拒絶する祈りと
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 全てを守れると思っていた。
 手にした剣。
 生まれながらに与えられた身分。
 眼下に広がる豊かではないにしろ穏やかな国。
 そして―― 忠誠を誓う者達の姿。
 特別な力になど頼らずとも、それを守ってゆけるのだと考えていたのは幼い頃だ。疑問も感じず、父に母に守られ笑っていた遠い昔。
 ―― 例えばあの時に。
   全ては始まったのかもしれない。
 少ない護衛など簡単に排除できるほどの技量を持って襲ってきた暴漢達。
 誰よりも頼りになると思っていた父は震えているだけだった。
 誰よりも聖域だと思っていた母が屈辱をうけながら子供の助命を叫ぶ。
 まだ剣に遊ばれているようにしか見えなかった稚拙な剣術。けれど何もせずにいられるわけもなく、剣を手に、母に圧し掛かる巨漢に飛び掛かった。
 その後の記憶はない。
 撃退され、頭を殴打されて、自分は気を失ったのだと後で聞いた。
 ―― 知ってしまった。
 どれほど敗北が残酷であるかを。
 自分にも叶わぬものがあるということを。
 嘆き、心を壊していく人を現実に引き戻せない虚無感も。



 母は半分狂って、二人になった。
 一人目は自分を可愛がり、お腹の子供にも話し掛ける普段通りの母。
 二人目は自分を道連れにしようとし、お腹の子供を殺そうとする昂ぶった母。
 父は現実から逃げた。二人にはあおうとしなかった。彼が訪れるのは、普段通りにしている時の―― 一人目の母だった。
 はじめて人を憎んだ。対象は父親。
 はじめて人を殺そうと思った。対象は生まれてくる子供。
 せりあがってくる腹部の膨らみが大きくなればなるほど、二人目の母ばかりが表に出てくる。あれは母を狂気に抱き込む象徴だと、単純に思う。
 剣を磨き、それが生まれてくる日を待った。
 早朝の、弱くけれど美しい太陽が姿を見始めた時刻にそれは生まれて、母が死んだ。狂気に殺されたと咄嗟に思った。泣き叫ぶ女官たちを振り払い、剣を片手に 部屋に飛び込む。振り乱れた黒髪が、蒼白になった母の顔を目立たせる。
 すでに死んだもの。
 暖かみを失いつつあるもの。
 そして―― 生まれ落ちたばかりの温かいもの。
 人は生まれた刹那泣くという。
 けれど生まれてきたそれは泣いていない。
 人ではないかもしれない。生まれながらに母を殺した、それは人ではないかも。
 悲鳴が耳を付く。哀願の声もした。けれど止まれないし―― 止まりたくもない。
 大きな剣を振り上げる。小さな形がぴくりと動いた。そして。
「―――― !?」
 筋肉が悲鳴を上げるほど無理矢理振り下ろした剣を止めた。切っ先までごくわずか、その距離を閉じていた目を開けて赤子が見つめる。じっと―― 命の帰趨を握 る剣を見詰める。
 泣くのか、何も分からずに笑ってみせるのか。
 一瞬赤子の次の行動に興味を覚えた。剣を突き付けたまましばし待つ。
 そして興味を失ったように、赤子は―― 目を閉じた。
 泰然としている、そう思った。
 剣を目の前にしながらも、何も反応もせず、全てを受け止める体勢しか取らなかった赤ん坊のことを。それが今死んでいったばかりの母親とはやけに対照的に思 えて、剣を収めたのだ。 
 女の子だったらジルと付けようと思っていたのと、そういえば母から直接聞いたことがある。だから憎悪の対象である父親―― アガレスが関与する前にジルと呼 んだ。切っ先を前にしながら自然のままに眠った妹を。
 そうされてもう一度目を開けて。
 初めて妹は笑った。
 だから決めた。
 命をかけてでも。
 全てを犠牲にしてでも。
 妹を―― 守ってやろうと。


 ルカはあまりに強い。ゆえに、白狼軍に成す術もなく、連戦の将たちが退けられた有り様は、ジョウイにとっても恐怖だった。
 だから、レオンに相談した。
 ルカを廃さなければハイランドを狂気から救う事は出来ない。だからといって―― あのルカにようやく配下に出来たクルガン、そしてシードをぶつけるわけには いかないと思って。
 ルカ・ブライトを、陣容を揃え始めた同盟軍の手によって排除させることは可能か、と。
 その時レオンは薄暗がりの中、手元を照らすランプの下で資料を見詰めていた。思えば今までも、彼は常になにかを見詰めていたような気がすると、ジョウイは 思う。
