――ルカさまが死ぬはずがない。
咄嗟に思った瞬間、シードは目を見開いていた。
(なに馬鹿なこと思ってんだよ。俺は。なにが死ぬはずがない、だ)
すぐに己の思考に気付いてしまって、思わず自分自身を唾棄する。
自分は知っていたのだ。ルカに仕組まれた死のことを。
(俺達は……本当に……)
信じていた。この忠誠が変わることなどないと。にも関わらず、今、ハイランド王国を支えるブライト王家に捧げていた忠誠の形は確かに変わっていっている。
(ルカさまは敵の手にかかってなくなった。それは事実だ。だが、本当は)
『……もう、限界なんだ』
つい先日、訴えるように告げられた言葉が脳裏に蘇る。
――裏切りを。
決意させたのは湿った言葉。
少年らしいどこか透明な容姿に、隠せない憔悴の色をこく宿して主君と定めたジョウイが呟いたのだ。――獣の紋章の力を、これ以上ルカ存命の状態で防ぐことは出来ないと。
『ルカさまを完全に排除する、ということですか?』
冷静なままのクルガンの声が、どこか震えているような気がしたのは単なる錯覚だったのか。
――いや。
錯覚などではなかっただろう。
ハイランドを誰よりも愛している自信があった。この国を守りつづけるブライト王家を心から敬愛してきた。ごくごく当たり前のように、ハイランドがあって、ブライト王家があって、そして流れる時が好きだった。
にも関わらず。
その時間を、自分達が壊してしまう。
(皮肉だよな)
なによりも守りたかったものの為に、それを裏切る道を選び取る。
「……それが、ハイランドと民を救う事になるのなら」
決意の声は震えたかもしれなかったが。
それでも、覚悟は出来ていたと思っていたのだ。
「ルカ・ブライトさまの部隊は夜襲に失敗。……残念ながら、戦死が確認された」
シードを驚愕に陥れた事実を語るジョウイの声は、場違いなまでに穏やかだった。
淡々とした静けさのまま、彼の声はルカがどのように戦没したのかを説明している。
(平気なわけがないだろうに)
唐突に思った。
ルカは確かに、獣の紋章によってハイランド王国の人々を滅びへと誘う、排除せねばならない存在だったかもしれない。けれどどんな理由があるとはいえ、ルカは……ジルの兄だった。親友と、大切な少女を裏切り、血まみれになりながら茨の道を歩みつづけ、心の安らぎを失ってしまったジョウイに、唯一安らぎと温もりを与えてくれた少女の、兄だったのだ。
――ただ利用しているだけだ、という態度をとってみせているけれど。
ジョウイがジルを唯一の家族のように大切に思っていることなど、一目瞭然だったから。
(辛い、のだろうな。ジョウイさまは……今……)
そんな事を思いながら、説明される状況を理解するに付け、ふと……息苦しさに気付いた。
(なんだ?)
胸が圧迫されている感覚。肺が悲鳴をあげて、なにかを欲している気がする。
(な…んだよ、これ? なんでこんなになるんだ? なんだ、なにをしてない、俺は?)
分からない。
ただ頭の中で、想像以上に汚い手段によって、ルカが殺された事実が再現する光景に支配されて行く。
いわばなぶり殺しにされ。
その後、しばらく遺体が放置されたこと。
元マチルダ騎士団の男と、旧解放軍の副リーダーであった男とが、唯一ルカに敬意を払ったらしい。身にまとう外套をかけ、扱いを改めて欲しいと訴えたと。
――ルカを裏切り、彼にそういう末路を歩ませた自分たちだったというのに。
怒りを覚えてしまっていた。――ルカを殺した相手に対して。
(な、んで、そこまで卑怯な手を使いやがったんだ!!)
苦しい。
なにが?
自分はなにをもって苦しいと言っている? ルカを謀殺させたことか? ルカが死んだことか? それとも………。
「シード!!」
唐突に名前を呼ばれた。
普段はあまり感情を見せない男の、珍しく如実に焦りを含んだ声。
――クルガン?
認識した瞬間、虚ろな夢の中にあった意識が突如覚醒して、思わず目を見開く。
(本当に苦しい!?)
当然だった。なんと今、自分は無意識に息を止めてしまっている。これでは苦しいのは当然だ。ならば息を吸えばいい。にも関わらず………分からない。呼吸の方法が。
(んだよ、これ!!! こんなふざけたことってあるかよ! 畜生、真面目に分からねぇぞ!!!)
