夢のような恋心

 馬鹿だと思ってくれてもいいの。
 そうすれば、貴方は少し安心していられるでしょう?
 子供っぽい一時的な恋心を向けられているのだと、考えることができるのは。
 多分やさしい貴方にとっては、安心することだよね?
 ――本気を見せてしまったら。逃げる場所がなくなって壊れてしまうような気がするの。貴方は。
 私ね。正直に言えば、その女性のこと、滅茶苦茶嫌いかもしれない。
 おいて逝ったいったその女性が、貴方にどんな権利があるっていうの?
 生きていく未来を、刻む日々を、今日を、明日を。
 すべて独占していい権利がどうしてあるというんだろう。
 ――オデッサ。
 私にしてみれば、好きになった人の剣の名前で。
 好きになったあの人からしてみれば。
 永遠の意味を持つ、きっと特別な名前。
 悔しい。私がどんなに必死になっても。
 貴女が占めてしまった心には、片隅にさえ入り込む場所がない。
 壊れてしまいそうなほどに、あなたを思い続けるあの人だから。
 私がどれほど真剣で、どんなに本気で好きになったのかを見せることはできない。
 本気を見せることは。
 きっとあの人の逃げ場をつぶしてしまうこと。
 オデッサさん。ねえ、貴方はどんな人だったというの?
   


 戦況は相変わらずだった。
 今日も難しい顔をして、軍師のシュウが足早に去って行くのが見える。初めて会ったころから、どうもあの軍師は早足だったような気がした。その早足が、さらに磨きがかかっているような気がする。
 ――誰もが少しずつ、焦り出しているからかな。
 そんなふうに思う。
 ハイランドの侵攻が始まり、都市同盟が崩壊を始め、反撃の為に輝きの盾を持つ指導者と同じ志を持つ者が城に集まり狼煙をあげてから、随分経つ。今までに、さまざまな状況の変化はあったが、まだハイランド優勢を覆すことは出来ていなかった。
 少しずつ緊張に支配されていく空気を、感じていない者はきっと誰もいない。
 城内を走り回りながら、そんなことを、ニナは考えていた。
「よーう。ニナ。今日もフリックを捜索中か?」
 不意に声をかけられて振り向くと、相変わらずの陽気さで、ビクトールがワイン片手に笑っていた。
「なんだ。ビクトールさんか。ねえねえ、フリックさん知らない?」
「さぁなぁ。さっきまで一緒に飲んでたけどな」
「もう。今日こそ捕まえて、ニナちゃん特性お弁当を食べてもらおうと思ってたのに!」
「やれやれ。元気だねぇ」
「あ、そうだ。ビクトールさん、昨日あたりテレーズ市長代行にあった?」
 他人の話を聞いているようで実はあまり聞いていないニナの、強引な話題転換に呆気にとられるでもなく、ビクトールは顎に手を置いて考えこんで見せる。
「テレーズ? いや、会ってないぜ」
「ふーん。ならいいの」
「おいおい。一体なにがあったっていうんだよ」
「別になんでも。ただ、テレーズ市長まじめだから。ハイランドとの戦力差をなかなか覆せない状況に、また一人勝手に落ち込んでなければいいなぁって思ったの」
「ほーう。なんだ、優しいじゃないか」
「私のこと、なんだと思ってるのよう」
 ぷーと唇を尖らせると、ニナは指を突きつける。それに大げさに後退してみせ両手を降参とあげると、豪快に彼は笑った。
「ニナはよく、誤解されるほうじゃないか?」
「誤解なんて他人が勝手にすることだから。関係ないじゃない。とにかく。私はフリックさんを見つけるんだから。もう、フリックさん、どこー?」
 相変わらずの脈略のなさで会話を一方的に終了させると、ニナは走り出す。
「けっこう色々考えてるみたいなんだけどな。どうしてああもまあ、誤解を招くようなことばっかり言ったりやったりするんだろうなあ」
 ビクトールは去っていくニナの後姿をしばらく見やってから、珍しい溜息をつく。
 グリンヒルからテレーズを救い出す作戦の際に、ニナをつれて脱出したフィッチャーによると、ニナは自ら意思によって、軍につれていってくれ、と望んだらしい。戦いは危険が多く伴いすぎると諭したフィッチャーに、ニナはきっぱりと、何かを守りたいと願うのならば、願う人間一人一人が戦わなければならないのだと断言したのだという。
 そういえば、テレーズが逃げることを良しとせず、死を選び取ろうとした時に、二度も敗北させないでくれと叫んだのもニナでだったらしい。
 ――だから本来は、責任感のある賢い娘なわけなのだが。
 どうも一致しない。
 戦いの意味などまったく考えずに。好きになった男のことばかり追い掛け回す、青春真っ只中の少女にしか見えないのだ。
「なんかなぁ。わからん奴だ。ところでな、フリック。お前、ちょっと情けなさすぎだぞ」
「……うるさい」
 不機嫌そうな返事。
 実はニナが走ってきた瞬間に、ビクトールと共に酒を囲んでいたフリックは、慌ててレオナの立つカウンターの奥に隠れたというわけだ。
「大体なぁ。オデッサのことを思い続けているのは分かるし。否定もせんさ。でもな、ちゃんと説明してやれよ」
「――うるさいって言ってる」
「ったく。説明するためにオデッサのことを喋るだけでもより悲しくなるから嫌だってことか? それともオデッサの思い出話を他人にするなんて、もったいないから嫌だってのか?」
「………」
 フリックが黙り込んだので、どうやら図星を言い当ててしまったらしいと気づいて、ビクトールは溜息を落とした。
「なんて情けない奴。よりによって、両方か」
 大げさに天を仰いでみせながら、まあ振り切れるわけもないんだろうがと、ビクトールとて思う。
 フリックを愛していたオデッサと。オデッサを愛していたフリック。
 あれほどまでに、互いが互いを求めていながら。生きる時代に対して背負いこんだ責任を果たすために、悲しいすれ違いを続けた恋人達をビクトールは知らない。
 見ている方が腹立たしかった。
 もっと気楽に構えて。お前等だって幸せになれと叫びたかった。
 ――だから幸せになってほしかったし、幸せになれるように守ってやろうと思っていたのだ。
 なのに目の前ですり抜けていってしまったオデッサの命。
 命を失った亡骸を、あの冷たい川の中に沈めた感触。
 それは、遠い日に。悔し涙なのか、悲しくて泣いているのか分からなくなった泣き顔のまま、故郷を後にした時の感触とあまりに似ていて。――今でもビクトールに重い影を落とし続けている。
 フリックが立ち直れないのは。だからきっと当然なのだ。
「……フリック?」
 物思いから我に返れば、切ないような眼差しで、フリックは空を仰いでいた。
 今を生きる彼から。オデッサ、という存在を奪ってしまうことは。
 フリックに生きることをやめろと強制するのと同じなのだろうと、ふと思った。


