暁がきらめく場所
来客 [中頁]

気づいたことのあとの話
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「おい、アトゥール。ここにアティーファを迎えるのか?」
「扉を開けた直後からあれだからね。いくらなんでも主要な廊下と部屋の内装が終わってからにしないと、廃墟に住んでいると心配をさせてしまう。どうしてもと言われてたとしても、片づけは終わっているからいいよ。それよりも問題は……」
 指通りの良い絹糸のような髪を揺らせて一歩下がり、アトゥールは下から上までじっくりと親友を見定めていく。妙な緊張にカチェイは身体をこわばらせ「どうよ?」と弱く尋ねる。
「目は充血しているし、なんとなく顔色もくすんでるし、よりによって結構むくんでる。困ったな……」
 遠慮の欠片もない見立てに、カチェイは肩を落とした。
「ちっ、流石に量を飲みすぎたか。気持ち悪いとかはねえんだけどなあ。しかしお前にはこれっぽっちも影響が出てないな」
 互い以外に弱みを見せられぬ性格の問題だけでなく、そもそもアトゥールはとんでもなく酒に強いのだ。
「さてカチェイはどちらを選択する? アティーファに深酒の影響が出ていると言うのか、謎の体調不良という事にするのか」
「謎の体調不良だと!? 待てよおい、そんなことにしたらだぞ。アティーファが異常事態が発生したとパニックを起こすんじゃないか?」
「じゃあ深酒って説明するんだね。私はカチェイに付き合った程度だと言うから問題はないよ」
 妹分には一人で失望されればいいと言外で宣言されて「ぐ……」と潰れた蛙に似た声を上げる。
「ちょっと待て、考えさせろ。……深酒して翌日に影響が出ているのを白状したとするだろ。アティーファは『カチェイ、ロキシィおじ様みたいだ』とか言うよな、きっと」
「そうだね。あの子は放浪公王を引き合いに出して、微妙な葛藤を表現したりするからね」
 無駄に似合う夏の太陽を背景にして、こちらを馬鹿にして笑うミレナ公王の顔を再現してカチェイは激しく首を振り「俺は今から謎の体調不良だ!」と宣言した。
「……ところでアトゥール、謎の体調不良ってなんなんだよ。謎ってことは原因不明ってことだろ?」
「そうだね。例えば心臓が弾けそうなくらいに跳ねたり、血が逆流してきて込み上げそうだったり、頭の内側から思いきり殴られているみたいで、腹の中がどろどろになっているような感じがするけれど、医術的には原因が分からないとかかな」
「──アトゥールの謎の体調不良はレベルが高すぎで、俺の参考にならねえな」
「確かにそうかもだね。それなら……」
 首を傾げていいサンプルがないか考え出すのを見ながら、先ほどの発言が実経験に基づかれたものだと知っているカチェイは眉を寄せる。
「アトゥール、そいつは最近も起きたりするのか?」
「──? 抗魔力は完全に制御できているからね。魔力を吸収しすぎることによる中毒状態になることはないよ」
「それもそうか。子供の頃の話だもんな」
「子供の頃……? そうだ、ひどく不安な気持ちになった時に、リーレンが体調を崩していたよね。気持ちが悪い、頭が痛いって。医術的には問題はなかったけれど、かなり辛そうで心配だった」
「あったあった。まあそうなったとしても、しゃがんで動かなくなるばかりだったからな。初めてちゃんと辛いって言ってきた時は、こっそり二人で感動したよな」
 遠慮ばかりしていた子供のリーレンを見守っていた頃のことを、カチェイは懐かしく思う。
「……カチェイ、過去に浸ってるところ悪いけれどね。あまり時間はないよ? 謎の体調不良状態のヒントは得たって思っていいのかな」
「あー、悪いな。任せろ、体調不良の兄を演じきって見せるさ」
「なら私はアティーファを迎えに行ってくるよ」
「あとはなるようになれだ。気持ちが悪くなるようなモンでもあれば飲んでおいたほうがいいかもだよなあ」
「用意させようか?」
「妙に楽しそうな顔しやがって」
「昨日から私の忍耐力の限界に、挑戦してきたツケが回ったってことだね」
 二人で戯言を口にしながらも、対応方針を決めていく。
 そんな慌ただしい光景になる少し前。
