始まりの……

 喧騒に支配されている、宿屋と酒場をかねた店の中で、彼女は座っていた。
 手元にはティーカップが二つ。一つは既に飲み干されているもので、なみなみとした琥珀色の液体をたゆとわせているのは、彼女のものだけだ。
 先ほどまで、彼女はとある人物と話し込んでいたのだ。相手はこの地方の名士で、彼女の活動に興味を持ち、話をききたいとの申し出をしてきた男だ。
「さて、どうしようかしら」
 彼女は比較的明るい声で呟きながら、手をつけなかったカップを意味もなく持ち上げる。そうしていれば、冷めるのを待っているように見えるだろうことは、計算済みだ。
 栗色の髪に、深く澄み渡るような碧い瞳をした彼女は、文句なく美しい。けれど彼女が起こす活動は、外見の美しさと繊細さには全く似合わぬほどの、大胆さに満ちていた。
 彼女の名前は、オデッサ・シルバーバーグ。
 現在の赤月帝国においてもっとも有名な名前であり、反逆者の名前である。
「解放軍ってなかなかいってくれないのよね」
 反乱軍とはちょっと違うのよ、と。彼女は先ほどまで目の前に座っていた男との会話を思い出して、一人、ごちる。
「フリックに怒られるわね。また言われるかしら、人を信用しすぎるって。でも、味方が欲しいのは切実なところよね。とくに……軍資金をひねりだせる味方は」
 ふう、と溜息を落とす。
 それさえも、手にしたカップの中の茶を冷ましているように見せるのだから、中々の役者だった。
「さて、どうしよう。私と組むよりも、私を売ったほうが特になるって思われてしまったみたいだし」
 危険な呟きを一つ、心の中で落とす。
 村の外にさえ出れれば、無断で飛び出してきた自分を迎えにきているだろう青年と合流できる自信があった。青年が来ているという点については、オデッサは全く疑っていない。問題はただ一つ、村の外までどう出るかだ。
 ふっと、顔を持ち上げて視線を周囲に投げる。
 客のふりをして入ってきた男が、三人。どれもこれも一般市民の顔をしようとして失敗している。目に殺気を走らせた男など、いくら殺伐とした世の中でも、そうはいないはずだ。
 彼女は傍らに置いた、弓の入っている袋をさりげなく持ち上げて、抱きしめてみる。
 敵の位置を確認しようとして、ふと、目に入った男が居た。
 大きな背をした男だった。
 旅暮らしを続けている者らしい風情をしている。男は先ほどから、開けっぴろげな態度で、大皿の追加注文ばかりを続けていた。
「変ね」
 外見で判断しては悪いだろうが、どうみても軍資金が豊かな男には見えない。 
 腰に差しているらしい剣は柄は立派だが、刀身はなまくらが入っているように見える。ようするに、はったりのために剣をさしているだけで、実際には殴るのにしか使えないだろう。
 とはいえ、男の体格は立派なもので、殴る武器さえあればかなり戦えそうだった。
「そうね、あれは戦ったことのある人間の気配だわ」
 殺気があるわけではない。
 むしろ、あけすけなまでの明るさが男を包んでいた。
 だが。いや、だからこそ。オデッサには、男が周囲を警戒しているようにしか見えない。
 男はオデッサの目の前で、乾燥したもの――要するにパンだとか、乾いた肉など――を腰の袋に放り込んでいく。ちらり、ちらりと、視線が周りを確認するのを見て、彼女は確認した。
 ――食い逃げだ。
 完全な食い逃げだ。
 一瞬、彼を見ていたオデッサの方を、男が見た。
 自分がなにをするか、見破っている目だと気づいたのだろう。たいして良いつくりの顔ではないが、愛嬌のある人懐こそうな顔に驚きを作ると、陽気に一つウィンクをしてみせる。
 悪い男ではない、とオデッサは突然に思った。
 同時に、仲間に欲しい――とも。
 オデッサは急いで立ち上がると、ゆっくりと入り口の方に向かった。男はオデッサが告げ口をするとは思っていないようで、安心して出てきた皿を片端から食べている。
 彼女を見張っている男達の視線が動いて、オデッサの挙動を見据えていた。
「ねえ、いくらになるかしら?」
 あくまで明るい声を上げる。
 カウンターに入っている女が顔を上げ「あんたのは、さっきの男が払っていったよ」とひどくなまめかしい声で言った。オデッサは軽く瞳をあげ、意味ありげな視線を、大食いを続けている男に投げる。
「恩を売ろうかと思っているのよ」
「一体なんの話をしているんだい?」
 女の問いにを受けて、オデッサは勢いよく振り向く。
「そこに食い逃げを企んでいる男がいるのよ」
「――っ!?」
 無邪気といいたくなるような笑みを浮かべたオデッサの顔を、信じられないというように男が見つめてくる。食い逃げという言葉に反応した女が仰天し、男のテーブルに積まれた皿の数に目を丸くし、続けて軽く手を振って使用人を促した。
