暁がきらめく場所
突天 最終話
前頁 目次 おまけ短編へ


 必死に声をつのらせるソークの目の前で、アトゥールは落ちかかる髪をさらりと払った。赤色の光を受けて、薄茶の髪が美しくゆれる。その、手の動き。
「あに……うえ?」
「甘いよ、ソーク。私は手段を選ばないって、さっき言ったろう?」
 縄を切った小刀を、アトゥールはディーテの白い首筋に向けた。
「お前が私を人質に取るよりも、私が母上の首を切るほうが早いよ」
「兄上!?」
 絶望を音にしたら、きっとそんな声になるのだろうと、アトゥールは思う。心の中の何かが麻痺して、自分自身が加速度的に残虐になっていっているような気がしていた。
 ソークは手を震わせ、何がおきたのか分からない風情でわが子二人を見やるディーテを見つめる。母上、と囁いてから窓辺へと駆け寄って緞帳を持ち上げた。
 闇の中に没した外で、かがり火に照らされた旗がまぶしい。
「兄上、母上を離してくれないと」
「無駄だよ、ソーク。もう、彼らはお前の命令には従わないから」
「……従わない?」
「なんの為に、私がお前に囚われたと思う? なんの為に、あえてお前に民を害させる命令を口にするように仕向けたと思う? 民を守るための存在はどちらなのか。それを明確にさせる為だったのに……」
「分からない。分からないって言ってるんだよ、兄上。何がいけないの? 民を守るだとか、害するだとか。彼らを眠らせて何が悪いの?」
 心底何が悪いのかが分からないと、ソークは子供のように首を傾げる。
「人はね、ソーク。死にたくないって思うものなんだよ。生きて、毎日をおだやかに過ごして、生きていきたいと望むものなんだよ。たとえ――それが苦しくとも、辛くてもね」
「嘘だよ。苦しくて、辛い状態なんて誰も欲してないのだから。だって、それが嫌だから、ここに人々は集まったんだよ。”痛みをとる癒しの手”を求めて、彼らは自らここに集まったことを、兄上は知らないの?」
「彼らは知らなかったんだよ」
 息子に小刀を向けられても、良く分からないといった顔でただ座っているディーテを見下ろし、そしてソークを見やる。
「それが……最終的に死をもたらすということを。もし知っていれば……死からもう逃れられない状態に追いやられた者しか、来なかったさ」
「貴方は本当に勝手に話を進めてしまうね。僕は分からないって言っているのに」
「本当に分かってないのかな」
 母親の首に刃を当てたまま、アトゥールが淡々と言葉をつづる。
「だってソークは嫌なのだろう? 母上が死ぬことが。母上が罰せらることが。だったら分かるってことだろう。本当に死が分かっていないのなら、母上が死ぬことを嫌がるわけがない。ソーク、お前は分かっているんだよ」
「違う」
「自分が失いたくないと思う相手がいるのなら、他の誰かにも失いたくない誰かがいるのだって。想像してみればよかったんだ。それだけだったのに……」
「……。兄上は、そういう相手がいるっていいたいのかな」
「居るよ」
「居る?」
「私には、勝手に死ぬことなんて許されていない。それが全ての答えだから」
 突然ディーテが首を傾げた。無造作に動いたことで、刃が首にあたって肌がきれたことにも構わずに。
 彼女はこの現実に飽きていた。常に自分の側に居て、常に自分の思うとおりに動いていたはずのソークが、彼女の意図しない言葉を口にし、意味のない会話を続けていることに。
「アトゥール。早く、それを飲みなさい」
 だから、それを言う。
 彼女が望む”世界”を作り上げるために。
 突然の言葉に、アトゥールは動揺してしまった。刃物を当てられても、状況が理解できぬ彼女の精神の幼さに、怒りよりも悲しみが胸を突き上げる。
 いつからこの人は狂ったのだろう。
 生まれた時から狂っていたわけではないだろうに。
 そんなことを、アトゥールは思ってしまった。
