水の墓標

 窓を、開けた。
 視界いっぱいに飛び込んでくる影は、天を覆い尽くした雲の色だ。今にも泣き出しそうな、そんな色。
 ほう、と小さく吐いた息は白い。外気温がひどく下がっているのだ。冬でもないのに……そう、思う。
「季節さえもが、なんらかの予感に震えているようだ」
 そっと目を伏せて、呟いてみる。
 常に呟きの先に居たはずの人物が、今はいない。
「………分かって、いた…」
 覚悟はしていた。
 あの日、あの策を受け入れたあの人の広い背中を見た時から、この現実が訪れることは知っていたから。
 それでも。欠けてしまった空間が寂しい。
「……私は…」
 あの人はいつだって、周囲に敬意を払われていた。
 常に堂々と、強く前を見つめていた。
 世界で一番、尊敬する人。越えたかった人。優しかった人。一番、慈しんでくれた人。
「父上……!!」
 悲しみが音となって唇から出るのを、止める事ができない。
 将軍として、立派な最後を遂げたと誰もが言う。誰もが敬意を払っている。けれど、無条件にキバの死を悲しむ人間はあまりに少ない。誰もが別の悲しみに討ちしがれて、彼が死んでいった事実をかき消している。
 父よりも、もっともっと年若い少女が死んだ。
 常に両手を広げて、何かを懸命に抱きしめようとしていた日だまりのような少女。世界中の希望になることよりも、たった二人の希望になることを望んでいた、優しい娘。
「……父上……ナナミ……」
 失ったものはあまりに大きかった。
 手の中から滑り落ちていったものは、二度と、戻らない。
 幼かった頃。自分を抱き上げてくれた大きかった父の手も、憧憬の眼差しで見上げた戦場での彼の人の姿も。
 もうなにも、帰ってこないのだ。
「分かって……分かって、いたのに……!」
 失う覚悟はあっても、失う悲しみは結局同じだ。
 窓枠を握り締めて、そう思う。


 娘が。どす黒い雲を見上げて、溜息をついた。
「人の命とは、儚いものじゃのう。あのような若い娘が死に、子を残して父が覚悟の死をとげる。生き死には自然の摂理ゆえ、仕方ないと……部外者はいうのじゃろうが」
 そして、抑揚を押さえた声で言う。
 病的に色の白い…青白いといって良いような肌の娘だった。衣服も白と青とで構成されている為に、与える印象もひどく冷たい。その中で唯一生の躍動を表す真紅の瞳が、物憂げに揺れていた。
 本拠地の屋上。普段はフェザーが羽根を休めている場所が、今は彼女の為に静けさを演出している。
 と、気配が動く。誰かが屋上にやってきたのだ。
「結局、個人が強大な力を持っても意味がないのさ。組織が、きっちりとした力を保持しなけりゃ、なにも守れやしねえ。個人に力があって出来るのは、復讐だけだ。守ることじゃない。攻撃だけ」
「偉そうなことを妾にいうのう。クマ風情のくせにの」
 少女の姿でありながら、老獪さをただよわせる声で答えると、くるりと、彼女は振り向く。
 案の定振り向いた先に、ワインを片手に現れたビクトールを見つけて、少女…いや、気高きヴァンパイアであるシエラは、艶のある笑みを浮かべる。
「そなた、妾のところになぞ油を売りに来てどうするつもりじゃ? いつも一緒にいる男とでも飲んでいればよかろう? それとも相手にしてもらえぬのか?」
「……今はちょーーっと、なあ。目の前に悲劇に、かつての自分自身を重ねて、言葉を失っている奴の隣で騒げるほど、俺はデリカシーないつもりはねーしなあ」
「おぬしとて、似たような状態であるくせに、偉そうな口を叩でない。 明るく振るまう人間に限って強がる。短い命を生きる人間というのは不思議なものじゃ」
 唇の端を持ち上げるようにしてシエラが微笑みながら言うと、適わねえなあというようにビクトールは肩を竦めた。
「俺は……いいんだよ。強がってねえと生きていけないのは、誰でも同じだろうしな。ただ違うのは、それが強がりだと認めている認めてないか、さ。認めている人間のほうが、意外と強いのかもしれねえなあ」
「ま、それは言えるかもしれんの。強がっておらねば、死ぬことができぬ我が身を呪うだけになってしまうからの」
「お、珍しくヴァンパイアのシエラ殿にしては、素直じゃねーか?」
「そういう夜もある。妾とて、己の無力に手を握り締めておったのじゃ。里の者を一人も救えなかったというに、奪われた物を取り返す旅に何の意味があったのか、それを考え、取り戻せない過去に想いを馳せる」
「……意味、か」
 悲しみに、憎しみに。
 感情に意味があるのか…そんな想いが含まれたビクトールの呟きに、シエラは皮肉げな表情で天を見上げる。
「意味など、ないのじゃ」
「ない?」
「悲しみと憎しみに意味を望むのは、生き残ってしまった者たちが、今後も生きていく上で必要な理由を望むからじゃ。本当は…意味など、何一つとてない。悲しむことにも、憎しむことにも、な」
「きついな。だが…そうなのかもしれないなあ。理由でもねぇと、きっと立ち上がれねぇだろうからな」
 そんな感情を知っている。
 突然にやってきた悲劇と、突然の惨劇と。
 救ってやることもできずに、逃げたあの悔しさを。
「っと、なんだ、行っちまうのか」
 ワインを片手に過去に想いを馳せながらも、短い衣を翻したシエラの動きにすぐ気づいて、ビクトールは顔を上げた。 
 永遠に少女のままのシエラは、ひとつ、息をはく。
 ビクトールをほっておくのは、嫌いだからではない。星辰剣が認めたこの男を確かな強さを持っていると認めている。
 けれど口にも態度にもそんなことを、出すつもりはない。
 まあ、それに限っては。星辰剣も同じらしいが。
「おんしは既に立ち直っているであろうが。酒場ででも飲んでおれ。妾はクマの面倒をみておる暇はないのじゃ」
 見捨てるような言葉をシエラがはくと、ビクトールは肩をすくめて立ち上がった。
「へいへい。しょーがねえ。俺もひとつはっぱ掛けに、フリックのとこにでも行くかな。俺らが落ち込んだままじゃ、なあ。リーダーが泣くことも出来なくなっちまう。そんな事わかってるくせに、餓鬼だからな、あいつ」
「……仲が良いのか悪いのか。まさしく腐れ縁、じゃな。おんしらは…」
 シエラの溜息交じりの言葉に片手をあげることで答えて、ビクトールは先に屋上から降りていった。取り残されて、シエラは一人、また息をつく。
「人は……それでも強いものじゃな」
 そして、彼女も階段を降りていった。


