慟哭を埋めた丘

 そこは。
 想い出の中の景色とは余りに異なっていた。
 静けさが肌を刺す。日だまりの香りを抱いていた筈の町並みが、今はどこかどす黒い……死臭を抱いてよどんでいる。
「これが……ミューズ、だってのかよ?」
 日差しの温もりが似合っていた都市。
 守ろうと必死になっていた優しく強い女性に守られて、怠惰だからこそ愛おしい平和の中に抱かれ眠っていた、ミューズ。


 あの日守ることが出来なかった
 その結果がもたらす惨状がここにある。


「ビクトール!」
 至近距離であるにも関わらず、大声で名前を呼ばれて眉をしかめた。怒ったのでない。ただ無性に癇に障ったのだ。そして呼ばれた声を鬱陶しいなどと思った自分自身に気付いてビクトールは苦笑する。
(俺は平常心でいられてねぇってワケだな)
 妙に律義に自己判断を下して、ビクトールは振り向く。
 逆光が眼差しを射る中、振り向いた先に整った顔を不機嫌そうにしているフリックを見つけた。他の人間には人当たりの良い表情を浮かべている癖に、ビクトールには不機嫌そうな表情を向けてくることが多い腐れ縁の相棒。
(ちっ。流石にミューズに戻ってきたんだ。俺に含むところがあるくらい、お見通しって所かよ)
 心を見透かすのは好むところだが、見透かされるのは好みではない。
 仰々しく厚い筋肉に覆われた肩をすくめてみせて、ビクトールは故意に笑った。
「変な心配してんじゃねぇぞ。とにかく進むぞ。生き残りがいるかもしれないからな」
「……生き残り、か」
 ビクトールの売り言葉を聞き流し、フリックは大きめの歩幅で彼との距離を縮めると、ちらりと眼差しをあげる。――どこか冷たすぎるほど静かな仕種。
 戦士として生きる為に生まれ育てられてきた人間が持つ勘は、時折冷酷な判断を簡単に下してしまう。だからビクトールは、フリックが今のミューズに生存者などいない事を認識してしまった事を知った。
(ったく、普段は甘ちゃんな癖によ。可愛くねぇなぁ)
 背後に輝きの盾の紋章を保持する少年をかばいながら、フリックははっきりと敵を警戒する様子を見せている。ようするに殺気を感じているのだろう。口の中で文句を転がしてから、ビクトールは街中に視線を泳がせた。
 閉ざされた窓。
 声の聞こえてこない路地。
 火の気配を感じさせず。命の営みが持つ温もりを手放した、この寒さ。
(……ミューズはもう)
 死の街なのだ。
 死体は転がっていないけれど。むらがる野犬も野鳥もおらず、屍臭も漂っていないけれど。――ここは…確かに死のみが支配する廃虚なのだ。
『失わない為に戦うんだよ』
 思い出す。
 心の中で生きつづける女が笑いながら言っていた事を。
 泣き方も、頼り方も、縋り方も何一つ知らなかった奴。
 ただ己の足で立ち、戦う術を知り、全てのものに正面から立ち向かっていった女。
「……アナベル」
 最後にかわした言葉はなんだったろう?
 最後にかわした笑顔はどうだったろう?