「ソーク……お前はこれでも……」
 なんと、言葉を続けたらいいのかが分からなかった。
 対応すべきことは知っている。公国の和を乱し、法で禁止と定められているものを勝手に使用し、私兵を動かした。――裁決を下し、刑に服させねばならない。
 けれど、だ。ためらってしまって、口から言葉が滑りでなかった。
 突然、ソークが外に飛び出した。
 剣を手に持ったまま、天領地の騎士団たちが包囲して待ち構えている外に。
 一瞬の間をおいて、アトゥールも外に飛び出す。民を害なすような素振りをソークが見せたら、騎士団たちは迷いなく彼を敵だと認識するだろう。実戦を知らぬ弟が、前線をしる騎士団を相手に健闘できるとは思えなかった。
「ソークっ!!」
 一瞬、弟は振り向いた。
 その目が、初めて強さをたたえている気がして、アトゥールは目を見張る。
 だから理解した。――何をソークがしようとしているのかを。
 守りたいものは誰にでもある。気づけなかったのは迂闊だった。ソークは分からないのではなく、たった一つを守りたいと思いすぎていたのだ。
「村には火薬を仕掛けてある。発火させるように命じられたくなかったら、包囲を解けっ!」
 ソークの、こんな時でさえ健やかに響く声が村を圧する。
 ――嘘にきまっていた。
 そんな言葉は、嘘にきまっていた。
 彼は兄の言動に学んだのだ。言葉を操ることで、何を企んでいるのかを隠す方法も、相手をだます方法も。
「ソークっ!!」
 違う、と叫びそうになった。母親を守るために、ソークは全てを企んだのは自分なのだと印象付けようとしている。ディーテだけでも、レヴルが救えるようにと考えている。
 騎士団たちは色めきたって、矢をつがえる者が前に出てきた。
 やめろ、と叫べば彼らは指示に従っただろう。
 けれどやめろとは言えなかった。今後のことを考えず、ただ命を助けるだけというのは無責任に過ぎる。
 矢が弦を離れ、空を切った。矢の軌道が正確に弟の急所を定めている。
 気づいたときには、アトゥールは向かってくる矢の前に飛び出していた。
「くっ!!」
 衝撃。
 それは熱、といえばいいのか。灼熱と呼ぶのが相応しいのか。
 突然のことに弟が目を見開き足を留めたのを確認し、アトゥールは三歩ばかり足を進め、弟の腕を両手で掴んだ。だが掴んだと同時に体から力が抜けて、ずるずると座り込んでしまう。瞳を追いかけるような視線を向けてくる弟の目に、アトゥールは自分が何をしたのかを理解してしまった。
 ――庇ってしまったのだ。
 妻を罰せずに、ただ隠してしまった父親と同じように。それだけはしてはならないと思ってきたのに、結局同じ事をしてしまったのだ。
「私……は……くっ!」
 呆然と呟いた声の末尾が、苦痛を堪える声に変わった。
 兄の左肩に生えた矢を、ソークが抜いたのだ。せき止められていた血が溢れて、さらに周囲を血が染める。
 ――まだ、知らないことが多い弟。
 随分と大きくなっているのに、彼はあらゆることを”知らない”ままだ。知ることが出来る頭も、健康な体も持っているというのに。
 騎士団たちの間に広がった動揺をぬって、聞きなれた声が響いた。「アトゥールさまっ!」とソレは言って、人を掻き分けて駆け寄ってくる。
 天領地の騎士団と合流するようにと命じられていた、ウィドだった。
 彼は呆然としているソークを留め、止血をと震える手を伸ばす。けれど力が入らないらしく、今度は再び人ごみを掻き分ける為の声が響いて、クルテスの村の青年マルクが姿を現した。
 素直に治療する役目をマルクに譲り、ウィドは主君の体を支える。
「ウィド……」
 無事だったかと続ける声がどうしてもアトゥールの喉から出なかった。
 どうやら矢には、人の体を麻痺させて動けなくさせる薬物が塗ってあったらしい。流石は国境を常に守る騎士団の動きだと感心するが、口が回らないことに辟易した。
