偽りの鐘が鳴り響く
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 「あの子供は危険よ、お兄様」
 ぽつりと言ってみた。
 晴れやかに軍がルルノイエを出陣していく。それを見送りながら。
 次はグリンヒルを落とすのだと、独り言のように兄が言っている。
 なぜか楽しそうに。物語の結末を、早く知りたい子供のような顔で。
「……土産に本でも持ってこさせてやろう」
 そんな事まで言った。
(随分と上機嫌なのね)
 そう思って目を上げた。
 窓辺から差し込んでくる日差しは弱く、吹き込んでくる風は冷たい。冬の気配が如実にしている。
「なにか絵本でも持って帰って来いと言っておこう」
 返事をしないジルに構わず、ルカは勝手に言葉を口から滑り出している。
 ――絵本。
 そういえば。幼い頃、兄は自分の為に毎晩絵本を読んでくれたものだ。
 話を聞きながら、幼い頃皆がしたように夢を描いた。登場人物は自分になり、最後には王子さまが助けにきてくれるのだ。当然囚われの姫は自分で、王子は兄だった。
『本物の王子様、お姫様でいらっしゃるのに。想像して楽しいですか?』
 と、侍女に笑われたことがある。
(今はどうかしらね。空想なんて、するしら…?)
 戯れのように自答した。答えはきまっている。空想で遊べるわけがない。
 兄が血の色の夢を見るようになってしまった。
 優しく笑っていた、その顔を戦慄を与える狂気にかえて。
 労っていた、その唇から破壊の言葉をつむいで。
 変わってしまった。遠くなってしまった。
 ずっと――兄の力になっていたいと、願っていた現実が壊れていく。
 夢など見れない。夢であった今が壊れるのだから。
 流石に黙り込んだままの妹に、ルカが不審な表情を浮かべる。背筋を正し、口元に形だけの笑みを浮かべて、ジルは兄を見上げた。
「お兄さま。グリンヒルはどうやって落とすつもりなの。何時ものように戦えば、本なんて、一つも焼け残りはしないわ」
 多分、望まれているのはこんな言葉。案の定、兄が目を細めて笑う。
「俺が攻めにいくのではないからな」
「……では誰が行くというの?」
「ジョウイだ。しかも成功すれば何かくれと言ってきた。おそらくお前をくれと言ってくるはずだ」
「―――!? お兄さま!?」
「ようやく顔色を変えたな」
「お兄さまは変えないの?」
「あれは俺を殺したがっている」
「そうよ。分かっているのなら、なぜ? そんな男に、私をやってもいいと思うの? お兄さま」
「お前はあの男が好きだろう」
「―――っ!! お兄さま!?」
 完全に動揺した妹を、ひどく満足げに見やって、ルカは笑う。
 くつくつと。何かを嘲笑するように。
 だから顔を上げる。少なくとも、これだけは信じて貰わねば困ることがある。
「けれどお兄さま」
「――なんだ」
「私はお兄さまの事を、心から大切に思っているわ」
「賢しいな、ジル。俺が恐くないのか?」
「恐い? なにが恐いというの? お兄さま。世界の誰もが私を殺し得ても、お兄さまだけは私を殺せない。それが事実。――なにを恐れろというの?」
「―――ふんっ。つまらん」
 ぷいと、顔を背けて兄が歩き出す。
 最近はいつもこうだ。真摯なる気持ちをぶつけられると、すぐに兄は去ってしまう。まるで陽炎のように。――もう、本当に兄はこの世にはいないかのように。あまりに、取り止めがない。
 鎧の金属音も高く、兄が部屋を去っていく。
 そして。
「あの男が、俺の次にお前を大事に思っている」
 ――言った。
 小さく、そして限りなく細く。けれど確かに言った。
「―――お兄さま!?」
 声を上げ、立ち上がった視界の先には閉じられた冷たい扉。
 頬から涙が落ちてくるのが分かる。
「……お兄さま…」
 狂うのならば、何故に完全に狂ってくれなかったのか。
 己を大事と思ってくれるならば、何故道連れにしようとは思ってくれないのか。
 何故――生き残れと、微笑んでいてくれと、無言で自分に願うのか。
「……卑怯よ…どうして私を大事と思う者は、私をそっと飾っておきたいと願うの? 微笑んでいろと願うの? 私だって哀しんで憎んで怒るわ。なのにそれさえも――奪い取って、幸せになれと願うのっ!」
 ――耐えられない。だから叫んでいた。
 


 聞こえていたのだ。感じていた。
 忍び寄る。滅びという存在を。
 ひたりと、そろりと、ひそやかに近づいて来ては、やんわりと抱きしめ束縛する腕が見えるような気さえ、する。
(どうして……わたしが、大切だと思うものはみな…)
 滅びの中心地にいるのだろうか?



