暁がきらめく場所
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気づいたことのあとの話
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 扉を開けてすぐに飛び込んできた光景に、アトゥールは自分の現実認識能力が失われたのかと思って静止した。
 風を良く通す執務室内の窓際に置いた机に足を投げ出して、椅子にふんぞり返って座っている男がいる。
 アトゥールの記憶よりもまた一回り大きくなっているのは、その隆々たる筋肉が増したせいなのか、それとも公王位につくとこを決意した意思のためかは不明だが、とにかく心当たりと存在感がありすぎて見間違えは不可能だ。
「いや、ないな」
 それでも否定した独白に、男が「おいおい」と残念そうな声を上げる。
「久しぶりだってのによ。俺の顔をみていきなり固まった上に、投げてくるのは否定の言葉なのかよ」
 つれないよなぁと男は続ける。
 見えたものは拒否しても響いてくる声は遮断出来ず、アトゥールは無言で吐息を落とした。
「アトゥール、憂いの表情でため息つくのやめといた方がいいぞ。美人が憂いをまとうと最強の武器になっちまうからな」
「私の反応を引き出すための、分かりやすすぎる喧嘩を買うつもりはないよ」
 さらりと流したが、一瞬だけ殺気が部屋を満たしている。それを見落とさずに来訪者はからりと笑った。
「……それで、なんだってカチェイがここに居るんだ?」
「そりゃ簡単だろ、会いに来たから居るわけだ」
 単純明快な答えだが、アトゥールの疑問の答えにはなっていない。
「アデル公太子の訪問っていうスケジュールは聞いてないんだけどね」
「考えたいことがあるから部屋に数日は籠る、食事もなにもいらんからな!って髭には言っておいたからな。よく使った手だろ、エイデガルで俺らが騎士団を撒くときに」
「……髭騎士が言ってたよ。生国に戻ってからカチェイが真面目すぎて不気味で仕方がない、いつかぜったいに揺り戻しがくるはずですって」
「あいつ、いつの間にアトゥールに愚痴を言えるようになってたんだ」
「皇都に居た頃からだよ。……城を抜けだして民間の早船飛ばして来たってわけだ。しかし、ここまで簡単に入れたっていうのは」
「あ、俺の顔を見た瞬間、お前んトコの馴染みの騎士団員たちがあったりまえに入れてくれたぞ。今は視察に出ていらっしゃるから、奥で待っていればいいですよってな」
「なんだってカチェイにそこまで甘いんだよ、うちの騎士たちは」
「いや、金狼騎士団も同じだぞ。俺よりアトゥールに甘い、間違いなく」
 二人、なんとなく顔を見合わせてから同時に首を振る。
「ところでアトゥール、俺に対する確認は終わりか?」
「いや、もう一つかな」
「遠慮するなって、好きなだけ確認しろよ」
 大らかに言い放ち、カチェイは椅子に深く腰掛けたまま両手を腕の横に掲げてみせる。
「そうだな。奥に入ることを許可されながら、わざわざティオス公王としての執務室で待っていたわけだから、求めているのは公王としての私だと判断した方がいいか教えて欲しいな」
 金にほど近い薄茶の髪を手で押さえアトゥールが言うので「そう来たか」とカチェイは笑う。
「公王としてのアトゥールを求めるってのは俺には一生ないな。アデル公太子か公王である俺にお前がなにも求めないのと同じだ」
「だとしたら私の執務室なんかに居るものではないよ、おかげで認識に時間がかかってしまった」
「悪い悪い。まあ、公王になって私室を移したって知らせを受けてから初めて来たからな。勝手が分からなくってな。もしかしたら俺の知らない間に、女の一人や二人作ってるかもしれねえしな、鉢合わせを避けたってわけだよ」
「──なるほど来訪の意図を理解した。私と一戦やりたいわけだ?」
 故意に冷たくした声で囁く。
