暁がきらめく場所
突天 No.08
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 硬直する弟には目をむけず、鋭い視線をアトゥールは周囲を囲む男達に投げた。
「萱をはずして、民を避難させるんだ」
 彼らは全て、公王レヴルの命令でソークとディーテを守っていた者たちだ。ということは、別段彼ら自身に忠誠を誓ったわけではない。――民を守ろうと思いこそすれ、害そうと思っている者は皆無なはずだ。
「民の心を破壊し、その上焼き殺す役目を背負いたくはないだろう? それに、お前達はソークたちを守るようにと命じられたはずだ。萱をはずさないのなら、私はこの場でソークを切るよ」
 背筋に冷たいものを走らせるほどに、それは酷薄な宣告だった。
 ソークの側につき従っていた男が体を奮わせた。民を害したくはないものの、公王の命令は絶対だと思っている彼らにとって、アトゥールの命令は絶妙に響く。主の命令をそむかずに、民を守ることが出来るのだ。
 燃やせと命じたというのに、逆に萱をはずすために動く男達にソークは吐き気を伴うほどの怒りを抱いていた。――狭い世界の中で暮らし、思い通りに動かぬ相手など存在しない空間で育った彼には、この現実が許せない。
 アトゥールは息をつき、膝を追って弟の目に視線を合わせた。
「ソーク。あの屋敷に閉じ込められていなかったら、いくら病気一つしないお前でも、痛みを感じることはあっただろうにね。そうだったら、きっとお前だって色々と考えることが出来る人間になっていただろうに」
「なにを言っているの、兄上」
「人が痛いのは何故だと思う?」
「兄上もしつこいね。何度も言っているけれど、痛みなんて存在する必要がないんだよ。痛みがあったから、兄上は母上を苦しめて、僕を拒絶する」
「痛みは、命を守るために大切なものなんだよ」
 男達の作業は終わりを迎えたらしい。布をはった担架が幾つか動いて、自力で動けぬ民達を運んでいくのも、アトゥールには見えた。何度目かの溜息をつく。
「痛みがあるから、人はそれを恐れる。剣で傷つけられれば、その痛みに戦慄する。無理をすれば体が壊れると知れば、無理はやめようと思うんだ。そうしている内に、人は気づくんだよ。自分が痛いなら、相手も痛いのだと。苦痛は誰でも嫌なのだと。だから、人は誰かに優しくなれて。自分にもやさしくなれる……」
 なのにお前は痛みを知らないね、と続けて、アトゥールは剣を捨てた。
 からんと音を立て、ティオス公国に伝わる宝剣である細剣氷華が地面の上に無残に転がる。剣を離した手を伸ばし、アトゥールは弟の頬に触れた。
「お前は、自分を大事にすることすら知らない」
「兄上?」
 アトゥールが落とした剣を不思議そうにソークが見つめる。そんな弟に、アトゥールは鮮やかな笑みを向けた。
「好きにするといいよ、お前が私に何かを望むなら」
「いきなり何をいっているの、兄上?」
「私がしなくてはいけなかったことは、もう全部終わったから」
「終わった? 何が? 兄上はここを潰しにきたんだろう?」
「そうだね。――そう、なるね」
「だったら、何故終わったっていうのかな」
「さあ。知りたいなら、考えてみるといいよ。答えは誰かから貰うものじゃない。自分で考えるべきことなのだから」
 はぐらかして肩をすくめ、促すように両手を差し出す。
 ソークは生まれて初めて、薄ら寒い気持ちになって肩を奮わせた。手に取るように、先ほどまでは兄がなにを考えていたのかが分かっていた。なのに突然分からなくなって、困惑してしまう。
 だが、兄が自分達の求めに応じるというのは良いことだった。気を取り直して立ち上がると、地面に置かれた剣を拾い上げ、兄に歩くように指示をする。
 歩き出しながら、アトゥールはふと空を見上げた。
 先ほどまでは茜色だったそこに、群青に染め上げる夜が差し迫っている。



 ウィドはすでに天領地の騎士団と合流を果たし、側近くまで来ているだろう。
 公都では、フォイスとアトゥールとの名で出された命令文に気づいて、公王レヴルが青くなっているはず。
