彼は一歩前に出る。額にまいた真紅のバンダナもぽたぽたと重いしずくを落として、床に小さなしみを作った。
(僕に気づいてくれるんだろうか?)
 どうしても期待をしてしまう。
 迷いのない瞳のまま、彼はさらに歩を進め。
「テッド!」
(え?)
 いきなり飛び出した懐かしい名前に、凍りつく。
(今、彼は、誰の名前を?)
 呆然とした自分をよそに、彼はいきなり走り出した。そのまま立ち尽くす自分にかまわず、突っ込んでくる。
(ぶつかるっ!?)
 硬く瞼を閉じた。
 けれど覚悟した衝撃はこない。
 おそるおそる目をあけて、目の前に先ほどの少年がいないことを認識し、ゆっくりと振り向いて目を見張る。
 不機嫌そうに眉を寄せて、その人物はそこに立っていた。
 子犬のような瞳、毛並みのよい犬によく似た茶色の髪が風に揺れている。全身を青系統の服につつみ、矢筒を背におっていた。
(テッド?)
 透けてしまった体を硬直させて、目を見張る。
 間違いなかった。
 自分が彼を間違えるわけがない。
 最後に見た彼よりはよほど幼いけれど。過去に干渉して逃がした彼より大人になった、親友の姿に他ならないのだ。
(テッドっ!!)
 届かぬ声。それでも叫ぶ。
 けれどテッドは気づいた様子もなく、手にしていた手触りのよさそうなタオルを、自分をすり抜けて駆けていった彼へと投げつけた。
「いきなり飛び込むなよ!」
 自分に、ではなく。あどけなさの残る声で、テッドは彼に言う。
「だってイルカがいて気持ちよさそうだったから。テッドも聞いたろ、イルカが誘う声を」
「それは聞いたよ。だけどさ、それだったら上着ぐらいは脱いで飛び込めばいいだろ。いくら泳ぎの達人だからって、そんな重いもの着たままで飛び込んでいいわけがない」
「うわー、テッド機嫌悪い。せっかく、仲良くなれたと思ったのに」
「一つ聞くけど、俺たちはエルイール要塞にむかっているんだよね?」
「そうそう。エレノアさんはもう先に行ってしまった、無事だと信じてはいるけど心配だな」
 緑がかった青い目を細めて、彼は少し首をかしげる。隣のテッドは同じような仕草をし、それから彼の肩に軽く左手を乗せた。
「大丈夫だよ、あの人なら。俺はそう思う」
「テッドがいうなら、そうかな」
「変な奴。俺がいうからって、別に保障になるわけじゃない」
「んー、でもなんとなく安心するんだ。テッドが心配してくれるのも嬉しいし」
 中、もどろっかと彼は笑って先に歩き出す。それから少年も歩き出そうとして、ふっと振り向いた。
(テッド……?)
 気づいてくれるのか、と思った。
 彼ならば。誰よりも大切な、たった一人の親友である彼ならば。たとえ時間をこえたとしても、気づいてくれるのではないか、と。
 テッドはひどく怪訝そうに眉を寄せ、左手でぎゅっと右手を押さえつける仕草をした。それからこちらへと一歩進んで「誰?」と震えるような声で呟きを落とす。
(僕だよっ! テッド!!)
 全身で叫んだ。
 テッドはびくりと体を震わせる。
 同時に、いきなり大気が震えた。
(紋章の気配?)
 いきなり満ちた凶暴なソレに、自分も、テッドも、目を見開く。
 知っている気配だった。
 いつも発動をおそれている、その紋章。――ソウルイーター!
「そんな、そんなことって!!」
 テッドが真っ青になって声を上げた。
 自分もまったく同じ言葉を放って、誰にも見えない右手を左手で押さえる。
 テッドの右手にあるソウルイーターと、自分の右手にあるソウルイーターとが、まるで憎しみあうかのように呼応している!!
(己が喰らったはずの魂が、ここにあることを、怒っている?)
 自分の右手から放たれるソウルイーターの力は、テッドの右手にある光をたしかに圧っしていた。テッドを取り込み、貪欲にわが物としようとしている。
(だ、ダメだっ! 逃げるんだ、テッド!!)
 叫びが聞こえるはずがない。
 自分の姿が見えないだけでも、声が届かないだけでもない。テッドにはこちらが放っているソウルイーターの光さえも見えていない!

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