 何故、死者を思うとき。全ての記憶は靄の中に隠れてしまうのか。
「ビクトール!!」
 また、声を掛けられた。
 うるせぇな、と思いながらも、フリックの声に切迫した緊張感が含まれている事を悟る。もう三年も共に行動しているのだ。気配でわかる。
「どうしたよ?」
 剣を抜ける体勢のまま周囲を警戒していたはずのフリックが、視線をむければ既に、鞘を抜き払って、氷にもにた澄んだ刀身を顕にしているのが見えた。何かが自分たちを見ている。証拠のように周囲を支配してくるのは、冷え冷えとした――それは殺気。
「ちっ、性格の悪い相手みてぇだよなぁ。隠れてこっちを見てやがるってわけだ。おい、分かるか?」
 ビクトールが問うと、フリックが首を振る。流石に分からない、という事らしい。
「なんだか、凄く。嫌な感じがするよ!」
 フリックとビクトールとで、庇った少年を更に庇おうとするナナミの声に肯く。
 嫌な感じ、どころではなかった。
 死そのものの気配が全てを覆い尽くそうとしている。
 市庁舎から飛び出してきた兵士の報告が、それに輪をかける。ビクトールは肩を竦めた。
「どうするかな」
「軍師殿からは、深追いはするな、といわれているはずだよな?」
 間髪おかずに否定しながらも、フリックは中の様子を伺っている。
「結局、なんだかかんだ言っても、中を確認するってことに意義はないみたいだね。フリックさん。仲が良いってことなのかな。ね、ナナミ」
「そうだよね!!腐れ縁って悪い意味だって聞いたけど、そんな事ないみたい。仲、良さそうに見えるもん!」
 場違いだが、明るい弟の声にナナミは応えて、屈託なく笑った。
 そんな笑顔が、死に支配された街の中に……本当に僅かな生気をよみがえらせる。
 ――ほんの何箇月か前までは。
 当たり前のように街に満ちていた笑顔の名残。守れれば……消えることもなかった…。
「こいつと仲がいいわけがないだろうが」
 否定するフリックの声に、不覚にも僅かに思案にふけった現実から立ち戻り、ビクトールは肩を竦めてみせた。
「そうだぞ。間違えんな、二人とも。なにせ仲がいいじゃねぇ。俺さまが、仕方ねぇから、この青二才が側にいる事を許してやってるだけだ」
「ビクトール!!!!いい加減なこというんじゃねぇ!」
「ほらな。人間本当の事をいわれると怒るっていうだろ。だから怒ってんだ」
 市庁舎の中に入るべく歩き出しながら、ビクトールはおどけて言って首を振る。その仕種に二人の姉弟は重ねて笑った。フリックは殺気さえこめた視線でビクトールを睨み付ける――その、背後で。
 気配が、動いた。ぐずり、と。
「なんだ?」
 一人気配に気付いてフリックが足を止める中、ビクトールは「調べるに限るよなぁ」などと呟きながら、星辰剣を肩に担ぎ上げた状態で、ずんずんと中に入っていく。――同時に濃くなっていくのは死臭。
(ふざけやがって)
 いつだって都市を、人々を、誇りを守ろうとしていた女がいた場所を、汚す気配に吐き気を覚えるほどの怒りが血液を巡って行く。
「……進むなっ!後ろだ!!」
 唐突に警戒を促すフリックの声に、ビクトールは瞬時に振り向いてソレを見た。
 淀む気配が動く音。
 なんと呼べば、ソレに相応しい言葉になるのか?
 金色の毛並みは、本来ならば神々しいと言えるものだろう。にも関わらず、ソレの存在は禍禍しさと重圧と恐怖しか与えてこない。
「ちっ!やっぱり罠だったか!!」
 戦いの中で、敵軍の動きがどうも変だとは思っていたのだ。
 まるでミューズの中に誘い込まれているような、そんな気さえした。
「ったく気のきかねぇ奴等だな!歓迎ってのはもっと上品にやるべきだぜ?せめていっそワインでも置いていきやがれってな!」
「そんなものを持ってくる敵がいるか。……結局、ミューズは囮に使われたのか」
 普段は紋章を同時に構えるフリックが、剣を通常通り構えている。現れた金色の獣は、雷撃を吸収するのだ。剣戟に頼るしかない。
 攻撃の激しさ以上に、巨大であるがゆえの圧迫感に、僅かな焦りが心を衝く。
 幾度めかの攻撃と、幾度めかの回復と。
 疲労とまではいかないが、剣を握り締める指が僅かな痛みを覚えたころに、獣は謎の咆哮を残し消えた。まるで――人々を嘲笑っているようなその方向。
「ミューズに俺らを足止めするのが目的って処だろうなっ!ったく、性格悪いぜ!!ハイランドもよ!!こんな獣なんぞ残されたら、撤退するしかねぇな!!」
(撤退する)
 せめて早くに取り戻したかったこの街を。
 残して、撤退する。
 取り戻したかった。泣き叫ぶだとか、焦りを見せるだとか、そういう事をするつもりは毛頭ない。諦めもしない。ただチャンスを覗ってきた、それで良いと思っていた、というのに。
 心が、怒りを叫んでいる。
 多分これは、ミューズを、たった一人の女を、守れなかった自分自身への捨て切れぬ怒りなのだろう。
「ビクトール!!星辰剣握り締めてる場合じゃない!!」
 あたかも彼の迷いを察したようなタイミングで声をかけられ、ビクトールは顔を上げた。その、広がった視界を埋め尽くす、倒したはずの金色の影!!