 皇公族専用の港に停泊した船からアティーファは降りようとして、リーレンに腕を掴まれていた。
「どうした?」
 きょとんと目を丸くしたアティーファに「いくらなんでもまずいですよ!」とリーレンは必死さを込めて訴えた。
「リーレン殿。皇女殿下に主語のない言葉をぶつけて困らせるのはやめて頂けますか?」
 言葉だけは丁寧だが、たっぷりの皮肉と悪意をこめられた声が刺さって来て、リーレンは眉を吊り上げた。
「お前のせいで言ってるんだって! 当たり前のように船に先回りして『皇女殿下、お待ちしておりました』なんて、言ってくるとは思わないじゃないか。その上、行先を言ったっていうのに、堂々と付いて来れるってどういう神経だよ」
「わたくしは皇女殿下の侍女です。どこへなりともお供し、お守りするのが当然の役目です」
 蒼い瞳に健気な色すらたたえて、侍女……ではなく侍女に扮したエアルローダが、故意に高くした声でリーレンに反論してくる。
 あまりの芸達者ぶりにリーレンは頭を抱えたくなるが、アティーファの腕も離せない。ついに「あああ!」とうめき声をあげてしまった。
 それがやけにくっきりと、港に響いた。
 勿論エアルローダはリーレンの奇行を見逃すはずもなく、集まってきた視線たち──皇族の船を操舵する者や、港を管理しているティオス公国の面々──に騒いで申し訳ないと頭を下げていく。
 周囲の空気がエアルローダに同情的になり、リーレンに冷たくなっていくのをアティーファは感じて、腕をつかむ幼馴染の手に手を重ねた。
「リーレン、落ち着いて」
「アティーファ、様……」
「健気な侍女をリーレンが一方的にいじめているように見えてしまってる。私は優しいリーレンが、周囲に誤解なんてされて欲しくないよ。だから落ち着いて」
 真摯な言葉と優しさに感動し、感極まってアティーファを抱きしめたい衝動にリーレンはかられる。そんな彼の足を誰からも見えない死角から、エアルローダが蹴ってきた。
「──ッ!!」
「リーレン?」
 突然に呻いた幼馴染に驚くアティーファの前へと滑り出て、エアルローダがうやうやしくスカートを持って頭を下げる。
 仕草の一つ一つが堂に入っているのは、同じく皇女付き筆頭侍女であるエミナがエアルローダを側に起きたいと願う少女主君の為に、行儀作法を基本から叩き込んだ成果だった。
「エア?」なにかを狙っていると感じたアティーファが尋ねると、リーレンの機嫌を損ね騒ぎを招いたことを、心から反省する表情を作ってエアルローダは顔を上げた。
「これ以上の醜態をさらし続けるわけにはまいりません。側近殿はご機嫌が悪いようですので、どうぞわたくしに船で待機するようお申し付け下さい。この状況はわたくしが、この都にとって招かれざる存在だと示しているのでしょう」
 騒ぎの責任を一人で負う健気な発言と大多数には聞こえるだろうが、アティーファにはエアルローダがある現実を告げていると分かる。
 ファナス争乱の際に彼が優先項目としたのが、マルチナを手ごまとして確保することとアトゥールの抹殺だった。しかも実際に一度は果たされている。覆されたのはアトゥールがカチェイと共に奇跡に近い離れ技をやってのけたからにすぎない。
 だからエアルローダはアティーファに真意を尋ねるのだ。
 ここまでの道行きは問題ないが、公都の中にまで同行し、あれから一度も接触を持たなかった加害者と被害者を敢えて会わせるの必要があるのか? ──と。
 それはリーレンがアティーファの腕を掴んで引きとめた、珍しい実力行使の理由と同じだったので、彼もまた息をひそめて成り行きを見守る。
「──うん。ちゃんと意味は分かっている。簡単な気持ちで動いているんじゃないんだ、いつかはそうしたいって思ってた。それが今になっただけだよ」
 周囲に聞き取られせぬ為に小さく囁く少女の声を、聞き洩らすまいと二人は息すらもひそめた。
「私がエアと約束したのは永遠だ、生きていく時間だけが作り出せるもの。その時間の中には当たり前だけど、カチェイとアトゥールが居るんだ。私が生きていく上で絶対に切り離せない兄たちだから。──それなのに、エアの存在に触れずに居ないことにし続けるのはもう出来ない」
