船に、乗っていた。
黒い髪と、その髪をつつみこむ緑色のバンダナが風に揺れる。
青い海はどこまでも続いて、地平線の空と海の青の境目を、複雑なものにしている。
「すごいな、どこまでいっても海だ」
ぽつん、と彼が声を落とすと、ひどく楽しそうな笑い声があがった。なにを当たり前なことをと思われかと顔を上げれば、筋骨たくましい海の男が別の男となにか話して笑いあっているのが見えた。
自分のことではなかったか、と苦笑を一つ浮かべて彼は前を向いた。
海はもう、本当にどこまでも続いている。
となりに陣取っていた老夫婦が、じっと前を見続けている彼に気をひかれたのか「海が珍しいですか?」と話しかけてきた。
「はい。僕がいたところは、こんなにも大きな海はいなかったので」
「どこか、遠くからいらしたんですか?」
老婦人が細い首をかしげる。
彼は黒い目をそっと細めて「ええ、トランから」と言った。
トラン。
その名を口にするとき、彼の胸はすこしだけ、いつも揺れる。
かつて、その地で、彼は英雄と呼ばれていたのだ。
たった一人の親友から託された紋章を守るためだけに必死になって、青い目をした美しい女性から教わった現実に魂をふるわされて。人々の思いと、自分の思いを重ね合わせて、戦ったのだ。
――歴史は、いつだって、人の心によって紡がれていくわ。
そんなことを、彼にかたってくれたオデッサという名前の女性のことを、ふと思い出す。それと同時に、彼女のことを魂をかけて思っていた青年のことも思い出されて、彼は目を伏せた。
あれから、どれくらいの年月が、たったのだろう。
もう、それらは、遠い昔の話なのだ。
「トランからおいでになったの。あちらは平和だときくわ。最近、グラスランドのほうで戦いがあったでしょう。そういうのを聞くとね、いつも思うの。ここでもまた、戦いが起きてしまうのかしらと」
老婦人の言葉が、そっとそっと、彼の胸にささる。
グラスランド地方でおきた戦いで、彼は一人の友人を失ったのだ。いや、本当は、あの戦いで失ったのではないかもしれない。
――紋章が。きっと、彼を奪ったのだ。
そっと、右手を持ち上げる。
グラスランドにて。紋章がみせる絶望に屈し、心を壊され、魂までもを壊されてしまった少年が持つものと同じ、真の紋章の一つがそこに眠っている。
(ルック。きみは、紋章に負けたのかい?)
グラスランドにておきた戦いを、少年の形をしたままのルックは裏で操っていたという。
ルックを絶望につきおとしたものが、なんであったのか。
真なる風の紋章をもつわけではない彼には、知ることはできない。紋章たちはそれぞれ、持ち主たちにおそらく絶望を与えようとするのだろうから。
ソウルイーターは、絶望の未来をみせることはしない。
ただかわりに、奪っていくのだ。宿主が大切に思う、あたたかな人の命を。かすめとって、奪い取って、心を絶望にたたきおとす。
ぎゅっと、こぶしを握った。
それがひどく、悲しげなしぐさに見えたのかもしれない。老紳士のほうが心配そうな顔をして、婦人になにか飲み物を差し上げてはどうかといっている。
あわてて笑顔を浮かべて、彼はそっと髪を風にさらわせた。
「トランはいいところですよ。――戦いを、なくすことはまだできないでいますけれど。きっと戦いを無駄に起こしたくはない、と思ってはいるでしょうから」
「誰かお知り合いでもいるのかね?」
「そんなふうに、見えますか?」
「懐かしそうにしておいでだったからの」
暖かに笑う老人の顔に、かつてトランで出会った人々の姿が重なる。
――思い出せばいつだって、そこには優しい人々が記憶の中に住んでいるのだ。
(僕はきっと、逃げてるんだ)
ああいう形でルックを失って、ひどく恐ろしい現実を思い出してしまった。
時間が、人を、変貌させていくこと。
時間が、人を奪うことを。
(ソウルイーターでなくとも、人は奪われていく)
――だから、怖かった。
――だから、恐れた。
希望を、すててはならないと、いつも自分に言い聞かせて生きている。ソウルイーターに押しつぶされることだけは、防ぎたかった。これを自分に託した親友は、テッドはいつだって自分を見守って、同じく旅をしてくれているのだと思っているから。
(僕は、だから、笑っていたい)
死ぬ瞬間まで謝っていた彼を、ずっと孤独と戦い続けた彼を、これ以上辛い目にあわせたくはなかったから。
(あそこにいたら、僕の耳にはきっと、仲間たちの訃報が届いてしまうから)
だからしばらく戻らないつもりで、トランを離れたのだ。
青い海が見渡す限りに続く群島諸島は、定期的に出港する連絡船が各島をつないでいる。人だけではなく物資も運ぶこれらの船は狙われやすいのだが、連絡船はなんと海賊たちに護衛されているのだ。
「この海の海賊たちは、ほかとは違うんですよ」
まるで彼らが誇りだとでもいうように、群島に住む人々はそういって笑う。海賊たちのほうも同じように誇らしげな顔をして「伝説の女海賊の名に、泥を塗ることはできないんだ」と言って笑うのだ。