「ジル様」
 声が聞こえた。振り向けば呆れた顔をした銀髪の青年がいる。その隣に立つのは――たしかジョウイが連れてきたという、希代の軍師と名高い男ではないか?
「――わたしになにか?」
 やんわりと尋ねる。
 ソロン・ジー亡き後、王国軍第三軍を二人の将がまとめていることはジルも知っている。その片割れこそが、声をかけてきたクルガンであるということも。
 ただ、ひどく違和感があった。
 なにゆえ、レオンとクルガンが喋っているのか。
(――そう…まるで、隠れるように。なにせここは…普段は誰もこない場所なのだから)
 城の外れ。日差しも当たらないような陰気な場所であり、鬼門でもある。
 幼いころ、ここなら誰もこないと言って、悪戯のように兄がよく連れ出してくれた。そして侍従がみれば怒るだろう、民家の子供たちがするような遊びや、お菓子を、兄は自分によく与えてくれたのだ。
『ここは、わたしと、おにいさまだけが、きていい、ばしょ、なのね?』
 秘密というのは、子供にとってはひどく楽しい。
 自分もそうだった。多分ひどくきらきらしていたのだろう瞳をあげて、兄を見詰めて、何度もそう言った記憶がある。
 大人になっても、ここはジルにとって秘密の場所だった。
 泣きたいとき、激情が耐えられなかったとき、ここに来て――ひそやかに泣くのだから。
「わたしが、ここにいることに驚いているようだけれども。クルガン殿にレオン殿が隠れて話をしているほうが、わたしには、驚きだわ」
 続けて言って、はたと思った。
 誰もが認めざるをえない人間を連れてくる、と宣言して、ジョウイはレオンを連れてきた。そのレオンがハイランド軍の一兵卒たちの絶大な支持を得ているクルガンに接近している。――ということは、シードにも接近しているということだろうか?
(……お兄さま。こんなにも、滅びは身近に迫らせて。どういうおつもりなの?)
 心で問い、返らぬ答えに首を振った。
「どうやらわたしは邪魔のようね。答えてもくれないみたいだから、立ち去るわ」
「――ジルさま」
「安心なさって。別に、誰にも話したりはしないわ」
(だって、既にお兄さまが知っていることのはずだもの)
 裾をゆるやかになびかせて、踵を返す。
 去っていく自分の背に、二人の視線が注がれていることは知っていた。けれど振り向きはしない。
(お兄さま……)
 そして、もう一度心の中で呟く。