「そいつは是非にと言いたいところだがな。まあ今日はそういうわけじゃないんだ。それからどうせお前が検討つけているような、あいつをいかに追い出すかで詰まって来たわけでもない。そっちで来てたらな、俺はアトゥールがここに入った瞬間に誘拐してるぞ」
「どうして誘拐って発想になった? ……まあ好きにしていいけど、運搬方法を間違えたらただじゃおかないと覚えておくんだね」
 母親と弟が起こした事件をきっかけとして、アトゥールが公王に即位することを決めたのは数ヶ月前のこと。それを受けて、父親であるアデル公王を退位させる決意をカチェイもしたのだ。
 ただカチェイが公王位に即位するのには問題が多かった。
 アデル公王は民からあまねく愛されていて、逆にエイデガル皇都育ちのカチェイの人気はまだまだだ。近頃公王が些細なことで臣民を叱責したり罰を下したりするようになって、カチェイに助けを求め感謝する民が増えているが、それでもアデル公王退位を望む声が最大多数派になったわけでもない。
 退位に少しでも火種を残せば、ガルテ公国の公太子セイラスに付け込まれる隙が生まれることになる。だから二人はかなり慎重に動いていた。
「でも分からないな、その件で来たんじゃないって言うなら」
 公人の為にある執務室から、私人として存在する為の場所へと移動するべくカチェイを促す。もちろんカチェイに否はないので廊下に出ることにした。
 風鳥騎士団員や内務を行う者たちが声をかけてくる。
 アトゥールは向けられる確認事項に応じながら、補佐官が詰める部屋に寄って執務室を出ることや急ぎの際の連絡方法、明日にやっておくべきことを伝えていく。
「なんというか忙しそうだな」
「即位式はまだだけれど公王ではあるからね。とはいえ最も時間を取られるのは、公王の職務よりガルテ公太子への対応策なんだけれど」
 厄介だよと続く言葉は飲み込んで、風鳥騎士団員が左右に控える扉を開けて中に入る。ここから先は私人の空間の色合いが濃くなり、公家に仕える侍従たちがいるだけになるのだ。
 わざわざ執務室にいることもないだろうにと最初にアトゥールが言ったのは、ここに主人を待つための場所ももてなしをする人間もいるからの事だった。
 静やかに近づいてきた老紳士にアトゥールは何事かを言い、それを受けた彼は二人に一礼をして去っていく。
「なんか静かでいいな。俺のとこは肝っ玉系の女官がやっているんだが、口うるさくって仕方ないからな」
「口うるさくされることをしてる可能性は?」
「まあ、あるな」
 ニヤリとすれば、アトゥールは「なら仕方ないね」とだけ答える。
 さらに奥へと二人は進み、ついに誰もいなくなった通路の先にある扉を視界に収めた。
 それは完全なる私人の為の空間と、他の空間とを区切るものだ。
 扉はただの木材に過ぎないが、それでも本人の許可なしでは誰も入ることの出来ない空間への区切りとなっている。お互い以外の他人を完全には頼れない二人にしたら、周囲から解放されて一息つく場所になるのだがカチェイは眉を寄せた。
 親友のまとう空気が硬質化したことに気づかぬアトゥールではないが、何も言わずに扉を開ける。
 ひゅう、という音を風が立てて吹き込んで来た。
 ティオス公城と別の建物を繋げる頑丈な石造りの空中回廊だ。
 それの先には繊細であでやかな建物がある。なにも知らなければ流石は公王の住まいだと思うのだろうが、実際は中に住まう者を外部から遮断することを目的に先代の公王が作らせた牢獄だ。出入り口は二人が進む空中回廊だけで、あとは物資の受け渡し用の小さな扉が水路にあるだけときていた。
 カチェイはあの遮断された建物こそが、かつてアトゥールが住まい、母親に毒をあおらされた場所であることを知っている。
 外見の豪胆さには似合わぬが、カチェイは大きなため息をついた。
「私の部屋──というか家か。それを前にして、ため息とは随分だね」
 感情の隠された言葉を向けられて「知らされてはいたが、実際にアレを住居にしたのを目の当たりにするとな」とだけ返す。