「悪いけど、先払いしてもらえるかしら?」
 店の女が色っぽく囁くと、男は不思議な声をだした。言葉にすれば、グゥとでも表現すれば適切か。使用人たちが近づいて、怖い顔で男を睨む。
 万事休す。男の腰がそろそろと浮くのを見て取って、再びオデッサが笑った。
「違うわ、私は店に恩を売りたいんじゃないの。あなたによ。買うでしょう、私の恩」
 颯爽と歩いて、オデッサは細い手を使用人たちに囲まれた男に差し出した。その仕草はひどく美しく、場末の酒場にいるなどということを忘れさせるほどの優雅さに満ちている。誰もが見とれたその後で、「どう?」と有無も言わさぬ声を上げた。
「まいったなぁ。恩を押し売られたのは初めてだぞ」
「悪くないでしょう? 私、貴方が気に入ってしまったのよ」
「……本当にか?」
「その疑わしそうな顔はなに? あ、でも安心してね。恋人にしたいっていうわけではないから」
「そんなこと、誰も聞いてねぇよ。まったく、まいったなぁ」
 ぼりぼりと頭を聞き出した男の、妙に愛嬌のある様子に、緊張が一気に解ける。男に背を向けて、今度はオデッサは店の女を見やった。
「というわけで、おいくらかしら?」
「さ……三千ポッチだよ」
「三千っ!! すごいわね」
 流石に目を丸くした彼女の後ろで、悪戯をとがめられた子供のように、男が大きな体を小さくする。
「まあいいわ。一度言ったことには二言がないの。はい」
「間違いなく。……でも、あんたも奇特だね」
「ちょっとね。たまにはいいでしょう? そうね、奇特ついでだわ。もう二千、払っておくわね」
「そりゃあ一体なんで?」
「この場にいる人に、おごりよ」
 軽やかに笑い声をたててみせる。いっせいに酒場が沸きあがった。人々は男を押しやって、彼女の隣まで進ませる。そうして横に並びあって、オデッサは突然鋭い言葉を小声で放った。
「護衛してくれないかしら?」
「ったく。そういうオチか。タダより怖いもんはねぇなぁ」
「でも、ちょっと楽しそうって思っているでしょう? それにお礼に、ご飯と寝床、提供してあげるわ」
「なるほど。悪かぁねぇか」
「生きて脱出できれば、ね」
「どこまで行ければいいんだ?」
 人懐こい眼差しに、一瞬触れれば切れるほどの強い光を浮かべて、男が尋ねる。オデッサは僅かに微笑んで、「村を出てれば大丈夫」と答えた。
 男は少し悩んだ。太い腕を組み、突然のおごり発言にやんやと喝采を浮かべている人々を見、炯々としたまなざしを向けてきている男達を見やる。
「俺はビクトール」
「オデッサ。オデッサ・シルバーバーグ」
 鮮やかに囁いて、オデッサはいきなり走り出した。ビクトールが名乗った男が、付いてくることを信じて疑わない姿に、一瞬男はまぶしそうな顔になる。緊張が走った見張ってくる男達を見やり、ビクトールは駆け去り際に大声を出した。
「んじゃ、俺は奢られるぜっ! お前ら、おごりを祝って合唱だっ! 全員で歌っとけっ!」
 太い腕が扉を押し、外に飛び出す。
 残された人々はどっと笑い、そして本当に歌いだした。隣の人間をつかみ、その人間がまた隣の人間をつかんで、踊りまで始まっている。
 外に飛び出したビクトールは、前を走って空を流れる鮮やかな栗色にすぐに追いついた。
「村の外までで本当に大丈夫なのかよっ!」
「大丈夫よ、すぐに助けが来るからっ!」
「なるほどなぁ。あんた、じゃあ、あのオデッサなんだな」
「オデッサの名の意味を、もっとも強く持つ者という意味なら私のことねっ!」
「有名人だなぁ」
 息を切らさずに会話をしながら走り抜ける。
 酒場の中だけでなく、外にも集まってきていた者たちが追いかけてきた。オデッサは走りながら袋を払い、小弓をあらわにする。「怪我はさせたくないけど」と小さく呟きながら、目の前をふさごうとした者たちに矢を放った。
「オデッサっ! ちょっと伏せろっ!」
 ビクトールが大声を出し、オデッサの腕をつかんで伏せさせる。なまくらだと思われた剣を抜き、おかえしとばかりに放たれた矢を、彼は叩き落した。
「偽者かと思ってたわっ!」
「殆どきれねぇってのが事実だけどな」
「鍛えなおしてあげるわ。良い鍛冶屋もいるからっ!」
「解放軍ってのは、大所帯だなぁ」
 向かってくる矢を叩き落し、近寄ってくる相手を叩きのめしながらビクトールが叫ぶ。オデッサは目を丸くし、「今、解放軍っていった?」と声を上げた。
「はあ?」
「だから、解放軍って言ったの!?」
「だってそうなんだろ!?」
 逆に不思議そうに問われて、オデッサは返答に詰まる。「そうなんだけど」といい、また器用に矢を放った。
「あんまり、そう呼んでくれる人いないからっ!」
