祈りを託しそして願う
[前頁]目次[次頁]
 終結。それは恐らく、静けき闇に似ていながら―― とてつもない速度で押し寄せてくるものであるもかもしれない。



 そんな事を考えていた。
 左腕がひきつれたような痛みを訴えている。火に巻かれ、瞳を燃やされることは防ごうと手を犠牲にした代償の痛み。それでも戦場は思惑通りに進んでおり、特に問題はないと思えていた、刹那。
 血相をかえて陣に駆け戻ってきた皇王ジョウイが、叫んだのだ。
 止める暇も、なにを言うつもりなのかと誰何する暇もなかった。
「撤退する!! 今すぐ、軍をひけ!」
 ―― 信じられない言葉だった。
 余りのことに、元々厭戦ムードを引きずっていた軍が混乱を起こす。
 咄嗟にジョウイの側に駆け寄り、彼を馬から引き摺り下ろした。それ以上叫ばせるのを何とか食い止めたが―― すでに撤退と叫んだ言葉が取り消せるものでもない。
 尋常ではない速度で、ハイランド軍にパニックが起き始めている。
 決意と目指す理想がいかに高かったとしても、軍がこうも簡単に崩壊することなど知らなかったジョウイが、レオンに押さえつけられた下で驚愕の表情を浮かべていた。
 それを見て取って、もう一度後先考えぬ言葉を叫ぶことはないと判断し、レオンは素早く離れると戦場を見渡す。こちらの突然の乱れを見て取って、正確に反撃を開始しようとしている都市同盟側の動きが見て取れた。
「混乱を鎮める」
 戦場で最も危険なのは撤退時なのだ。陳腐なほどに分かりきっている危険を、この混乱してしまった軍を立て直させて行わなければならない。
 常勝の軍師。―― それがレオンにむけられる尊敬の言葉だ。
 呼び名など意味ないことを彼は知っている。けれど―― 今はこの虚名を利用するしか術はなかった。
(所詮…軍師の策など…)
 自嘲気味にレオンは思う。なにせ、いかに軍師が常勝の策を講じようと、主君が棄却すればそれで終わりなのだ。―― それが事実であることを、現実が証明しようとしている。
 王者と、軍師と。
 それは互いに互いをどこまで信用できるのか、計り続ける仲であるのかもしれなかった。
「だが……ここで、終らせてなるものか」
 強く歯を噛み締め、呟く。
 軍勢を損なわせるわけにはいかなかった。ハイランドを支える将軍である、クルガン、シードの両名を失うわけにもいかない。
「―― 馬をひいて来てくれ」
 低く告げた。
 死人だと言われたら信じたくもなるほど青褪めた顔をした主君―― ジョウイ・ブライトが、雷に打たれたかのように顔を上げる。
「なにをするつもりなんだ? レオン軍師」
 声までもが震えている。その怯えは―― 幼なじみの少女が死に向かっている事への恐怖だろうか? それともハイランド軍を最悪の状態に追いやる罪悪感のせいだろうか?
(両方であろうな)
 どこかとてつもなく優しく甘い部分が抜けていない。それがジョウイなのだから。
「このままではハイランド軍は総崩れになる。だからこそ、撤退と叫んでしまった言葉を誤解だと思わせねばならないのだ。私が策を立てれば常勝と考える兵が多い。ならば、私が姿をみせ叫べば、なにか策があってのことだと考えよう」
 そうすれば、浮き足立った軍に僅かな理性が戻るだろう。後はクルガンとシードが軍を立て直してみせるはずだ。今はとにかく、軍を立て直すきっかけが必要だった。
「レオン軍師!」
「私はシュウではない。自らが主君と定めた人間を置いて、死ぬことはしない」
 きっぱりと言い切る。
 軍師は主君より先に死んではならない。それがレオンの持論だ。
 唯一、主君がどれだけの苦労をしていたのかも、逡巡をしたのかも、叫んだかも、哀しんだかも知っている人間が軍師なのだ。だからこそ――請われた軍師は死んではならない。
「ジョウイ様を頼む」
 短く、周囲に控える兵に告げる。
 そしてレオンは馬に飛び乗り、馬首を返した。
 目立たねばならない。必要以上に目立って、叫ぶしかない。
 小高い丘に馬を走らせる。ロックアックス城の威容が目の前だ。そして―― もろく崩れ行く自軍も目の前だ。
「静まれっ! 左翼はそのまま前進し、敵を中央突破で殲滅せよ。右翼は一旦その場に留まり、弓を一斉正射し敵の足を止めたのち、左翼に続け!」
 撤退すると思うから、兵は動揺するのだ。
 ならば。撤退ではなく―― 敵を殲滅させると思わせればいい。
「敵はロックアックス城前におらず。すでに囮部隊を残して撤退に掛かっている。我々が撤退したのではない、敵が撤退したのだ。ゆえにそれを追撃せよ!」
 これは嘘だ。
 撤退させる先に都市同盟の部隊がいることはいる。だがそれは―― 負傷し戦線から離れた後方部隊に過ぎない。敵の本陣は未だロックアックスの中にある。
(倒せるはずだったというのにっ!)
 悔しさが心から抜けるわけがない。
 自分の声が届いたのだろう。そしてジョウイ・ブライトが混乱しながら撤退と叫んだ事実に動揺していた兵達が僅かに静まる。
 そして。二人の瞳がこちらを見上げてくる。
 眉間に皺をよせ、信じられぬ瞳をしているのがクルガンだ。
 討ち取られそうになる味方を庇いながらの戦いのせいか、鮮血に身を染めて睨んでくるのがシードだ。
(すまん)
 ジョウイを説得する暇もなかった。
 ――なにせ説得を受け入れもせずに、彼は撤退を決意し実行に移したのだから。
 わずかにクルガンは肯き、素早く軍勢を並ばせ矢をつがえさせた。
「射てっ!」
 言葉短く叫ぶ。右翼の陣が動いていくのを見て取って、今度はシードが声を張り上げた。
「折角の手柄を立てるチャンスだ。これを逃がすんじゃねぇぞ! 突撃!」
 ―― 彼等はこの命令の真実を、本当は分かっている。
 余りにむなしいだろう心境を慮って、レオンは思わず、頭を垂れていた。



