夢よりも優しい現実

 男の子が。
 手入れをされているのではない、自然なままの芝生の上に、座り込んでいるのが見えた。
 足元に幾つかの食器が並べられているけれど、すべて、空のままである。
 その光景が、やけに目に焼き付いて、哀しくて、仕方なかった。


「元気ないぞ? どうしたの?」
 ひょいっと顔を覗きこんできて、少女が笑った。
 不意に立ち止まって、遠くを見詰める眼差しになった少年に気付いたのだろう。
 少年は、僅かに首を振って、笑ってくれている少女の顔を確認する。
 それから、ほっと安心する。これが夢ではなくて現実なのだと、信じられるようになったいまでも、確認しないとやはり恐い。
(だって、失ってしまったと思っていたんだ)
 ナナミ。世界で一番優しくて、強い、姉さん。
「なんでもないよ、ナナミ。ちょっと、あそこに座ってる子供が気になって」
「子供?? あ、あ、ほんとだ。なんだろう、一人で座り込んでるね」
 背伸びをする仕種でナナミは少年の見やる方角に視線をやって、大袈裟に肯く。
「うーん、どうしたんだろう。誰かと待ち合わせかな?? まさか一人でずっと、ああやっているんじゃないよね」
 心配そうなナナミの声に、少年は小さく肯いた。
「一人で、ああやって誰かを待つのって。なんだか……寂しそうに見えるよ…」
 ナナミを失い、ジョウイと敵対してしまった、あの日々。
「ねえ、ナナミ。ボクね、ナナミもジョウイもいなかったあの時、はじめて、一人で誕生日をすごしたんだよ。ビクトールとか、フリックとかはボクの誕生日を覚えててくれてて、一緒にいてくれるって言ったんだけど。でも、どうしても。ボクは、ナナミとジョウイのいない誕生日を祝う気にはなれなくって」
 それでね、と少年が言葉をつなげる。
 あえて生きていることを隠す道を選んだナナミは、少し寂しそうな表情で、自分のいない場所ですごした弟の言葉を、聞いた。

 
 がらんとした部屋は、それなりに豪華ではあったが、暖かみは存在していない。
 どんなに調度品を整えたとしても、部屋に温もりをあたえるのは人の存在なんだなと、そんなことを少年は考えていた。しばらく広い室内をながめてから、おもむろにベッドの上に、こっそりと持ち込んだ食器を並べはじめる。
「これが、ナナミのぶん。こっちがジョウイだからね」
 一つ、一つ。確認するように、食器を指差しながら少年は言った。
 何もない、空の皿。空のコップ。彼しかいない、部屋の中で。
「今年の誕生日こそは、ナナミ、ちゃんと砂糖をいれたケーキを作ってくれるって、言ったのにさ。結局、また間違えて、塩が入っているんだもんね。偉いよね、ジョウイは。ちゃんとナナミの料理、おいしそうに、食べるんだもんな」
 けれど彼は喋りつづける。いない空間に向かって、言葉を、募らせつづける。時には楽しそうに、笑顔さえみせて。でも、なぜか拳は膝の上で握り締められたまま。
 ぽたりと、水が健康的な肌の上を、滑る。……涙。
「……ねえ、ナナミ。どうしてさ、いっつも、怒ったじゃないか。ボクが、ベッドの上でご飯たべてたら、零したら危ないから、、って怒ったじゃないか。誕生日だと、ジョウイ、ナナミと一緒にご飯つくってくれたじゃないか。なのに…なんで……なんで」
 広い、部屋。
 誰もいない。彼しかいない。皿の前の座るべき、二人のいない、部屋。
 いないはずの二人を、いくら感じようとしても、それはあまりに空虚だ。
「祝ってくれるって、いったじゃないか。ずっと一緒だって、言ったじゃないか!!! なんで、なんでボクはここに一人でいるんだよ。なんで、ボクは……ナナミを失って、ジョウイを失ったままでいないといけないんだ!!!」
 教えてよ、と、涙声でむせるように言う。
 なんでこんな悲しさを抱かなければならなかったのか。
 誰も悪いことなんてしてないのに、誰も悲しみなんて望まなかったのに、なんで…失わなければならなかったのか。
「手を、放さなければよかった。ナナミのいうとおり、逃げていればよかった? 
ジョウイを迎えに行って、そうしていきればよかったの?」
 できなかった、一つの選択。
 選んでいれば、きっと。なにを失っても、ナナミだけは失わないですんだはずの、選択。
「選べなかった、ボクの…罪が、これを、呼んだの?」
 独白は、あまりに寂しくて。空虚で。 
 少年は泣いていた。毎年、幸せだけに満ちていたこの日に。はじめて、哀しくて泣いた。