「げぇ!!」
 大げさに驚いてみせつつ、ビクトールは即座にナナミを後ろ手に庇いこんだ。大きな手に隠されるようにして、ナナミがはっきりと息を呑む。
 金色の獣のもたらす圧迫感は。
 今まで経験してきた死の光景を、脳裏に再現させていく能力を的確に保持していた。
 ちりちりとした痛みが、間断的に襲ってきて、全てを塗りつぶすようで。
(うるせぇ)
 過去の悲劇から逃げるわけにはいかないし、負けるつもりもない。
 だからこそ、過去の光景に泣き崩れて、今を放棄するわけにはいかなかった。
「とにかく引くぞ!」
 少ない人数で、金色の獣の全てを排除するのは不可能だ。それを試したところで途中で力尽きる人間が出てきて、被害が大きくなるだけだろう。やはり撤退するしかない。
 先導して走り出したフリックが、牽制のために雷撃を周囲に放つ中、市内に突入していた別の兵士にも撤退するように指示を加える。そして門が視界に入った、その時に。
 人の流れを逆流して走る人影が、視界をよぎった。
「……おい、フリック、今のみたか!?」
 慌てて足を止め、振り向く。
 少々信じられない光景だったので、判断を前をいくフリックに任せた。自慢じゃないが、周囲を警戒する能力にかけては、自分の方が随分と劣っている。(戦闘のプロとして育てられる戦士の村の奴等と比べる方が普通の人間サマに失礼だ)
「……見た」
「ってことは、マズイな」
 走りながらも顔を見合わせて、短く確認しあう。
「悪ぃな、ナナミ!あともう少しだ。先に二人で行っててくれ!!」
「え?え、え、え、え?なんで、二人は!?」
「ちょっとヤボ用、つーか忘れ物が出来ちまったみてぇなんだよ。ま、心配するこたぁねぇよ。こいつも付き合わせっから」
 引っ張るのに非常に便利な青いバンダナを握り締め思い切り後方に引いてビクトールが答えると、少年が思いつめた眼差しで彼を見上げてくる。
「……分かった。ナナミは僕が守るよ。二人とも、頼むよ」
「え?ええ?事情が分かってないの、私だけなの??」
 離しやがれと叫ぶフリックと、神妙な顔をしている弟との双方を忙しく見詰めながら、ナナミは緊迫した何かを感じ取ったのだろう。肯くと、走り出した。
「絶対にこけんじゃねぇぞ、お前ら!」
「子供じゃないんだからぁ!!」
 拗ねたナナミの返事を聞き取って、ビクトールはまだ引っ張っていたバンダナを手放す。ふざけるな、とばかりに睨んでくるフリックを一瞥し、遠方を見やった。
「どこに走っていきやがった?」
「敵のど真ん中。市庁舎の方だ」
「やれやれ。手間がかかるよなぁ。エリートさんってのは」
 髪をかきあげるようにして、ひっぱられたバンダナの位置を直すフリックに言ってから、ビクトールは星辰剣をもう一度構え直した。もう一働き頼むぜ、と声をかけて。
「どこが目的だと思う?」
「きまってんだろう。……奴のことだ、アナベルの私室さ!!」
 ビクトールは短く答えてから、二人は走り出す。
 迫りくる金色の獣を相手にするわけにはいかない。こうなったら、魔法で接近を阻むしかなかった。
「人使いの荒すぎる男だな。貴様は!!」