「……我が民たちは、あの建物がどんな場所かを知らないからね」
「そりゃそうだろうよ。家族を監禁するための莫大な公金を使って建てたなんて知るわけがねえ。公王となったものが住む場所だってごくごく素直に思っているんだってのも分かる、でもなぁ」
 生国に戻る度に疲弊していた、自分たちのかつてをカチェイは忘れていない。
 他人を頼りきることが出来なかった二人ではあったが、二年前にお互いを頼ることだけは覚えた。それからアティーファを守るには側にいるだけでは不可能だと判断して、生国に戻る決意をして今に至る。
 それでも心的外傷を与えた舞台になった場所を住まいにせねばならないことを、カチェイは納得できないというより納得をしたくない。
 憮然としたままの親友に、アトゥールは眉を寄せて困ったように微笑んだ。
「……あそこで殺されかけたのも、あの場所では気が遠くなりそうだったのも、カチェイじゃないだろ?」
「それで俺を宥めているつもりなのかよ」
「どうだろうね。正直、なにを言えばいいのやら」
「情けねぇな。セイラスとのかけひきに疲れて、頭の回転が鈍ったのかよ」
「侮辱するなと怒るところなんだろうけど……」
「俺自身のことだっていうなら、どこまで折り合えるか位は分かってんだよ。アトゥールがどこまで流せるのかが分からねえから心配になるんだ」
「あれ……もしかして、カチェイ」
 空中回廊を進んだ先にあった扉を前に足を止め、瀟洒な鍵を二つ取り出しながらアトゥールが振り向いた。
「なんだよ」
「いや、その……私がここに転居したと手紙で書いたから、慌ててやって来たのか?」
「おいおい今頃かよ? 本気で疲れが溜まってんじゃないのかアトゥール」
「どうだろうね、他人の疲労は分かるんだけど。自分自身のとなるとよくわからないっていうのが正直なところだよ。それにしても今年はカチェイに心配をかけてばかりな気がするな」
「気がするじゃなくってただの事実だろ。なにせティオスの国境で癒しの手なんてものが現れて、そこに向かうって連絡が来たと思ったらよ。続報は毒矢に打たれて倒れたと来た。まさかだけどな、ファナス争乱の時に怪我が元で死んだ経験から、死なない範囲を探ってるんじゃないだろうな?」
「あのね、私が怪我を趣味にしているみたいに言わないでくれないかな。とにかく悪かったって反省はしている、今年の残りがどう動くは分からないけれど」
 かつては絶対にありえなかったが、あっさりと自身の非をアトゥールは認めて鍵を持ちあげる。
「その鍵だけでも異様さが伝わってきやがるな」
 カチェイの声は嫌悪を隠しておらず、アトゥールは続きを促して細い首を傾げた。
「二つのうちの一つは、内側からは開けられないようにする為の外鍵なんだろ? まあ鍵穴は潰してあるようだけどな」
「……外から聞こえる鍵の音は、外界からの遮断を象徴するものだったからね。流石に残したりしないさ」
 鍵穴に差し込まず、アトゥールは二つを掌の上に乗せた。
「鍵穴を潰しても、鍵を残したら意味がないだろうによ」
「良く見なよ、先入観で見誤るなんてらしくない。カチェイこそ疲れているんじゃないか?」
 珍しく頑なであり続ける親友の目の前に、アトゥールは鍵を持って行った。
「──新しいのと古いの、か?」
「鍵穴も鍵そのものもとっくに処分しているよ。この扉の鍵は一本しかなくてね、だからもう一つ作らせた」
「ただの合鍵かよ。俺のイラつき損になったな」
「心配して損をしたと言えばいいものを」
 変なところにこだわったカチェイの発言に、アトゥールは穏やかに笑う。
「合い鍵なぁ。たしかに緊急時にここを開けることが他の奴には出来ないのは問題だろうな。誰かに渡しておくってのも正しい。でもなあ──」
 微妙に語尾を濁らせて、カチェイは自身の鋼色の髪をごまかすようにかき混ぜた。
「合い鍵なんぞ生殺与奪に関わることだろ。それを譲るなんて俺には出来ないな」
「勿論、譲る気なんてないよ」
「──あん?」
 あっさりと返されてカチェイはぽかんとする。