「―― 作戦さえ注意すれば、クルガンとシードの両名の技量で充分ルカ・ブライトを排除することは可能ですが?」
 ゆっくりと顔を上げてレオンが言う。僅かに首を傾げる癖は、シルバーバーグ家の遺伝なのだろうかと、ふとジョウイは思った。マッシュやオデッサもそうだっ たという噂を、傭兵砦にいたときに小耳に挟んだことがあるのだ。
「僕が王位を簒奪する、という事実を隠したいから―― とは思わないんだ?」
「そういう思考が出来るには、まだ時間がかかりそうだと思ってますが」
「―― 的確かもしれない」
「どんな手段を使っても、と口にするのはたやすい。けれど、現実に考え付くのは難しいものです。……戯れ言はここまでにしておいて、質問に答えましょう。先 に答えをいえば可能でしょうな」
「―― 可能…」
「恐らくシュウの性格からいって、自軍に引き入れたキバを使ってくると想定できる。キバとその息子クラウスは律義な性格をしているがゆえに、シュウの指示に は従うでしょう。ならば使う手はただ一つ」
 手元に地図を広げながら、ペン先で一個所を示す。
 キバの部隊を囮にし、ルカの率いる白狼軍を突出させることで、包囲戦法を取ろうとするはずだといいながら。
「成功の可能性はいかほどだと思っている? レオン軍師は」
「まず失敗するでしょうな」
「……何故?」
「白狼軍の結束は必要以上に固い。調べてみたところ、命にかえてもルカを守るという意志がごく自然に存在している。それが一つの軍として機能していれば、い かに同盟軍が囲もうとも打破は出来ませんな」
 率いる将の質というよりも、軍自体の構成が違うから当然だとレオンは続けた。
「白狼軍に匹敵する団結力を保持するのは、同盟軍では元マチルダ騎士団の者達だけでしょう。だが赤騎士団、青騎士団の元団長たちには、一軍を補佐する副将と しての命令が下されただけで、独立部隊は指揮していない。ならば混成部隊になる為に、マチルダ騎士団という独特性は失われていると考えていい」
「――― キバの軍は?」
「キバとクラウスならばともかく、軍を構成する元王国軍の兵士達が完全に同盟に忠誠を誓うとは思えませんな。これでは―― 士気が僅か落ちる」
「―― なるほど……」
 言われてみれば、同盟軍はまだ一つの組織として完全に統一されているとは思いがたい。
「だからこそ、無欲に見える象徴的指導者を同盟は必要としたわけです。年端もゆかぬ少年が指導者というのは、従う者達に錯覚を与える。―― 従うのではなく、 彼を守り国を守る使命を与えられたと陶酔することも出来る。かつての英雄ゲンカクの息子で輝きの盾の紋章の継承者という偶像性の高さもあいまって、それは現 実となった。けれど内実はばらばらだ」
「―― それは…」
「そうは見えない、といいたいのでしょうが。もしバラバラでないのならば、マチルダ騎士団員だけで構成した一軍を立てただろうし、内部的な地位付けもしたは ず。それが出来ないのは、マチルダ騎士団員が造反するのではないかという懸念を捨て切れない内部事情の脆さと、地位付けした途端に仲間意識が薄れるという事 実に他ならない」
 面白くなさそうに言い捨てて、レオンは立ち上がる。
 何か作戦を考えている横顔に、ジョウイは口をつぐんだ。
「バラバラであった国が一つになるのに最適な方法はご存知か?」
 戯れ言のように、突然レオンが話題を戻した。ジョウイは首を振る。
「―― 最適な? それは……なんだろう…」
「外敵に攻められた時。そういうことです。同盟軍は今、まとまらなければ滅びるから一つになっているにすぎない。平和になれば―― 直ぐ元の状態に戻りますよ 。あの国は豊かだ。団結していなくても生きていける。さて……ルカ殿を同盟軍の手によって排除させる方法か…」
 ならばシュウの作戦に最初は乗せられてやり、白狼軍の手によって同盟軍が惨敗したほうが都合が良いですな、とレオンは言った。その上でルカに夜襲をかける ことを薦め、情報を同盟軍に流す。
 ―― 流された情報を信じて作戦を立てるしかない状態に追い込めば、プライドは捨てることが出来る男だと、レオンはシュウのことを論じた。


 
 そして事実、レオンの読みとおりの作戦をシュウは立て、そして敗北した。
「先の戦闘の勝利によって、同盟軍は半ば壊滅状態です」
