解放してあげる。
そう、思った。
最初に出会ったのは、キャロの街。
両手を縛られ、連行されて。無様で、情けなくて、哀憐の心を誘うような姿で。彼は歩いていた。
なのに眼差しだけが、燃えるように前を見詰めていた。
死に逝くというのに、その激しい眼差しはなんだろう。
「僕たちはこの国を裏切ってはいない。この国が僕たちを裏切ったんだ」
彼は、言った。私に、真っ直ぐに。
誰もがかしずく私に。
誰もが恐れて、感情をぶつけてくることなどない私に。
恐ろしかった。同時に、焦がれてしまった。
「どうせ、あと少しの命です」
声が、上ずっていたかもしれない。
どうしようもなく、その眼差しに、声に、惹かれた。
恐い。
恐かった。
死に逝く人に恋をしてどうなるの?
恋をしている暇なんてないのに。とめなくちゃいけない。最愛の兄が、これ以上壊れていくのを見ていたくない。
お兄様。
どうして、取り込まれてしまったの?
戦いの中に。どうして、安らぎを覚えてしまったの?
そう。だから。私は兄を救わなくちゃいけない。
だから。恋を、している暇なんてないの。
二度とあうことなんて、ないと思っていた。
一瞬の、恋。
再会してしまったのは、運命なの?
かわらない眼差しは、初めて見つめた時と少し違う。
なにを見てきたんだろう、この人は。
憎悪が消えて、かわりに悲しみが秘めている。
にている。昔、まだ優しかったころの兄に。世界のどこかが間違っているんだと、拳を握り締めていた頃の、兄。
まだ。殺戮と血に酔っていなかった頃。私の愛したお兄様。
誰も知らないでしょう。
お兄さまが優しかったこと。傷つきやすかったこと。
そんな頃のお兄様に、この人は良く似ていた。
「ごめんなさい」
なにを謝るの?
私の、前に、もう一度現れた人。
一瞬の恋が、心に戻りそうで恐い。
前を見詰める力のある人。力を恐れずに求めることが出来る人。私には出来なかった事を成そうとする人。
「女の身では、これが、限界だったのでしょう」
なにを弱いことをいっているの、私?
そうね。私に、兄をとめることは出来なかった。
力を手にして、力に飲まれていった兄が恐くて。私は、力を使って兄をとめることが出来なかった。
この人は、それをやろうとしている。
予感。なにかが変わろうとして、失う予感。
哀しい、予感がする。
「私を、少しは、愛してくれている?」
誰もいない部屋で。呟いてみる。
花嫁衣装で。公的にだけ、他の誰よりも、愛しいあの人を手にいれた形だけの妻。
ここは、形だけの部屋だ。
夫はこない。少なくとも、私を妻だと認識している人はこない。来るのは、優しくて、壊れそうで、大切なものを手放したくないのに、手放して心で泣いている哀しい盟友。
そうね、きっと、この言葉が一番似合う。
兄をとめたかった私。世界を変えたかった貴方。
わたしたち、とても利害が一致していたわね。だから、そう。貴方はきっと、私を盟友だと思っている。妻じゃない。
だからここは一人ぼっちの部屋。
待っている。待っているの、知っている?
貴方が、少しでいい。私を見て、私を考えて、私の側にやってきてくれる瞬間を夢似る、馬鹿な女の部屋。
知っているのに。道具である自分を。
なのに。私が嬉しかったことを、貴方は知らないのね。恋をしてはいけない恋。成就しているように見せかけて、絶対に成就しない結婚を、喜んでしまう私の心。
恋をした。
心に、だれも入れない神聖な場所を抱く貴方に。
後悔はもうしない。もう恐れない。
お兄様が死んだ時に、そう思った。
怨みたかった。貴方を、怨めたら楽だった。
お父様を、お兄様を。貴方は殺した。
なのに怨めない自分が恐いの。
どうして、ねえ、どうしてなの?
なんで私は、、、
「ねえ、泣いてくれる? 物言わぬ骸になったら、私のことを思ってくれる? 覚えていてくれる?」
こうして、一人芝居をする。
貴方と会話する夢を見ている。ずっと。
幻の饗宴は、結局、幕を閉じるのだ。
「逃げてくれ」
どうしてなの。どうして、一緒に死んでとさえ言ってくれないの?
「教えて。私が死んだら、泣いてくれる?」
答えても、くれないのね。
いっそここで、死んでしまおうか。
泣いてくれなかったとしても。
一生、死ぬ瞬間まで、私を利用したという事実と、私を死なせたという事実を忘れないでいてくれるでしょう?
愛されないのなら、世界で一番覚えていて欲しい。
憎しみでも、後悔でも、なんでも良いから。
なのに。
「愛していたわ、貴方を」
私は、去っていく道を選んでいる。
愛している。愛している、どうしようもなく。
だから、貴方を哀しめたくない。これ以上、苦しんでいるところを、見たくない。
ねえ、覚えていてください。
貴方をこんなにも愛した人間がいたこと。
死ぬのか、それとも、貴方の愛する人達の元に帰るのか。それは分からないけど。
なにもかもから、解放してあげる。
私の愛する人。
ジョウイ。
ねえ、私が。ジョウイ・ブライトを連れていってあげるわ。
ジョウイ・アトレイドに戻ってもいいのよ。
その変わり。
ジョウイ・ブライトの幻を私に下さい。
一生わたしが思って、生きていい幻を、下さい。
それだけでいいから。心をくれとは言わないから。
旅先で。
ふと、あの人を見つけた。
膝にとりすがって遊んでいるピリカは気付いていない。
私は、顔を上げる。
幸せそうなあの人。
笑って、怒って。なんてこと、泣いているわ。
私には、あげれなかったね。あなたのそんな、優しい顔。
隣にいる女の子は誰? 太陽のような人ね。彼女の心が、全てを包んでいるのが分かるわ。隣の少年は、あの時貴方と一緒にいた人ね。
そう。取り戻したのね。
「……泣いているの、お姉ちゃん?」
ピリカが、言った。
え?と、思う。
私が、泣いている?
「……お兄ちゃんは、お姉ちゃんを、家族みたいだって、言ってたよ」
突然のピリカの言葉。
優しい、言葉。
「そう……あの人は、私を……道具じゃない、人間として、認めて…いて、くれたのね」
嬉しくて、哀しい。
あの人は死んだ。ジョウイ・ブライトは、私の心の中。
好きよ。愛している。
言葉は空虚だけど、いつまでも思っている。
さようなら。
私の知らない、ジョウイ・アトレイド。
いつまでも一緒に生きてね。ジョウイ・ブライト……。