第壱話・いざなわれし安らぎの風
目次第弐話・暗き森の中

 紅い髪を三つ編みにして、背中に流した少女ファルは、水色の瞳を怒りにふるわせていた。
 森を押し包む暗闇が、ファルの心を潰している。梢はざわざわと鳴って、月の光が木々の隙間から差し込むと、痩せた少女は惨めな状況を確認出来るのだ。
 手足を縛られ、さるぐつわを噛まされ、湿る唾液の不快感に泣きたくなりながら、ファルは彼女に似た痩せた小馬の背にゆられている。頭から額までを布でおおっていて、目元が外気にさらされていた。
 ファルは、動乱の時代に産まれた子供だ。
 巨大な大陸の殆どを支配していた王国が、腐敗の末に崩壊したのはもう三十年以上も前のこと。地方領主は次々と王を名乗り、小国が乱立した。外大陸にて覇を唱える遊牧の民は、中央大陸へとたびたび攻撃をしかけて、略奪の限りを尽くしている。
 長い歴史を持つ国も、乱立したばかりの小国も、互いに相争って国は一夜にして滅んでいった。国を失った民は放浪し、安住の地を求めて散る。
 ファルが動乱の中で、村を失ったのはつい二ヶ月前のことだった。朝の支度に取り掛かった村に、地面を揺るがす音を響かせて遊牧の民が現れたのだ。
 馬を愛する遊牧の民は、戦力となる軍馬は殺しても農耕馬は殺さない。
 飼葉の中にもぐりこんだファルは、蓄えを奪い取り、見目の整った娘を連れ去っていく略奪と殺戮の光景をただ見ていた。
 生き残りが集まって、保護を求めて領内をあてなくさまよう旅の途中、ファルは再び悪夢に襲われた。通行許可を求めた山道の関所で足止めを命じられ、野営した夜中に襲われたのだ。
 襲ったのは野党ではなく、関所を守る兵士だった。彼らは離散する民から、容赦なく少ない蓄えを奪っては懐を暖めている。男は殺され、年端もゆかぬ子供は谷に落とされ、少ない娘はとらわれた。
 ファルは十五歳で、もう結婚も出来る年齢であったが、彼女はあまりにも貧弱だった。十の子供のようだと言われたこともある。
 売り物にならぬと笑われて、ファルは小馬の背に放られた。
「贄にはなる。一応は汚れておらぬ娘なのだから。これなら惜しくもない」
 関所の山に、人語を解する獣がいるという。
 獣は集落にふらりと姿をあらわすと、きまって女を牙にかけて連れ去ってしまうのだ。
(あたしを、獣の食べ物にするだなんて)
 ファルは猛烈に悔しかった。悔しくて、悔しくて、叫びだしたい気持ちで胸がいっぱいになる。
 戦乱の世では、辛いことにあう確率は本当に高い。けれどせっかく十五年も生き伸びてきたのだ。兄弟姉妹たちは大人になれずに死んだけれど、身軽なファルはいつも逃げ延びてきたというのに。
(悔しい、悔しい、悔しい!)
 柔肌に沢山のすり傷をつけていく荒縄の痛みより、真っ暗でほんの僅か先さえも見えない暗闇への恐怖より、心を占めるのは悔しさだ。
 突然に、視界がぶれた。
 ファルを運んでいた痩せた小馬が、信じられない力を発揮して、いきなり棒立ちになったのだ。絶叫にも似た悲哀のいななきが、闇を切り裂く。覚悟を決める間もなく、ファルの痩せた体は放り出されて、息がつまるほどの衝撃が走った。
「ぐぅっ!」
 やわらかい土であれば、衝撃を吸収して受け止めてくれただろうが、ファルが落ちたのは硬い土の上だった。激しく咳こみ、必死に体勢を立て直そうとする。
 うっそうと茂っている木の葉が、風にあおられて、音を立てた。頭上に昇る月が、まぶしいほどの光を射してくる。暗夜にぽっかりと浮かび上がった、哀れな小馬の尻尾は眼下に消えていった。
(崖?)
 しばられた手が、じっとりと汗ばむ。心臓の音が、どくん、どくん、と激しく打った。木々を揺らした突然の風がおさまり、月光はもう周囲を照らさない。ファルはひたすらに精神を研ぎ澄まし、闇をにらんでいた。
(獣がいるんだ。……爪で人をかけてしまう、獣だ!)
 がさりと音がした。
 縛られた体を震わせ、ファルは全身をくねらせてあとずさる。さるぐつわがなければ、がちがちと歯が鳴って響いただろう。恐怖に支配されて震えても、水色の瞳は閉ざさなかった。身動きが取れない少女が出来る抵抗といえば、睨むことだけだったからだ。
「そこに誰かいるのか?」
 柔らかな少年の声。
 ファルはぽかんと目を見張る。
 人語を解する獣というのは、関所を守る屈強の兵士たちが、生贄を差し出すほどにおそれる獣なのだ。そこに少年などいるだろうか?