「寂しかったんだ。リーダーなんていわれて、みんなの希望だっていわれてたのに。
ボクは子供みたいに、一人ですごく誕生日が、ナナミがいない空間が、ジョウイがいない寂寥感が、全てを支配していて。哀しくて、切なくて。せめて部屋を出た時に寂しくないようにって、部屋の外にいてくれたフリックとか、わざと物音をたてて、人がいる気配を消さないでくれたビクトールとか、そんな優しい心を知っていながら、ボクが無視して……それで!!」
 さらに、少年が叫ぼうとした瞬間に、耐えられなくなったようにナナミは弟を抱きしめた。小さな子供を守るように、広げた手の中に彼の頭をかかえこんで、抱きしめる。
「ごめんね、ごめんね。いっぱい、いっぱい、寂しい想いをさせてごめんね。もう、ずっとずっと一緒だから。そんな哀しい想いなんて、お姉ちゃん、二度とさせないから!!」
 抱きしめてくれる腕が、声が、震えていた。
 誰よりも大切で、誰よりも強い、ナナミが。泣いている。
「‥‥ナナミ、ボクね。本当の意味で、強くなるよ。ナナミが泣いてもいいように、ジョウイが一人でこまらないですむように。力になんて頼らない、心を強くしてみせるよ、だから」
 側にいてね、と心で願う。
 二度と離れないですむようにと、本当に、心から。
 そのためにだったら、強くなれる。今度こそ、全てを守れる強さを手に入れてみせる。
「ナナミ、側に、戻って来てくれてありがとう。帰ってきてくれて、本当に……嬉しくて」
 うん、と、ナナミが肯いたのが、気配で分かる。
 だから過去の哀しい思い出を、訴えて優しい人達を困らせるのはやめようと、思う。
「あ!! ねえねえ、ジョウイが戻ってきたよ。ジョウイー!! 今日の宿になりそうな場所、見つけたーーー?? って、あれ? どうしたの、その子??」
 ちょっと焦ったような表情で駆け寄ってくるジョウイが、ピリカに少しにた女の子の手を引いていることにすぐに気付いて、ナナミは忙しく表情をかえる。少年はナナミと一緒に立ち上がって、やっとのことで取り戻した親友に向き直った。
「本当だ。どうしたの、ジョウイ?」
「ごめん、遅くなっちゃってさ。この子が、約束の場所を探している…って、言ってるんだ。ほっとけなくって…」
「約束の…場所…」
 大切な、親友を取り戻したあの場所。
 ふと思う。きっと、人が生きている人数分、どこかに誰かの約束の場所があるんだろうと。
「それで、ほっとけなくなっちゃったんだ。ジョウイは優しいねー」
 悪戯っぽく笑いながら、ナナミはかがんでジョウイの手を握っている子供に笑いかける。
「ねえねえ、お姉ちゃんも探してあげる。約束の場所って、どんな所? 誰が待ってるの?」
「………お兄ちゃんが、まってるの。わたしのね、おたんじょうびなの、きょう」
「そっか。そうなんだ」
 一人ぼっちの、誕生日は哀しすぎるから。
 ナナミとジョウイがどうやって探そうと首をひねる中、少年はふと思い出して顔を上げた。
 目に、焼き付いた光景。
 一人で、食器を前にして、座り込んでいた少年の姿。
「もしかして……」
 思ったよりも大きかった呟きの言葉に、ナナミと、そしてジョウイが振り替える。
「どうしたんだい? もしかして、心当たりがあるとか」
「うん。ジョウイ、多分、そうだよ。あそこで、一人で誰かを待っている子がいる。
あの時のボクみたいに、こない人を願って、想像して、存在を感じようとして、そして本当に待っている子がいるんだ。ねえ、あの人じゃない、きみの…お兄ちゃん」
 いいざま少年はその小さな女の子を抱き上げて、前方を指差す。
 拗ねたように唇をつぐんでいた女の子は、促されるまま前をみて、そして笑った。
「お兄ちゃん!!!!」
 誰かが、誰かを見つけて呼ぶ声は、どこか優しくて希望に満ちている。
 はっと振り向いた男の子の瞳が、大きく見開かれて、そして涙が溢れはじめる。
「良かった、良かったね、みつかって良かったね!!」
 一緒になって感動してしまったのか。ナナミは唐突に、大喜びしてジョウイに抱き着く。慌ててそんなナナミをうけとめて、ジョウイはなぜか、真っ赤になっていた。
「な、ナナミ!! ほら、ちょっと、連れていってあげないと」
 抱きとめていいのか分からない、という風情のジョウイに無邪気な笑みを向け、ナナミは肯くと走り出す。当然、女の子を抱き上げたままの少年も、ジョウイもそれに続いた。
 男の子と女の子の兄妹は、再会した今、どんな事を思っているんだろう。
 そんな事を考える。
 ナナミはどう思ったんだろう。ジョウイはなにを考えたんだろう。
 


 自分は。
 ただ幸せを感じていた。
 世界も、国も、どうでも良かった。
 ただ目の前に、ナナミがいて。ジョウイが昔と同じ笑みをみせて、隣に立ってくれている。
 この現実が訪れたことが、ただただ、嬉しかった。
 だからその想いを、忘れない。
「ねえ、ナナミ。ジョウイ。今度こそ…僕たちは、僕たちが三人いるこの場所が、約束の場所だってことを覚えて置こうね。もう二度と、約束の場所を探さないですむように。覚えて置こう、そして離れないでおこうね」
 再会をはたした子供たちと別れて、結局宿をとれなくて野宿の準備をしている最中に。
 少年はそう言った。ナナミは驚いて顔を上げて、ジョウイは少し目を見開いて。
 そして。二人とも、微笑みあって、肯いてくれた。
 もう二度と手放さない、そう願う幸せが、ここにはある……。