生きるために

「きみは、どんな気持ちでいたんだろう」
 ほとんど吐息に近い呟きをおとして、彼は顔をあげた。
 地上よりも、蒼穹の空にちかい、高き頂きを持つ山に彼はある。
 ごつごつとした岩の上に一人座し、全てを見下ろしていた。


 彼方で広がる大地にて。
 戦争があったのだ。
 ”個”では決して抗しえぬものに対する力を与え、奔流となって時代を駆け巡る、定めを宿す星たちが再び輝いたことで。
 宿星たちは全身全霊をかけて戦ったことだろう。
 一人一人がそれぞれの理由を胸にし。
 守りたいものは、守る得るのだと信じて戦って。
 ――振り返って、得たものと同時に失ったものに呆然とするのだ。
 かつて。
 ……他の誰でもない、彼自身がそうであったように。


「いったい、どれほどの追憶が生まれたんだろう。どれほどの絶望がおとずれれば、人はああも変わってしまうんだろう」
 右手をそっとそっと、まるで愛しむように、彼は撫でさする。
 三十年。
「ルック……」
 それは人を、世界を、紋章を、絶望しきるにふさわしい時間なのだろうか?
「世界を壊す……か」
 なでさする手をふととめて、彼はつと両手を持ち上げた。
 右手をおおっていた左手を外すと、そこから光がこぼれ出す。
 これは単なる光ではなく、透明で、清廉で、どこまでも冷たい死なのだ。
 ヒトが持つには、あまりに重い紋章。

 ――生と、死を司る紋章。27の真の紋章の一つ、ソウルイーター。

「この世界は紋章に縛られて存在し、人々は命をもてあそばれて生きている」
 真の紋章を宿し、その定めのままに時を放浪するなかで、彼もまた気付いたのだ。紋章は、たんなる力ではない。まさに、カタチをもった世界の理だ。
 そして彼が宿す紋章は、魂を食らっていく。
 宿主の意思などかまわずに、むしろ命に絶望しろといわんばかりに、宿主が叫びたいほどに愛しく思う者たちを奪っていくのだ。
「僕が陥る絶望は、ルックが陥った絶望とは、きっと違う」
 ルックはいつも少し生意気で、少し冷たくて、少し突き放した態度の少年だった。それでも彼の知っているルックは、作られた入れ物の”命”である己自身を否定することなく、ただ祝していたはずだったのだ。
 命あるものを。世界に存在しているものたちを。
 絶望の闇に陥る前までは、確かに。
「五行の紋章が見せた絶望と、ソウルイーターがもたらす慟哭。僕達は真の紋章を同じく持ちながら、まったく違うものを見ていたんだろうな。僕には理解することは出来ない。ルックの絶望を」
 少なくとも、愛しい人々の命を、喰らわれてはいないだろうと、思ってしまう。
 ――生きて。
 ――笑っていて。
 ――どうか幸せに。

 ソウルイーターに食われつつも、誰かの為に微笑んでいた、強い人々を己のせいで失っていく辛さを、知らないですんだではないかと。
 ふるっと首を振り、彼は立ち上がった。軽々と棒を回転させ、肩にのせるようにして持つ。それから歩き出そうとして、目に痛いほどの風が吹き込んできて足をとめた。
 まるでそれは、ルックが語りかけているようで。
 少し考えるそぶりをして、彼は高々と右手を持ち上げた。きぃん、と空気を走る音と共に、ソウルイーターがまがまがしき光を放って空中に紋章をかたどる。
「僕は絶望したりはしない。この紋章をたくした彼のためにも、僕が世界を呪うことはしない。生と死をつかさどる紋章を宿すからこそ、命を呪ってはいけないんだ」
 魂を喰らうのを防ぐために、放浪につぐ放浪を重ねねばならぬ日々。
 辛くないといえば嘘になる。
 かかわりをもたずに、知らぬ人間であれば、誰が喰らわれようと問題ないではないか?と。わずかなりとも、考えてしまうことがある。
 たとえば、人々が変わらず争いあうのを目にした時。
 たとえば、優しさを忘れた人々の行いを見てしまった時。
 暖炉の温もりに、温かな火の作り出す食卓に、夢をみてしまった時。
 ――なぜ自分だけが、と。叫びかけて、何度も飲み込むのだ。
「……テッド」
 これは多分、お守りの言葉。
 ソウルイーターをたくされたことで、はじめて知ったのだ。
 親友が抱えていた悲しみと苦しみのあまりの大きさを。
 300年もの間、彼は一人さすらってきた。
『お前だけが、たった一人の……』
 彼はそう言ってくれたのだ。
 放浪を続けて、ようやく見つけた、ただ一人の親友だったのだと。
 傷つき、ぼろぼろになって、夢見るといえば安らかな終わりだけだったろうテッドが、自分をそう思ってくれたことと、笑ってくれていたことに胸が熱くなる。
 そう、彼はいつだって、笑っていたのだ。
 命を愛して、普通に生きて死んでいく人の日常を愛して、破壊するなどということは考えもせずに。いかに魂をくらわずにすむか、それだけを考えて、さすらってきた強い心の持ち主。
「テッド」
 彼の名前を呟くとき。
 失ってしまった人々の顔が、次々と蘇ってくる。
 暖かかった手。広かった背中。いつも優しく見守ってくれた人。
 胸に凄まじい痛みが走ると同時に、泣きたいほどの優しさも蘇って胸が踊る。
 ふたたび、右手を左手で包み込んだ。
 まるで抗議でもするかのように、ソウルイーターが暴力的な光を放つ。けれどそれをおさえこみ、彼はそっと囁いた。
「きみは、なぜ、僕と友達になってくれたんだろう。君は僕に運命を押し付けてすまないって、思ってくれたみたいだけど。君に300年もの放浪をさせてしまったのは、僕の干渉のせいだったのに」
 彼の干渉がなければ。
 テッドは300年の放浪をすることはなかったのだ。
 ウェンディの望みを阻止したのは、自分なのだから。彼はあそこで、死ねたはずなのだ。
「君に出会ったときのことを、よく、思い出すんだ」