 二人が皇都に訪れて、アティーファが部屋に案内するたびにエアルローダは姿を消してきた。その繰り返しを、アティーファが是とする娘ではないことを改めて知る。
「皇女殿下が気になさることではありません。いわばわたくしの自業自得ですから」
「気にしているんじゃないよエア。私が嫌なだけで、ただの私人でいられる場所でみんなで一緒に過ごす時間を持ちたいって、我儘を言っているだけ」
 少女でありながら全てを包み込む優しさを微笑みに宿して、アティーファはリーレンとエアルローダの手をそれぞれの手で取った。
「……カチェイもアトゥールも、私の気持ちなんて父上と同じように分かっていると思うんだ。ただ私が行動に移すのを待っている気がするんだ」
「まあ……そうですね。あのお二人はなんでも私たちの事を見通していて、隠し事なんていつも出来ませんでしたから」
「うん、たしかに成功したことがなかった。全部ばれてて、怒られて。むきになって抵抗するんだけど。最後はごめんなさいって手紙を扉にさして終わりになるんだ」
 幼い日々の記憶が陽だまりとなって少女を包むのを、過去を共有しない一人は蒼い目を細めてただ見つめる。
 アティーファを独占出来ぬことをなによりも嫌悪する少年を知る少女は「だから──」と告げてじっと彼を見つめた。
「生きていく永遠を重ねて辿りつく未来では、こういう会話も当たり前に一緒に出来るようにしたいんだ。私は独りになりたくないから、だから私の大切な人を独りにしたくない。だから三人で行こう? わざとリーレンにちょっかいをかけて、自然に船に残るように画策する必要なんてないんだ」
「──ばれてたんだ?」
 あくまで侍女としての態度を崩さなかったエアルローダが、ぼそっと小さく呟いたのでアティーファは笑って頷き、リーレンは「そういうことか……」とげんなりする。
「その……皇女殿下」
 おずおずとした声がかかって、アティーファは繋いだ二人の手を離して振り向く。
「お待たせして申し訳ございません。予告のないお越しですので、アトゥール様が皇女殿下は私人としていらっしゃったのだろうとおっしゃって。華美なお出迎えはするなとのことなので、まずはお迎えに参りました。すぐにアトゥール様も参ります」
「ありがとう。みな忙しいだろうに、ティオス公王の時間を貰う事になってしまって申し訳ない」
「いえ、むしろ来ていただいて助かりました」
 どうぞと言われて先に歩き出す案内役の後に続きながら「助かった?」とアティーファは首を傾げた。
「アトゥール様は自覚なさって下さいませんが、かなりお疲れのようなのです。それなのに率先しては休みを取って下さらないので、私たちはとても心配で。このように親しい方々の来訪が続くのは嬉しい限りです」
「──疲れている?」
 アティーファが案内係の言葉に敏感に反応する。
 あっ!という顔になったのはリーレンで、表情は変えずにすこし怪訝そうにしたのはエアルローダだった。
 今回のアティーファの行動は、皇公族揃っての短命疑惑に胸を痛め、それを阻止すべく「酒、絶対だめ!」をしに来たのだ。疲労というキーワードに反応しないはずがない。
「疲労も寿命を縮める要因になるかもしれない。エア、そういう記述はなかった?」
「そうですね。過度の飲酒と同じように、疲労や睡眠不足も要因になりうるとの記述はございました」
 アティーファとリーレンが皇王の執務室で騒動を起こしている間に、文献を読み漁ってまとめたノートを恭しく見せる。仰天したリーレンが慌てて「なにを煽っているんだよ!」と言ったが遅かった。
「アトゥールは皇都に居る時からお酒に興味はないって言ってた。だからなにが原因になるんだろうって思っていたけど、そうか疲労……ようするに過労!! 間違いない!!」
 いきなり拳を握りしめ力強く語る皇女に案内係は狼狽する。どうしたらいいかと焦る視線の先に主君を見つけ「アトゥール様」と助けを請うように主君を呼んだ。
「え、アトゥール?」
 アティーファが聞こえた大切な名前に反応したのと、アトゥールが向かってくる一行が三人であると気づいたのはほぼ同時だった。
 瞬時にアトゥールはその意味を理解した。
