故意におかす罪を腕に

 全ては夜の闇のなかに溶け込んでいるようだった。
「本当にこのままで良いのですか?」
 眠りを誘うその闇の中。ふと、男が声を漏らす。どこか確認するような含みのある優しい声音。――それに、こっくりと頷く気配があった。
「意志は……固いということですね」
 諦めというよりは疲れを感じさせた返答に、肯いたばかりの少女は慌てて体を起こした。どうやら今まで、寝台に横になっていたらしい。
「ごめんなさい。ホウアン先生、私、我が侭言っちゃって」
 思いつめる心をあらわすように、眉根をよせて言葉を募らせる。名を呼ばれホウアンは振り向き静かに笑った。
「我が侭は子供の特権ですから、それを気にする必要はないですよよ」
「……先生……」
「なんですか?」
「……あの子、どうしてますか? 元気に……少しは元気に、なってますか?」
 一度目を硬く閉じて。そして開く。それを三度ばかり繰り返したのち、少女は言った。
 向ける眼差しには、切なさを形にかえたような苦しさが秘められているようで。ホウアンは言葉に詰まって目を細める。――そうすることで、聞かないほうがいいと諭したつもりだった。
 けれど哀しい色を今だ瞳にたたえたまま、ひたりと彼女の眼差しは答えを求めている。
「………彼は……」
 否定しきれない彼女の意思に負けて口を開いたが、すぐに言葉に詰まってしまった。
 年齢を重ねてきたとはいえ、言い難いことは――やはり言いにくいものだから。
 ――悲劇があった。
 今後。正式にロックアックス攻防戦と呼ばれるであろう戦いの中で。
 不利な状況下での戦いを余儀なくされつづける同盟軍側は、犠牲を覚悟で起死回生の作戦に打って出た。ハイランド軍の主力部隊を分断させるべく、最初から玉砕を前提にされた部隊を出陣させたのだ。
 結果。ロックアックス城への侵入をからくも成功させ、引き換えに若き軍師クラウスの父であるキバは死んだ。
 そしてもう一つ。
 歴史に記されることはない悲劇が確かにあったのだ。
 少女が傷を追い死へと誘われた。傷を負った彼女を救うためだけに、国を裏切った至高の存在である少年がいた。
 ――死に抱かれた少女の名前はナナミ。国を裏切った至高の存在である少年の名前はジョウイ。
 悲劇の目撃者は。年若い同盟軍の指導者である少年だった。
「……ナナミ」
 説得する為に。ホウアンは、死んでしまったはずの少女の名を呼ぶ。それでもナナミは、意思を曲げずに首を振った。
「……私、聞きたいんです。辛くってもいい。聞きたいんです」
 溢れようとする涙を必死に耐えて、それだけを懸命にナナミが言う。ホウアンは溜息をつき、立っていた窓枠の前から離れて上半身を起こす少女の隣に腰掛けた。
「彼は……今はまだ、呆然としているようですよ。……いや、泣けないと、いったほうが。正しいのかもしれないですね」
「……泣けない……」
(あの、感情を常に表に出していた子が?泣けないでいる?)