 罵りながら魔力を開放するのは、ビクトールに頼まれた超本人、星辰剣そのもの。
「いいじゃねぇか、力を出し惜しみすんなよなぁ。よっ!星辰剣さま、世界一!!」
 馬鹿げた事を言いながらも、走るビクトールの双眸には緊張感が宿っている。
「ビクトール、入り口で奴等を引きつけておくから、お前、とっとと連れ戻してこい!」
「お!気がきくじゃねぇか!……悪ぃな。フリック、死ぬなよ!」
「誰が狼と心中するか!!」
 減らず口を返しながら、剣を構え間合いを計るフリックの後ろ姿を一瞥し、ビクトールはそのまま市庁舎の中を駆け込んでいく。
 時間がそう許されているわけではない。なにせあの金色の獣をまとめて何匹か、フリックは一人で相手にすることになるのだ。状況は……認めたくはないが最悪だ。
「ったく!!手間ばっかかけやがって!!アナベル、お前とんでもない奴を後継者に残しといてくれたよなっ!!」
 悪い子じゃないんだよ、とかつてアナベルは笑っていた。
 ことある毎に傭兵砦を無駄飯食い扱いし、アナベルによるな触るな話し掛けるなと小犬のように吼えていた青年。エリートらしい気位の高さと、逆境に脆くはないのだろうかと心配させる所のある彼を、アナベルは「もっと年を重ねれば、いい男になるさ」と表した。
(死なせるわけにはいかねぇだろうが)
 アナベルがミューズの為に残した青年だ。
 市長としても、一人の人間としても、アナベルを大切に思っていた青年だ。
 一気に廊下を駆け抜けて、奥の部屋に続く扉に手を伸ばす。
 ……ふと。
 幻を見た。
 たった何箇月か前にも。この廊下を、同じように足音を忍ばせ走ったことがあった。
 廊下の先に居たのは、皮肉なことに何センチばかりか自分より背が高かった女で。
 幾度となく会話をした。
 幾度となく酒をかわしもした。
 笑って、時折本音をぶちまけたくなる気持ちを、押さえるのに。多分、双方努力を要したりもしたのだ。
 今。過去と同じ行動をしていながら。
 駆け込む先に、あの女はいない。
「くそっ!」
 守れなかった。
 全てが終わってしまった悲劇の目撃者になるしかなかった過去とは異なり、側にいて、近くにもいて、悲劇が進行していく時間の中を……共に、過してきたのに守れなかった。
 狂おしいまでの慟哭を必死に飲み込み、ビクトールは僅かに震えてしまう手で。
 扉を開けた。


 冷たさに凍りそうで。
 ただ立ち尽くしか出来ない。
(…俺は……)
 何をしているのだろうか、と思う。
 ミューズを失った。あの人も失ってしまった。
 それがたった一つの事実だ。
 だから自分は同盟軍にいる。惨めなほどの敗戦と愚かしさをひけらかし、少年の指導者に許されて、生き恥を晒しながら、ミューズを取り戻す為に生きている。
 だから、今。ここで走ったとしても、無意味だったはずなのだ。
 視線をあげれば、ただ荒れた室内がもたらす寒々しさだけが広がっている。
(期待してたんだろうか)
 あれは夢だったよと、悪い夢を見ただけなんだよと。
 言ってもらいたかったのだろうか。自分は。
「……情けない…俺は…」
 慟哭の変わりに吐息をもらし、宝物のような名前を呟く。
 ――どうしたんだい?