「ここまでの案内、すまなかったね。ここからは引き継ぐから、悪いけれど先に戻って人払いをさせておいてくれ」
 言われて、案内係はぽかんとする。
「人払い、ですか? その……」
 誰も入ることが許されていない公王の住まいほどではないが、私人のために存在する場所へと案内している所なのだ。人払いの対象になる者は仕えていない。
 忠誠心を疑っていると取られかねない依頼だとアトゥールは理解しているので、あくまで柔らかく言葉を重ねた。
「私人として皇女殿下はいらしているけれど、先ほど見せた気合いの入れ方を見るに、なにか思いつめるほどのことがあったと考えられるからね。だから私は公王としてではなく、兄として話を聞きたいんだ。ダメだろうか?」
 美麗な顔に憂いを宿し訴えられて、案内係は赤くなる。それから先ほどいきなり拳を握りしめて語りだした皇女の様子も思い出し、たしかに家族としての時間を持ちたいのなら部外者はいない方がと納得した。
「では、人払いをさせて参ります。お茶などはアトゥール様がなさるのですか?」
「そのつもりだよ」
「かしこまりました。では、失礼いたします」
 一礼して案内係は駆け出す。行く道にいる者たちにもしばし別の通路を使うようにと告げていくので、目的地までの通路からも人が消えていった。
 そこまでの徹底を求めていなかったアトゥールが苦笑したところで「親しい方々の来訪が続くのは嬉しいと、さっきのが言ったのはどういう意味?」と尋ねる声が響く。
 一瞬、場が緊張した。
 アトゥールに声の主を会わせると決めたのはアティーファで、決意を聞いて覚悟を決めたのはリーレンだ。それでも顔合わせの際にどうするべきか、どういう状況になるかを緊張していたのに、いきなりコレだ。
 アティーファとリーレンがアトゥールに視線を集める。
 美麗な青年は表情を一つも変えず「そんな事をわざわざアティーファに?」と答え、最後尾に付く声の主をはっきりと見た。それでも何も言わず、次にリーレンを見やり、最後に妹代わりへと視線を流す。
 いつも向けられてきた美しい青緑色の瞳に、アティーファは初めて緊張を覚えて息を飲んだ。
「昨日からカチェイが来ているよ」
「……え? それだけ?」
 エアルローダについて触れない言葉に、アティーファがぽかんとする。
「そうだね。あまり胸をはっては言えないことだけれど、個人的に親しい相手は少なくてね」
「アトゥール、そうじゃなくって! その、まさかだけど……本当にただ新顔の侍女がいると思っているわけじゃない、よね?」
「さあ、どうだろうね? それよりもカチェイになんて伝えるかな、ここに居ることをアティーファが喜ばなかった事実について」
「──!! アトゥール! カチェイに会えるのは嬉しいに決まってる! そうじゃなくって、私はただ……その……」
 完全に何を言えばいいのか分からなくなっている様子に、アトゥールは笑ってアティーファの頭を撫でた。
「アティーファが望むことならね、私もカチェイもそれが叶うように命をかけるだけだから。別になにがあっても驚きはしないし、受け入れもするよ」
 告げられる言葉に、かつて彼を完全に失ったと思って覚えた絶望を思い出し、アティーファは「命って!!」と悲鳴に似た声を上げた。
「ダメだからな、アトゥール。私の為に命を使うなんて絶対にダメだ!」
 絶望を覚えたのは、エアルローダがかつてアトゥールを殺したからだ。
 けれど絶望を与えた張本人であるエアルローダと、アティーファは永遠を約束した。
 それだというのにおそらく、アティーファはエアルローダがアトゥールを殺しレキス公国の人々を虐殺した事実を許してはいない。
 とんでもない矛盾、けれどそれをどうしてか成り立たせてしまうのがアティーファという少女であり、彼女の父と兄代わりの存在なのかもしれなかった。
 アティーファを絶望と矛盾を内包する人物にしたエアルローダは、当事者でありながら口を挟まずにただ状況を見守っている。それにリーレンはどうしようもない憤りを覚えてしまって、低い声を絞り出した。
「……アティーファが認めたから、アトゥール様もカチェイ様もお前を認めるけれど。私は絶対にあんな思いをさせているお前を認めないからな」
