ほのかな灯火

 巨大な船の中で。
 誰もが彼を、痛ましそうな、辛そうな、泣きそうな、そんな顔で見つめている。
 ――追い詰められた人々の、望みが一つ叶うたびに。
 ――誰かの命が、一つ、一つ、救われていくたびに。
 彼の魂は、加速をつけて失われていくから。死へと向いつつあるから。
(みんな、泣くんだ……)
 自分の命がなくなるのは、当然だが楽しいものではない。
 いろいろやりたい事もある。せっかく手に入れた大切な仲間たちと一緒に、ずっと暮らしていければどんなにか楽しいだろうと思うのだ。
 ――例えば、釣り三昧に興じてみたり。
 ――例えば、未来の大商人と共に値切り交渉をしてみたり。
 ――例えば、気候のうんちくを存分にきいて、こっそり習ってみたり。
「楽しいのは間違いないし、幸せなのも間違いないけど」
 多分、それは、訪れない可能性のほうが高いのだろう。
 オベル王国の解放が現実味をおびてくると同時に、再び”罰の紋章”を使わざるをえない状況の訪れが近づいている事を、誰もが知っていたから。
 彼自身よりも、周りが、そう思っている。
 どうか死なないで。どうか命を削らないで。
 ……どうして、自分達には、なにも出来ないのか。
(大事にされてるなあ)
 痛いほどにわかっているから。
 生きる場所を守らなければ(たとえ罰の紋章を使ったとしても)なんて言葉。滅多に口にしていいものではないくらい、分かっている。
「あー」
 口に出来ないとなると、言葉にしてしまいたくなるのが人情。
 うつうつとした気持ちを抱え込んでいるより、外に出してしまったほうがいっそ楽な気もしてくる。とはいえ。
「……部屋で?」
 暗い。それは、こう、あまりにも暗い。
 軽やかに立ち上がって、彼は部屋をあとにした。
 左手の紋章に意識をすこしだけ集中する。
 熱と、痛みと。……誰かの悲鳴を感じながら、ソレを見つけた。


 魂を喰らう。
 その意味では、似た存在でありながら。
 決定的な違いを持つ、そのまがままがしき存在。
 こんなにも人の溢れる船内でも。
 一人になれる場所を見つけられることを知ったのは、その気配の宿主を知ってからのことだった。


