「ねぇ、セラ」
 君だけなら。
 生き延びることが出来るはずだから。
 呟いた声は、眼差しを閉ざした少女が首を振ってゆれる、ささやかな髪の音に掻き消えた。
 逃がしたかった。
 逃げて欲しかった。
 百万の命を犠牲にして、運命に抗おうと思ったのに。
 百万の中のたった一つを、今、痛切に救いたかった。
 力を利用していただけかもしれないんだよ、と冷たい言葉を投げかければ。彼女はただ、自分がそう感じたということが重要なのですと答えて。


 強さとは、こういうことだったのだろうか?
 己が感じることこそが、最重要だと思えることが。
 どんな事実よりも、心が思うことをすべてと。
 思えることが――。


「何を見ているんだい?」
 最初にそう尋ねたのは、少女が必死に空を見上げようとしていたからだった。
 手を懸命に伸ばし、何かを掴もうとしていたのだ。本当に必死に。
 硝子を思わせる少女は、かけられた声そのものに驚いた仕草をみせ、体を固まらせながらゆっくりと振り向く。
 ――人形みたいだ、と思った。
 自分こそが、作り物の人形であるはずなのに。目の前にたって、彼女の背より高い位置にある窓へと必死に手を伸ばしていた少女の方がより人形じみていると。
 少女はただ頑なな眼差しで、声をかけた自分を見ている。
 声をかけたことが気まぐれであったので、本当なら、そのまま立ち去ってしまえば良かったのだ。けれど、何か。多分少女があまりに”人らしく”見えないことが気にかかって、再び声を重ねる。
「何を見ているの?」
 自分の声が冷淡な印象を与えることは知っている。
 だから少女が頑ななままであるのだろうと考えたし、返事はないだろうと見当をつけていた。
 ――けれど。
「見てません」
 返事があった。
 驚いて少女の瞳を見つめる。人形のような少女は、まるで硝子細工のようで、瞳の色もひどく薄い。まるで……紋章の放つ独特の光を封じたかのようだった。
 嫌な気持ちになった。
 人形のような少女は、紋章を彷彿とさせる。
「邪魔したね」
 ざわりとしはじめた気持ちを静めるように、髪を軽く抑えて、そのまま踵を返そうとした。
 その背に、声。
「感じたいんです」
 誰に聞かせる為の声なのか?
 しん、と静まりかえった石畳の、誰も居ない塔の中だ。かけるとすれば自分しか居ないはずなのに、そんなことをふと思う。
 ――考えてみれば、ここは一体どこなのか。
 気まぐれに歩き回った、ハルモニアの円の宮殿の中。外界に繋がる術は極端に少なく、地上が遥か遠い塔の中にあるこの閉ざされた部屋は。
 振り向く。
 自分の為に向けられた声の主を、見つめるために。
 少女は両手を持ち上げて、掌をじっと見つめていた。
「風を」
「――風?」
「感じてみたい」
 そよぐように囁いて、少女は面を上げて、真っ直ぐ前を見詰める。
 硝子のようで、紋章のようで、偽物めいた瞳。――それが今、ひたむきな強さで自分を射抜いている。戦慄が背を走って、半ば無意識に、風を呼んだ。
 かなえてやりたいと、思ったのだ。
 風を望む、この少女に。――風を。
 ひゅうと風は鳴き、佇む自分達の衣を遠慮なくはためかせる。
 少女のまとう衣も、銀糸の髪も。
「……あっ」
 開かれていただけの瞳が見開かれた。凶暴な風にあおられながら、人形のようだった瞳に喜色を浮かべて、白皙の頬に赤みが刺す。
「風っ」
 暴風に髪を乱しながら、体にまきつく衣服もそのままに、少女は両手を広げた。
 それはまるで。
 恋人を抱きしめるかのような、暖かな仕草で。
「何故?」
 尋ねた声が、かすれた。
 何故、そうまでも風を求めたのか。
 何故、愛しそうに風を抱きしめるのか。
 少女はかたくなだった唇に初めて打ち解けた表情を浮かべて、風をもたらした者を見つめる。
「好きなんです」
「それだけ?」
「風だけが。――私の側を吹き抜けていくから。外からやってきて、外に運ばれていくから」
 言って、笑った。
 屈託のない、本当に素直な笑みだった。
「なら……」
 声が、また、かすれていく。
 何をしているのだろう。――何故、こんなことを言おうとしているのだろう。
 考えても答えが浮かばない。衝動に動かされて、とでも説明するべきか。
「僕にさらわれてみる?」
 言って、言ってしまった言葉の意味に、困惑した。
 少女は目を丸くして、本当に驚いたように見つめてきて。
 小さく「はい」と言って、言ってしまった言葉に困惑する自分の腕の中に、飛び込んできたのだ。


 周囲はひたすらに崩壊を続け、紋章に砕かれた魂は急速に死へと向かっている。
「セラ……」
 逃げろと請うた時には、返事をしなかった少女は、瞳を上げて再びこちらを見つめた。
「今なら……」
 ――風を望んだ君の為に、自分があったというのなら。
 ――風の紋章にしばられた、この魂を含めて大切だといってくれるから。
「……生まれてきて良かったって、思うよ」
「ルック……様?」
「……セラ、様なんて、もう……いらない。だから、僕の名前を呼んで、セラ」
「え?」
 瞳が、大きく見開かれていく。
 死へと続く、この崩壊した神殿の中で。
 二人、なぜこうも安らかな気持ちになれるのか。
 セラが自分を求めていたのと同じだけ、自分もセラを求めていたことを知ったからなのか。
「呼んで、セラ」
「……ルック」



 声が聞こえた。
 最後の最後に、彼女が流した涙が頬にこぼれてきて、感じた冷たさも。
 それが本当に。――幸せだと、思った……。