見果てぬソラ 完
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 眠れるわけがなかった。
 冷たい空気は質素な建物の隙間をついて、体の全てを凍えさせようとしている。隙間風の音が、まるで悲鳴のようだった。
(……何人、死んでしまったのかしら…)
 考えると心が痛む。
 全滅は防ぐことができた。
 生き残ることが出来た人々は、安堵の息をついて眠りの中に落ちているのだろう。けれど己の作戦ミスによって多くの仲間を死なせてしまったオデッサは、眠れずに失敗した作戦と、死んでいった同士のことを考えていた。
「……わたしは、兄さんとは違うのね」
 これは弱音と嫉妬だ。
 妹という贔屓目を外しても、兄マッシュの才能は素晴らしいものだった。的確な判断、作戦指示、状況判断能力。マッシュが軍師を努める軍は、極端に被害が少なく、逆に敵側の被害は甚大なものとなる。
「兄さんが、味方してくれれば。あの才能に恐れをなして、世間から逃げてしまわなければ」
 軍師の家系に生まれたオデッサは、女性ながら、軍略、政略、剣技と、それぞれ学び、すべてにおいて好成績を収めてきている。だが実際に指揮して分かったのだが、自分には溢れるほどの才能などはなかった。
「理論では勝利できても、人の心が要素に加われば、勝てる戦でも負けてしまうわ。だからこそ、指導者は神にも似たカリスマを持たなければいけない」
 それは、出来ているのかもしれない。
 人々が向けてくる期待と信頼の眼差しが、恐いほどであるから。
「……わたし、怯えているのかな」
 ついた息が、これではまるでため息だ。
 作戦ミスをおかしたくせに、それでも頼り甲斐のある指導者を明日も演じなければならない現実が怖いのだろうか。――自分で選び取ってきたというのに。
「寝なくちゃ」
 明るい顔をしていなければいけない。なんとしても眠ろうと思って、薄い毛布を引き上げて、胸に抱き込んで目を閉じた。
 空気はあくまでもシン、と張り詰めて静かなものだ。こんな中にいると、思考する脳は止まってくれない。
 ふと、先ほど恋人をかわした会話を思い出した。
(助かったのはフリックのおかげなのに。判断だって、今日は……間違ってなかった。私が怒ってしまったのは……あの危険な退却劇をなしとげることが出来るのはフリックだけだって分かっていながら、それをさせたくなかった、女としての……エゴ、よね)
 瞳を閉じたまま考えて、オデッサは、息を付く。
 鮮烈に蘇ってしまう光景がある。
 純白の花嫁衣裳を鮮血に染め抜きながら、剣をかまえ弓を持ち、好きだと思い込もうとしていた婚約者を救おうとして……出来なかった、あの過去の出来事。
 そして。
 先程、恐怖をあたえるあの色(深紅。そう、深紅だ)に染められながら、凛と笑っていたフリックの………え?
「……深紅?」
 上半身を勢い良く起こした状態で、オデッサは、目を見開く。
 興奮状態に陥ってしまって、把握し損ねていた事実があった。
 戦闘に敗北した。人々は疲れている。密偵に付けられている可能性がある。でも人々は動ける状態ではない。けれど見張りは必要。フリックは怪我をしていた。でも……彼の性格なら?