「兄上、なぜですか。そんなにも、兄上は母上を罰したいですか」
 まだ分からないと弟は首を振る。
 そういえば再会して以来、何度”分からない”といわれただろうかと思って、少しアトゥールは唇だけで笑った。
「この後は、吾らが処理をしますので。騎士団の方々はお帰りを」
 声が響いた。
 柔らかでありながら、けれど人に命令を下すことになれている者の重厚な声。
 ――ティオス公王レヴル。
 この男が出てきたのだから、何があっても二人を死なせはしないのだろう。そうやってまた、隠して閉じ込めることで終わらせるつもりなのかアトゥールは聞いてみたかったが、口が回らない。
 レヴルは重厚な動きで歩を進め、騎士団の者と話を進めている。途中、こちらを振り向かれて、アトゥールは自分が天領地の騎士団の動きを決する権利を持っていたことを思い出した。
「……ウィド…」
 なんとか名を呼ぶ。ぼろぼろになっている点では主君の上を行く家臣は、はい、と短く答えて立ち上がった。かわりに、村の青年でウィドと共にクルテスを脱したマルクがアトゥールを支える。
「公王陛下、これを。アトゥール公子が、フォイス皇王陛下より賜った紋章です。公子は、陛下が望むのならば、騎士団の方にお帰り頂いても問題はないとおっしゃっています」
「……そうか」
 静かに答えて、父は怪我を負った息子に視線を流した。
 皇王より代理の紋章をたまわったアトゥールからの言葉に、天領地の騎士団はようやく納得をして、見事な隊列をくんで去っていく。入れ替わりに、ティオス公国の風鳥騎士団が姿を現した。
 父親は、騎士団が去ったのを見送ってから、息子に近寄る。
 血に濡れた息子に、去っていく騎士団から貰い受けた解毒作用のある薬草を煎じたものを持ってくる。苦いので飲みたくないとはいえず、アトゥールはなんとかそれを嚥下した。
「ソーク。ディーテは?」
「母上は、あの部屋に」
「そうか」
 この男はどうするつもりなのだろうか、と。薬草の効果なのか、ぼんやりとしてしまう意識を引きずって、アトゥールは父親を見つめた。レヴルは息子の眼差しには気づかず、風鳥騎士団長である男に耳打ちしている。そこからもれている言葉に”塔”という言葉を見つけて、アトゥールは閉じようとしていた意識を必死に覚醒へと持っていった。
「父上?」
 驚くほどためらいなく、その人を”父上”とアトゥールは呼べた。レヴルは目をしばたかせてから、膝をつく。
「どうする……つもり、なんですか。今回のことは、父上がひきおこしたも……同然です。あなたが……母上やソークに末期花を与え、兵を与えた……」
「そうだな」
「また、父上はこの事実を揉み消すのですか。そして……あの塔に、母上とソークを閉じ込めて、そして……」
 さらに、狂人を狂わせる気なのか。
 初めて、憤りが胸を焦がした。
 助けたいのならば、何故、最後まで助けないのか。中途半端に守って、あとは知らないと決め込むのか。
「貴方が欲しいのは、死んでいないという事実だけなんですか」
 自分でもわかるほどに、寒々とした声が唇からこぼれる。
 もしあの時、きちんとした対応を取っていたら、ソークだけでも助けることは出来たのだとアトゥールは痛感していた。あれほどの頭脳があれば、他人の痛みを思いやることも出来るように必ずなっていただろう。ディーテとて、嫁いで来たときから狂っていたわけではなかったのだ。
「お前は、私にディーテとソークを殺せというのか?」
「本来ならそうあるべきです。けれど、私はソークを庇ってしまった。二人を助けたいと望む貴方を、責める権利は持ちません」
 何を伝えるべきなのか。その言葉をアトゥールは探す。
 助けたいと思うのは罪深すぎることだった。二人は罪もない民を犠牲にしすぎている。罪をおかした者たちを、身内だからと助けていては、世の中から秩序はなくなってしまうだろう。
