戦い続ける気高き心 伍
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 そこに佇んでいるはずの金色の色彩が、どこにもない事に気づいて、クルガンは勢いよく扉を開けた体勢のまま、硬直した。
「そういう……こと、か…」
 ある現実を悟って、低く呟く。それに気づいたらしく重厚な面差しをしたレオンは振り向き、目を眇めた。
「ルルノイエはもう落ちる。―― 鬼才の軍師か。今は笑い話だな」
 自嘲気味な言葉がレオンにはひどく似合わぬ気がして、既にやらねばならないことがないのなら、立ち去ろうとしてクルガンは足を止めた。
「軍師殿?」
「私が成そうと思っていることは、所詮夢の話しであるのやもしれぬな。人の心が―― 付いてこれぬもの。それが覇道か」
 目を細め、レオンは不意に遥か彼方を見つめるようにする。
「……赤月帝国最後の皇帝、バルバロッサのことか?」
 無駄に時間を割いている場合ではないのだが、これが話をする最後の機会であることを知っているので、あえてクルガンは尋ねた。口元だけで笑って、レオンは顔を上げる。
「そうだ。かつて、この戦乱の続く地に完全な平和をもたらしてみせると私にむかって言った皇帝。そして、結局は一人の女の為に全てを捨てた人間だ」
「―― それが人に出来ないものではないと信じたいがために、軍師殿は皇王に味方することにしたのか?」
「分からん」
「分からない?」
「戦場のこと、作戦のこと、滅びる今になっても、敵がどういう手を打ってくるかが分かる。にも関わらず、自分自身の心理は分からん。―― まあ、そういうものであるのやもしれんな」
 人の心など、と小さくレオンは付け加える。
 少年らしい潔癖さと、世の中を本気で憂い、改善できると思い込むことが出来る純粋さに支えられたジョウイが常に悩んでいたことを、クルガンは知っている。
 血と涙に濡れていく現実は、ひたすらに悲劇が繰り返され失われるばかりで、何一つ―― 描いたとおりにはならなかったのだ。ルカを殺し、親友を追いつめ、初恋に少女に愛を告げることも出来ず、幼馴染の少女をも失った。
 だから、ジョウイの心は常に迷子になっていた。
 それは赤月帝国の主バルバロッサの変わり様に呆然としたレオンと同じ質のものであったのだと、初めてクルガンは気づく。
「軍師殿は、ジョウイ様を見限ったのか?」
「―― 私は、自らが使えると決めた相手を見限ったことはない」
 強く断言して、レオンは視線をクルガンに戻した。
 ウェンディへの愛に殉じることを決意したバルバロッサは、ひそかにレオンに伝えたのだ。自分と袂を分かつようにと。そしていつか理想が腐敗し残骸と成り果てて、新たなる理想を抱く者達が現れたとき。その時は―― 新しい理想の持ち主に手を貸してやれ、と。
 同じ夢を見ると約束しながら、軍師の望む主君であることを放棄した男の―― 最後の友情であったのかもしれない。
「軍師は常に主君と共にあるものだ。軍師は軍師でしかない。決して、指導者にはなれぬのだ。いかに意志を硬く持とうとも、指示する者が倒れれば意味はない。そして倒れさせた段階で、軍師は低能ということになる」
 自嘲しているのではなく、淡々と事実を語る口調に、レオンが本当にそう思っていることが伺えた。
「軍師殿が自分自身をどう判断するのは勝手だが、我々は低能な軍師の指示に従ったという認識は一切持ちあわせていない。勝手に我々まで落とさないで貰いたい」
 故意に言葉を強めて言いきると、沈着冷静な軍師は珍しく驚いた顔をして、不意に砕顔した。
「いや、すまなかったな。確かに口にするべき問題ではなかった。引き止めて悪かったな。ここに続く通路を守るつもりなのだろう?」
「―― 当然。軍師殿は早くここを…」
「いや、落ちる気はない。どうせ落ちるのを止めることは出来ぬのだ。それが、天意を味方に付けた軍の強さというものだろう。ならばその強さ、利用させてもらうことにする」
「利用する?」
「……獣の紋章は力を肥大させすぎた。一人の力で止めておけるものではない」