争いなど無関係のように見える青い海に抱かれた国々も、かつて何度も存亡の危機に陥らされてきたという。人々が誇りだといってやまない女海賊も、そういった戦いの一つに毅然と参戦し、見事勝利を勝ち取る一因となっていたというのだ。
海賊だろうが、山賊だろうが、人の命を思う気持ちにかわりはないことを、彼も知っている。
だからなんとなくほほえましく感じられて、彼は憂鬱になりかけた心を引き戻し、船のへりに頬杖をした。
(そういえば昔、群島の歴史を習っていたら、テッドはいつも笑ったな)
耐えられない、といった様子で。彼はいつだって笑い出して、必死にノートをとろうとする彼の背をたたいて邪魔してきたものだ。
『テッド、なんで邪魔するんだよっ!』
『いや、ごめん、だってさ。偉大なる王って書いてあるんだもんな』
『そりゃあ偉大なんじゃない? バラバラだった群島をまとめたんだからさ』
むっとした顔を隠さずに睨めば、逆効果だったのかテッドはさらに笑い出してしまう。
『そりゃあまあ、すごいってんはそうなんだろうけど。大体さあ、こっちの。軍を率いた偉大なる人物ってのがまた』
ぺらりと紙をめくってみせて、テッドは載っている絵に目を細める。二刀を手にした人物が王と軍師の間に立ち、人々にむかってなにかを鼓舞している様子が描かれたものだった。
『人の危機には必ず現れ、命の危険をかえりみず全てを救い、戦後姿を消した謎の英雄、か……』
『どこの国にも属さず、ただ不当な行為を嫌って戦ったんだろう? 存在を疑問視する歴史家もいるみたいだけど』
『まあ、な。こんなに凄いやつで、こんなにもいい人でした、って逸話しか残ってないんじゃあなあ。嘘っぽいって思うか』
テッドはなぜかさびしそうに言って、ぱたんと本を閉じてしまう。彼が『あーっ!』と声を上げれば、なぜか親友は彼がみたことのない表情を浮かべて、少し笑った。
『人は生きることで歴史を作るけれど。それが正しく伝わるとは限らない。それでも』
『テッド?』
『人が、生きることには意味がある。意味のない命なんて、奪われていい命なんて、ないんだ』
時々、テッドがみせる顔だった。
ひどく辛そうな、苦しそうな、……自分自身を責めているような。
『テッド!』
思わず叫んで、親友の肩を強くにぎりしめる。ぎり、と骨がきしむような音がして、テッドは痛そうに眉をよせた。
『痛いから離せって。いったいなんだよ』
『なんだよって。それは、テッドが!!』
『俺が、なに?』
『いや……なんでもない』
彼にはわからない”何か”を、こうやって時々テッドは垣間見せる。変なやつ、と親友はいって、立ち上がって窓のほうに体をむけた。
『いい奴だったよ、きっと』
『え?』
『だから、その英雄さ』
ひどく優しそうに、楽しそうに、テッドは笑っていた。
だから、なんとなく面白くなくて、彼はそっぽを向く。
『まるで知ってるみたいな言い草だな!』
そういってから、彼はちらりと親友を盗み見た。
面食らった顔をしているだろうと思ったのに。
テッドはただ、静かな顔をしていた。
「知ってたのかな、テッドは」
彼はぽつりとつぶやく。
いつも明るかった親友が、300年もの年月を放浪していたことなど、あの頃は知らなかったから思いもしなかったけれども。
テッドがいつも笑い出した戦争は、180年以上も昔に起きたものだった。テッドが放浪を始めて150年目あたりのことだったはずだ。
(僕は知りたいんだろうか。テッドがたどった旅路を)
――それは、やがて、自分の旅路になるもの。
(僕は怖れ始めているのか? 永遠の時間を……)
認めたくなくて、きゅっと手を握る。
そうしているうちに「港につくぞ!」と、男たちが声を上げた。一人ずつタラップをおりるように指示されて、そう多くもない荷物を肩にかつぐ。
「お兄さん」
ふっと声がかかって振り向けば、先ほど話しかけてきた老夫妻が手招きをしてくる。なんですか?と近寄ると、手に笹でくるまれたものを渡された。
「え?」
「このあたりはね、魚料理が豊富なの。それもその名物の一つ。海で旅をするものはね、かならず持っていくのよ。ずっとずっと昔からそうなの。あなたは旅人なのでしょう?」
「ええ、そうですけれど」
「持っていって。私たちはもう、家に帰るだけだから。群島にようこそ。あなたの探しているものが、ここにあることを祈っているわ」
老婦人はそういうと、優しく笑って歩き出す。老紳士も同じように歩き出して、驚いて立ち尽くした彼を一度だけ振り返って笑った。
まるで励ましているようだ、と彼は思う。
そんなにも辛そうな顔をしているんだろうか? そんなことを思いながら、渡された包みを大事に荷物の中に入れて、彼は島に降り立った。
それほど大きな島ではなかった。
この国こそが、かつての戦いで、中心となったオベル王国なのだ。
「小さい、な……」
歴史の本で学んでいるだけでは、決して感じることがなかったろう実感。隣を歩いていた人々がくすりと笑い「あなた、歴史学者さんなの」と声をかけてくる。
「いや、違います。その……」
「時々いるのよ。歴史に興味を覚えて、過去を調べにくる人たちが。みなさんここに降り立って、小さいってつぶやくからおかしくて」
「すみません、つい」