 ルルノイエに辿り着いた途端、誰とも口をきこうともしなかった少年皇王ジョウイは足早に王宮内へと走り込んでいった。
 誰も彼を責めようとしない。
 それが少年には逆に辛かったのかもしれなかった。
 けれど、気遣っているわけではなかった。
 責めている暇があるのならば、対策を考えねばならない状態だったために、誰もしなかっただけだ。
 対策会議を立てるべく、走っていたシードはジルを見つけた。
 透明すぎて―― 感情を欠落させたような表情をしている皇妃。
 慌てて膝を付こうとする。それを、やんわりとジルは止めた。
「必要ありません。ハイランドを守ろうと命をかける貴方は、わたくしなどに頭を下げる必要はありませんわ」
「――ジルさま?」
「一つ、聞きたいのです」
「なにか?」
「誰か、この度のこと、皇王に問い詰めにはなりましたか?」
「―― いえ…」
 責めてる暇がないなどと、言えるわけもない。
 シードが言葉を捜し眉をひそめたのを見て、ジルは表情を動かす。
「いいのです。では、責めていないのですね」
「――皇王を責めて解決する問題ではありませんから」
「そうですわね。……シード、もう一つ聞いていいかしら?」
「……どうぞ」
 ルカが死んで以来、ジルは何かが虚ろだった。それが―― 胸に痛い。
 あんなにも、幸せそうに笑っている姫だったのに、と。
「人はきっと―― 責めてもらえたほうが、楽な時があるものではないかしら」
「―― それは…まあ、普通の人間ならそうかもしれませんが」
「そうね。貴方は己が決めたことに全ての責任を持つ人。責められようが、責められまいが、関係はないのでしょう。けれど…」
 ふっと、笑った。
 空気が震える程度に僅かに。―― そして言った。
「皇王は……普通すぎる方ですものね」
 唐突すぎる言葉。
 驚いて立ち去っていく彼女の後ろ姿を見送る。けれどもう、ジルは口を開こうとはしなかった。
(もしかしたらジルさまは…)
 せめて責めてほしかったと思っているかもしれないジョウイの為に。
(この現実を、弾劾してやるつもりなのだろうか?)
 ―― そんな気がした。