 ルカ・ブライトが目覚めさせ、人々の魂と血を大量に奪い取って力をつけた獣の紋章。その力を黒き刃の紋章の力で無理に押え込んできた為に、ジョウイの体はぼろぼろになって来ているのだ。
「ぶつける気なのか? 獣の紋章を」
「今の彼らならば、獣の紋章も打ち破る。輝きの盾の紋章が、完全なる力を取り戻したという報告が入っているからな」
 答えながら、レオンは机まで歩を進める。油紙を一枚とって、何かを忙しく書き記していった。
「クルガン、これを持っていけ」
「命令書か何かなのか?」
「いや、違う。命令でもなんでもない。今、決意していることではない結果を、おまえ達二人が選ぶことがあれば。中を見てくれればいい」
「―― 我々が選ぶ決意以外の結果があるとは思えませんが」
「そうだろうがな。何事も、準備をしておくのは悪いことではない」
「……たしかに」
 僅かに笑って、突き出された油紙を受け取って懐に忍ばせた後、クルガンはレオンに背を向け、部屋から走り出ていった。レオンはしばらく外を見つめた後に、落ちていた短刀を拾い上げて彼もまた部屋を後にする。
 ―― 皇王、その人がいるべき、その場所を。



「これは、あの時と同じだっ!」
 咆えるように叫びながら、剣を持ち替え右手を持ち上げた。刹那、空に差し向けられた手にこたえるように、雷撃が舞い下りてくる。
「フリック、兵以外の奴等は全部、マチルダ騎士団員が保護したって連絡が今はいったぞ!」
「ならば、今立てこもるのは、兵士だけなんだな!?」
「ああ、そうだっ!」
 矢継ぎ早に会話をしてのけた後、手を未だ空中に向けたままだったフリックは右手に剣を戻し、前方を睨む。
 通路は狭く、城内に攻め込んだのは良いが、数の有利を活かすことが出来ないでいる。狭さを最大限まで利用して、至る箇所から弓が飛んでくるのだ。―― 指導者である少年を、先に走らせることは出来ない。
「援護してやるから、少しは離れておくんだね」
 唐突に、背後から声がした。
 連れてきたのは良いものの、今まで動こうともしなかった人物の声だ。嫌な過去が思い出されて、剣を振るっていたビクトールとフリックの二人は慌てて伏せる。凄まじい魔力の気配が動き、空気は風を生み太刀となり、狭い通路を自在に切り抜けていく。
「ルックっ!!」
「大丈夫だよ、彼は後ろにやっておいた」
 小生意気な仕種で顎をしゃくり、指導者の少年の無事な姿を二人に見せる。ほっと一息ついたのも束の間、再び駆けつけてきた敵兵の姿に緊張を戻した。
「流石に凄まじい士気だな」
「俺達は忌まわしい敵で、国が滅びるか滅びないかの瀬戸際なんだ。当たり前だろうな」
「お前じゃないけどな、グレッグミンスターを本当に思い出させるな、こりゃ」
「……そうだな」
 秀麗な眼差しを落とした後、死角から切りかかってきた敵影に向かって再度雷を落としてみせる。―― きりがない。
「リーダーの力は温存させときゃなんねぇって言ったな、ルック!」
「そうだよ。おそらく、僕たちは獣の紋章と戦わなくちゃならない。その時に、倒れられたら困るんだ。まったく、面倒なことに巻き込んでくれたよね」
「でも、こうやって味方してくれるし、守ってもくれている。ありがとう、ルック」
 ひょい、と話題に入ってきた少年指導者の声に、目に見えて不機嫌な表情を浮かべた後、ルックは目を細めた。
「ただ、このままじゃこっちの体力が消耗するのも事実。仕方ない、大きな風を呼ぶ。一気に、通路を走りぬけるんだ」
「お、珍しい。やる気になったのかよ、ルック」
 ニヤリと笑ってみせるビクトールを小馬鹿にする視線をくれてやってから、ルックは息を潜めた。体に触れている、風の気配の全てをよむ。
「我が真なる風の紋章よっ!」
 上げた声と共に、再び激しい風の太刀は生まれ、空間ごと切り裂く。その気配を感じ取って、一人剣を手に佇んでいたシードは顔を上げた。
「いよいよ、来やがるのか」
 不思議と、昂ぶった気持ちが今は静かになっている。
