戦い続ける気高き心 参
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「敵の動きが変わった」
 短く呟いて、放ったばかりの雷撃の気配を片手に宿しながら、クルガンは目を細めた。正面、ルルノイエ皇城を取り巻く唯一の橋の前で展開していた敵軍が、確かに動きを見せている。
「今、出撃したほうがよいやもしれぬな」
 短く呟いて佇んだクルガンを押しのけるように、老将軍が前に出た。今なおハイランドの名将の名をほしいままにするハーンの背に、何か不吉なものを感じ取る。
「ハーン将軍?」
「お主はそろそろ下がっておれ、クルガン」
「それは、何故に?」
「ここは守り切れん。今落ちてしまえば、皇族を落とす余裕がなくなるからな。お前は下がり、ハイランドの血筋を守れ」
「――― 承知しかねます。その役目、どうぞハーン将軍がなさって下さい」
「我が侭をいうでない。若者は、老人の言葉には従うものぞ?」
「良くも悪くも、私は世間一般に若者とは認識されておりませんので」
「まったく、言葉だけは達者だな」
 皺の刻まれた顔を柔和にして、ハーンは振り向いて背の高い青年の肩を叩く。白と黒のコントラストが鮮やかなクルガンの軍衣も、今は血に汚れてくすんでいるようだった。
「―― おまえはぎりぎりまで、生き残るすべを探さねばならん」
「生き残る?」
 初めて耳にする言葉だといわんばかりの顔をするクルガンの肩を、まるであやすように何度も叩いて、ハーンは肯いた。
「そうだ。この篭城は、いかに時間を長引かせようと―― いつかは負ける。援軍の見込みのない篭城は、哀しいが無意味なのだよ。冬将軍の訪れを待つにしても、まだまだ先だ。国元を留守にした都市同盟を別の国に攻め込ませようと画策したが、都市同盟軍の協力者でもあるトラン共和国が、大統領子息の報告にしたがって、全軍を動かせる大勢に入っているという」
「―― 留守を襲わせることが出来ない、というのですか」
「そうだ。ハルモニアが動かず、援軍が見込めぬ以上、手は都市同盟の国元を揺るがすしかない。だが、その国をトランが守るというならば、攻め込む国はおらんだろうな。なにせ、都市同盟最大の敵は、我がハイランドと赤月帝国であったのだから」
 ゆえに、無意味なのだと続けて、ハーンは溜息を吐く。
 老将軍ではあるが、クルガンはハーンを”老人”だと認識したことはない。だが、今肩を落とす彼は―― 確かに老人だった。
 まだ先を望む、若者達を生き延びさせようと願う心も。
「……私がここを下がれば、ハーン将軍はどうされます。正門が落ち、攻め込んできたら」
「あれは、ゲンカクの子だという」
「そう聞いておりますな。都市同盟をまとめる象徴は、ゲンカクの子供だと」
「ならば―― 直接その子供と決着をつけるとしよう。ゲンカクとつけることの出来なかった、その決着をな」
「―― ハーン将軍は…」
 死ぬおつもりなのか、と続けようとしてクルガンは言葉を飲んだ。
 当たり前のことだ。自分とて、生き延びるつもりは全くない。ならば―― ハイランドに全てをかけていたハーンが、城を枕に討死にしようと思うのは当然のことだろう。
「クルガン。シードにも伝えてやってくれ。生き延びる、その道を探すことを放棄するのは許さんと」
「ご自分が伝えればよろしい」
「それは出来ぬといっておろう。クルガン、死に場所を探す権利は、年老いたわしのほうにこそ、あるというものだ」
「―― それは」
「生き延びて欲しいと、思うたか? それとも、共に死にたいとでも思うたのか。この老人と」
 笑みを浮かべながら言われて、クルガンは黙り込む。
 生きてくれと思ったのか、それとも共に果てたいと思ったのか、それは分からなかった。
「お主が共に生きるか、ないしは果てるかする相手は、わしではない。相手を間違えるな、クルガン。間違えると、後々まで後悔することになる」
 かつて親友であった男のことを思い出したか、ハーンは一瞬辛そうな瞳を浮かべた。
 戦いが終わり、和平がなったのち、ハーンとゲンカクは共に酒を酌み交わすこともなくなったのだ。そうすることで、お互いがお互いの立場を守るしかなかったから。
 ―― 辛い、のだろうか?
 命を、背を、預けるに足るとまで思った相手と袂を分かつのは。
「クルガン、行け。生き延びる、最後の方法を模索しながら、果てるときは果てよ。まもなく、ここは落ちる。敵軍は最精鋭をぶつけてくるからな」
「動くか、マチルダ騎士団が」
「そうだ」
「……ハーン将軍。最後に一つ」
「ん?」
「私は、あなたのような将軍がハイランドにいたことを、誇りに思っておりました」
「……そうか。嬉しい言葉だな。わしも、お主やシードのような男が王国軍から育ったことを、誇りに思っておるよ。そして、ルカ様やジル様といった、皇族たちのこともな」
「――― はい」
「守ってやれ、クルガン。ジル様は気高い方だ。決して弱音をもらされたりはしない。泣くことさえ、手放す方。おそらく、あの方だけがハイランドが存在したことを後に伝えていく。だから、あの方を守らねばならないこと、それを忘れぬな」
「努力します」
「最後まで、はい、とはいわぬ。可愛げがないことだ」
「可愛げなど、誰も私に求めませんよ」
「いや、おまえ達は可愛いよ。わしの、息子のようなものだからな」
 一瞬クルガンは目を見張った。
 ハーンはすでにきびすを返し、正門へと歩き出している。
 眼差しを落とし、磨き立てられた床を見つめた後、クルガンも踵を返した。一度として、振り向こうとはせずに。