「お前、しつこいよ」
 甲板へと続く扉をあけた瞬間、抑揚のかけた声に出迎えられた。
 想像通りの出迎えに苦笑をうかべ、かろやかに甲板に飛び出す。
 普段は釣り人たちを迎える船尾の一角に、今、人の気配は一つしかない。夕日が落ち始めた時刻のため、どうやら獲物をかかえて調理場へと向ってしまったらしい。
「みんないないんだ」
「白々しい。分かっててきたくせに」
 ぶっきらぼうな言葉を、彼はさらりと受け流す。ん、と大きく背伸びをして、手をひさしにして大海原を眺めた。
「もうすぐ夕飯だな。今日もマグロが釣れてるかな。釣れてるといいな」
「……」
 明るい口調で言いながら、かたくなな背中に視線をながしてみる。
 反応はとくになかったが、少年が肩をおとしたのは見て取れた。魚は苦手だけど、マグロはおいしかった、などという他愛のない文面を目安箱で見つけた時、彼はほほえましいなと笑ったものだった。それから差出人をみて凍りつき、続けてなんともいえずに嬉しくなったのを覚えている。
 こんな、ごく普通の、親しい者同士がするような手紙を、テッドがよこすなんて。
 まあ、出してしまった本人は、かなり後悔しているようだったが。
「そうそう毎日港に寄れるわけでもないし、色んなものを買えるわけでもないし。やっぱり重要だよ、釣りは」
 おかげで、苦手だろうが得意だろうがかまいなしに、食卓には毎日魚が登っている。テッドはそれを残すようなことはしなかったので、手紙を貰ってはじめて知ったのだ。
「……あのな、俺は別に」
「大丈夫、大丈夫。テッドがマグロがすきだってウゲツさんに話したら、すごい喜んで竿振ってたから」
「喜んでって……」
 うー、と小さくうなっている。
 テッドが背を向けているのをいいことに、罰の紋章をもつ少年はくつくつと笑った。彼が人との接触を過度に避けようとしていることは、船に乗るものたちは誰でも知っている。最初こそ、かたくなすぎる態度に驚き、腹を立てるものもいるようだが、それはいつだって長続きはしないのだ。
(だって、そうだろ?)
 テッドはよく、遠くから自分達を見つめていることがある。
 そんな時の目は、いつだって胸が痛むほどに切なく、優しく、そして。
 ――なにかを悼み、それと同時に愛している、まなざしをしていたから。
 テッドが右手に宿す紋章のおそろしさと背負うものの大きさに、罰の紋章を持つものをリーダーとして集った人々は、なんとなく察するものがあったのだろう。
 だから人との接触をこばむテッドをおいつめないように、けれど決して孤独にはなりすぎぬように。彼の視界に誰も入らず、彼の耳に誰の声も入らぬ状況はつくらぬようにと、それぞれがしていることを知っていた。
「タルもね、おれだってマグロをつってみせるぞ!!って、言ってたよ」
「もうマグロから離れろって!」
「なんで? 俺が食べたいだけだよ」
「うっ」
 目に見えて困惑した様子がわかる。時々テッドがこうやって見せる、素に近い健やかな反応がなんとも嬉しくて、彼はついついこうしてからかってしまう。
「テッドは本当に、誰もいないところを見つけるのが上手いよ。ここだって、いつもは人でいっぱいだし」
「二人でも充分いっぱいだよ。だから、上手くもなくなった」
 声音が一つ低くなっている。すこし怒らせすぎたかな?と思いつつ、彼は少し待ってみた。けれどテッドは振り向かない。
「……俺にかまわないでくれって、俺はあと何回言えばいい」
 彼が幾度と繰り返す、拒絶の言葉。
(でも、それに考慮する必要、俺にはないよ?)
「じゃあさ、友達になろうって何回繰り返せば叶うのかな」
「叶わない」
「だよね。だから、テッドが何度言っても、そっちも叶わない」
 にっと笑って、彼は小柄な少年の隣りに立った。
 ちょうど彼の右手側。
 ――魂を喰らう紋章が、そこに、ある。
 ソウルイーターと、罰の紋章が、隣り合わせになった。身体をわずかにテッドがこわばらせたのを見て、彼は少しせつなくなった。
「俺だけは、ソウルイーターに喰われることはないよ」
「……ッ!」
 はっと大きな目を見開いて、テッドはわずかに罰の紋章を宿す彼の方向に身体を向けた。ようやく目線があう。
 
 
 人を、魂を、喰らう紋章。
 

 微動だにせず、テッドは大きな茶色の目を罰の紋章の宿主に向ける。怒りはなく、ただただ真意を探ろうとする色が、そこにはあるだけだった。
「お前の」
 テッドの声が、どこかかすれている。
「その紋章が、お前の魂を」
 まるで呼吸が苦しいかのように。不自然な場所で息継ぎをし、少年は眉を寄せた。
「喰らうからか?」
 がんっ、と。殴られたかのように、舟が揺れた。
 すさまじい風と、横波。
 バランスを崩したテッドの小さな身体が、あおられて甲板から放り投げられた。ハッと目を見開いて、なにも考えずに走って手を伸ばす。
 罰の紋章を宿す左手で、ソウルイーターを宿す右手をつかむ。
「つっ!」
 二人、同時に声を上げた。
 まがまがしい存在が。
 魂を喰らうことで、魂を愛するかのような二つの紋章が、共鳴して震えている。
 それは同族に対する好意なのか、それとも嫌悪なのか。
 理解など出来ぬけれど、確かに二つの紋章は己の意思をむきだしに、力を放とうとしていた。
「はな、せッ!!」
「離すか!」
 奥歯をかみ締めて、罰の紋章をおさえようとする。怨嗟の声を、苦しみの声を、ねじ伏せるのではなく受け止めて、流して、この場での力の解放をさせないように。
 離そうとしない彼をぎっと一度睨んでから、テッドも紋章の制御権を得ようと必死になって、苦痛の色もあらわにわずかに声を上げた。唇を真一文字に引いて、気力をふりしぼって左手を持ち上げる。
 ――彼が離さないだろうことを、テッドは、本当は分かっていた。
「テッド!」
 伸ばされた手に気付いて、奪いさるように強く握りって引き上げた。
「わっ!」
 力をいれすぎて、甲板に二人揃って転がる。
 心配そうにあがった声にむかって「こっちは大丈夫だから、ほかを!!」と叫んで、人が来るのを遠ざけた。
「よかった……」
 肩で息を続ける。
 すぐに動く事は出来ずに、心臓の鼓動が収まるのを、二人でただ待った。