焦ってしまう。このまま窒息死などしたら、悲劇どころか笑えない喜劇だ。
なのに思い出せない。当たり前に出来るはずの呼吸の方法。
それは決して特別なことではないはずなのに、出来なくなっている。
「シード!!この馬鹿が!!」
完全な罵声が飛んできた。同時に驚愕するほど強く、背を叩かれる。…かなり痛い。
「――――っ!? ふ、ふざけてんじゃ……っっ!!!?」
理由もなく強く叩かれて、怒らない人間がいるわけない。
ゆえにシードは抗議しようとして、叫ぼうとした。
それがきっかけとなって、当たり前のはずの呼吸の仕方を思い出し――激しくむせる。
「……く、ん…………だよ、こん……な、むか…………つく!!」
気道が悲鳴を上げる。苦しくて、涙まで出てきた。両手でシードは自分自身の首元を押さえ、咳き込みつづけながら、それでもとりあえず、途切れ途切れで文句を叫ぶ。
「……まったく、元気な男だな。文句を言うか、咳き込むか、どちらかにしろ」
突き放すような声が聞こえて、シードは懸命に相手を睨みさらに罵声を投げつけようとした。
が、丸めた背をさすってくれているクルガンの手が優しいことに気付いて、やめる。
「…………る、せえ……な。俺は、……せっかち…………なんだよ」
「そんな事は、言われずとも理解している」
さらりとシードの声を受け流しながら、彼の呼吸が正常なものに戻りつつあるのを確認すると、突然のことに驚いている周囲に一礼をし、クルガンは彼を引っ張ったまま外に出ていった。
ジョウイが珍しく年相応の驚いた顔をしていたが、仕方がない。今のシードを軍議の場に置いたままにしていても、よい結果は生まれないだろう。おそらく、わかっていた出来事であったはずだというのに、ルカの死に驚愕しすぎたのだ。
呼吸の方法を、忘れてしまうほどに。
引きずられながら外に出たシードは、すぐに調子を取り戻したらしく、外に出た途端にクルガンの手を払った。そして不敵な笑みを作ってみせる。
「……クルガン」
「なんだ」
「珍しくねぇ? お前が軍議を途中で抜けるなんてさ」
「誰のせいだと思っているのだ」
「……まあ、俺のせい、だろうなぁ」
「わかっているのなら一々聞くな」
「だってよ……」
珍しくいい淀んで、シードは目を伏せた。妙に長い睫毛が影を落して、それが月明かりの下、やけに陰鬱な雰囲気を生み出してしまう。
クルガンは僅かに眉をひそめて、シードから視線を外し、空を見上げた。
細い月が彼らの上で佇んでいる。
闇を照らす光の少ない、三日月。――沈黙が流れる。
「……驚愕してしまうのは、当然だろうさ……」
低く、クルガンが言った。シードは顔を上げ、心なし首をかしげる。
「当然か……」
「頭では分かっていてもな。私たちは、ハイランドに忠誠を捧げるように教育を受けて生きてきたようなものだ。家で、軍で、生活の中。それこそ息をするように自然に、この国を守りたいと思って生きていた」
「……そうだな。ああ……そうなんだよ……」
「ハイランドという国と、ハイランドの民と、そして」
「……ブライト王家に対する、忠誠と……」
最後にシードが呟くと、背後にあった大木に背中を預けたと思うと、ずるずるとそのまましゃがみ込む。
「なんかさ、覚悟はしてたんだよ。俺らは、全てを知っていて、そしてルカさまを裏切ったんだからな。でも、な、実際に聞いちまうと……」
鎧を外した状態の両手を組んで、歯切れの悪い口調のシードの声を聞きながら、クルガンは腕を組む。
「当然だろう」
「……んだよ、いきなり? なにが当然なんだよ?」
「悔やむのも。哀しいのも。……信じられないと、一瞬思うのもな」
「俺は……別に、責任転嫁してるワケじゃねぇぞ? 仕方なかっただの、必要があっただの、最終的に手を下したのは俺らじゃない、だの思ってるわけじゃねーぞ?」
「シード」
「なんだよ」
「お前はわたしを馬鹿にしているのか? 余人はともかくとして、わたしはお前を誤認することなどない。その程度のこと、最初からわかっている」
短く言うと、クルガンは座り込んだ青年のすぐ隣にたった。ただでさえ少ない光を長身の相棒に遮られて、影がシードの上に落ちる。
まるで。なにかの未来を暗示するような、影が。
「――そうだよな。……分かってんだよな、俺達は。ハイランドを守りたいという、己の欲望をかなえる為だけに。ルカさまを裏切って、陥れて、死なせたんだってさ…」
わかっているけれど、それが現実に起きてしまえば苦しくなる。
せめてルカに相応しい死を迎えることが出来るようにと、利己的な願いがかなわなかったことが、さらに胸に痛い。
(殺されたんだ。なぶり殺しにされて。王者に相応しい死を奪われて。ルカさまは…)
最後になにを思ったのだろうか?