 金色の髪を揺らせて、ジョウイは静かに告げる。
 敵―― 一言でまとめるその中には、彼が身を切る思いで置いて来た幼なじみの二人がいる。……いる、とだけで表現するのは不適切かもしれない。なにせ幼なじ みで親友の少年は、今は敵のリーダーなのだから。
 グリンヒルで邂逅した時、その事実を痛いほど思い知らされた。
 ナナミのいうことをどちらかといえば素直に聞いていた彼が、明確な意思を眼差しに宿して、逃げてくれと言った自分を見詰め返したことが思い出される。
(……頼もしいよね。だから―― こんな作戦が可能になってしまう)
 烏合の衆に見せかけていながらも、同盟軍には着々と人材が集まりつつある。純粋な戦闘集団の一面も持つマチルダ騎士団の、象徴的指導者である白騎士団長ゴ ルドーの元から、青・赤両騎士団長が出奔したのは、あまり歓迎したくない状況であった。
 同盟軍の兵力が着々と増え、兵を自在に扱う将軍たちも充実しつつある。
 けれどようやく充実させたばかりの兵力を、予測通り、同盟は失ったばかりだ。
 だから、ジョウイはルカに夜襲を薦めている。レオンの策を実行に移す為に。
 そしてルカは、自分の義弟となった男を冷視していた。
「これを機に、完全に同盟を排除するのが得策かと思われます」
「もう少し粘ると思ったのだがな。―― 同盟の虫けらども」
 案外根性がない、命あるまま追い出してやったのだからもう少しキバ共も活躍してみせれば良いものを、と早口にルカは言う。
 僅かに顔を上げて、強いて感情を見せないように気を付けた目線をジョウイが向けてくる。
 何かを企んでいることぐらい、ルカは理解していた。
 肌に触れてくる緊張感が今までとは格段に異なっている。自分を殺そうとする子供。その子供がようやく行動に移すのかと思えば、どこか楽しかった。
 ―― どうせ守れぬものがある。
 知ったのは子供のころだ。
 ―― 大人になり、より強くなれば守れるだろう。
 そう思った甘い考えを打破されたのは最近のことだ。
 ジョウイが何事かを進言してくる。長い話を要約すれば夜襲をかけてみればといいたいのだ。なぜそれだけを言うのに時間が長く掛かるのか、彼には理解できな い。
(夜襲か)
 それも悪くない。
 闇に落ちた中、赤々と炎もえるさまは意外と美しいものだ。
「良かろう」
 ジョウイの言葉に耳を傾けつづけるのも鬱陶しく、ルカは断言して踵を返した。決めた以上はすぐに動く。それが彼の信念だ。
 ―― ちりちりと、肌を僅かに焦がす気配がする。
 気付き、ルカは唇の端を釣り上げた。これは獣の紋章が覚醒し、獲物を求めている濃厚な気配なのだ。
(貴様は全てを破壊し尽くす)
 ―― 大人になった。強くもなった。だから守れると思っていた。
 そのルカの淡い期待を完全に破壊してのけたのが、ブライト王家が代々守る真の紋章―― 獣の紋章だったのだ。
 幼い頃にはげし過ぎる憎悪を覚えた。
 憎悪の対象は目の前から消えることもなかった。
 一人の相手を、延々と憎しみ続ける事の出来る激しい感情。その部分に、獣の紋章がひたり、ひたりと、忍び寄ってくる。
 時には夢を見た。
 獣の紋章が完全に目覚め、ハイランドという国を食い荒らしていく光景。
 あるいは獣の紋章に取り込まれ、みずからが妹を、そして気に入っていた将たちを殺していく光景。
 繰り返し、繰り返し、それを見た。
 夢か、現実か、分からなくなるほどに。
 幻の中―― 血にぬれ真紅に染まった妹を何度も狂ったようにかき抱いた。
 けれどいつしか、崩れていく妹を―― 血の色の染まったジルを、綺麗だと思うようになった自分がいたのだ。
(いつか自分は完全に壊されるだろう)
(憎悪を消すことを出来ない自分は、おそらく付け入りやすい恰好の対象で)
(自分であって自分でなくなった存在が全てを壊すかもしれない)
 ―― ならば。
 自分が、自分であるうちに。
 どうせいつかハイランドを滅ぼすならば、今。
 全てを滅ぼしてやろうと思った。
 守れぬならば。破壊してしまえばいい。
 自分以外のものに取り込まれ、それが滅ぼすのは許し難い。
 ならば自分が―― 破壊しつくせばいいのだ。
 笑いたくなった。
 羽織るマントが夜気に揺れる。出立の用意で忙しい中、自分を見詰めてくる真摯な瞳の存在に気付く。―― そして、自分の馬の轡を取っている男に気付いた。