 眼差しをあげ、走り込んでくる足音を聞く。同時に、背後からも駆け込んでくる音が響くのにも気づく。
「おせぇんだよ、おまえは。毎度毎度、とろとろしやがって」
 振り向きもせずに、前を睨み付けたまま言ってやる。背後から走り込んできたクルガンは、迷わずに佇むシードの隣でとまった。
「貴様と違い、私には色々と考えねばならぬことがあるのでな」
「はん、今更考えてなんになるよ、クルガン」
「長く喋っている間だけ、ハイランドの滅亡が先送りにされるとは考えないか?」
「……ふん、確かに。来るぜ、クルガン」
「了解している」
 そして剣を抜いた。


 
 頬をあぶる、炎の気配に眉をひそめた。
 ひどく熱い。そして、体が重い。
 意識をすると、なんとか指先が動いた。それではじめて、動く力が残っていることを知る。頬を掠める何かがくすぐったく感じられて、感覚も残っていたことを悟る。
 だから落ちていた瞼をこじ開けて、目を開けた。
「――― ……なっ!」
 思わず声を上げる。
 目の前に炎があった。
 燃えている。天を焦がすように、何かが燃えている。
「ルルノイエっ!」
 叫んで、立ち上がろうとして足がもつれた。体がひどく重く、あまり自由がきかないことに初めて気づく。何が起きたのだと混乱しながらも、もう一度立ち上がる為に両手をついて、また目をみはった。
 見慣れた、長く白い袖を持つ衣服が腕を覆っていない。
「な…にが?」
 起きたのか、正直よく分からなかった。いや、分かりたくなかったのかもしれない。
 目の前で、白亜のルルノイエが火に炙られている。
 城を見下ろすことが出来る丘の上、それをはっきりと確認した。
「僕は、僕はどうしてここにいるんだ?」
 呆然と呟いた時、転がっていた懐かしい武器に気づいた。
 かつて。まだ、幼馴染と、親友と、袂を分かつ前に使っていた棒だ。そして、今、着ているこの服は ――。
 瞬間、混乱する脳が事実を思い出して、飽和した。
「ジョウイ・アトレイドに戻りなさい」
 共に防衛戦に出ようとして、唐突にいわれたのだ。
 必ず力を生かせてみせると約束した。にも関わらず、何度も打ち立てる策を裏切ってしまった自分に向けての、最終通告。
「―― レオン軍師? 今、なんと」
「戻りなさいと、申し上げた」
「そんな事出来るわけがない。僕は、ここで皆と共に戦う。その責任も、そして権利もあるはずだ」
「―― 権利や、義務、などといった重々しい言葉は、今はもう意味を持ちませんな」
「レオン軍師っ!」
 何故に今になってそんな事を言うのかと、続けて叫ぼうとした言葉にかぶさるように、貴方が生きていくことを、ジル様も、クルガンも、シードも、そして自分も望んでいるのだと、レオンの声が呟き、そしてジョウイの意識は白濁した。
 奪われたのだ。未来永劫、完全に。
 共に、滅びる、その最後の道すらも。
「ど、うしてっ!」
 呻くように、声を上げた。
 重い体に鞭打ち、転がった棒を杖代わりに立ち上がる。
 まだ、ルルノイエの全てが落ちたわけではない。抗戦が続く音がしている。火の手が完全に回っているわけでもない。
 戻りたかった。
 あの場所に。ジルがいて、クルガンがいて、シードがいて、レオンがいた。悲しみを生み出すしかなかった選択を続けてきたかもしれない。けれど、決して捨てたくない大切な人々が生まれたのも事実だったのだ。
「嘘だ、こんなのは嘘だ。僕一人が、こんな、ところに、いるなんていうのは!」
 必死に叫ぶ。
 叫べば、ルルノイエに近づくことが出来る気がした。
 戦っているだろう大切な人々に駆け寄って、共に戦える気がしていた。それがたとえ―― 親友との最後の別れになることを意味したとしても、今はそれを望んだ。
 けれど、轟音が、響いた。
 獣の紋章が解放され、それが撃破された事実を痛いほどに感じる。
「あ、ああ、あああああっ!」
 ―― ルルノイエが、崩れる。滅びる。
「嘘だ、嘘だ、嘘だぁぁぁ!!」
 何故、自分だけがここにいるのか?
 滅びをもたらした自分が、何故一人ここにいるのか?