「へえ、奇遇だって返しておくかな、従兄弟殿。──作戦の為に排除しようとしたのはあの彼だけど、君という存在の成り立ちとあり方こそを僕は認めないし」
 最強の魔力者である二人は、互いに特別に思う少女を守ることだけは一致しながらも、やはり認めることの出来ない相手だと──出来れば排除したい相手だと改めて認識する。
 空気が凍てつく寸前、やわらかい声が響いた。
「アティーファを悲しませたくはないからね。命そのものを使う状況にならないように気をつけるよ」
 聞く者を安心させる穏やかさが、向けられているアティーファを癒やすだけでなく、リーレンとエアルローダをも我に返らせる。
 まさか一触即発になったのを知られたかと、エアルローダが伺って投げた視線をアトゥールが絡めとる。その目は確かに、年少者の稚気を見守る色を湛えていたので、エアルローダは憮然とした。
 過ぎた二年という年月は、エアルローダにアトゥールが生き延びて良かったと思う気持ちを生んでいる。それはアティーファにも言っていないのに、よりによって本人にばれているようで面白くない。
「……やっぱり、アレが一番の警戒対象だな」
 ぼそりと呟き、開き直ってエアルローダは歩き出した。
 アティーファの隣まで進み、堂々とその手を取る。
「エア?」
「人払いが完了している部屋があるんだろ、移動完了しておいた方がいいよティフィ」
 侍女としての振る舞いを捨て不遜に「早く案内しなよ」とアトゥールに向かって言い放った。
「アトゥール様に向かって、なんだよその態度!!」
 リーレンが眉を上げて怒ると、なぜかアトゥールが目を見張った。
「リーレン、怒れるようになっただけじゃなくて、喧嘩まで出来るようになったのか? 大人になったね、これも放浪公王との旅の成果ということになるのかな。あまりアレに感謝はしたくないけれど」
「なんですかそれ〜」項垂れてしまったリーレンに、アティーファが楽しそうに笑いだす。
「もう、可笑しいったら。アトゥール、早く移動しよう。カチェイに早く会いたいから! ……あれ、でもなんで一緒に迎えに来てくれなかったんだ?」
 今更な問いをアティーファがする。
「ああ、昨日は元気だったんだけれどね。今朝になって、妙に体調が悪そうだったから。医師に見せたけれど、問題は特になさそうだというしね。でもまあとりあえず、横にさせているんだよ」
「……カチェイが? 体調が悪い……?」
「すぐに回復すると思うよ。──アティーファ?」
「体調……そんな……」
 アティーファは握ってきているエアルローダの手ごと、ふるふると震えながら拳を握りしめた。まずいと思ったのはリーレンだ。
「アティーファ、落ち着いて。大丈夫だからっ」
「大丈夫だからって、リーレン? それは一体……」
 流石に状況が飲み込めず、アトゥールは情報を求めてリーレンに声を投げたけれども、返事を得るより先に手をアティーファに掴まれた。
「アティーファ?」
「アトゥールは疲れを自覚しないってさっきの案内係が言ってた。アトゥールが頑張ってくれているから、いろんなことが防がれているって父上は言ってたよ。でもそれを支えるのは働き過ぎ、ようするに慢性過労状態だ!」
「……は?」
 つい、アトゥールはぽかんとする。
「案内してくれる部屋ってこの道を真っ直ぐ?」
「そうなるね」
「行こう!! リーレン、アトゥールの背を押して!!」
 右手はエアルローダに取られて、左手はアトゥールの手を取って、アティーファは定めた道を突き進むべく駈け出す。
「アトゥールさま、失礼しますね!」
 リーレンは大切な少女の望むまま、アトゥールの背を押そうとして「それやったらあとで怖いからね」と低めた声を兄と慕う青年に向けられて凍り付く。
 誰かに背を押されて走るなど、まっぴらなのがアトゥールの子供っぽさだ。彼はごく自然にアティーファの前に出て、取られた手の自由も奪い返して駆ける。
 だから部屋に飛び込んできた一行を、ベッドに重ねられた枕を背に上体を起こして迎えることになったカチェイはのっけから怪訝な顔になっていた。
「おい、どうしたよアトゥール」