 と、姉のような顔で笑いながら顔を上げてくれる人はもう永遠にいないのだ。
 ――逃げてミューズをもう一度取り戻すんだ。
 蘇ってくるのは、あの日必死に告げられた声。
 開かれた城門から侵入する敵兵を食い止めることが出来ず、人々を誘導して必死に逃がすなか、彼はアナベルの元へと一度掛け戻ったのだ。死相を色濃く宿しながら、医者にも逃げろと言ってた彼女は、戻ってきた彼に、静かな威厳を称えたまま言ったのだ。
 生きろ、と。
 ミューズの命運と共に、滅びてしまおうと。
 思ったことを見透かしたかのように、言ったのだ。
「……ジェ…ス。お前は……まだ、世の中の色々なことを知らない……まま…だ。でも…ね、お前に……だったら、出来る…と……私は思ってる……よ。私にも……出来なかった、こと…を、ね。だから……逃げて、戦うんだ。ミューズを……安らぎの日々を、取り戻して守る……為…に」
 途切れ途切れに、告げられる言葉。
 死に逝こうとする者のそれは、何故にこうも絶対的に束縛力を伴って、生者に包み込むのか。
「アナベル様……」
 現在置かれている状況が最も悪いことを知りながらも、彼は……立ちつくすことしか出来ないでいた。


 扉をあけた先に、戦場に不似合いな形をした青年の後ろ姿を認めて、ビクトールはほっと息をつく。
 あけた扉の先に、アナベルがいるのでは、と思ってしまう心はすでに封じ込めた。懸念していたのは、部屋の内部に金色の獣がいて、それに目的の青年が屠られた可能性である。
(守れる範囲にありながら、守れないなんて、ごめんだからな。もう)
 子供を庇って死んでしまったオデッサ。
 大切な人の命を守る為に、捨てたくない命を捨てざるを得なかったグレミオ。
 人殺しを厭いながらも、罪悪感を抱え込んだまま眠るように逝ったマッシュ。
 ミューズと子供たちの心を守る為に。微笑みさえ浮かべたまま、いなくなってしまったアナベル。
 ならばせめて。
 死に逝く人々が思いを残した、今を生きる人間達を守ってやりたい。
「ジェス!! ったく、迷惑かけんじゃねぇよ!!無駄飯食いの傭兵風情に、助けられるの嫌なんだろうが!!」
 憤りを隠す為に一つ叫ぶと、ビクトールの気配にさえ気付いていなかったらしい青年は大袈裟に肩を震わせて、ついでに足をもつれさせながら振り向いて叫ぶ。
「び、ビクトール!?」
「驚かすな、っていう抗議はうけつけねぇぜ? なにせお前が走ってくの見て、俺の方が驚いたんだからな。まったく、繊細な俺の寿命が縮んだらどうしてくれる!」
「せ、繊細!? お前が!?」
「……本気で驚くんじゃねぇ!ったく、冗談だ、冗談。頼むから冗談は軽く受け流すか、つっこむかしてくれ」
「意味の分からない要求をするな!」
 ジェスの返答に、なまじ息のぴったりあう相手と行動していると、こういう時に調子が狂うなとビクトールは僅かに思いながら、入ってきた扉に注意を向ける。
 早いところ戻らなければ、脱出不可能になるだけではなくて、食い止めているフリックも死ぬことになるのだ。ふざけている暇はない。
「とにかく行くぞ。まだ死んでいい命は持ち合わせてねぇだろう?」
「………死んでいい命など…!!!!!」
 誰も持っていない、と叫びたかった。
 まるでそれでは、アナベルが持っていた命は、死んでもいいものだったと言っているようではないか?