「合鍵を作らせたことを知られて、風鳥騎士団長や補佐官が期待を持ってしまったことを申し訳なくは思うけれど」
 音楽を奏でるような声で言葉をつづりながら、アトゥールの細い指が瀟洒な飾りの輪に掛かる鍵を一つ外した。
「私が何かを託せるのは、結局のところそれはカチェイでしかないから」
 静かに言って、アトゥールは鍵を無造作に放る。
 放られたソレは夕陽を受けて光りながら放物線を描き、当然のようにカチェイの無骨な手の中に納まった。
「……そういうことかよ」
 絶対の信頼に返す相応しい言葉が見つからず、カチェイは鍵を強く握りしめた。
 アトゥールは何も言わずに扉に向き直って鍵を開け、中に入るように親友を促す。
 広がっていたのはがらんとした空間だった。
「なんだこりゃ」
「随分な感想だね」
「いや、打倒だろ。なんだこのなんにもなさは、殺風景にもほどがあるぞ」
「カチェイが言ったんだろ、ここを住まいにして大丈夫なのかって」
「はーん。かつての調度品の数々はどれもこれも嫌な記憶に繋がるからな。捨てちまったのはいいが、新しいのを入れるには金がかかるから放置してるわけか?」
 床は素材の石が剥き出しになっていて、壁は緞帳の類が破がされた跡がはっきりと残っている。
「公金を使って購入されたものなんだから、捨ててはいないよ。流石に悪すぎる」
「よっぽど上手くやんねえと、ろくな値は付かないだろ」
「昔のように変装して城下に出て自分でやるわけにもいかないし、公城に出入りしている者たちを使っても期待はあまり出来ないしね。そこでフィズに連絡を取ったわけだよ」
 唐突に飛び出した個人名にカチェイはしばし考えこみ、ぽんと手を打った。
「ティオス公家の血筋で、双子国でも正式に商売する権利を持っている貿易商だったよな。しかも男装の麗人だって言ってたな」
 随分と前に、他の大陸にて覇権を握っていた帝国が海を越えて襲来してきたことがある。その際の事件を解決するためにアトゥールが利用したのがフィズの存在だったのだ。
「そういえば結局、フィズには会わせていなかったっけ?」
「見たのはフィズの変装をしたアトゥールだな。今でも悩むんだけどな、男装の麗人の変装をしたってことは、女装したこととイコールになんのか?」
「どうでもいいことで悩むね、カチェイは」
「アトゥールをからかう材料になるんだったら、真剣に向き合うに決まってるだろ」
 真面目に言われてアトゥールは首を振り、入口で止まっているのもなんだからと言って奥へと進み始めた。
「それでフィズはうまく売りさばいたのかよ?」
「ティオス公王家で使われたものだってことを前面に出して、他国ではなくうちで高値で売りさばいたと言っていたよ。手数料を引かれても十分だったかな。ただ気になるのは、私が使っていたのは子供のころに過ぎない事実が伏せられたことくらいか」
「なるほど、お前が使っていたものかも! ということで飛びついた哀れな奴が男女問わずに居たわけだ」
「やっぱり私に殺されに来たのかカチェイ」
 戯言の応酬を続けながら、アトゥールは普段の生活に使用している部屋の扉を開ける。
 なにもかもが取り払われたままの他の場所とは異なり、エイデガル皇都で与えられていた部屋とよく似た空間が広がっていた。
「……言っておくけれど、感想は求めてないよ」
「いやあ、まあ、これに関しては俺もなにも言えねえな。初めて手に入れた、落ち着くことの出来る自分の部屋だったからなあそこは」
 アティーファの強い希望で、エイデガル皇都にある二人が過ごした部屋はそのままになっている。
「……いまだに皇都に帰ると、里帰りをする気分になってしまうんだよね」
「それだよ」
 カチェイの打った強すぎる相槌に、アトゥールは目を丸くした。
「いや俺もだけどよ、皇都に“帰る”って言っちまうんだよなあ」
「……手に負えないね、私たちは」
 情けなく思った気持ちを、首を左右に振ることで振り払う。