 心の中でナナミは呟いて、そして呟いた言葉を認識する。ざっくりと、裂けたように痛むのは心。
 ――大切な家族。
 なにが家族だと、嘲笑う人間はいた。彼女が命がけで大切にする家族という空間を作る三人は、血のつながりを一切保持しない他人同士によって作られたものであったから。
 それでも。確かな絆がそこにはあって。
 ナナミは幸せだった。心が触れ合う優しい気持ちに包まれていた。
 そして、壊れ物のような優しい家族の中に、血のつながりを持つ家族を与えられておりながら、優しさを与えられず掴めず、心が迷子になっていたジョウイも入ってきて。
 共に成長を重ねる時間の暖かさを。どれほど愛しく思っていたか。
「……弟は…感情を、すぐに、表にだしちゃうんですよね。良く笑うし、良く怒るし。子供みたいで。それなのに……いっつも素直だったのに。あの子が、泣けないでいるだなんて」
 小さい頃の弟。いっしょに走っていた頃の弟。迷子になってしまった弟。ジョウイと共に少年兵として旅立っていった後姿を見送った日。再会した日。逃げようと言った日。
 一つ一つの過去を噛み締めるように呟きながら、ナナミは呟く。
 前方を見つめているようで、その実在りし日の光景だけを見つめる透明な双眸から、ついに溢れた涙を拭おうともせずに。
 ナナミの死を聞いて。泣けずに、ただ死者よりもなお青い顔で立ち尽くした年若い少年の様子を知っているホウアンは、彼女の言葉を否定することは出来ずに、頷くだけだった。
 泣かないことは。哀しんでいない事を示すのではない。
 人間は哀しすぎると。失った喪失感と衝撃のあまりに、事実を認識できなくなるのだ。そう……ゲンカクが死んだ日。二人、立ち尽くすだけで泣けなかった過去のように。変わりに泣いていたのは、自分達を抱きしめていたジョウイだったような覚えがある。
(…人の、死と、いうものは結局…)
 どんなに想像を重ねていたとしても。
 死を目撃し経験しなければ、その重みも、辛さも、認識することは不可能なのだ。
(だって…分かってる、って思ってたもん。本当は)
 じいちゃんと呼ぶにふさわしい年齢であった大好きだったゲンカク。
 彼が自分たちを置いて早くに世を去ってしまうだろうことは、分かりきった現実だったのだ。だから、訪れるだろう事態を何度も想像して。自分は大丈夫だと、死んでしまった後も側にいてくれるのだと、分かっていられるから大丈夫だと……本当に失うその日まで。
 ――ナナミも、思っていたのだから。
 けれど現実は違った。
 本当に付きつけられた死という現実は余りに冷たくて衝撃的で。
 消化しきれない大きな悲しみに、事実に、打ちのめされた自分がいたのだ。
(…だから。戦いの中で指導者になっても。死が……身近な人にも起こりうるとわかっていながら……その実、なにも分かっていないんだよね……みんな…)
 ちくりと、胸が痛んだ。
 これは罪だ。――分かっていておかす罪だ。
 隣に座ったホウアンはただ静かな眼差しを向けてくるだけで。
 責める色は一切ない。
(ホウアン先生は…もしかして、わかってるのかな)
 ――死んでいることにしてくれ、と。
 いった本当の理由がある。
 確かに、自分を庇った弟をみて。戦場に自分がいたままでいるのはダメだと、思ったのは事実だ。それはウソではない。
 でも。それだけなら。わざわざ”死んだ”ことにして、多くの人々を悲しませなければ成らない理由はどこにもないのだ。怪我を理由にでもして――戦線離脱をしてしまえばいい。
(なのに。わざと……私は、みんなを悲しませるようなことをしてるんだよね)
 考えると胸がまたもや痛んで。
 ナナミは、矢にうたれた箇所を痛むふりをして、心の痛みに胸を押さえた。ホウアンに心を見ぬかれることを恐れて。
 ――耐えれなかった。
 戦いにどんどん引きこまれて。遠いところにいってしまう弟。
 綺麗過ぎる未来を夢見て。闇が足元で牙をむき始める現実に気付いてもいないジョウイ。


 全てが闇に飲みこまれ、命が食われゆく行く永劫の闇の中。
「ナナミ!?」
 目を見開いたジョウイがいた。
 叫んだ弟がいた。
 その二人を、消える意識を手繰り寄せ、必死に見つめて。
 ナナミは初めて気付いたのだ。
 彼等が、本当の意味での死の恐ろしさを知らないでいるのだと。
 綺麗な夢を、二人は見ている。
 戦いで、人を傷つける力を使って、全ての人が幸せになる夢。
 その世界に、彼等が大切にしている人間が全員いて。笑っている、そんな未来を――彼等は夢見ていて、これっぽっちも、身近な人が死ぬ可能性があるなどと思っていないのだと。
(……男の子は、本当に、夢見がちなんだね)
 そう思った。