「いけないっ!フリック!!」
 焦りのままに声をあげて、オデッサは立ち上がり、走り出した。
 フリックは生まれながらの戦士でありながら、どこか純粋で、子供じみた優しさが抜けていない青年だ。そして死なない程度の無茶をするのが得意ときている。
 息を切らせて、オデッサは外に出る。
 清冽に広がった夜の空を彩る、満天の星空と、優しい月の光。
 ……その中に。探し人は案の定、いた。
「……フリック」
 街道を見渡せる大木の元、彼は剣を抱き込んで……瞼を閉じている。
 叫んで駆け寄りたくなるの衝動を、必死に押さえる。
(疲れて……それを少しでも回復させる為に、眠ったのかしら。でも……)
 なんとか怪我の様子を見ようと目を凝らす。
 恐らく、致命傷や、剣を扱えなくなる程の腱や筋への傷はかなり警戒するフリックが、ほっておいているのだから、命に関わるほどの怪我では、ないのだろう。
 むしろ眠って体力を回復させる方が大切だと判断する程度には。
 もっと近づきたかったが、それをすればフリックは目を覚ましてしまうだろう。彼の眠りはいつも浅くて、剣を手放して眠るところを見たことがない。間合いに進入者があれば、即座に覚醒し、そして彼は剣を取る。
 こういう時に。
 オデッサは、いつも優しく笑ってくれているフリックが、生粋の戦士であることを痛感するのだ。
(貴方は、知らないわね)
 その果敢な戦いぶりと、命を救う為に剣を振るう有り様に、憧れ慕う人々が多いことを。
(私が、無理矢理……貴方を副リーダーにしたのだと、思っているのかもしれないけど。フリック、それは違うわ。貴方の人柄が、行動が、魅力が。人々を引きつけているのよ。だから自然に、副リーダーになっていったのよ)
 だからこそ、自覚を持ってほしかった。
 その優しさと良い意味での甘さとで。人々を引きつけていることも知らない彼。相応しくないと、否定ばかりする純粋な人。
(貴方ほど、相応しい人はいないのに)
 気温は冷たくて。
 立っているだけで凍えそうになるのに、この心の温かさはなんなのか。
 凄惨な現実に、泣きたくて立ち上がれなくなりそうな心を、励ましてくれる力はどこにあるのか。
(私は知ってるわ)
 意を決したように。オデッサは、足を踏み出す。
 ――貴方の存在が。
 一歩、一歩。息を殺して、身長に。距離を縮める。
 ――そう、いつだって。私を……。
 近づいていく距離。眠ったまま目覚めない彼。
 ――唯一甘やかして、慰めて、支えてくれているのだから。
 そして最後の距離を一歩、詰めた。
「嘘……みたいだわ」
 驚いていた。
 目の前で彼は剣を抱いて眠っている。
 すぐ隣に、自分がいるというのに。
 まさか目覚めないのではなくて、目覚めることが出来ないのか?と、一瞬ひどく恐ろしい予感に囚われ、慌てて手を伸ばした。指先に触れたのは、乱れていない静かな呼吸の気配。生きている証。
「フリック……」
 思わず安堵に呟いてみる。
 彼は生きて、そして眠っているだけなのだ。
(もしかして、私のこと。すごく信用してくれた、ってことなのかしら)
 警戒の必要がない相手の前でなら。
 眠ったままでいることもあるのだと、聞いたことがある。
 その一人なのだろうか?自分は。彼にとって。
 そんな事を考えると嬉しくて、不謹慎のだが笑みが零れてしまった。
 生きていれば、どんな悲しみと辛さの中であっても、微笑みたくなる小さな幸せは訪れるのだと。こういう時に実感出来るから。
「私ね。いつか、言いたいわ」
 心に秘めている言葉。
 甘えきってしまったら、立ち上がれなくなるから。
 だから、今は眠っている彼にしか言えない言葉。
「貴方にどれだけ救われているのか。貴方にどれだけ甘えていたのか。ありがとうって気持ちを伝えたいのか。……愛して、いるのかを」
 胸に秘めた告白を、相手に伝えることが出来るのは。
 きっとこの見上げるソラの遠さと同じ程に、随分先のことなのだろうけれど。
「いつか言いたいの。私が…私である証の、この想いを」
 顔を覗きこみたくて、膝をつく。すると流石に近すぎた気配に気付いて、フリックの睫が僅かに揺れた。
「………? ……オデッサ?」
「起こしちゃった?」
「い、いや。そんなことないさ。熟睡してたわけじゃない」
 覗き込むようにして、オデッサがいうと、フリックはバツが悪そうに応える。まるで、情けないところを見られてしまったと、いいたげな顔で。
(愛してるわ)
 いえない言葉。だから飲み込んで、別のことを言おう。
「フリック。手を、かして。手当てをしないで放っておくなんて、駄目よ」
「ん?あ、ああ。まあ大丈夫さ、この程度なら」
「駄目」
 いつになく、強く否定するオデッサに、フリックは首をかしげる。
「オデッサ?」
「私がいやなの。貴方が怪我をしたままだなんて。私が、嫌なの」
「……分かった。悪かったよ、オデッサ。治療はする。だから、オデッサは休んでいたほうが」
「私は大丈夫だから。フリック、手当て、させて。私に」
「……? ああ、分かった。その方がオデッサがいいのなら」
 笑顔で言うと、フリックは立ち上がる。だからオデッサも同時に立ち上がった。利き手ではないにしろ、剣を扱う手を医師でもない自分に治療させてくれるというのが、すこし、嬉しい。
「ねえ、フリック」
「ん?」
「……ありがとう」
「………え? なにがだ? オデッサ」
「なんでもないの。詳しいことは、うん。いつか、言うわ。だから待ってて」
 時があるのだと。
 信じていた。
 あの広がる空と同じほど、長い時間があるのだと、信じて疑わなかった。


 ねえ、知っていた?
 貴方の存在が。優しさが。
 いつも、私を支えて救ってくれていたのだと………。

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