 分からない。何故、自分だけ逃がそうとしたのか、その真意が分からない。棒に縋る力が抜けて、草むらの上に倒れ込んだ。青い草の香りは、むせるようだった血の匂いからひどく遠くて、その遠さに慟哭する。
 何度も何度も大地を叩いた。
 そうすれば、この信じがたい現実が偽りになるような気がして。



 気配を、わずかに感じた。
 瞼をなんとかこじ開ける。そうして初めて、自分自身が意識を失っていたことを知った。
 視野がひどく狭い。被さってくるような濁りがあって、見上げた世界を認識することは不可能だった。
「ふ、ざけん…じゃ、ねぇ」
 声が聞こえた。なけなしの力を振り絞って発せられたような声。
 ―― 誰の声だ?
 良く聞いていた声のはずだ。別に、考えねばならないほどの問題ではない。……にも関わらず、声の記憶と、良く知っている誰かの名前とが、イコールとして結びつこうとしない。
 脳の働きが低下してるのだろうか。そんな事を思って、ふと笑った。
 ひどい音がしている。ぬめりのある液体が、容赦なく床に降り注いでいくような音だ。同時に何か形のあるものも落ちていく、音だ。
 ―― なんだ?
 わずかに笑って、もう一度目を閉じて。そんな事をしている場合ではないと、咄嗟に思った。曇ってよく見えない目を凝らし、なんとか上体を起こそうとして失敗し、目線だけをあげる。
 全てが、赤くそまった、真紅があった。
「悔いがねぇって、思ったのは……死ぬ瞬間まで、戦って、いた、からだっ! こんな、止めを、ささねぇで、進むなんて、許せる、か…よっ! ……俺の息が、まだ、続いてんのに、ここを通させちまった、なんて!!」
 許せない、と、切れ切れの音が続く。
 年若い少年を守るようにして、戦場で幾度となくまみえた相手と対し敗れたときには、”悔いはない”と思ったのだ。確かに死んで、止めを刺されたと、思っていたから。
 けれど、こうして、ふと取り戻す意識がある。
「……シード…」
「……な、んだよ。死んでんのか、と思った、ぜ…。てめ、生きて、やがんのに……寝てやがった、な、ったく…怠惰な、奴だよっ!」
 恐らく振り返る動作さえもが辛いくせに、ニヤリと唇を歪めてみせる。だが、その唇も喉元も白い部分が多いはずの衣服も、全てが鮮血に重く濡れている。腹部を押さえている左手からは、何かが零れ出る光景に目を奪われた。
 風穴でもあけられたかのように、そこから零れ出ているのだ。本来、命を支える上で、中にいなければならないものが。
「……あきれた…元気、だな…」
 まさか腹に穴があいてる状態で、立っていられるほどだとは知らなかった。
「簡単に、滅ぼされて、たまるか…」
 うわごとのように、シードが呟く。
 光を反射しなくなってきている瞳は、何を見ているのか。
 ―― 立ち上がろうかと、ふと思った。
 せめて共に。
 自分達二人だけでも、ハイランドの民がいて、皇族を守ろうとしているのなら、まだ―― この国は持続していると思えるかもしれない。
 ふと、目を上げて。
 突如亀裂が走った天井を―― 最後に、目撃した。
 ジョウイは逃がそうと、皆で決めた。
 彼はどうしているだろうか? そして、この奥を守ると静かに言った、レオンはどうしたのだろうか?
 ―― そんな疑問を、最後の最後まで考えていた。



「ジョウイ…」
 少年は、うち捨てられた衣を手にして、呆然と立ちすくむ。
 何が合っても、取り戻すと決めた。悪魔の手先になることも厭わないと思っていた。だから攻め込んで、気高いといいたくなるほどに抵抗する人々をねじ伏せ、乗り込んできたというのに。
 彼が、いない。
 ナナミが守った、もう一人がいない。
 探さなくては、と熱に浮かされたように思った。
 けれど腕をつかまれ、体を押さえられ、無理矢理脱出させられる。
 崩れる、その城の中に。ジョウイが一人、取り残されているかもしれないのに。
「……ジョウイーーー!!」
 脱出させられながら、ひたすらに叫んだ。
 呼ぶ声に返事がないことが辛くて、呼ぶことを止めた名前を。
 途中―― 打ち倒していったはずの二人の将軍の亡骸を、目撃しなかったことも……忘れて。



 花が咲く。
 夢の中でだけ咲く花が。
 人の希望を、望みを、描いた幸せを。
 宿してそれは咲く。
 幻の中だけで―――。


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