「叫ぶな」
 ぴたりと、叫ぼうとしたジェスを制して、ビクトールは凄絶な眼差しのまま笑う。
 こんな眼差しをしていながら。ビクトールという名の男は。笑ってみせるのだ。
 ――世の中とか人間ってのはね、結構難しいんだよ、ジェス。
 いつ平和条約が破棄されるか分からない状態とはいえ、都市の財政を逼迫させる傭兵たちに、最低限度以上の給金など与える必要はないはずだと言った自分に、彼女はそう言った。
 ――親切な顔をしてる相手が、親切とは限らない。笑ってる人間が、楽な人生を送ってるかといえばそうでもない。泣いてる人間が、本当に哀しいとも限らないんだよ。
 まだ、分からないかもしれないけどね、と最後に言葉をまとめて。
 笑ったアナベルに、子供じみてるといわれるようで、悔しかった。
 それを思い出したのは。
 多分、目の前で笑ってみせた男の眼差しが、辛い状況に追い込まれた時に彼女がみせた眼差しと、余りに良く似ていたから。
「俺は……」
「ジェス。そんな事はだれだって知ってんだよ。死んでいい命なんぞ誰も持ってないってな。確かにそうだろうよ。だがな……それでも死んじまう奴はいるんだ。生きたくても、守りたくても、死んじまう奴はいるんだよ」
 苦い、あまりに重いその言葉に。
 陽気で、いい加減で、才能もないくせにアナベルにつきまとい、傭兵隊長だといいながら、遊びほうけている嫌な奴、とビクトールの事を思っていただけだったジェスは、目をみはる。
「いいか、泣くのは後にしておけ。まだ早い。ミューズを完全に取り戻せるまで、その感傷はこのミューズの大地に埋めていけ。いつか掘り起こして、泣いていい時になったら泣けばいいさ。誰もとめやしねぇ。だがな、今はまだ違うだろうが。まだ駄目なんだよ」
 それはまるで。
 彼自身をも言い聞かせる為の言葉のようで。
(アナベル様を失って哀しいのは……)
 自分だけではないと、分かったフリをしていただけで、本当は分かっていなかったのかもしれない。
 初めて実感として理解して、ジェスは、顔を上げる。
「……悪かった」
「おぉ?」
「……子供のように、世界を二つに分けて考えるな、といつも言われていた。アナベルさまに。度量が狭すぎるぞ、と。………そうだったのかもしれない。俺は……」
 彼女の隣に立てる人間になりたかったのに。
 実際は、子供扱いされても仕方ない生き方しか出来ていなかった。
 今になって。初めて、それを。想う。
「お前はいい男になるってよ、アナベルが言ってたぜ。後悔すんなら、それでもいいさ。だがな、後悔して、落ち込んでるてぇのはなしだ。その思いを噛み締めて、足を踏み出して、はじめて人間は強くなっていくんだからな」
 紛れもない。共に行動するようになった彼は。
 うめきれない虚無を抱えこみながらも、精一杯懸命に生きようとしている。
 ――永遠に失ってしまった。たった一人の女性の為に。
「………分かった」
 短いが……吹っ切れた様子のジェスの返事に、ビクトールは笑った。
 これなら、確かに大丈夫なのかもしれない。
(私の目は、確かだろう?)
 そんな声が聞こえるような気さえ、する。そうだったみてぇだな、と心の中で答えてみる。
 死者はこうやって。生きている人間の心の中でのみ、生きる場を持つのだろうか。
「俺は、アナベル様を、絶対に忘れない。アナベル様の強さも、誇りも、この街を愛していらっしゃったことも、全て!!だから、必ず、取り戻す。取り戻してみせる!!」
 走りながら、声に出して叫んだジェスの真っ直ぐな心に。
 ビクトールは一つ、笑みを浮かべていた。


「遅い!」
 駆け込んでくる人影を見た瞬間に、フリックが叫んだ言葉はそれだけだった。
 あちこちが破れ、血がにじんだ有り様は凄絶だが、致命傷になるまでに傷は負っていない。
「流石は戦士の村出身!死んでねぇな!」
「勝手に殺すなと言ってるだろ!!」
 売り言葉に買い言葉を投げ合いながらも、二人は即座に合流する。相談もせずに戦えないジェスを庇える体勢をとると、残しておいた魔力と星辰剣との力の掛け合わせて目くらましを発生させた。
 走って、走って。この街を、逃げる。
 今は逃げるしかないから。
 ――それでも必ず、戻ってくる。
 取り戻す為に。
 ジェスは城門を飛び出す瞬間前に、振り向いてミューズの街を見詰めていた。
 ビクトールは決して振り向かずに、ただ、前方を睨み付ける。
 そしてフリックは。彼らが共通して、思いを馳せているのだろう女性の為に。
 僅かに、――目礼した。

 
 再び静けさに支配されて。
 ミューズは眠りにつく。
 完全なる解放を、それを目指す人々を。静かに、静かに。待ちながら……。