『もう一度、抗ってみようと思ったんだ』
 永遠の時の檻の中、ただとどまるだけの場所で、テッドが言ったことを思い出す。
(友達、は無理かもしれないけど)
『久しぶりに……いや、初めて思ったんだ』
(俺が、テッドを、あそこから連れ出したんだ)
(きっかけ、だった)

 
「よし。決めた」
 呼吸が落ちついたので、腹筋だけで起き上がって、彼は笑う。
 まだ苦しげな息を続けているテッドは、表情を作る事も忘れたのか、まだあどけない顔にはっきりとした不審な色を浮かべている。
「俺は罰の紋章の呪いをとくことにした。だから、俺は、死なない」
「あ、あのなぁ。決めた、で出来る事じゃないだろ」
「仲間を集めれば必ず出来るって言われたよ。――テッドもその一人だ」
 だから、いなくなるなと。
 ここだって居場所なのだと、願いを込めた。
「おまえって、なんでそんなに明るいんだろう」
「命を奪い取る、紋章を持つのに?」
「……俺にはきっと、無理だ」
 ――己の運命に抗うと、決めたけれど。
 ――希望をもって生き続けることとは、きっと違う。
 まだ大人の庇護を与えられるべきだった子どもが、まるで途方にくれているように、見えた。どう言葉をつづれば、伝わるのか。それを必死に考えながら、彼は笑ってみせる。
 たとえ友達ではなくても。
 伝わりますように。――同じ苦しみを、真の紋章を、背負うものとして。仲間なのだということが。
(紋章を宿していてよかった)
 心の底からそう思った。
 ソウルイーターに決してくわれることのない、自分でよかったと。
「俺はさ」
 言葉を、選ぶ。
「罰の紋章は、俺自身で背負えるから。大事な人を奪われるわけじゃないから、だから前を向けるんだと思ってる」
「……ああ」
「でも、魂を喰う紋章を持つという意味では、同じだよ」
「だろう、な」
 テッドはひどく苦しげな、それでいてまぶしそうな、複雑な表情を見せた。
 手をぎゅっと握りしめる。陸地の影さえ見えぬ大海原におちるタ日が、生と死を司る紋章の宿主を血をかぶったかのように染め抜いた。
「だから、俺は絶対に、罰の紋章にかけられた呪いを解く。……贖罪と許しの紋章。ならば許しをかちとって見せる」
「そうか」
 立ち上がろうとしたテッドの手を、ごく自然に取った。
「俺たちは友達じゃないかもしれない。なら、俺は、テッドの希望になる」
「――え?」
「テッドが信じられるように、希望をもてるように。ちゃんと笑って生きることも出来るように」
 言葉を切って。
 彼は青い海の色を宿す瞳を、そおっと細めた。
「俺が、テッドの希望の道しるべになるんだ」
 ただ伝わればいいと願いながら、笑う。
 闇に近い紋章を宿すというのに、どこまでも健やかな笑みを。
 テッドは目を見開いて、それから首を振った。そして、立ち去ることをやめて、すとんと腰をおろした。
「馬鹿だろ、お前」
「いいよ、馬鹿でも」
 じっとテッドは彼を見つめ、そしてうつむいた。
「……だったらさ。死ぬなよ、頼むからその紋章のせいで死んでくれるな」
 どんな顔でそれをいってるのだろう。
 泣きたいくせに泣けない子どもは、どんな顔をして。
 けれど何も言わずに。彼は、テッドの肩に、そっと手を置いた。


 ――生と死を司る紋章。
 ソウルイーターが選ぶ宿主は。
 きっと誰よりも命を愛する、優しい人間だけなのだろうと、ふと思った。