侵食をはじめる未来と希望 -前編
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「ジョウイ、難しそうな顔をしてるね」
 どうしたの?と続く質問を、口にするより鮮やかに瞳に宿らせて、ナナミが聞いてくる。考え込んでいたせいで、どうやら一生懸命話し掛けてくる彼女の言葉に肯きそこねていたらしい。
「ごめん。ちょっとね、考え事してたんだ」
「ジョウイは何でも考え込んじゃうからな。ねえ、ジョウイ。知ってる?人ってね、いろいろなことを理解しちゃうとね。その理解したことを、まるで”自分が解決できること”だって、錯覚しちゃうことが多いらしいよ」
「錯覚?」
「うん。そう。――一人の人間が出来ることなんて、本当はそんなに沢山はないのに。全部できる、全部助けることができる、救えるって。思うんだって」
「ふぅん。ナナミ、それ、どの小説に出てきた言葉? いい言葉だね」
「……ジョウイ、わたしのこと、もしかして馬鹿にしてるでしょ?」
 途端にふくれる幼なじみの頬。
 触ったら、なんだかやわらかそうだと思いながら、笑う。
 ――ごめんね、ナナミ。
 本当は分かっていた。それが彼女自身の言葉であることぐらい。そして――段々戦いに自らの意志で参加しようとしている自分達二人を、心配しているくらい。
「ごめん、ごめん。嘘だよ、ナナミ。なんだか、素敵な言葉だったからさ」
「素敵な言葉なんて、わたしには考えられないっていうつもりでしょ」
「やだな、そんなことないよ」
 軽くみせかけて、でも本当は強く力をこめて。
 覗き込んでくるナナミの肩を押した。吃驚するように寄せていた顔を離したナナミが僅かに引いた隙に、立ち上がって、宿の窓から外を見詰める。
 生活の音が聞こえる。
 当たり前だからこそ、多分優しいこの光景。
 ――それを、僕は…。
「ナナミ」
 君は知っているだろうか?
 急速に戦いに巻き込まれて行く世界と、人々の中で。
 迷いもせずに、望むべき未来と、帰りたい場所を心に描く彼女は。
 ――知っているだろうか?
「なになに? なにか楽しいものでも見える?」
 肩を押されて、敏感なナナミは違和感を覚え取っただろうに。そんなこと、微塵もみせずに駆け寄って来て、窓辺に立った彼の隣に立つ。
「んーー? なんにもないみたいだけど」
 額のところに、手をおいて。わざとらしくナナミは背伸びをする。
 一々リアクションの多い、感情豊かな幼なじみ。――凄く大切な女の子。
「幸せそうだな、って思ったんだ。今」
「この街が?」
「うん。ナナミ、ジョウストンの丘での会議、覚えてる?」
「覚えてるよ。マチルダ騎士団の若い人、かっこよかったね。団長さんはアレだったのに」
「……ナナミ。もしかして、ナナミって……」
「なに?」 
 言葉の途中に、くるっと顔を上げてジョウイの顔を覗き込んでくる。
 なにか馬鹿にする言葉を言う気じゃないよね?と警戒する顔。
 ――感情を隠すことを知らない少女。
「いや、なんでもないよ。ナナミは本当、世界情勢とかは気にならないんだね」
「……馬鹿にしてるでしょ」
「してないよ。全然」
 ――これは本当。
「だって、ジョウイ。――世界情勢をどんなにわたしが憂いても、なにも変わらないんだよ? だったら、わたしは。わたしにできること、わたしが守れるもの、それを守っていきたいもん」
「そうだね」
 ――憂いているだけじゃ、なにも変わらない。
 ナナミ。君はいつだって、真実を言い当ててしまうよね。
「そろそろ昼ご飯の時間だよ!たまにはナナミちゃんお手製料理が食べたいだろうけど、宿のお台所借りるわけにもいかないから、我慢してね!」
「……や、宿の料理で充分さ…」
「なーにかいった?」
「いってません」
「よろしい!」
 柔らかな、髪をゆらし、ナナミが振り向く。
 そして彼女は笑った。
 世界で多分一番。どんな場所でも、どんな時代でも。求めるべき幸せのカタチをしっている。――だからナナミの笑顔は本当に優しい。
「ナナミ…」
「んー」
「もう一回、笑ってよ、ナナミ」
「え、え?ど、どうしたの?ジョウイ」
「別に、深い意味はないけどさ」
 ――君を裏切りゆく僕だから。
 ――その笑顔を、きっと二度と見れない僕だから。
「笑ってよ、ナナミ」
 変なジョウイっ!と、大袈裟に言って。笑い転げたナナミの顔に、一瞬、怯えが走ったのは。――多分、見間違いじゃないけれど。
 ――ごめん、本当にごめね。ナナミ。
 僕は裏切り者になるって決めたんだ。