 カチェイは勝手知ったるかつての部屋と同じ場所にある椅子に腰かけて、見かけならず座り心地まで同じであることにニヤリとした。
「──そういえば住居を移したことを心配してきたわりには、考え直せとは言わないね、カチェイ」
「決めたことを覆すわけがないのは知ってるからな。それでも心配になんのは俺の勝手だ、文句だけは言っておこうと思ってよ」
「文句ねえ」
「他の部屋もおいおい変えていくんだろ? だったら俺の部屋も再現しとけよ、さらに皇都に居る気分が満喫出来るからな」
「それを言うだろうとは思っていたけれど、本当に言ったね」
「ちょっと待て、想定済みってことはもうあんのか?」
 驚きに身体を起こしかけたが「そこまでする踏ん切りはついてなかったよ」とアトゥールが先に言ったので椅子に深く腰掛け直す。
「どうせここには誰もいれないつもりだろ? 来んのは俺くらいだ、開き直って作っとけよ」
「あのねえ、カチェイだけじゃないだろ」
「へえ、私室に入れてやれる相手ねえ。具体的にあげて見ろよ」
「アティーファにリーレンに……」
 柔らかに響く声が停止した。
「終わりか?」
「終わったね。いや分かってはいたよ、自分の事なんだから分かってはいるけど……」
 公王としてはどうなんだと自問自答しだした親友に「もう諦めろ」とあっさりカチェイは言った。
「家具揃えたとこ後で教えてくれよ。俺も住まいを移したら、すぐに皇都で過ごした居住空間を再現するからよ」
「……なあカチェイ。自分の事を棚に上げて言うけどね。ここは公妃を迎えたら一緒に住む場所になるってことは理解しているのか?」
「……おい、物凄い棚上げをしたな」
「まあね」
 口に出したくせに、アトゥールはげんなりとしている。
 公妃を迎えて頂かないと困るとの訴えを聞き流し、自薦他薦の娘たちからの熱烈なアプローチを受け流す毎日にアトゥールは飽いていた。
 カチェイの状況はさらに深刻で、アデル公国を守る為の公太子しか必要としない現王に言い含められた娘たちが部屋への侵入を試みるので、居場所を極秘にし寝場所も毎日変えている有り様だ。
「……どいつもこいつも顔をあわせりゃ妃を迎えろとばかり言いやがって。人となりも分かんねえ相手をどうやって信じて、受け入れろっていうんだよ」
「そうなんだよね。慕っているだの好きだのと文を寄越してくるけれど、あれはなんなんだ。彼女たちは私の何を知っているっていう? なにをもって私と一生を過ごしたいなんて思っているんだ?」
「分かんねえよなあ」
「まあ分かりたくないと言った方が正しいかな」
 カチェイが座る椅子の背もたれに、アトゥールは体重を預けた。
「信頼してもいいと判断出来る相手でなければ、側に居られるのも無理な私たちが異常なんだよ。殆どの人間はそこまで深くは考えていない。立場や打算や自分の都合だけで、相手を勝手に選ぶことだってする。私たちの……」
 親がそうだったように、と続けることがアトゥールには出来なかった。
 精神的にも身体的にも子供に過ぎなかった少女を妻にと望んだアトゥールの父親と、己の欠点を補える武芸に長けた娘に子を強引に産ませたカチェイの父親。
 それが二人が死ぬまで抱えるだろう心の傷を、生み出す根源となったものだ。
「俺らが果たすべき役割を考えれば、跡継ぎだけでもなんとか作ってこいって言われるんだろうけどな。裏切ることになるが、そいつは断るぞ俺は。よりによってアレと同じになりさがる気はねえな」
「否定はしない、同意見だから」
「どうするよまったく」
「……色恋なんてものは、理屈ではなく衝動です! なんて説教をされたことがあるよ。衝動で信頼にたる相手なんて見つかるわけがないのに」
「俺らだって殺し合いレベルの喧嘩と衝突を繰り返して、やっとこさこいつは大丈夫だって思えたんだからな。しかし本当にどっちかが死なんで良かったな」
「気づいてなかったんだ、カチェイ? 私たちが喧嘩を始めると、絶対にフォイス陛下が姿を現していたこと。本当に殺すのは防いでくれていたよ」