 だからこそ。
 多くの罪を背負った咎人を救うのなら、救った人間もそれなりの責任を背負うべきだとアトゥールは思うのだ。
 ディーテとソークを救うことは、何も知らない彼らが罪をおかさずに生きていくように見守る存在が必要になる。――そして。
 強く、アトゥールは唇を噛んだ。
 呆然とした目で、途方にくれているソークをみやる。続けて、じっとこちらを見つめている父親の青緑色の瞳を見やった。
 ――助けたいならば。方法は……。
「私……に……」
 痛みからではなく、緊張に声が震える。
 その役割を、放棄しようと思ったことはなかったけれども、心から欲したこともない責任を、背負うしかない。
「今すぐ。公王位を、私に下さい」
「なにを、いった?」
 レヴルが目を信じられないと瞬かせる。アトゥールは眉をひそめた。
「貴方はここで死ぬべきだ。妻と、子供を罰した事実に絶えられず、自害して。――果てたことにするべきです」
「果てたことに、だと?」
「誰が許しますか? 民をこんな目に合わせた罪人を、貴方が救ったと知られたらどうするのですか? 民は、貴方を見限って絶望する。それはやがて、ティオス公国に対する不信感となるでしょう」
 ――それだけは、させるわけにはいかなかった。
 ただでさえ、ガルテ公太子が不穏な気配を見せているのだ。これ以上、不安分子を増やしたくはなかった。次期皇王たるアティーファのためにも。
「貴方が大切に思う、この国は私が守ります。貴方は、母上とソークを守ればいい」
「だが……私は、お前のこととて……」
 守りたい対象なのだと口にしようとして、レヴルは息を呑む。
 アトゥールの眼差しに、暗い怒りの色が生まれていた。
「一人の人間が守れるものなんて、たかがしれてる。なのに、貴方は選ばないで生きてきた。選択をせねばならない状況は何度もあったのに、それに目をつぶって。取捨選択もしないでっ」
 少なくとも、あの日に選んでいたら今日はなかった。
 妻を罰していたら。
 ソークを塔に閉じ込めていなければ。
 自分を助けていなければ。
「今、貴方が一番守りたいのはなんですかっ」
「それ、は――」
「貴方が今、母上とソークを選べないなら。私は貴方に代わって、二人を罰します。それがたとえ、肉親殺しをすることになっても」
 暗く――凄絶な言葉を言い放ち、アトゥールは父親を睨む。
「放り出してしまうのなら、最初から拾わないで下さい」
 ぎり、と。奥歯を噛み締めて、声を絞り出す。
 初めて息子から激情をぶつけられて、レヴルはしばらく言葉を失っていた。鋭い眼差しのアトゥールを見、呆然としたままのソークを見、ディーテがいるという家に視線を移す。
 レヴルは少し笑った。
 愛しているものを、愛していると伝えることも出来ず、守ることも出来ず、ただそっと隔離してしまって置いておいた男が。
 今、生まれて初めて、選択をする。
「分かった」
 低い、けれど耳に心地よい声でレヴルははっきりと言った。彼はそのままソークの肩を抱き、アトゥールの側から離れていく。
 彼はようやく選べたのだ。
「父上、ソーク……今度は、ちゃんと幸せに……」
 去っていく、その後姿は見送らずにアトゥールは囁いた。
 父親のほうも足をとめる。
「すまなかった」
 そして、彼も振り向かずに小さく、いった。



「アトゥール様……」
 心配そうに顔を覗き込んでくるウィドにわずかな笑みをなんとか浮かべてやってから、体中を支配するだるい重みに意識をゆだね、彼は意識を失った。
 アトゥールが目覚めた時、公王の遺体のない葬儀と即位式の手配とで、周囲は騒然としていた。
 結局あそこで倒れた後、丸々三日もの間、意識を取り戻さなかったのだ。