(獣だっ!)
 優しい声で油断させて、近づいて爪をかけるに違いない。ファルはそう考えて、気配を殺すために縛られた体を小さく折った。縛られた個所はじんじんとうずいている。極度の緊張に体中の筋肉がこわばり、今にも壊れてしまいそうだった。
 小枝が折れる音が響く。恐怖におののくファルを笑うように、いきなり風が鳴った。
 枝葉を伸ばす自然の天涯がはずれ、月明かりがまっすぐ少女の上に降り注いでくる。
 月光に照らし出されたのは、まぎれもなく少年だった。
 丁寧に継ぎはぎされた服をまとい、大きな背のうを背負っている。頑丈そうな樫の杖と小ぶりの鉈を手に、彼はぽかんと立っていた。ぱちぱちとまばたいて、少年は慌ててファルに駆け寄ってくる。
「ひどい目にあったんだ。大丈夫?」
 尋ねる声には、悪意も、敵意も、かけらも存在していない。ただあけすけにファルを心配する声だった。それでようやく助かったと実感し、安堵する前に呆然とする。
 少年は壊れものを扱うように拘束を解いていく。ぎゅうぎゅうと縛っていた荒縄が断ち切られ、さるぐつわを外されロ元を少し乱暴に拭われ「ありがとう」とファルは細く言った。少年はにこっと明るく笑う。
「ずっと縛られて、血の巡りが悪くなってるかもしれない。ここじゃなにも見えないから、分らないな」
 落ちてきた月光は、もう消えてしまっている。暗闇の中で少年は少し悩み、背のうをおろした。
「これはまだ重くない。おれの代わりに背負って」
「え?」突然の申し出に、ファルは困惑する。「あたしが? それを背負って、歩くの?」
「そうしないと、おれの背があかないから」
「あかないと、どうなるの?」
 ファルの問いに、少年は闇の中で少しいらつき「決まってる! 背負えなくなるよ、きみを。それとも歩けるの?」と声を荒げた。
「背負う!? あたしを?」
 ファルはびっくりして飛び上がった。少年は背負ってくれると言ったのだ。父母を失い、兄弟を失ってから、痩せっぽちで小さな役立たずのファルは見捨てられていたというのに。
「あんた、いい人なんだ」
「セナイ」
「え?」
「おれの名前。きみは?」
「ファル」
「じゃあ、ファル。急ごう。ここで長居はしたくない」
 少々乱暴に、セナイはファルに荷物をおわせた。続けてかがみ、少女を背に立ちあがる。
「ねぇ、セナイはどうしてこんな所にいたの! 人語を解する獣の住処なんでしょう?」
「そうだよ。だから、いたんだ」
「ちょっと待って! それはどういうこと?」
「あとで話すよ。それより口を縛っといて。この先は段差が激しいから、下手すると舌を噛むよ」
 ファルは慌てて唇を引き結ぶ。セナイは道なき道をすいすいと移動していく。低い木に隠れた段差に足をとられることもなく、踏み固められた道であるかのように、少年は山を進むのだ。
(山に詳しいんだ)
 ファルは感心して、体中が痛いことも忘れてセナイにしがみついていた。農作業で生計を立てていた村の子供のファルは、山の奥深くの世界を知らない。知識のないものが入れば、帰ることも出来なくなる怖さを持つ場所であることだけを知っていた。
「頭を下げていて」
 山の湿った空気と風を感じて、頭を上げていた。慌てて体を丸め、少年の背に額をつける。ごわついた硬い布の感触を、ファルは優しいと感じた。
 衝撃が走った。
 セナイが崖を滑り降りただけなのだが、投げ出されたと感じたファルは小さくなる。硬く閉ざした瞼のうえを、柔らかな光がふいになでて行った。
(ひか、り?)