 親友に尋ねたが、その背から放たれた矢のようにアティーファが飛び出して、そのままベッドの上のカチェイに飛びついた。
「はああ!?」
 妹代わりが飛びついてくることに驚きはないが、少女と固く手を握り合っていたエアルローダまで倒れこんで来たので、これにはカチェイも驚く。
 それでも今だ最強の名を欲しいままにする剣豪らしい反射神経で、カチェイは右手でアティーファを受け止め、左手で倒れこんできたエアルローダを支えていた。
「カチェイ!! カチェイ、大丈夫なのか、カチェイ死ぬな!!」
「どうしたよアティーファ。なんでいきなり俺を瀕死に見立てたよ!?」
 涙をためて訴えてくるアティーファを必死に宥めながら、カチェイは「なんとかしろ!」という視線を親友に送る。
「確かになんとかしたくはあるんだけれどね。現状だと、どうにもね。リーレン、情報は持ってないのか?」
「実はその……。アトゥールさま、歴代のエイデガルと五公国の皇王や公王の方々が、五十歳を迎える前に亡くなることが多いとわかったんです。それで──その」
「……なるほどね、理解した。だから私に過労って言ってみたり、カチェイの体調不良にあそこまで動揺したわけだ。それでなにをしてきた?」
「なにをとおっしゃいますと?」
 首を傾げたリーレンに、アトゥールが向き直る。
「皇都にはまず、アティーファが絶対に早死にして欲しくないと願うフォイス陛下がいらっしゃるからね。まずは第一弾として、フォイス陛下を早死にさせない為に何をしてきたかを聞いているよ」
「その、それ、それは!! そのですね!」
「──言えない?」
 特別に綺麗な笑みを湛えながら重ねて問われ、結局リーレンはアティーファと主に皇王の執務室に乗り込んで、放浪公王秘蔵の酒をすべて魔力で凍結させてきたことを白状させられてしまった。
「まあ、過度な飲酒は命に関わる可能性はあるとは思うけれどね。リーレン、流石にそれはやりすぎだよ。放浪公王の悲嘆なんてどうでもいいけれどね、放浪公王とリーレンは今後も旅をするのだから。今後の為にも皇都に戻ったら魔力はといておくんだね」
「駄目!! アトゥール、お酒は禁止にしたんだ!!」
 カチェイの額に手を触れ、上体を起こさずにちゃんと横になってと全力で兄の身体を押すものの、びくともせず困っているアティーファが必死の抗議をしてくる。
「それにアトゥールは過労なんだから、アトゥールも横になった方がいいと思う! カチェイは寝る、寝るったら寝る!!」
「待て、落ち着け、とにかく落ち着けアティーファ。そこまでひどい状態じゃないんだって」
 ただの酒の飲みすぎとは言えないカチェイに、暴走しているアティーファ。彼女と手を握り合っているのでベッドの上にいるが興味なさげなエアルローダという状態にアトゥールは吐息を落とした。
「とりあえず、フォイス陛下に倣ってお茶しようか」
「──お茶?」
 思いがけない言葉に、アティーファがぽかんとして振り向いて、アトゥールと目が合った。
「アティーファ、公式発表を信じすぎてはいけないって前に言ったこと、忘れてしまった?」
「──え? ううん、忘れてないよ。公式発表は、その発表をした者たちの思惑が含まれているから全てが真実とは思ってはいけないって……。え、それを今アトゥールが言うってことは……」
 冷静を取り戻していく翠の瞳を、どこまでも優しく受け止めてアトゥールはとある紙面を持ち上げてみせた。
「ファナス争乱で出された公式発表は、どれくらいちゃんと真実を含んでいたのかな」
「──嘘ばっかりで……。え、じゃあ、短命一族に思えるのも!?」
 もともとが聡明な少女なのだ、とっかかりさえ得れば真実を察することが出来る。
「そうだね。というわけで、全員こっちのテーブルについてお茶にしようか。カチェイもだいぶ具合が良くなってきたみたいだから、それくらい問題ないだろうし。城下で評判の店のお菓子も丁度あることだしね」
 準備にかかるアトゥールにリーレンが手伝いますと声をかけるより早く、エアルローダが「僕もやるよ」と言い出し、ずっと繋いだままだったアティーファの手を離した。
「へえ、侍女の恰好を真似してただけじゃなかったわけか」