「……フォイス陛下には頭が上がんねえなあ」
 父親がどういう存在なのかを、言葉ではなく共に生きることで示してきたのはフォイスだ。
 恩にむくいる為にも難題に立ち向かわねばと思ってはいる。ただすでに一年前、お膳立てられた双子国の姫君を口説けという無言の依頼は拒否してしまったけれど。
「……アトゥール、いざとなったら策の一端を担わせても問題ないと思える相手、皇公族の女以外にいるか?」
「上手く立ち回るだろうと思うのはリィスアーダ姫かな」
「絶世の美姫と、エイデガルと五公国で一番の美人な。きらきらだな、おい」
「……私の忍耐の限界に挑戦するのはやめて欲しいところだけれどね。カチェイはいるのか、戦力として見込めそうな相手は」
「俺を叱り飛ばしてくる肝っ玉女官は戦力として見込めそうだけどな、そういう相手とは違うだろ。というか程遠いと言ってくれよ。あー、いっそのことだ。俺が認めそうな相手をアトゥールが見つけてきてくれ、頭がいいんだから出来るだろ」
「あのねえ」
 二人での会話だというのに加速度的に体力が消耗されてしまって、椅子の背に体重を預けたままアトゥールは天を仰いだ。
「……なんだかアティーファの顔が見たくなってきたよ」
「いっそ家出して会いにでも行くか?」
 兄と慕ってくる亜麻色の髪を持つ少女の存在は、二人にとっては癒しそのものだ。
「公王と公太子が揃ってか? 癒しがたりないのでもう無理です、探さないで下さいとでも書き置きをして? まあ……その理由なら、セイラスの同意だけは得られそうな気もするな」
「おーおー、セイラスの動きを読もうと考えるあまり、奴がどういう反応をするのか瞬時に分かるようになってんのかよ。片時も頭から離れねえ状態か、難儀だな」
「正直に言えば、ぐったりするね」
 妻のシャンティの腰を抱いたセイラスの自信に溢れた顔がリアルに浮かんでしまって、アトゥールは背筋を凍らせて右手で自身の左腕を掴んだ。続けて本気で疲れたため息を落としたので、カチェイが「やめだやめだ!」と大声を上げる。
「いきなりの大声は驚くから止めて欲しいんだけれど」
「驚いたを理由にすんなら、驚いたフリくらいして言えって。へこませる為に来たわけじゃねえぞ、嫌な場所を楽しい記憶で上書きさせる為に来たんだ俺は!」
 言うなり、カチェイは持って来ていた鞄を引き寄せて、中からおもむろに酒瓶を取り出した。
「なにを大事そうに持っているのかと思ったら」
 アトゥールの呆れた声に「このくらいは想定しとけって」と返して、カチェイはニヤリとする。
「一つ確認だけどね」
「あん?」
「飲み明かそうと言って大量の酒を持ち込んで来てきて、その為に翌日の予定が崩壊した二年前の記憶の持ち合わせについてを」
「もちろんあるぞ。俺の中でかなり良い思い出に分類されているな。とっておきの旨い酒を無理せんでいいアトゥールと飲めて、かつ酔って足元がおぼつかなくなった姿も見れたわけだしな」
「そんなものを見てなにが楽しいのやら」
「とにかく、飲むぞ! ほらこれ見ろこれ!」
 どういう構造になっているのか、それほど大きくもないはずのカチェイの鞄から次々と酒が出てきてローテーブルに並べられていく。
「……カチェイ、あの時に二人でかなり飲んだはずだよね? なんだってこんなに増えている?」
「良く分かんねえけどよ。アデル公太子に贈るんだったら酒にしとけ、失敗ゼロだ!! って評判になってるらしいんだよな。確かに嫌いじゃないけどな、アトゥール以外と飲む時は精神的に構えとく必要があるから量は必要ないんだよな。かといって一人で飲みまくるわけでもない、結果たまる一方だ」
「前にも言ったけれどね、金狼騎士団の誰かにあげるって選択肢はないのか?」
「とっておきまでやるつもりはねえな、そこに過去も未来も変更はない」
 きっぱりとした断言を聞きながら、アトゥールは椅子に預けていた背を戻し、ローテーブルに並べられた酒類を手に取った。
「まあ、確かに。かなりいいものばかりだね。あれ、カチェイこれは?」