 彼がノックの音に気づいたのは、その音が五度以上繰り返されてからだった。
「え……? あ、ああ、すみません」
 今あけます、と乾いた唇で言って、クラウスは立ち上がる。どうも時間と現実の感覚が狂ってしまっているような気がした。
 扉を開くと、すぐに白銀色の綺麗な色彩が視界に広がる。
 なんの色だろうと考えてから、ああ、シエラさんだ、と一拍遅れて理解する。そんな彼に眼差しを向けて、迷惑でした?と、女性らしい優しい声音でシエラは言う。そしてクラウスの手を取った。
「なにか? シエラさん」
「屋上に参りましょう」
「はい? え、、屋上、ですか?」
「そうですわ。わたくしとでは、お嫌?」
「そんな事はありませんが」
 やはり常よりテンポの遅れている彼の手を今度は少々強引に引いて、シエラは歩き出した。悲しみの中に埋没して眠っている感のある本拠地の中を。
「シエラさん、あの、私は…今は…」
「……嵐のような後に訪れる空虚な悲しみを抱いているときは、一人で過ごすものではありませんわ」
「……え?」
 ぎゅっと、クラウスの手をつかんでいる己の手に力をこめる。今……現実を彼に実感させることが出来るのは、恐らく言葉ではなくて、単純な…存在の暖かさなのだ。
 目を見張らせて、そしてクラウスは文句を飲み込んだ。
 一番天空に近い屋上から見上げる空は、刻一刻と増えて行く雲に覆われつつあって、どこか物悲しい。
 少なくともここは、悲しみに暮れる人間を慰めるのに適した場所とは思えなかった。
 湿り気をおびてくる風に髪をなびかせて、どこか神秘的に、シエラは空を見上げる。手は、クラウスの腕をつかんだまま。
「雨が……もうすぐ、きますわ」
 そして当然のように断言する。
 だからクラウスは首を傾げた。なぜ、雨がくるとわかっていて、わざわざ外に出るのか、その理由がわからない。
 シエラは静かに、微笑を浮かべた。
「悲しみは……溜め込んでしまえばしまうほど、増幅されていくもの。わたくしは、クラウスさんの悲しみを理解できるわけではありませんが、貴方が悲しいと思っていることは、理解しているつもりです」
「シエラ、さん?」
「雨がふれば。すべてが、濡れますわね。すべてを水の中に還して、それがなんであるのかさえ、分からなくなる」
「泣けと、いうんですか? 私に…現実を放棄して、泣けというんですか?」
「クラウスさんが、悲しみに埋没して、現実を放棄する人間だったなら、泣けとはいいませんわ」
「?」
「悲しいことを無視して、平静を装うのは…弊害でしかありません。本当の強さは、悲しみに直視すること。涙を流すこと。わたくしはそう思うますし、そうして来ました」
 きっぱりと言いきって、シエラは指を指し示す。
 はるかなる方角。キバが命を落とした、その場所を。
「現実は現実でしかありません。そしてそれは、時が過ぎようとも付きまとってくるのです。ならば…今、認めて、悲しい現実を受けいれなければ、クラウスさん」
 言いながら、思い出す。
 一人、一人、死を選んだ子供たちが命を落としていく様を。
 泣いてやることも出来ずに、ただネクロードを呪い、憎んだ。死に逝く子らを腕に抱き、怒りに顔をゆがませていた。
 そうして気づいてみれば。時は随分と経過してしまって、はばからなず泣いて良い時間を、失って、しまった…。
 泣けなかった記憶は、今でも、本当は胸の中で辛いから。
 悲しみをこらえながらも、立ち上がって前を見ようとする人間は泣いて良いと思う。未来で、泣けなかった過去を悲しまないで済むように。
 だからシエラは細い両腕をのばして、親を失ったばかりの青年の肩を抱いた。びくりと一瞬彼は震えたが、その暖かな腕をクラウスは振りほどこうとは…しなかった。
「子が父を想い泣くのは、当然のこと。それは…命を掛けたキバ殿を貶める行為ではありません。当たり前の…人が生きていく上で当然の、感情なのだから」
 泣けば良い、と思う。
 いよいよ空も泣き出しそうだ。
 雨が。すべてを流してしまえばいいと思う。
 クラウスの悲しみも。悲しみに涙を流すことを耐えようとする他の者たちの心も。流して、そして流れた分を潤して満たしてくれれば良い。
 失ってしまった現実は還ってこないから……。
 腕の中で、わずかにクラウスは震えている。
 明日からは。全員が悲しみを忘れた演技をして、現実に立ち向かって再び戦い出すのだろう。
 そのあまりの切なさに、シエラは……ひっそりと、泣いた。