「というわけだ。ニナ、フリックならもう行ったぞ?」
 腐れ縁の相棒が気づけば姿を消してしまっていたので、ビクトールは振り返って唐突に言う。
「……なんだ。ばれてたんだ」
「そりゃあなぁ。俺の視界には、ばっちりおまえの金髪が入ってたぞ」
 バツが悪そうに頭を掻きながら、座れよ、と目の前の椅子を指差す。
 入り口部分でずっと様子をうかがっていたニナは、少し迷った顔になる。けれど決断はすぐについて、素直に椅子に座った。
「なんか飲んでみっか?」
 いらない、と首を振って。ニナは上目使いでビクトールを見上げる。
「聞いていい?」
「んー? なにをだ?」
 ためらいの沈黙の後に、ニナはまるで、泣きだしそうな眼差しになった。
 多分、彼女にとって。決意が必要な質問なのだろう。
「………オデッサさんって。素敵な人だったの?」
 そして、少女の唇から出た質問に。
 ひどく切ない恋心を、らしくもなく感じてしまって、ビクトールは溜息をついた。
『ビクトール。貴方って不思議ね。なんだか色々なこと、話してしまいたくなるわ』
 昔。まだ解放軍に入ったばかりだったころに。笑いながらオデッサが話しかけてきたことがあった。
 色々話したくなる、というから。相談でもあるのかと思ってみれば。なんのことはない。まるで少女の悩み事のように、彼女は自分に――フリックと喧嘩してしまって。どうやって仲直りすればいいのかわからないの――などと言ってきたものだった。
 その時も。今のように、相手を思う痛いほどの恋心を、感じてしまったような覚えがある。
 だから知ってしまった。思春期の少女が陥りやすい、恋に恋をして、誰かを恋したと思い込んで感情を押し付ける行為に見えるけれど。本当はニナがどれほど、フリックのことを好きでいるのかを。
「……まいったなぁ。こういうのは、俺の性格には合わねぇ役柄だぞ?」
 小さくぼやいてしまう。
 ニナはごまかさないでよ!と怒った目でビクトールを睨んだ。
「ああ。素敵な奴だったよ。オデッサは」
「そう、なんだぁ。やっぱり」
 唐突に体中の力が抜けてしまったのか。机の上につっぷして、ニナがうめく。
「やっぱり、凄く素敵な人なんだ」
「ニナ?」
「でもね、好きなの。私ね、フリックさんのこと好きなの」
 うつむいたままの少女の肩が僅かに震えていて。
 ビクトールは手を伸ばそうとして、ふとやめた。
 誰かのことを誰かが好きでいる。その気持ちが、常に両立しつづけるものならば。失うという現実も訪れないならば。きっと人間は、争う気もなくなって、ただ自堕落に幸せでいることができたのかもしれない。
 けれど、そんな事は決してありえないから。
 誰かが勝ち取った幸せのかげで、涙を流す者が必ず発生してしまうのだ。
 ――それをなくすために、人は戦って。
 そして新しい悲しみを、生み出してしまう。
「振り向いてくれなくても、好きでいるだけなら。待っているだけなら。いいと思うから」
 ぽつりと、ニナがつぶやく。
 まだ少女の肩は震えている。だからビクトールは黙ったまま、ただうなずいた。
「まあ、そうだな。気が済むまで、とことん誰かのことを好きでいるってのも、凄いことなんじゃないか?」
「………思う?」
「ああ」
「了解とったからね!!」
「おわ!?」
 がばっと、唐突に泣きはらした赤い目をしてニナが顔を上げたので、のけぞってビクトールは目を剥く。
「な、なんだぁ?」
「フリックさんの相棒であるビクトールさんに、私が片思いをしててもいい権利に了解を得ることができたんだから。というわけで、私はビクトールさん公認でフリックさんを探しに行くわ! じゃあね! フリックさーーん!」
 一気に宣言して、ニナは走り去っていく。
「照れ隠しなのか、本気なのか、一体どっちなんだ」
 ひとしきり呆然としてから、ビクトールは声を出した。


 ――ずっと思いつづけてもいいですか?
 その願いにさえ、返事はなかったけれども。
 ――私は。今日も勝手に、一人貴方のことを思いつづけるの。
 ニナは心に誓っている。
 フリックがオデッサの為に戦いつづけるのだと。――心に誓っているのと同じように。
 本当に。彼のことが好きなのだと。