 瀟洒なガラスの見慣れぬ瓶を一つ取って、アトゥールが首を傾げる。
「ああ、それな。俺が助けたヤツからの礼ってことで貰ったんだ」
「……助けた?」
「なんで空気に緊張を走らせたよアトゥール。動乱に繋がるようなもんじゃねえって。アレが臣下やら城下の者たちに対して、小さなことで癇癪を起して折檻を起こすようになったって前に話したろ?」
「ああ、あれね。代替わりした後で、先王の時代に戻りたいと嘆く民を減らそうと自主的に嫌われる大作戦に出ていると思われる……。あれからも毎日のように?」
「俺が公都に居るときは必ずだな。あの男、あらゆる手段を講じて俺が公都のどのあたりにいるかを突き止めやがるからな。とにかくだ、その折檻から救った中にうちで今かなり評判のいい酒を造っている奴がいてな。量がまだ作れないってんで知名度はまだ低いが、これから絶対にくるな」
 アトゥールが持ったままのガラスの瓶を、カチェイは椅子から立ち上がって指で弾いた。
「氷室に氷はあるんだろ? それと塩さえありゃすぐに冷やせるしな。つまみになりそうなもんも持ってきたぞ」
 今すぐに酒を楽しめる体制に手際よく移行しようとするカチェイに、アトゥールは少し気圧されて口元に手を添える。
「なにを焦っている?」
「いやな、俺にもよく分かんねえけどな。こいつはいい酒だな!と思ったヤツは、今日中に飲みつくさねえとならん気がするんだよ」
「よく分からないってことは、カチェイの勘がそう訴えているってことなんだよね?」
「そうなんだよなあ。根拠はどこにもない」
 アトゥールはカチェイ以外の相手には、推測ではなにも語らない。その彼を説得するにはあまりに根拠がないので、カチェイの語尾から力がなくなっていった。
「分かった」
「──はあ? 分かった?」
「とにかく氷を持って来るとするよ」
 カチェイの横をするりと抜けようとしたアトゥールの腕を思わず掴んだ。なんだ?と瞳が問うて来たので「いや、なんで納得したんだよ」と尋ねる。
「私は勘というものを否定したことはないけれど? 二年前だって、ザノスヴィア王女の様子がおかしいと最初に気づいたのはアティーファの勘だったわけだし。まあ勿論」
 言葉を一旦切り、ちらりとカチェイを下から見上げてアトゥールは不意に好戦的な笑みを浮かべた。
「無条件で信じられる相手というのは限られているけれどね」
 それだけアトゥールは言って、呆気に取られて力が抜けたカチェイの手から逃れて建物の外へ出ていく。
「──なんだ今のやりこめられた感じ。俺とアトゥールとで余裕に差が出ているような? あれか、あれが公王の貫禄ってやつか? ……俺もとっとと公王位につかねえと駄目だな」
 アトゥールとは何があったとしても、一生対等でいるべきなのだ。
 互いが互いを頼ることが出来て、互いの逃げ場所になれるために、それは絶対だ。
 すぐにアトゥールが戻ってくるのは分かっているので、カチェイは中断した用意を再開した。
 そして結局のところ。
 カチェイの勘はやはり正しかったし、急ぐ必要があると判断したアトゥールも正しかったのだけれど。
 ──緊急時の連絡手段が用いられて、翌日に飛び込んできたのはエイデガル皇女の来訪の一報だった。
 朝まで飲み明かす真似はせず、折角だからと今後の動きなどを打ち合わせをしていた二人は呆然として顔を見合わせた。
「……アトゥール、エイデガル皇女の来訪のスケジュールはあったのか?」
「いや、ないね」
 アティーファの顔を見たいと思ったのは昨日の事だ。だからこそ会えるのは嬉しい、だがこの状況では……。
「とにかく昨晩に遅くまで酒を飲んでいただなんて、悟らせるわけにはいかない」
 知略の限りを尽くして皇国を守る者の発言にしては緊張感がないが、アティーファにとっての完璧な兄でありたい二人にとっては重大事項だ。

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