蛍を見ていたと聞いた。
その光の中に。彼は、幼い頃の優しかった気持ちと、父親が違うことで排除されかかった妹を、必ず守ってみせると必死になっていた頃の願いを、思い出したりしたのだろうか。
「ジルさまは……守ろうな、俺達で」
「………ああ」
王都ルルノイエにて。
おそらく自分達以上の罪の意識と哀しみの嵐に取り込まれながらも、それでも気高く微笑むのだろう皇女の姿を思い出して、言う。
別に罪滅ぼし、のつもりではない。
矛盾だと分かっている。
分かっているが、本当にハイランドが大切だったのだ。ブライト王家も大切だったのだ。だからジルを失いたくはない。
「……なあ、クルガン。俺達の目指す先は、なにがあるんだろうな?」
「さあな」
「自分で、勝ち取っていかなくちゃならねーのは分かってるよ。でもな、考えちまうんだ。俺達が選び取っている選択は本当に正しいのか?ってな」
「全ては、結末を迎えた時にしか分からんさ」
「お前は本当、正しいっつーか、当たり前のことしか言わねぇなあ。それだけだと、つまんねーぞ、クルガンっ!」
「真実はつまらないものだ。シード」
「ちえっ!」
顔を上げる。
すわっている自分と、立っているクルガンと。そして空に浮かんだ三日月と。
当たり前の光景。当たり前の現実。そう……生きていればこそ、当たり前にみることの出来る、この景色。
「……なあ、今は偽善者になってもいいもんかな」
「………」
クルガンは無言だった。
だが返事を期待したわけではなかったから、シードは立てた膝の上に顎を置く。
(今、ルカさまの死を悼むのは……偽善以外の何者でもねーのは分かってるさ)
それでも、哀しいと思った。
誰もよりも強く、誰よりも激しく、だれよりも早く去っていった男。
ルカ・ブライトの死が。
「俺は、ちゃんと理解してるからな。ルカさまは、俺達が裏切って、死においやった。俺達こそが、ルカさまを死なせた張本人だ。だからこそ」
彼を犠牲にしてまで。
守りたいと願ったハイランド。
だからこそ絶対に守り抜かなくてはならない。なにを失ったとしても。血に汚れて穢れた自分を認識して、進んで行く。
「こんな決意、ジョウイさまには本当に出来てんのかな」
「……ジョウイさまには、子供がもつ、我が侭なまでに優しい心を失っていないからな。決意は出来ていても、完全に持っている事は出来ないかもしれんな」
「俺らが……出来るだけ、支えてやらねーと、いけねぇよなぁ」
知っている。
裏切っておいてきた少年と少女を見つめる時の、狂おしいほどに切なくて愛しげなジョウイの眼差しを。
いつか、手段として裏切りを行った自分達だから。
まるで因果応報のように、ハイランドを守りたい自分達に、巨大な裏切りが待っているかもしれない。しれないけれど。
「俺は……ジョウイさまを信じるよ。そして……ハイランドを守る。絶対だ」
祈りというよりも、悲愴な誓いに似たシードの言葉に。
クルガンは目を伏せた。
未来はまだ見えず、先に待っている物の正体も分からない。
それでも必死に進むしかないのだ。後戻りなどできはしないのだから。
「シード」
「………ん?」
「どんな裏切りがあったとしても。我々が、おたがいを裏切ることだけはないさ」
「……そうだな……」
そして二人は無言になる。
空にて静かに輝く星は。
ルカが最後にみたという蛍に、少し、似ていただろうか?
「では、クルガン。頼むよ」
新たなる時代を動かすべく、ジョウイはハイランドの王となり、そして行動を起こす。
その鍵を握る親書を手に、クルガンはハイランドを後にした。
和平を餌に、反都市同盟軍にゆさぶりをかける為に……。