 子どもがそっと走りぬけようとするのを、ようやく見つけて彼は焦った。
 丁度、橋の下の道だ。慌てて手すりに手をかけ、「待って!!」と叫ぶ。
 名前はまだ教えてもらっていない。
 もっとも尊敬する人でもある大好きな父親が、ひどく痩せてやつれた子どもをつれて帰ってきたのは、昨日のことだった。栄養を失ってぱさぱさになった髪と、まだ柔らかな子どもの肌とは思えぬほどに傷だらけの手に、胸が痛んだ。
「戦場で見つけた」
 お前と同じくらいの年であるのに、あまりに凄絶な目をしていたのだと、テオは言った。だから、つれて帰ってきてしまったのだと、照れたように頭を書きながら父は言う。
 まったくお人よしですね、とクレオが言った。父は「実は本人の承諾を得ていないのだ」と、ひどく真面目な顔で返事をしている。クレオとグレミオが、は?と目を見開き、パーンが豪快に笑い出すのをききながら、彼は意識がないというのに眉を寄せている子どもに釘付けになっていた。
 彼は幸せを充分に注がれて育ってきた子どもで、完全に庇護されている幸せな子どもだった。
 だから同じ年頃の子どもが、意識を失っているというのに、ひどく緊張した様子をしているのが衝撃だったのだ。
「父さん、僕、この子と友達になりたいな」
 まだなにか騒いでいる大人達に向けて、一言。
 それだけで、引き取るべきではないと口にしていたクレオが言葉を失った。グレミオはぼろぼろの子どもを前にしてほっておける性格であるわけもなく、もう喜んでなにか食べれるものをと厨房に走っている。
 だから、彼は、とても楽しみにしていたのだ。
 子どもが目を覚ますのを。そして、なにを言ってくれるのだろうと期待した。
 実際のところ、彼の期待するようなことはなにもおきなかった。
 目を覚ました子どもは、警戒心を剥き出しにした目をして、即座に逃げ道を求めて視線を彷徨わせ、しかも実行しようとしたのだ。
「本人の承諾を得ていない。なるほど、そういうことですか、テオ様」
 クレオが溜息をつく。
 いやそういうことなんだ、とテオは苦笑した。
 大人たちがなんとか逃げ出そうとする子どもを抑えようとするのが、ひどく彼には辛かった。だから走り出して、ぎゅっと握り締められたままの拳を握り締めたのだ。
 少しでも、伝わればいいと思った。
 温もりだとか、優しさだとか、そんなかっこいいことではなく。
 ただここは恐くないのだと、安心していいのだと、伝えたかったのだ。
 けれど右手を握りこまれた子どもは、今度こそ本気で怯えた目をして、ただ叫んだのだ。
「離せっッ!!!」
 それが、多分、はじめて聞いた声だった。
 痩せてやつれた体のどこに、そんな力が残っていたのか。
 バネのように身体をかがめたかと思うと、子どもは即座に近くにあった果物ナイフを正確に掴んだ。そのままくるりと床を回転し、怪我はさせないようにと計算しつくされた位置へとナイフを放る。
 そのあまりの正確さと、あまりの技量に、誰もが息をのんでしまった。その瞬間に、子どもはもう屋敷の外へと飛び出していた。
「一体、あの子は……」
「悪いが、探してくれ。私はどうしても、あの子が気になる」
 厳しい顔をして、テオはグレミオたちにそう告げる。それから、テオは彼の小さな息子の頭に手をおいた。
「なにを泣いている?」
「泣いている?」
 ごつごつとした父親の手の温もりに目を細めて、言われた言葉を噛み締めて、彼ははじめて気付いたのだ。
 自分が、ぼろぼろと、涙をこぼしていることに。
「悲しいか」
「悲しい」
 復唱することしか出来ずに、大きく頷いた。
 ただただ、悲しかった。
 あんな目をした子どもが。ひどく怯えていた、あの子どもの心が。
 ――悲しかった。
「戦場を目の当たりにした子どもは、時にああなることがある。罪もないというのに」
「戦場?」
「そう、この父が起こした戦場のせいで、彼はああなったのかも知れぬ。無論、そういったことが起きることも、背負うのが我々なのだがな」
 戦を語るとき、父はどこか遠い人間のように思える。
 彼はただきゅっと父親の手を握った。
「僕、探しにいってくる!」
 それほど遠くにいけるわけがない、と父はいった。動けるのが不思議なほどに、あの子どもはぼろぼろだったのだから、と。
 自分だったらどこに逃げるだろうと考えて、必死に走って。
 そして、見つけたのだ。
 橋の下を、よろけながらも進んでいた傷ついた子どもを。
「待って!」
 叫ぶと同時に、子どもの背が目に見えて震えたのが分かった。
 それからひどく驚いた顔になって、子どもは橋の上へと視線を向ける。
 橋の下へと走るには、それなりの距離がある。
 相手が走り出してしまえば、追いつけるはずもなかったのだが、子どもは何故か凍りついたように立ち止まっていた。階段を駆け下り、最後の二段をとびおりて着地した音で、はじめて気付いたように彼はびくりと反応した。
 慌てて走り出そうとして、足をもつれさせる。チャンスだ!と思って、彼はそのまま飛び掛るようにして抱きついていた。
「わっ!」
 飛び掛ってくる子どもを、支える力などどこにも残っていなかったらしく、簡単に倒れこんでしまう。彼はようやく捕まえた痩せた身体を、ぎゅっと抱きしめて、顔を覗き込んだ。
 大きな茶色の目が、じっと彼を見つめていた。
 最初に見せた、警戒の色でも、怯えの色でもなく、そこにはただ驚きがあった。――だから、分かったのだ。子どもが今、間違いなく、彼自身を見ていると。
「ねえ、名前教えて!」
「え?」
「名前だよ、僕の名前はもう知ってるよね?」
「う、うん」
「教えてよ」
「……テッド」
 もう、完全に、彼のペースに飲まれていた。
 子ども――テッドは、茶色の目を震わせて、ただただ呆然と彼を見つめている。
 