 次々と策をたてて、レオンは滅びを食い止めようと動いていた。
 クルガン、シードだけでなく、老将ハーンまでもが軍を見回り、士気を鼓舞するようになったのもこのあたりの頃からだ。
 敵が、連戦による消耗と士気低下から立ち直れていない隙を見逃すわけがないとレオンは睨んでいる。甥マッシュが僅かなりとはいえ教えたシュウは―― そこまで甘くはないだろう。
(―― 滅びるわけにはいかない)
 そう、思いながらも。いざという時の為にジル・ブライトを国外に逃がす手はずを整えるようジョウイに進言している自分はなんだろうかと、苦笑する。
 ジョウイは余り感情を見せなくなった。あの事件が―― 彼の気力の全てを奪い取ってしまったかのように。
(所詮……最初に抱いた理想を最後まで貫くことが出来る人間はいないのか)
 そんなことを思った。
 瞬間―― ひどい疲れが、全身に襲い掛かってくるような気がした。
「レオン軍師」
 唐突に声が背後から響く。
 必要事項を確認する以外では、久しぶりに聞く声だった。僅かに驚いて、ゆっくりと振り向く。
「なにか? ジョウイ殿」
「……レオン軍師が、本や資料を見ていないところをはじめて見た気がするよ」
 苦笑するように言って、ジョウイは歩いてくる。そして、レオンの前で止まった。
「一つ、謝ろうと思ったんだ」
「必要を感じませんな。ジョウイ殿は、あの少女を助ける為にとった行動を”良くなかった”とは思っていらっしゃらない。とばっちりをくったハイランド兵士を可哀相だとは思っているようですが」
「――厳しいね」
 くすりと笑う。
 それから窓の外を見やって、ジョウイは目を細めた。
「確かに、あれが間違いだったとは―― 僕は思っていないんだ」
 幼なじみが、死んでしまうかと思った。
 触れた箇所から、赤い血がとめどなく零れていって。
 死んでしまうと思った。そして救わなくてはと狂いそうになった。
「でも……今、このハイランドをみていると」
 言って、固く拳を握り締める。
 激情を現すように、固く、固く。
「守りたいんだ。僕は傲慢で欲張りなのかもしれない。でも、ナナミも守りたいし、ハイランドも守りたいんだ。勿論、ジルにもレオン軍師にもクルガンにもシードにも死んで欲しくないっ!」
「―――確かに、欲張りですな」
「僕は最後まで諦めない。もう二度と―― 勝手なことを勝手に決めることはしないと約束する。自分がしたいこと、それはちゃんとレオンに相談するから。だから」
 顔を上げる。
 静かに弾劾してくれた、外を指差し涙する兵士達の姿を見せてくれた、そしてそっと涙を落としてくれたジルの為にも。
 ―― 守りたい。
「力を貸してくれ。レオン。僕はまだ―― 戦ってみせるから」
 ―― まだ、消えていない意志の力。
 ―― 子供ゆえに悩み間違い……それでも進もうとする必死さ。
 レオンは思わず笑った。 
 そして―― もう一度、ジョウイの前で膝をつく。
「ならば、最後まで死力を尽くしましょう」
 そう答える。
 そして同時に思った。
 もし―― 滅びを食い止めることが出来なくなったとき。
(この少年までも……)
 死なせることは、してはならないと。
 


「ジョウイさま!!都市同盟軍が、国境を越えました!!」
 ―― 最後の戦いが始まる。



[前頁]目次[次頁]