餓えたる魂に

 餓えている。けれど求めていない。
 まだ小さな頃、戦場へと旅立つ父親のテオと、母親代わりでもあり兄代わりでもあったグレミオと寺院を訪れたとき、そう思ったことがある。
 彼らは渇食をする。
 何故、そうするのか。何故、あえてそんな苦しいことをするのか。
 小さかった自分はまったく分からずに、僧侶の袖を掴んで、盛んに尋ねたのだ。
 ――何故、好んで辛いことをするのか。
 ――何故、そんなに満たされていないのに、満たされた顔をするのか。
 分からなくて。
 ひどく不思議で。
 テオとグレミオに引き剥がされてなお、「何故」と尋ねて叫んでいたのを覚えている。


 その、何故、を。
 時々、傍らに立つ少年に向けたくなることがあった。




「ねえ、テッド」
 毎日のように遊びに来る親友が手にしていた、小ぶりの弓を奪い取って話しかける。
 感情がもっとも最初に出る大きな目をまばたかせて、親友である彼は自分を見るのだ。
「なんだよ」
 返せよ、と手が動いてくるので、奪い取った弓を器用にずらして体の後ろに隠した。空振りになった手が空を泳ぎ、バランスを崩しかけて、「うわぁ」と調子のずれた声を上げる。
「ねぇ、テッド」
 なんだよ一体、とぼやく親友の目をすばやく覗き込んだ。
 初めて出会った時、彼の瞳は恐怖に震えていた。
 父親を含めた大人たちは、戦場を一人でさまよい歩いていた日々の記憶に怯えているのだろうと考え、それは心配げに彼を見守っていたものだ。
「違うよ」
 考えが声に出てしまう。
 顔を覗きこまれて、なにやらバツの悪い思いをしていたテッドが、「は?」と首を傾げた。
「何が違うんだよ。弓の張り方、間違えてたか?」
「テッドはそんなこと、間違えないよね」
「え? あ、まあ、そうだな。うん」
 困ったように鼻の横をテッドがかく。
 大人たちが思っている以上に、この親友があらゆる出来事に詳しいことを、自分は知っている。
 たとえば、遊びに出てみつけた怪我をした迷い鳥の手当ての仕方だとか。
 森で迷子になったときの、対処方法だとか。
 ――変だ、と思うほどに彼は詳しく、そして。
「テッドって時々、すっごく頼もしくなるよね」
「時々ぃ? いつだって頼もしいだろ、俺は」
「普段はそうでもないよ。ま、しいて言えば僕のほうが頼りがいがありそうかな」
「あのなぁ」
「父さんたちに聞いてみたら」
「それって俺の分が悪すぎ。みんなお前命!なんだからさぁ」
 普段どおりの会話になって、テッドの口調が少しだけ早くなる。
 ――なにかを、ごまかすために。
「テッド」
 声に、ひどく真剣な色をこめれて名前を呼ぶ。多分余人が見れば気づくことはないだろう。けれど、分かる。
 瞳の奥の虹彩が僅かに震えて。何かをひどく、恐れていることを。
 聞いてみたくなる。
 子供の頃、渇食を行う僧侶を捕まえて尋ねたように。


『何にそんなに、餓えているの?』


 そして。


『なぜ、そんなにも。求めないようにするの』


 と。


 テッドが何かを隠している。
 それだけを知っている。
 笑顔をの奥に覗く深い孤独と、時折みせる切なそうな顔と。
 死にゆくものを見つめるときの、あの――羨望の色を。
 怖かった。
 彼が死にたがっているのは間違いない。
 眠りたがる赤子のように、彼は無心に――死を求めている。


「なぁ、どうしたんだよ?」
 声が震えている。
 少しだけ、ほんの少しだけ。
 テッドは何かを隠している。見つけられたくない何かを隠して、いつか。
「ずっと一緒だよ」
「は?」
「ずっとさ。なあ、テッド。俺たちって、生まれた場所も違うし、今までどうやって生きてきたかも違うし」
「うん」
「でもさ、これからはずっと一緒に居よう」
「――あ、ああ」
 首を傾げて、曖昧にテッドは微笑んだ。
 その、目は。
 強烈に何かを求めているくせに、それを求めることを己に禁じている者の目に間違いなくて。
 また、怖くなる。
 居なくなりませんように。
 テッドが消えてしまいませんように。
 そんなことを、今、声には出さずに、顔にも出さずに、強烈に祈る。
「テッド」
「ん?」
 ずっと先のことは、決してテッドは約束しようとしない。
 だから少しだけ先を。
 今日を、明日を、約束する。
「どっか遠出しようよ」
「遠出って。あれ、明日って、グレミオさんが家に居てくださいねって言ってなかったっけ?」
「言ってたよ」
 にやりと笑ってみせれば、かすかに見せていた”恐れ”を消して、テッドが笑った。
「でもさ、家で待ってるよりもさ。ちょっと遠出して、父さんを迎えにいったほうが楽しくないかな」
「距離あるぜ? 明日出ても……ああっ!」
「気づいた?」
「まさか、今から行く気か?」
「当たりっ! ほら」
 最初に奪い取った、弓の変わりに、野宿が出来る程度の装備をいれこんだ袋を手渡す。一体どこに隠してたんだよ、と目を丸くしたテッドに、親指を突き出して見せた。
「晩御飯の前にさ。そしてっ!」
 立ち上がって、長々としたロープを手にして窓辺によった。
「脱出は窓からっ! これぞ冒険」
「グレミオさんに大目玉くらうぞ」
「やだな、テッド。最後にグレミオに大目玉を食らってこその冒険だよ」
「かなわねぇの。よしっ」
 調子を取り戻したように笑うと、テッドは勢いよく立ち上がる。そのまま窓辺に体を寄せ、ロープをどこに結ぶよ、と声を弾ませた。
 ――いつか。
 自分は聞いてしまうのだろうかと、思う。
 何に餓えているのか?と。
 それは、決して埋まらないものなのかと。
 それとも。
 いつか。
 テッドが自ら話すのだろうか。


 その餓えた魂が、何を求めているのを……。