 見事に着地したセナイは、ファルが身体を縮めたままであることに軽く笑う。木株の前で膝をつき「降りなよ」と少女に呼びかけた。
「わあっ!」
 落雷で倒れたと思わしき巨木が、周囲の若木をなぎ倒していた。頭上を覆う枝葉の天蓋に隙間が生まれ、そこから太陽と月が光をさんさんとおろすのだ。生えそろった草はいかにも柔らかそうで、ファルの心はうきうきとわき立った。
 耳を澄ますと、さらさらと流れる水の音を感じ取る。
「すごい……すごい!!」
 頬を紅潮させて興奮するファルに、セナイは誇らしげな仕草で鼻をかいた。
「おれが作ったんじゃないけどね」言って、セナイは座るファルに手を伸ばした。縛られていた箇所をたしかめるように見て、軽く触れていく。
「ちょっと押すから、痛いかも」
 爪に泥が入り込んだ無骨なセナイの手が、時に強く、時に弱く、指圧していく。しばらく激しい痛みが続いたが、次第に心地よさを感じるようになってくる。冷たかった末端にじわりと暖かさを感じて、ほうっとファルは息をついた。
「もう大丈夫かな」
 少年が離した手を、ファルはつい目で追ってしまった。藍色をしたセナイの目と、水色をしたファルの目が、ぱちりとあう。「ごめん」とファルが慌てるより早く、「もう大丈夫だよ」と、セナイが少女の肩をたたいた。
「血が止まってなくてよかった。聞きたいことが沢山あるんだ、いいかな?」
「あたしもある。でも、セナイが先でいいよ」
「だったら教えて欲しいんだけど、ファルはどうしてあんなところで、縛られたまま転がされていたの? ファルはあの辺りの住人じゃないだろ?」
 腰を落ち着けて話すことにしたのか、セナイは頭にかぶった頭巾をはずす。包まれていたのは黒緑色の髪で、総髪にしていた。額には不思議な文様が描かれている。
 ファルは質問に答えるのも忘れてしまって、セナイの額の文様をじっと見つめた。
「セナイ、それは?」
 痩せぎすの手を、ほとんど無意識にセナイの額に伸ばす。驚いた少年が、おろした腰を浮かせてのけぞった。
「あ、ごめん。……ね、その額に描いてあるのは?」
「これ? 夜に吹く風を意味する文様だよ」
 無骨な手で、セナイは額をおさえる。
「風?」
「おれらのご先祖さまはさ、風と共に生きる民だったんだって。ずっとずっと昔の話さ」
「今は違うの?」
「風の啼く谷をおわれて、山の住人になってしまったんだ。だからもう本当の意味では、風の民ではないかもしれないよ。でもおれはまだ風を感じるよ」
「風を、感じる?」
 身体を乗り出して、ファルは目を輝かせた。
 痩せて貧弱な少女が今まで生き延びることが出来たのは、俊敏に動く体を持っていたからだった。まるで体重のないもののように、ファルは動くことが出来る。
 そう、まるで風のように!
「それって! ねえ、身体の中に風がめぐって、まるで一緒に走っているような気持ち?」
「全てがどこまでも遠く、どこまでも高く、おそろしいくらいに月が近くて」
「小さい世界が、眼下に広がり」
「そう、まるで自分が」
「風になったかのように!!」
 二人、一息に叫んで、互いに顔を見合わせる。
「ファル?」
「すごいっ! あたし、同じように風を感じている人なんて初めて! セナイが初めてだよ!」
「おれは初めてじゃない。けど同い年くらいのヤツに言われたことはなかった!」
 セナイは真顔になって、木株に座っているファルの目の前に座り直す。手を伸ばし、ぐいと少女の肩をつかんだ。
「ファルにも、これに似た文様がある?」
 セナイの目が、まるで星のようにきらきらと輝いている。ファルは嬉しくなって、パンッと手を打ち鳴らせた。
「あるよ! ほら、ここにっ」
 大きな声をはりあげて、ファルは頭頂部を包む簡素な布地をほどく。セナイとまったく同じ場所、額の真ん中に、薄い朱色で描かれた文様が露わになった。
「風の文様だ……」
 藍色をしたセナイの眼差しが、ファルの額の文様に釘付けになる。居心地が悪くなって、おもわず身じろぎをした。
「セナイ?」
「ファルは風の民なんだっ! おれとおなじ、安らぎを呼ぶ風のけんぞくなんだ」
「風の……けんぞく?」
 聞き慣れない言葉にファルは首をかしげたが、興奮した様子のセナイははしゃぐだけで、説明をする様子はない。風を感じると聞いて昂揚したファルの心は急速に冷えて、拗ねたように唇をとがらせた。
「あ、ごめん。つい興奮した。えっと、なにから説明すれば良いんだろ」
 困ったなと頭をかかえたセナイを見て、ファルはすぐに機嫌をなおした。座っていた木株から降りて、少年の隣に座り込む。
「あたし、つい最近にね、村を焼かれて追われたばっかりなの。遊牧の民は恐い。どこにでもやってきて、なんでも奪っていくから。助けが欲しくって、住む場所が欲しくって、王さまのところに訴えにいく途中だったの」
「そっか。まあ、良くある話だよな」
「うん。でも、自分のところは大丈夫かも、とかこっそり思ってた。どこもかしこも戦いばっかりで、どんどん大人はいなくなって、働き手がいなくて貧しくなってたけど。焼かれるなんてって思ってた」
 ぎゅうっとファルは手を握りしめる。

目次第弐話・暗き森の中