「人の解放を目指すなら解放軍だろう。簡単なこった。とらあえず、俺はそう思ってるなぁ」
「不思議な人ね、ビクトール。あっ!」
 ついに進路を阻まれる。横にずれようとして、既に四方を囲まれたことにオデッサは唇をかんだ。
「おいおい、どうするよ。オデッサ」
「……。大丈夫。大丈夫よ」
「なんか嘘っぽいんだよなぁ。おい、俺が切り開くから、先に逃げ――。なんだ?」
 道を、力強く何かが蹴たてて進んでくる音がする。
「来たわっ!」
「何が!?」
「味方よっ!」
 晴れやかな声をオデッサが上げたのと、周囲を取り囲んだ男達の血相が変わるのは、同時だった。馬の音は二つで、とんでもない速さで進んでくると同時に、矢の嵐までが降り注いでくる。
「伏せて、ビクトールっ!」
「はぁ!?」
 クマのごとき大きな体を、オデッサが庇いこむかのように押さえつける。素直に地に伏せたとき、地を蹴る馬蹄の音とともに、耳に響く旋律のような声が聞こえてみた。
「なんだ?」
「知らない? 詠唱よ」
「詠唱。……紋章かっ!?」
 驚いた彼の目の前で、晴れ渡って輝いた空が、急激に薄暗さを増していく。一つ、一つ、声が響くたびに空の色が変わり、そして最後激しい声が何かを命じた。
「ら、落雷かっ!?」
「雷の紋章よ」
 正規軍でもない、田舎町の用心棒たちは紋章の威力を目の当たりにして、腰が引けている。その隙にオデッサは立ち上がり、澄んだ声を響かせた。
「――フリックっ!」
「オデッサっ! なんだその隣のはっ!」
「味方よ。馬はそっちに貸してあげて」
「……信用できるんだろうな!?」
「ええ。きっとフリックも気に入るわっ!」
「俺は絶対に気に入らないっ!」
 駆け寄ってくる馬上の人間と、走りよる地上の人間がすばやい会話を交わす。とりのこされた形になって、ビクトールは思わず肩をすくめた。
「気に入るだの、気に入らないだの、人を犬だか猫だかのように」
 ぼやこうとした言葉の続きは黙り込む。オデッサはすばやく振り向き、「開いている方の馬に乗って、ついてきてっ!」と言った。同時に、彼女は軽く空に向かって差し伸べる。
 なんだ、とビクトールが思ったときには、とんでもない馬捌きで青い馬影がオデッサの前に飛び込み、横ざまに彼女を抱え上げた。気障だ、とビクトールは呟きつつも、続けて駆け込んできた馬の手綱をなんとかつかむ。そのまま飛び乗れればさまにはなるが、そこまで出来るわけがない。青い影が「止まれっ!」と馬に呼びかけたので、ビクトールは何とか乗ることが出来た。
 我に返った追っての男達が、ビクトールにむかって殺到する。
「損な役割過ぎる」と呟いて、彼は慌てて先行する二人を追った。


 いくつかの道を越え、獣道とおぼしき道も分け入ったところで、ようやく馬は足を止めた。
 周囲は鬱蒼とした森に囲まれていて、どうみても人が暮らせる場所とは思えない。
「フリック、大丈夫よ。信用できるわ」
「一体何を根拠にそんなことを言うんだ、オデッサ」
「根拠なんてないわ。根拠がなければ信用できないなら、私、誰のことも信用できなくなってしまう。私、信じたいって思ったのよ。ビクトールのこと」
 ぴくりと、整った眉をもちあげる。オデッサがフリックと名を呼ぶことと、青い影のようだった姿を思い出して、唐突にビクトールは手を叩いた。
「ああ、あんたが解放軍のフリックか。青雷とか言われてる?」
 名を呼ばれて、ちらりと彼はビクトールのことを見やる。知っているのかと言いたげな瞳に、ビクトールは晴れやかな笑顔を向けた。
「知ってる死ってる。はっずかしい通り名の奴がいんなーと思って覚えてたんだ」
 きゃ、とオデッサが声を上げた。
 瞬間にフリックは剣に手を置く。
 凍りつくような緊張感の中で、それでもビクトールは笑っていた。
「俺はビクトール。とある奴を探して旅をしている。そいつが見つかったら、俺は遠慮なくここを抜けるだろう。――俺が唯一欲しいと思うのが、奴の首だからだ」
「首?」
 オデッサがなぜか思いつめた眼差しになる。心配そうな表情になって、フリックが彼女の肩に手を置いた。
「誰だ」
「教えれば、信用するか?」
「利害が一致する相手なら信用しない。利害が一致せず、敵と狙うに相応しい相手なら信用する」
「気難しいねぇ。――ネクロードだ」
 人々を恐怖に突き落とすヴァンパイア。……ネクロード。
 フリックはしばらくビクトールを睨み、静かに剣から手を放した。
「俺はフリックだ。もしお前が奇妙な行動したら、俺が必ずお前を切る」
「へいへい。覚えておくよ。俺はビクトールだ。よろしくな」
 軽く手を差し伸べる。
 フリックはそれを無視したので、オデッサが変わりにそれをつかみ、
「さあ、案内するわ。私たちのアジトに。――私たちの家に」
 軽やかに、笑った。