「――― ハーンか」
「お久しぶりでございますな、ルカさま」
「壮健そうで何よりだ。だが今更なにをしにきた? 老兵に出番はない」
「手厳しいですな、ルカさま」
「お前が手ぬるいだけだ。ハーン、轡を離せ」
「納得しかねますな」
「何故だ?」
「ルカさま。貴方に異境の地は似合いませぬ」
「――― ハーン」
 唐突に静かに、ルカが老将の名を呼ぶ。
 それが余りにかつて、自分をしたい剣を教えてくれとせがみ、妹姫を背負ったまま家まで遊びに来たかつての彼を思い出させるもので、ハーンは目を見張る。
 その隙にルカは強引にハーンを押しのけ、騎乗し、
「お前こそ異郷は似合わん。―― ハーン。ジルを頼んだ」
 静かに言った。
 そして馬を飛ばしてしまう。白狼軍の者達は慌てた様子もなく、去っていくルカを見送る。軍が合流する場所はすでに決まっているのだろう。
 茫然と老将ハーンは、慈しみ育ててきたルカを見送る。
 そして僅かに震えた。
 ―― 異境の地は似合わぬと言った。
 それは、異境の地で屍を晒すのは似合わないという意味で言ったつもりだ。
 意味は正確に伝わっていた確信が或る。
「ルカ……さまっ!」
 英明な皇子。
 父親を憎悪したルカ。
 子供がいなかった自分。引き取り育てた子供同様、ルカをジルを可愛がってきた。
 ―― 父親の代わりにはならずとも、守っていてやりたかったというのに。
 俯いて、ハーンは……涙する。



 ルカは馬上にあった。
 風景げめまぐるしい速度ですぎていく。
 負けるつもりはない。殺されてやるつもりもない。
 最後の最後まで、自分は自分のやりたいようにやり、生き、そして死ぬのだ。
「狂皇子にはそれが似つかわしいであろうよ」
 呟いた、その吐く息が白い。
 瞬間―― 視界の端に、長い黒髪が風に揺れるさまが映った。
 思わず手綱を引き、馬を止める。振り返って見詰めた。
「―――― ジル…」
 護衛もつけず、ただ一人で。兄が出立していく進路を悟って立っている。
 胸の前で手を組んで。まるで祈るように。
(その祈りはどの祈りだ?)
 考えれば笑いたくなった。 
 思えば祈りとは便利なものだ。
 無事を祈ることも、冥福を祈ることも可能なのだから。
(俺は祈りはいらん)
 なんとなく、無視して通り過ぎる気にはなれなかった。
 月明かりが頭上に或る。妹に良く似た―― 透明で美しい光が。
「ジル」
 声をかけた。
 妹の名を呼ぶのは久しぶりだ。昔は何度も呼んでいたというのに。
「なにをしている」
「―― 祈っています」
「誰の為にだ」
「お兄さまの為に」
「何の為にだ」
「祈らなければならないから」
「俺は祈りはいらん」
「ええ。いらないでしょう。ルカ・ブライトには。でも―― 」
 静かに言葉を切り、顔を上げる。
 涙に濡れた瞳がそこにあった。芯の強さを窺わせる、優しさもあった。
「わたしのお兄さまには、祈りが必要なの」
「――― ジル」
 狂気に落ちたルカ・ブライト。
 妹を案じつづけているルカ・ブライト。
 そういえばかつての母と同じく、今、自分は二人いるのかもしれない。
 考えれば笑いたくなった。静かに、笑いたくなった。
 手を伸ばす。そして妹の頬に手を添えた。
「ならば俺はお前の為だけに祈ろう」
「――― お兄さま。祈りに、付け加えてほしいことがあるの」
 瞳に溜めていた涙をとめどなくこぼして、ジルが言う。
「―― どこでもいい。いつかまた―― わたしがお兄さまに会えるように。祈って」
「―――― ジル…」
「どこでも……いいから…」
「……分かった。ジル…お前は幸せになれ」
 なぜか心が静かだった。
 今生の別れになる、そんな予感が或る。
 負ける気はしないというのに、矛盾している。だが―― 確かにする。
 視線を上げれば、ハーンに命令でもされたのか、それとも自主的に気付いたのか、シードが馬を走らせてくるのが見えた。
 ハイランドに戻るまで、ジルは無事だろう。
「――― さらばだ」
 一言いって、再びルカは馬を走らせた。
 それをジルが見送る。ただただ涙を落として、見送る。



 ルカ・ブライト戦死。
 その報が各国に正式に流れたのは、翌日のことであった。



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