 目覚めたときに一番驚いたのは、クルテスの村の青年であるマルクの顔があったことだった。彼は意識を取り戻したアトゥールににこりと砕顔してみせ、こう言った。
「逃がしちゃいけない相手を、簡単に逃がしちゃうような人のことは監視が必要ですから。俺はこれからここで働きます」と。
 なにやら可笑しくて、大きく笑い出してしまった。そうしていると、外から「いい加減中にいれろや」という、ぶすっとした声が聞こえてきてまた目を見張る。
 聞き間違えるわけがない。これは、親友のカチェイの声だったのだ。
 どうして外に置いたままにしてるのだと尋ねると、怪我人が寝てるのにあんな煩そうな人はいれれませんよとマルクにすまして答えられてしまって、また笑う。
「畜生め、なんだあいつ」
 ぶつぶつと文句を口にしながら、乱暴にカチェイが室内に入ってくる。アトゥールはそちらに目をやって、皮肉な笑みを向けてやった。
「ま、元気そうじゃねぇか。大変だったな」
「まあね。とはいえ、大変なのはこれからだよ」
「ああ。聞いたさ。お前、公位つぐんだってな」
「それしか方法がなかったからね」
 柔らかに答えて、アトゥールは少しやつれた顔を横に振る。
 カチェイは腕を組み、何故だか天井を見上げるようにした。
「俺もさ、もうそろそろ決意するかな」
「アデル公王はお元気だろう?」
「それなんだけどな。元気で俺に嫌がらせしてきやがる。とっととあいつより偉くなって、追い出すしかねぇだろ」
「……それは、そうかもしれないね」
 くすりと笑う。 
 公王ともなれば、エイデガル公国と五公国との間での正式な会議などに幾度も出席しなければならなくなる。一人で出るよりは二人だろ、とカチェイは思ったのだろう。
 多分、気を使っているのだ。
 そして――事の真相にも気づいているし、何がおきたのかも察している。
「ああ、末期花な。お前が意識ない間に、全部集めて一気に燃やしたよ。煙がやけにまっすぐ空に向かってな。なんかこう、天を突き抜けていくようだったな」
「天を突く、ね」
 ふと眼差しを細めて、アトゥールは想像する。
 おそらくは雲ひとつない青空に向かって、するすると登っていく白い煙を。
 ――何故だか、ひどく切ない光景のような気がした。
 息をつく。それから横手に視線を流し、親友を眺めた。
「そうだ。カチェイ、これをやるよ」
 傍らにおいた、瀟洒な硝子の瓶を取り上げる。
 母親に二度までも渡されてしまった命を奪うための、薬。
「いつかさ、カチェイ。私が不必要になったら、言ってくれ」
 なんとなく、言っておきたくなった。
 とりあえず生きようと思えるようになったのは、癪なので口に出していったことはないが、この親友の存在があるからなのだ。
 カチェイは何もいわずに、ただ差し伸べられた瓶を見やる。何が入っているのかは、当然ながら分かっているだろうに、毒の瓶を静かに受け取った。
 それから、掌の中に納めてまじまじと瓶をみつめ、
「なら、これの出番は永遠にねぇな」といって悪戯な子供のように笑う。
「さてと。ちと、アティーファの機嫌でも取って来るか。少し寝てろよ、また後で来るからさ」
「そうだね」
「あ」
 扉から体を半分出した状態で、思い出したようにカチェイが顔を部屋の中に戻す。その両の眼差しに、なにやら不穏な色を見つけて、アトゥールは眉をひそめた。
「カチェイ?」
「前よりずっと美人に見えるようになっちまったな」
 一つ詩人にでも美しさをたたえる詩を作ってもらえばと、親友が意地悪く笑う。とっさのことに反論が思い浮かばず、「……あとで覚えとけよ」と、アトゥールは低く声を絞り出した。
「もう忘れた」
 ひらひらと手を振り、今度こそカチェイは扉の奥に姿を消していった。

竹原湊 湖底廃園
Copyright Minato Takehara All Rights Reserved.