 アティーファを片手で支えたまま、ベッドから大喜びで起き上がるカチェイが言えば「見た目だけ繕ってなんになる」と少年はしれっと答えてみせる。
 そのままアトゥールがエアルローダを連れて奥へと消えていくのを、リーレンはただ呆然と見守った。
「リーレン、どうしたよ」
 アティーファを抱えたままテーブルについたカチェイが、立ち尽くすリーレンに声をかける。
「いえ……その、だって。アティーファの気持ちは分かっているんです。それでも、お二人は本当にエアルローダに対してなにも思わないんですか? あいつはアトゥール様を……」
 リーレンは納得出来ない気持ちに揺れる瞳をカチェイに向ける。まず反応したのはアティーファだったが、兄代わりの公子がそれを手で制した。
「起きた結果がどんなものであっても、自分の行動の結果と受け入れる。それが俺とアトゥールの生き方だ。……だから俺らにあるのは、エアルローダが引き起こした惨劇を防げなかった自分らに対する憤りがあるだけさ」
「──そんなの辛すぎです、例えば事故に巻き込まれても、それでもお二人は自分の結果だと思ってしまうんですか?」
「その例だったら、俺らの運が足りなかったって判断するだろうな」
 あまりの潔さにリーレンは悲しくなってしまって、拳をぎゅっと握りしめた。
「こっち来い、リーレン」
「──カチェイ様?」
「いいから、そこの椅子を持ってきて横に座れって。見られる心配はいらねえよ、あいつらはしらばく戻って来ないだろ」
 お茶の準備をしに行っただけなのだから、普通はすぐに戻ってくる。けれどカチェイは親友がこの空気を察知しないと欠片も思っていなかった。
 少し悩む素振りはしたものの、すぐに隣に椅子を持ってきて座った弟分の頭を、おもむろにカチェイは撫でた。
「カチェイさま!?」
 リーレンが心底びっくりした声を出したのは、二十歳になったという思いが本人の中に強くあって、子ども扱いされることはないと考えていたからだった。
「うわわわわ」
 混乱を極めてしまったリーレンの頭をさらに乱暴に撫でまわし、膝の上のアティーファの頭も撫でて、カチェイは「ありがとな」と穏やかに言った。
「な、な、なにに対してですか?」
「俺らの為に怒ってくれていることにだよ。あとでアトゥールにもリーレンの言葉は伝えておくとするか。あとな」
 バツが悪そうにカチェイは言葉を切った。
「悪かったな。俺らのことで山ほど心配かけた上に不安にさせてよ。……でもまあ、いい機会だったのかもしれないけどな」
「その、なにがどうしていい機会なんですか?」
 おずおずとリーレンに問われて、カチェイは笑った。
「俺もアトゥールも、アティーファやリーレンが思っているほど凄い人間でもなんでもないって分かっただろ。力が及ばねえこともある。単に俺らが見せないようにしてただけだ。まあ、ようするに情けない人間なんだよ俺らも」
 カチェイの言葉にリーレンは目を見張り、アティーファは唇を噛んでからカチェイの腕に触れて「そんなことない」と声を絞り出した。
「どうした?」
「カチェイとアトゥールにも、辛いことも苦しいことも沢山あるって理解はしたよ。なにもかもが出来るわけでもないってことも。それでも、情けなくなんてない。それだけは違う。全部まとめてかっこいい、私の大好きな兄なんだから!」
 晴れやかに言い切って、アティーファはカチェイの首に抱き着いた。
「かなわねえなあ、アティーファには。……あとでそれ、アトゥールにも直接言ってやれよ。かなり喜ぶからな」
「うん!」
 微笑ましい光景に幸せな気分になっているリーレンに、改めてカチェイは視線を向ける。
「さて、と。そろそろ通常の位置に戻ったほうがいいころ合いだな。喉も渇いたしな、紅茶がうまいだろうな」
 まるで誰かに知らせるように、カチェイは声を張る。
 それを当たり前に合図として受け取る少し前、カチェイたちが込み入った話をしだしたと悟り、用意を遅らせると指示したアトゥールの前で、エアルローダは首を傾げていた。

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