 この事件を解決してしまったら。
 母親と弟を罰せねばならないことを、アトゥールは知っていた。
 出来るのだろうか?と、自分に再度問うてしまう。
 あまりに無知で、愚かで、哀れな肉親を。自分が、罰せるのかと。
 ――だが。
 毒を飲まされて、死に掛けたあの日に。父親が、妻と息子を罰するのを恐れ、ただ幽閉するだけに留めたことが、今の事件を招きよせたのだ。
 罰せねばならない。
 それがただ一つの、解決方法であるのかもしれないのだから。



 ディーテは、椅子に座ったまま、首を傾いでいた。
 首が異常なほど細く、その上に頭が乗り、それを頭を支えているのが不可思議に思える。だからだろうか、首を傾げる仕草はひどく自然に見えた。
「わたし、一人ね」
 閉塞された空間の中でソークと二人生きる。それが彼女にとっての日常だった。あまりにも長い時間一人でいるのが不自然で、傾いだ首を、さらに傾ぐ。
「ソーク?」
 やわらかな声を唇に乗せて押し出した。窓という窓を緞帳でふさいだ室内は、太陽が没しつつある事情も重なって、闇の中に落ちている。
 明かりをつけてくれないかしら、と。ディーテは思った。
 立ち上がり、火をつける。そうすれば明るくなることは知っているが、彼女自身がそれを行おうとは、欠片も思っていない。
「母上」
 健康的で曇りを感じさせない明るい声が響いて、ディーテは傾いでいた首を動かして入り口付近を見やった。人の塊らしきものが二つ、中に入ってくる。
「ごめんね、母上。こんなに暗いところに置き去りにしてしまって」
 切ない声を出してくる聞きなれた息子の声に、ディーテは微笑を投げる。
「ソーク。いけない子。今までどこに行っていたの?」
「兄上を迎えにいっていたんだよ」
「まぁ。そうだったの」
 両手を持ち上げて、口元の前で細い指先をあわせる。そうやってにこりと微笑む仕草は、恋人を待つ少女のようなあどけない幸せに満ちていて、ソークは満足そうに笑った。
「待ってて。今、すぐに明かりをつけるから」
 アトゥールの手を無用心にも離し、ソークは室内に点在するランプの元に歩を進める。温もりを感じさせる赤色の光が室内を照らし、穏やかさが部屋を支配した。
「アトゥール」
 光に目を細めた息子にむかって、母親は歌うような声を向ける。
「こっちにいらっしゃい、アトゥール。ねぇ、さっきも言ったでしょう。痛みを取る術を見つけたのよって。これならレヴルさまに叱られることもないわ。あなたが私を困らせることはなくなるの。私の側に置いておいても良いわね」
 うきうきとした仕草で、手折れる花のような細い手を伸ばし、ディーテは煙管を手にした。人の意識をかく乱し、精神を蝕む恐ろしい末期花から取り出した粉末を乗せたソレを見つめて、アトゥールは眉をひそめる。
 びくりと体をこわばらせて、ディーテが手を引いた。
「またなの?」
 怯えるような声。ソークが顔色を変えて、椅子に座った母親の隣にひざまずく。慰めるように手を伸ばし、ディーテの背をそっとソークは支えた。
「大丈夫だよ、母上。だって、もう兄上は痛みなんて感じなくなるんだから」
「……そうね。そうだったわね。もう、私を苦しめることはなくなるのよね。アトゥール、嬉しいでしょう? ずっと一緒にいられるのよ。一緒に添い寝だってしてあげるわ。もちろんソークも一緒よ」
 楽しいわねと鈴の音のような声と共にディーテが笑う。けれどアトゥールの苦しげな表情は変わらず、ディーテは再び柳眉を寄せた。
「どうして笑顔を見せないの、アトゥール」
「……母上……」
「ああ。そう、そうだったわね。痛みが悪いんだったわ。だから笑えないのね。だから、大丈夫だって言っているでしょう」
 ディーテは笑みを深めると、彼女を守るように身を寄せてきたソークに笑みを向けた。母の隣にいるソークはあまりに幸せそうで、アトゥールは今度は僅かに唇を噛む。
 ゆがめられて歪になった母子の関係と、部屋を充満しているむせるような匂いに胸をしめつけられて、アトゥールは両手を縛られたまま、胸元を手で抑えた。