 裏切りの果てにあるものは何だろうか?
 優しい世界を作りたい。――けれどそれは、滅びを招くものでもあるだろう。
 ならば。
 滅びというものは一体なにを意味して、滅びというのか?
 裏切りを決意して。――一番凄いと思った人を殺しに行く自分がいる。
 その、歩く時間の中。
 まるで今からなす行為を忘れようとするように、そんな事をぼんやりと考える自分がいた。
 生物が迎える死の定義なら簡単なのだ。
 呼吸が止まり、心臓がとまり、脳が死ぬ。身体中を構成する細胞も死ぬ。
 死んでしまったと、泣きじゃくる人々の前で。身体を構成している”一部分”は生きているけれども。――それを生きていると認識するものはいない。
 ならば。もっと大きなもの、そう、村や、町や、都市や、国。
 生物にとっての死と同じ定義を持つのは、滅びという定義ではないだろうか?
 ――でも。
 滅びとは。
 一体どういう状態をもって。完全な滅びといえるんだろう?
 そういえば。国が滅びるのは悲しいことだと、昔、ゲンカクが言っていた。
 ジョウストン都市同盟とハイランド王国。ハルモニア、赤月帝国、グラスランド。名だたる国々の名前を挙げ、位置関係を地図で示しながら。
 その時に、ナナミたち二人は丁度外に出かけていて、自分しかいなかった。
 だから振り向いて、聞いたのだ。
「国が滅びるっていうのは、どういう状態のことをいうの? 王様が、いなくなったとき」
「それは形としての国がなくなってしまった、滅びの形の一つだろうて」
「滅びにはいろいろな形があるもの?」
「ああ。勿論な」
「じゃあ、悲しい滅びっていうのはなに?」
「国が長い長い時間をかけて、育んできた歴史を、習慣を、尊厳を、優しさを、民族の誇りを、すべて奪われた状態のことだろうな」
「奪われる?」
「そう。完全に国が負けてしまえば。――奪われることになる。たとえば」
 かたん、とゲンカクは立ち上がり。戸棚にあった紅茶の箱を取り出す。
「紅茶のいれかた一つ。国が滅びれば、変わってしまう。食べ物の味付けも変わる。気持ちもかわる。――ハイランドが滅べば。ハイランドが育んできた”心”が、すべて消えてしまう。その時こそ、国が完全に滅びたというのだろうな」
「……国が、滅びる」
 口に出して、呟いた。
 その時は分からなかった意味が、今はこんなにも重い。
 ジョウストンの丘上会議。
 あの醜悪な光景を忘れることが出来ない。
 彼等には、民族の誇りなどというものは持っていなかった。
 王制国家と、共和制国家の違いだと誰かがいったけれど、そんなのは嘘だ。
 どういう体制を取っていたとしても。本来、人は己が住む国を、場所を、守りたいものではないのか?
 自分の都市が傷つきたくないから。他人の都市が傷つくのはどうでもいい。
 保身だけが渦巻いていて。
 守りたいと、真剣に思う人間など誰一人としていない。
 何年も、何年も、繰り返し戦いが続いているだけなのはどうして?
  ――誰もが戦争ごっこを楽しんできたから。
 戦争、和平、戦争、和平。その繰り返しが続くだけなのか?
  ――多分今のままなら、そうなるから。
 覇者が生まれなければ。
 きっと世界はなにも変わらない。
 疑問に揺れる心を見透かすように。出会ってしまった。
 ルカ・ブライトに。
 それは凄まじいまでの個性だった。
 なによりも驚愕したのは、あれほど残虐非道なことをなしていながら、アガレス・ブライトに直接忠誠を誓うキバの軍団以外の者達――特に一般兵士たちが、ルカに心酔していることだった。
 都市同盟の残虐なやり方によって、全滅させられたユニコーン部隊の仇を取る為に、そんな大義名分が一般兵達の心を熱くするのは分かる。皮肉かもしれないが、自分自身が、己が国のものに全滅させられる部隊に属していなければ、多分熱狂的に歓迎したろうから。
 そう。喜んだはずなのだ。
 国が民の為に怒ってくれている。皇太子がみずから戦場に出る。仇をうとうとしてくれている。――それはなんと、嬉しい事実の羅列だろうか。
 ハイランド王国は長い長い歴史、王制を行ってきている。その治世は、希に見る善政の歴史といってもよく、民は己が国を自慢し、そして存続を願った。――独特の歴史をも、築いてきた。
「僕は…優しい世界を作りたい。ハイランドがハイランドとして存在していて、その中に、君達がいるんだ。僕は……ハイランドが滅びて、この都市同盟に吸収されるところなんて、見たくない」
 自分がこんなにも。
 生まれ育った国を愛していたことなど。
 ずっと、知らなかったというのに。
 あの丘で。己の保身しか考えない指導者の姿に。危機を前にしてもなお、まとまろうとしない愚かさに。
 ――力が欲しいと思った。
 ルカ・ブライトに出会って、知ったのだ。
 望む全てを破壊し尽くす力というものは、如実に存在するのだと。
 望む全てを破壊し尽くす力があるというのなら。
 ――この力があれば全てを護ることも出来るのだと。
 僕は、この時に思ったのだ。


 ナイフを握り締める。
 その、まがまがしいはずの凶器の色は、なぜか清冽な銀色をしていて。
 殺すために忍び寄った相手の眼差しのように。
 澄み渡って、美しかった。
 ――僕はもう、戻らない。
 この人を手にかける。
 護るべきに戦うのだと、力によって得られるものはないと断言するこの女性を。
 唯一、尊敬しうるはずの人を。
 ――僕は殺してしまったのだから。


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