 まるで、彼であって彼ではない誰かを見ているようだった。
 抱きしめた体が、束縛の下でかたかたと震えはじめている。
 それはまるで、魂そのものが震えているようで、彼は息を飲んだ。
 

「テッド!」
「えっ!?」
 真剣に叫べば、さらにテッドの顔には困惑が浮かんでいく。
 なぜか、右手を左手でぎりぎりと押さえつけていた。
「どうして?」
 と、テッドが言ったのだ。
「きみが、どうして、ここにいるんだ?」と。
 それは本当に、泣いているような、震えてしめった声だった。
 ――君を、巻き込みたくなんてないのに。
 そうとも、言った、気がした。
 


「僕らは、互いに互いを巻き込んでた」
 いつだって笑っていた親友が、出会ったときにだけ見せた怯えと呆然とした理由が、なんだったのかは今の彼にはよくわかる。
「300年のときを越えて、僕らは出会うべくして出会った」
 星辰剣によって、飛ばされた過去でみた真実。
 まだほんの小さな子どもだったテッドが、凄まじい定めを背負うと同時に全てを失った瞬間を、彼はみたのだ。
 守ってやりたかった。
 彼をそのまま、300年も一人にせねばならないのだと、分かっているから守りたかった。
「もし、あの時」
 全ての摂理をこえて、彼を真実救うことが出来たのであれば。
 きっと、自分は何でもしただろうと、思っている。
「救うことが出来るなら!! 僕は喜んで、この紋章を壊しもしたさ!」
 右手を持ち上げる。
「結果として世界が壊れるなら、それでもいい。でも、そんなことは出来やしない。誰よりも、それを望んでなんていないから」
 全てを守るために、彼らは散っていったのだ。
「……僕はまだ、生きる。そして、いつか」
 


 また、会いたかった。
 ソウルイーターの……いや、27の真の紋章の謎を解き明かすことが出来れば。
 いつか人は、紋章の定めから解放されるのだろうか?
 人が持つべきではない力か、解放されるのだろうか?


「僕がそれをなすことを、望んでくれるよね。……テッド」
 右手を持ち上げて。
 彼は少しだけ笑った。
 その笑顔が。
 かつて、ひどく切なそうな顔をして笑うんだなと思った。テッドの笑い方に良く似ていることに、彼自身は気付いていない。


『ごめんな』


 ふと、声が聞こえた。
 心配するような、つらそうな、そんな声。
 だから、彼は笑う。
「この運命を呪ってなんていない。だってそうだろう、もしこの呪いのような紋章がなかったら。僕達は出会うことさえなかったんだ」
 だから、絶望はしない。
 だから、彼は、五行の紋章とともに世界を破滅させようとした少年の、絶望には同意しないのだ。


 彼は立ち上がる。
 紋章から全てを解放させるために。
 生きるために。