 硬いものが指先に触れる。そこにはいざという事態に備えた自害用の小刀をいれてあった。外界を知らぬソークには考え付かないことだろうから、チェックはされないとアトゥールが思ったとおりだった。
 全ては順調に進んでいる。
 にも関わらず、アトゥールの体は緊張に震えてしまっていた。縛られている手は僅かに汗ばんでいる。体の底から、恐怖が次々と湧き出てとめることが出来ない。
 この二人を恐れることはないと、心は思っている。けれど心は叫ぶのだ。
 母親に殺されかかった、あの記憶が恐ろしいと。恐れて封じ込めてきた”恐怖”の重みが、アトゥールを捕らえて離さない。
 落ち着け。アトゥールは必死に自分自身に命じ続けた。
 そんな彼の態度が、苦痛を耐え忍ぶように見えて、ディーテはまた顔を曇らせる。手にした煙管を、母親は珍しく性急な動きで差し出して笑った。
「痛いのは苦しいでしょう? 早くおつかいなさい、アトゥール」
 向けられた声に、はっと、アトゥールは目を見開いた。
 現実に向けられている煙管が目に入る。そんなものを受け取るわけがなかった。アトゥールが静かに首を振ると、初めてディーテが怒りを見せる。ソークと同じだった。思い通りにならぬ相手に、怒りを抱くのが。
「どうしてなの? やっと見つけてあげたのよ」
 ディーテはすべるように椅子から降りて、床の上に座っているアトゥールの前で手を伸ばす。
「私、レヴル様に叱られたのよ。あの方法はダメだって。だから見つけてきたのに。嫌だっていうの? ねぇ、どうしてあの」
 更に煙管を押し付けてこようとするディーテの前で、アトゥールはただ力なく首を振った。
 人形のように思い通りに動くものであるのが、子供だ。ディーテが思い、ソークが肯定してきた事実を、アトゥールが無造作に否定してしまう。
 これは酷いことなのではないかと、初めてアトゥールは思った。
 彼らが守ってきたものを、自分が壊してしまう権利などないのではないかと。――いや、壊したいわけではなかった。あのまま塔の中にいてくれるなら、それで良いと思ってきたのだ。
 そうやって逃げて生きてきた。これでは――父親と全く同じだ。
「私……は……」
 それでも。母と弟の望みのままに、生きることは出来なかった。
 不意に、心配しているだろう親友の顔や、無邪気に笑うアティーファの顔。慣れない旅暮らしでへとへとになっているのかもしれないリーレンや、凛とした態度を崩さぬリィスアーダ。続けて、顔を赤くそめて、駆け寄ってくるシュフランの姿や、しずかにこちらを見つめている、フォイス姿などが次々とよみがえってくる。
 もし、今ここで負けてしまったら。彼らになんと謝ればいいのか。
 意を決して、強く顔を上げる。それに何かを感じ取って、ディーテは顔をこわばらせた。
「そうなの」
 ディーテの声が低くなる。
「あの時、あなたはこれは飲んだわ。アトゥールはこっちの方が良かったのね?」
 懐に手を伸ばして、彼女はソレを取り出した。
 小さな硝子の瓶。中でゆれるのは、美しい色をした液体。続けてそっと、ディーテはアトゥールの手を握る。
 久方ぶりに触れられた母の手は、この緊張感に満ちた場所には似合わぬほどに、暖かくて優しかった。
「だったら最初から言ってくれたらよかったのよ。こっちが良いって。でもね、私が飲ませるわけにはいかないの。だって、私が飲ませたから、私は愛しい子と共に塔に行かなくちゃいけなくなったわ。だからね、あなたにあげる。あげるから」
 そこで言葉をディーテが切る。
「飲んでね」
 ちゃんと、と、ディーテは言葉を締めた。
 アトゥールは、母親から向けられた言葉を聞き、向けられた瓶を見据えた。
 湧き上がってくる恐怖に負けないように、現実に向けられた危機に対応できるように。ディーテは幼い少女ではない。ソークも小さな子供ではない。たとえどんな状態であっても、責任を取らねばならぬ年齢のはずだ。
 必死に認識した頭が、ぎりぎりと痛んだ。
 ふっと、何かが首をもたげていた。