 戦いという力が、幸せに導くことが出来るのは個人ではないと、ナナミは思っている。
 多分、大きな力が守れるものは。同じ大きな規模のもの。
 村であったり、街であったり、国であったり。
 個人という小さな形はきえた、大きな存在を幸せにするためにあるものなのだろう。
 なのに二人は。その力で、個人も幸せに出来ると思っている。
(違うのに……違うのに…個人は、幸せに出来ないのに)
 幸せでいたかった。
 自分と。弟と。ジョウイと。
 そんな小さな世界で。生きていたかった。それだけが望みだった。
(分からなかったんだよね。……こうして、近くにいる人がしぬかもしれないっていう、現実が……)
 そして、彼女の意識は闇に飲まれ。
 どこまでも続く弟の絶叫だけが、いつまでも耳に残っていた。
 

― ― ― ― ― ― ― ― ―
 ね、ね。私ね、知っていてほしかったんだよ。
 二人共、失うことの恐さを、本当は全然わかっていなかったから。
 私、という人間が死ぬことでね。
 死が運んでくる絶望の重さと、空虚すぎる日常とを分かって欲しかったの。
 大切な人が。絶対に無事だなんて保証はないよね。死んじゃうことも、あるよね。
 それに、私、気付いて欲しかった。
 ごめんね。きっと、泣いてるよね。心を傷つけてごめんね。
 でもお姉ちゃん。こうするしかないって、思ったの。
 本当に大切な何かを守る為に。戦わなければならない現実を。
― ― ― ― ― ― ― ― ―


 ナナミは胸を押さえたまま、黙り込んで、俯いている。
 そんな彼女をホウアンは静かにみやって、溜息を一つ落とした。
 訪れた悲劇によって。
 人々がどれほど動揺し、悲しみに打ちのめされているのかを、彼はその目で見て知っていたから。
 黙り込んでいるもの。泣いているもの。嘘だと叫んでいるもの。己の不甲斐なさを嘆くもの。多種多様であったが、誰もが悔やんでいる。作戦の為にキバをしなせ、罪のない少女を死なせてしまった現実に打ちのめされている。
 せめて、ナナミが助かっていれば。
 悲しみの中にも希望が残って、人々は笑ったろうに。
 何故、ナナミは。戦線離脱するだけではなくて、死んだことにしてくれと、言ったのか。人々の悲しみを、僅かに取り除こうとしないのか。――その理由がどうしてもわからなかったのだ。
「私は……罪人になってもいいんです」
 唐突に、ナナミが囁くように言った。
 慌てて少女の表情に視線を戻す。
 ロックアックス城に攻め込む前にはけっしてみせなかった、深い悲しみを瞳に忍ばせ、悟ってしまったような落ちつきを備えて。
 彼女は前をみて。そして、確かにいったのだ。
 ――罪人になってもいいと。
「……まさか…ナナミ…」
 誰かを失って初めて。
 その人の大切さに気付くものは余りに多いだろう。
 死を知って初めて。
 その重みに打ちのめされる人間も余りに多いだろう。
 隣で、咎をうける覚悟を抱いた清廉な眼差しを見せるをナナミに気付いて。あることに思い当たって、ホウアンは眉をひそめた。
(……ナナミは……。己が死んで見せる現実を付きつけて。生き残った弟に、誰かを守る為に懸命になれと……伝える、つもりなのか?死を隠すことによって、悲しむ人々の心を知りながら。あえて…それを?)
 疑問をナナミにぶつけるわけにはいかず。
 ホウアンは前を見つめる彼女を見やりながら、もう一つ、思った。
(ナナミの真意が…そこに、あるのだとしたら……)
 保持する紋章と。ゲンカクという名将の名前とに。引きずられて指導者の地位についた少年は。大人の身勝手に巻き込まれた可哀相な子供ではなくて。命がけで愛してくれる相手を持った――世界で一番幸せな人間であるのかもしれない。
(彼は、残された大切な者…ジョウイを取り戻す為に懸命に成るだろう。そして、取り戻すことが出来れば。失ったはずの姉をも、彼は…)
 描かれる未来が見えるようだった。
 ナナミの死によって。
 大切な人間が誰であったのか。守るべきものが何処にあったのか。
 大切なものが…簡単に壊れてしまう儚い現実を思い知った彼は。
 恐らく、必死になって、立ちあがるだろう。人を引き付けた、その稀有な意思で、今度は取り戻す為に戦いを始めるだろう。
「彼は……ジョウイを取り戻そうと、躍起になるでしょうね」
 生きていることを、誰にも知られないように。
 姿を消すナナミに手をかしてやりながら。ホウアンがぽつりと、呟いた。
 ナナミは驚いたように顔を上げて。
 困ったように、けれども嬉しそうに。
 一つ。頷いた。
 だからホウアンは、ナナミが故意に死人であろうとする本当の理由がなんであったのかを。
 ――知った。