 空の色が焼けていく。
 それは夕焼けの色であり、哀しみの色だ。
 人々が疑心暗鬼にかられ。味方が味方をいぶかり、市民が軍を疑い、そして滅んでいくカタチ。
 そこから逃げ出したのは、グリンヒルを守らねばならないはずのテレーズだった。
 こうも簡単に愛するグリンヒル市民が自滅していったさまに、耐えられずに逃げ出してしまった、純粋で優しくて――脆すぎた彼女。
 ジョウイは顔を上げて、グリンヒル陥落の報を聞いた。
「――ふん、流石はレオン・シルバーバーグといったところか」
 面白くもなさそうに、ルカが言う。
 彼の前に控えていたジョウイは一礼し、辞去しようとしていた。
 戦後処理がある。それに――レオンが説得し続けたクルガンとシードの二人を、直接自軍営につくようにと直接請いに行かねばならない。
 立ち去ろうとする金髪の少年のことなど、まったく眼中にない様子だったルカが、不意に顔を上げた。
「ジョウイ」
「―――!? ……なにか?」
「グリンヒルは陥落したな」
「ええ」
「グリンヒルを落としたら、欲しいものが或ると言ったな」
「はい」
「まだ言うつもりはないか?」
「――正式にグリンヒルを掌握してから、申し上げようと思ってます」
「――――ジルはアンティークの絵本が好きだ」
「………えっ?」
「戯れ言だ」
 ジョウイが初めてみる、それはルカの微笑だった。
 精悍さも、その並々ならぬ強さも、まったく損なわれてはいない。けれど今までの表情とは完全に異なっている。優しさがそこにはある。
 一瞬混乱してから、ジョウイは必死に息を整える。
 こういう時、思うのだ。
 ルカは全てを知っているのではないか?と。
 狂っていく自分自身も、自分を殺そうとする人間も、時代の動きも全て。
「――分かりました」
 かろうじて答えて、ジョウイは部屋を後にした。
 普段聞き慣れた、箍がはずれた笑い声が背を追いかけてくる。
 ――このルカなら知っている。
 そう、思い。歩き出して、ジョウイは硬直した。
 静やかに、ジルが歩いて来ていたのだ。
 生まれついた高貴さと、全てを静かに守るような優しい強さ。――それを、常に身にまとう彼女が。
 なぜか胸が激しく打った。
 ジルも気付いて顔を上げて、静かに、ジョウイを一瞥する。
「グリンヒルを、落としたそうですわね」
「――はい」
「………今、グリンヒルに王国軍第三軍も集まって来ているらしいですわ」
「皇女?」
「戯れ言だったかしら。関係ないことだったかしら。――いいえ、関係ないことだったならば、良かったけれど」
 ジルの言葉が、ジョウイの胸を激しく突く。
 ハイランドに属する、他の誰の言葉も、痛みを持って届いたりはしないというのに。彼女の言葉だけは、聞くたびに、痛みが胸をよぎってくるのだ。
 ――罪悪感なのか。
 ――それとも、彼女を……。
 ――僕は。
「ジョウイ殿」
 感慨を打ち破るように、ジルが声を出す。
「願うなら、貴方の行動がハイランドを守るようにと、祈っているわ」
 静かにつげて、スカートを僅かに上げ一礼し。
 ――皇女は去った。
 その後ろ姿が、完全に視界に消えてしまうまで。
 ジョウイはなぜか、見詰めていた。



 花嫁衣裳が目の前にある。
 分かりやすいものだわ、とジルは思う。
 グリンヒル陥落後、クルガンとシードを遠目から伺う機会があった。
 そして確信した。――彼等は、兄と袂をわかれたのだ。
(お兄さま。このまま、着々と、お兄さまの死を望む者達の包囲にしかれるおつもり?)
 呟く。
 こんな状態であってなお、兄が生きることを望む自分の諦めの悪さが笑えてしまう。
 ジョウイの花嫁になれと、兄が言った。
 やはり奴の望みはそれであったぞと、なぜか得意げに言った。
(どうて得意げなの? これは……死の包囲が完成されて行く事なのに)
 ――花嫁衣裳に袖を通す。
 不満はないのかと父は言った。兄が狂って行く現実以上の不満など何処にもない。だから平気だと答えた。
 そして、通した純白の衣装。
 最初に染まったのは、真紅の色。
「――お父様!?」
 理解できなかった、と言う言葉が正しい。
 突如苦しみだした父親の顔がどこか遠い。
 ――なぜ?
 失念してしまっていた。
 ――死の包囲。それは。
 お兄さまのことだけではなく。
 ――このハイランドと。
 守り続けてきた王族と。
 ――その全てを!!



「お兄さま、お父さまをっ!」
 流石に叫んだ。
 器用に兄が高く笑いながら、母の名を呼ぶ権利はないと叫び、父を冒涜するべく踏みにじりながら――断末魔の父を自分の視界から外そうとしている。
(どうして、こういう時でさえ!)
 優しさが残っていることを、痛いほどに自分に知らしめるのか。
 ――壊れていくわ。
 己の血液に毒を含むなどという離れ業をしたジョウイが倒れている。
 駆け寄る気には流石になれない。
 けれど大丈夫なのだろうかと、取り見出し、部屋から出されながら思ってしまった。
 ――大丈夫だろうかと?
 思った? 自分は? 父を殺し、いつか兄を殺す少年を?
(まさか……私は……)
 ジョウイを……本当に、彼を……。
 拒絶しつづけた認識に足が震える。
 背後では笑い声。高い高い、兄の笑い声。



 滅びの音が聞こえるの。
 忍びより、壊滅を与える機会を狙う。
 ―――――その滅びの音が。



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