 目の前で差し出された毒物の入った液体を封じ込めた瓶。飲んでね、と笑うあどけない母の顔。無邪気に明るい、弟の顔。
 あの過去だ。
 生きていくために封じた、あの、過去が。
 首を振り、あらん限りの力を込めて睨みつける。
 母親が震えた。剣をまじえたときでさえ、怯えを見せなかったソークが目を見張る。
 


 ぴたりと。何かがアトゥールの中で、形をなした。
 死に逝こうとしていく中で、幸せな笑顔を見、無邪気な声を聞いたあの日。
 ――世界を見放した初めての瞬間。
 ――心に巣食った、恐怖が始まった日。
 あの日も、こうやって睨んだのだ。
 怖くて、許せなくて、――狂おしいほどに腹立たしくて。
 笑いが突然喉を突き上げて、吹き出てくる。
 狂人たちが、逆に狂人でも見るような眼差しになったのが可笑しかった。
 これが、恐れていた全てだったのだ。
 殺された事実ではない。全てを憎んで、破壊してやろうかと思った、あの心こそが怖かった。恐ろしいものは他人ではなく、常に自分の中にこそ或る。
「母上」
 凛とした声を上げ、アトゥールはすっと立ち上がった。
 あの日、見上げるしかなかった母親が小さく見える。手に握らされた硝子の瓶に視線を落とし、ゆっくりと首を振った。
「私は、貴方が望むようにはなれないし、これを飲むわけにもいかない」
 静かな否定にディーテが唇を噛んだ。続けて何かを言おうとしたが、それよりも早くソークが激しく首を振る。
「ああ、やっぱり。兄上は何故、そうまでも母上を苦しめることしかしないのですか」
「そうかもしれないね」
 ディーテの意のままに動く人形になることが、ディーテを苦しめぬ唯一の術であるのだというのなら。たしかにアトゥールには、母親を苦しめることしかできない。
「私に生きろと願った親友がいる。勝手に死を選択する自由など、私にはないよ」
「親友?」
 怪訝そうに奮わせたソークの声に、突然騒音が重なった。力強い何かが、地面を蹴って進み来る音だ。
「来たね」
 唇に僅かな笑みを浮かべて、アトゥールが振り向いた。
 ディーテはただただ首を傾ぐ。けれどソークはある事を理解して、窓辺に駆け寄って緞帳を持ち上げた。
 軍馬が進み来ている。天に屹立するのは、物々しく翻った軍旗。ティオス公国を示す風鳥の紋章ではない。――水竜の紋章。
「兄上が? 兄上が呼んだのですか? ティオス公国に属さない軍を、ここに呼び寄せたのは兄上ですか!?」
 なぜか、その声は悲哀に満ちていた。
 裏切られたものが、裏切った相手に向ける声。
「ソークが父上に願ったんだろう? 私にティオス公国の軍馬を動かせぬようにしてくれって。けれど私にはこの事態を見逃すわけには行かなかった。――私は、民を守るためならなんでもするよ」
 静かな兄の声に、激しく弟は首を振る。
「ここに、ティオス公国の軍ではない者たちが介入する意味を――ソークは分かっているんだね」
 馬鹿ではないのだ。
 彼は知っていた。母親がどんなことをしても、公王レヴルが或る限り、ディーテの無事は保障される事と。それと同時に、他国に事実をもらしてしまっては、レヴルでも守りきれないこともあり得ることも知っていた。
 だから、彼らはティオス公国内からは離れなかったのだ。
「私が、ソークたちの逃げ場を封じるような手段を取るとは思わなかったのだろうけれど」
「……兄上は、どうしてそんなにも母上を愛しいと思わないんですか」
「きっと私は……大事に思える相手を、沢山は作れない狭い人間なんだよ」
 追い詰められた声をだして、アトゥールは気だるげに首を振る。ソークは拳を握り締め、現実を拒絶するべく強く首を振った。
「母上を辛い目になんて、あわさせるわけにはいかないっ」
 凛々しさを感じさせる声を放ち、ソークはアトゥールに向かって剣を向けた。
「でも、多分お前では私を人質には出来ないよ」
「何故? 縛られている兄上に……っ!?」

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