連鎖

 白い裳裾から覗く素足が、さく、というかすかな音をたてて草を踏んだ。
 右側から風が吹き付ける。
 進む足を僅かに止めて、軽く、顔を上げた。
 見渡す先に広がる湖。
 そして、草原。
「綺麗……だねぇ」
 誰が聞くでもない声を落として、少女は目を細める。
 風が吹き、日が上り、水が凪いで、空が澄みわたる。それが”何時”であっても、変わらない自然だった。
 さく、と。再び音を立てて、少女はもう一度歩き出す。
 眼差しはまっすぐ前を見据えて、静かに佇む石碑を捉えていた。
「108の星は、集まってたんだね」
 ただ一点を見つめて、呟く。
 さく。さく。と、音。
 踏み出す足が草を踏んで生み出す音が、今、耳朶に届くにはひどく遠い。
「ここに。ちゃんと、いたんだね」
 細い指先で刻まれた文字を、そろりと撫でる。
「ルック君」
 風が吹く。
 ひょう、ひょう、とむせび泣く女の声にもにた音で。
 風が吹いている。
 さく、と。もう一度音を立てて、少女は座り込んだ。
 白い、湖のほとりにさく花のような白さを、緑の草にたゆとわせて。
「やだなぁ。また会えたのに、なんでこんなかなぁ」
 きゅ、と膝を抱え込んだ。
 なにもかもが、心の中で、記憶の中で、一致しない。
 変なヤツ、と言って笑っていたのに。
 ほんの少し前には、笑っていたのを覚えているのに。
「ねぇ、ねぇ、ルックくん。これって嘘でしょ? いっつも私のこと、不可解だーって言ってたよね。だから、これって、仕返しなんでしょ?」
 留めていた言葉を搾り出してみれば、すべてが疑問符ばかり。
 108星に導かれて、二人は三度であった。
 時を越えて。時をめぐって。――いつも出会っていた。
「どーして私に、セラちゃん紹介してくれなかったかなー。ルック君ったらズルイよ、あーんなに可愛い彼女つくってたなんて」
 指先で幾度も名前の後を辿りながら、ぼやいて、呟いて。
 最後に彼女は顔を膝小僧にぴたりとつけた。
 風。
 今度は強く吹きつけた風が、しっとりと濡れる黒髪をなびかせる。
 強く、激しく、髪をなびかせながら。
 彼女の肩が、次第に、奮えた。
 嗚咽の声が漏れて、名前を辿っていた指が離れて、彼女は思い切り泣き出す。
「ルック君の馬鹿っ。ばかばかっ! なんであーなる前に相談してくれなかったのよ。どうして私たちのこと、切り捨てちゃったのよ!」
「止められるのが、分かりきってたからじゃないか?」
 突然に声。
 涙でべとべとになった顔のまま思い切り振り向くと、心底困った顔をした青年が佇んでいて、彼女はきょとんとなった。
「あれ、フッチさんだ」
「まあな」
 バツの悪そうな顔をしながら、彼はそのまま、彼女の元へと歩いてくる。
 ――108の名前が刻まれた、石版の前にと。
「名前、ちゃんとあるんだな」
「そうなんだよ。あのね、セラちゃんものもあるんだよ」
 ほら、と彼女が名前を指で辿る。
「せめて星が近かったらよかったのにねぇ。セラちゃんと離されちゃって、なんだか可哀想だよ」
「ビッキー」
 低く、名前を呼ばれる。
 真剣な声で、真剣な色で、彼女を呼ぶ人間などそんなにはいない。
 びくりと肩を震わせて、ビッキーは顔を上げた。
「ほら」
「ふえ?」
「とりあえず顔拭いとけ。泣くなら泣いててもいいけどな」
「ありがと」
「お約束かまして、鼻かむなよ」
「そんな、ルック君みたいなこと言わないでよー」
 ぷう、と頬を膨らませる。
 ビッキーの新しい記憶の中では、まだまだ少年だったはずのフッチが、大人びた笑みを浮かべて、彼女を見下ろしていた。
「たしかに言いそうだ。あいつ、なんでも斜に構えてたもんな」
「うん」
「でも、楽しそうだったよな」
「……うん」
 普段は能天気なほどに明るい少女が、段々に小さくなっていく様子に、フッチは目を細める。無骨な手を伸ばし、くしゃり、と彼女の頭を撫でた。
「ビッキーはあの時のビッキーなんだな」
「んん?」
「ハイランドと戦って、色んな悲劇が終った。あの時のビッキーなんだよな」
「うん」
「覚えてるんだ」
 機敏な動きで立ち上がり、フッチは遥か後方をかえりみた。
「ブライトを見せたときの反応とかさ。後ろから思い切り風の太刀をぶつけられた時とか。――そう、一緒に戦ってたときの事をさ」
「うん」
「ビッキーにしてみれば、覚えてるっていうよりも昨日のことみたいなもんだろう?」
「そう」
 立ち上がった青年のまねをして、杖を持って立ち上がる。
 風が吹く。
 まるで二人に話しかけるように。
「まだ実感が湧かないんだ。俺たちがあいつを死なせてしまったなんてさ。止めれなかったなんてな」
「止めれなかった?」
「止めて欲しかった。そう思ってた部分はあるんだと思うんだ。――俺たちの事を忘れられなかったから、108の星を捨てられなかったから。ルックの名前はまだここにあったんだって思うんだよ」
 ぎり、と拳をにぎりしめる。
「戻ってきていいって、言いたかったな。俺じゃあ、役者不足かもしれないけど」
「誰だったら」
 声を挟んで、ビッキーは目を細める。
「誰だったら、言えたと思う?」
「一人じゃダメだし、二人でもダメだろ」
「え、え?」
「全員、かな」
 108の星。すべてで、彼に”帰って来い”と呼びかけたかった。
「戻ったら、知らせようと思うんだ。みんなに」
「ルック君のこと?」
「ああ。ルックにはグラスランドは似合わないよ。トランに……トランに、呼び戻さないとさ」
 少し、困ったようにフッチが笑う。
「おかしいだろ? もういい歳になったのに、子供みたいなことを考えちまう。でもさ、つれて帰れるような気がするんだよ。ここに、ビッキーがいたから」
「私?」
「ルックを知ってたやつが、こうやって、ルックのために泣くんだからさ。だから」
「――私ねっ!」
 フッチの声を大声でさえぎって、ビッキーは両手を広げる。
 目を丸くした青年の前で、誇らしそうに、少女は笑って見せた。
「つれて帰ってくるよ。私はいつだって時間を跳んじゃうんだもん。いつかルック君とセラちゃんを見つけて、連れ帰ってくるよ!」
「――そうか」
「うん。だから」
 お迎えの準備はしといてあげてね、と、更に鮮やかにビッキーは笑った。


 風が吹いている。
 呆れたように、困っているように。
 さやさやとゆれる、穏やかな風が。


 ビッキーは息を大きく吸い込んだ。
 グラスランドの大地を。108星が集った城を。湖を。瞳一杯に捕らえて。
「覚悟しておきなさいよーっ! そう簡単に、退場なんてさせないんだからーっ!」