 
 誰かが歩き出す、まるで決意をひめたような足音が響いていることに、ジルは眼差しをあげた。ゆれるスカートの布地を握り締めて、一言も声を出そうとしないピリカの小さな頭に視線を落とす。
 生き延びてくれ、と夫は言った。
 そんなことを、口にするとは思ってもいなかったというのに。
「ピリカ、悪いのだけれども、ちょっとここで待っていてくれるかしら」
「………?」
「ジョウイと最後とかわした約束を覚えているのなら、ちゃんと、返事をしてくれると嬉しいわ」
「……覚えてる。けど。どうして、約束をしていたら、返事をすることに、なるの?」
「人と人は、言葉にしなければ伝わらない思いがあるからだわ。どんなに心に秘めていた思いであっても、思っていたからといって、伝わるわけでもないの。それを―― 知ったわ」
 初めて知ったのだ。生き延びてくれといった、そしてあろうことか謝ってきた。今にも壊れてしまいそうな、硝子のような瞳をして、ジョウイは言ったのだ。
「生きていて、欲しいんだ。君だけは…生きていてほしい」
 そう、言った。
 唇に指を添えて、ジルは僅かに微笑む。
「お姉ちゃん?」
「哀しい話よ。この、最後にならなければ伝わらなかった、想いの果ての哀しい結末。そうね、私があゆむ御伽噺には、悲劇が良く似合うのかもしれない」
「そんなこと、ないもん」
「ピリカ?」
「お姉ちゃんには、笑顔が似合うよ。だって、ジョウイお兄ちゃんがいつもいってたもん。今日、ジルは笑っていた?って。いつもいつも、ピリカが会いに行くたびに、きくんだよ」
 ―― ジルは笑っていただろうか?
 ―― 少しでも幸せにしてくれているだろうか?
 ―― ジルは苦しんでいないだろうか?
「……そんなこと、なにも…知らなかった、わ…」
「ピリカも、お姉ちゃんが笑ってくれるのが大好きだよ」
「……私も…ピリカが笑っているのが好きだわ。そして…」
 ジョウイが笑っているのが好きだった。
「お姉ちゃん、待ってる。だけど、何処に行きたいの?」
「―― お兄様に、挨拶をしておきたいの」
「う、うん」
「ごめんね、ピリカには恐い人だったわね。でもね、私にとっては、あの人こそが”お兄ちゃん”だったの。一番最初に、私に手を伸ばしてくれた人だったの」
 大好きだった、お兄様。
 二度戻れぬかも知れぬ旅に出なければならないから。
 せめて最後に、彼の墓前に歩んでいきたい。
「待ってる。うん、待ってるよ」
「ありがとう、ピリカ。おとなしくしていてね」
 微笑んで、ジルは歩き出した。
 先ほど、すぐ隣の通路を歩いていったのは、ハイランドの最後を引き伸ばそうと必死になる人々の、誰かであったのかもしれない。
 こんなにも愛されている、気持ちにくるまれて消え行くのだろう……ハイランド。
 誰とも顔を合わせぬように気を付けながら、王宮最深部へとジルは進んだ。
 そこに、兄が眠っている。激しく、強く、全てが人一倍強かったルカが眠っている。
「お兄様」
 呟いて跪いた。
 一本の剣が突き立っている。兄が愛用した、多くの人々の血を吸い込み、最後の彼自身の血も吸い込んだ剣が。
「お兄様。私、生きていくわ」
 微笑んでいろ、と常に願ってくれていたことを知っている。
 狂気をゆれながらも、自分のことだけは慈しんでくれていたことも、知っている。
「誰が忘れても、私が覚えているわ。お兄様のこと、ハイランドのこと、戦ってくれている人々のこと。……ジョウイのこと」
 ぽつりと、涙が膨れ上がってくる。
 誰の前でも泣かないと決めていた。ただ微笑んでいようと思っていた。―― なのに。
「駄目ね、お兄様の前だと、私は甘えてしまって。お兄様が悪いのよ、いつも、私を甘やかしていたから。泣いたらすぐに、来てくれたから」
 もう、泣いても誰も来てはくれないだろう。
 一人生き延びて、そして思い出を抱きしめて、色褪せないように大切にとって生きていくのだろう。
 泣かない。涙をぬぐえるのが、自分だけであるのなら。
「お兄様、私、分かったの。お兄様、言ったわね。おまえはジョウイを愛してる、って。私否定していたけど…分かったの。そう、私、ジョウイを愛していたわ…ううん、違うわね、愛しているの」
 だから生きていくのかもしれない。
 覚えておく為に。自分が生きていくことを願う人がいる為に。
「お兄様のことも、忘れてなんてあげないわ。ずっとずっと覚えている。私が、生きることが。お兄様たちが生きていた証になるわ。だから、ね。お兄様」
 両腕を伸ばす。そして、刺さり込んでいる剣の塚をとった。
「これを私に下さい。もう、ここにはこれないから。だから、形見にこれを頂戴。代わりに、お兄様がくれたサークレットはおいていくから。お兄様の側に」
 生きていく為に、己を殺すことが出来るものを側に置きたい。
「私ね、いまだからいうけれど。お兄様にだったら、殺されてもいいって……思っていたわ」
 大好きだった。そばにいたかった。
 誰よりも大事だった、自分の兄。
「私が大切に思う人は、みんな……すり抜けて消えていってしまうのね」
 呟いた瞬間に僅かに風が動いて。
 漆黒の髪を、なでるように揺れた。 


 ―― 生きろ。
 その願いが、人々を突き動かして。
 守りたい願いが、誰かを守る心が、他の誰かを殺していく。

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