暁がきらめく場所
突天 No.07
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 風が頬を切る。
 冷たいわけでも、熱いわけでもない、穏やかな風が――今、彼には痛かった。
「なぜ?」
 明るい色をした、透けるような眼差しを蒼天に向ける。
「なぜ、風が僕を嫌う?」
 解らずに首を傾ぐ。
「ソーク様。公子は、先ほど立てこもった小屋から出たようです。周囲の風が強く、何がおきたのかは確認できませんでしたが」
「風……」
 突如竜巻が発生したと報告を受けたときは、困惑したものだった。
 そんな時期ではない。第一、竜巻を発生させるような風は一つも吹いていなかったのだから。
「――獣魂風鳥は、風をつかさどる神威……」
 ぽつりと呟く。
「ねぇ、風は兄上を守るのだろうか。僕らではなくて、兄上を」
「ソークさま?」
「母上には何も言わなくて良いよ。兄上は……僕がつれてくるから」
 優しい笑みを唇に浮かべて部下に告げると、ソークは歩き出した。
 手には剣があった。自ら望んで、母親とともに塔に引きこもったわが子に、父親が愛情をこめて贈った剣が。父親から譲られた剣技に相応しい、刀身の厚い剣だった。
「兄上は、きっとまた姿を見せるよ。そうだ。もう眠ることしかしなくなった人たちがいるよね。彼らはもう楽になっているのだから。あのまま完全に眠らせてしまっても、問題はないかもしれない。悪いけどね、家の前に萱を積んできてくれないかな」
「……ソーク様?」
「あとは火で浄化してあげれば、痛みのない世界を作り上げるのは、完成だから」 
 笑う。
 健康的で、暗さの欠片もない明るさで。
 けれど、唇からつむがれる言葉には、爽快さなどは一つもない。
 部下である男は、僅かに眉を挙げた。剛直そうな眼差しを、じっと主君であるソークに向ける。けれどソークが意見を変えることはなく、彼は笑みを唇に残したまま、歩き出していった。
「きっと、出てくるよ。兄上は」
 その言葉だけを残して。


 
 ある家の前に、萱が積まれ始めたのを、アトゥールは確認して唇をかんだ。
「そういう手にでるわけだ」
 ちっと舌打ちをする。情報を多く知っているであろう人物に目星を付け、何人かを捕らえ情報を入手した時に見つけた光景だった。
 萱を詰まれた家の中で、強度の中毒状態に陥らされた村人や患者たちは、ぐったりとしているに違いない。火を放たれても、彼らは逃げることも出来ずに死んでいくだろう。
 見捨てるわけにはいかなかった。
 視線をそよがせて、太陽の位置を確認する。
 大分傾き始めているが、日没までにはしばらく時間がかかりそうだった。――それは、天領地の騎士団が村に訪れるまで、時間稼ぎをする必要があることを意味する。
「ようするに、出てきて派手に立ち回れってことだろうね」
 おそらくそれを望んでいるはずだと、アトゥールは思う。
 弟の穏やかに笑う顔が脳裏に浮かんだ。今までは、幼い頃の姿しか思い浮かべることが出来なかった弟の、大人になった今の姿。少なくとも、意味もなく民を殺すような人間ではないと信じたい所だったが。
 意識を失って転がっている人々を器用によけ、再び外へと走り出そうとして、ふいに足を止めた。
 さらり、と。長く伸びすぎた髪が、視界を染める。
 癖がまったくない為なのか、彼の髪はすぐに解けて空に舞ってしまう。腰より長い髪は、これから激戦を演じるには邪魔すぎた。誰かに髪をひかれて、動きをとめられかねない。
 少し、悩む。
 髪が長いのは、とりあえず女っぽいのは髪のせいだと、説明するために利用しているに過ぎない。ここまで伸ばしてしまったのは、単純に忙しさにかまけて切るのを忘れていただけだ。
 無造作に、長く伸びた髪を一まとめにして持つ。懐剣を取り出して鞘を払い、髪の束にあてて、無造作に刃をひいた。
 ぶつり、と。切りはなたれたそれは、まるで束縛から解き放たれた光のようにきらきらと空を舞う。
「髪も重みがあるんだね」
 しなやかな動きで首を振り、肩を隠す程度の長さになった髪を、ほどいた紐で結びとめた。普段は右胸に寄せるようにして結んでいた髪であったので、首筋に風があたるのが不思議だった。
 これで髪を引かれる心配はなくなった。
「――よし」
 顔を上げる。
 過去と対峙するのは、アトゥールにとっては精神をすり減らす行為だった。だが、それでも守りたいと思うものを、見捨てて逃げたいとは思わない。
 再び手を上げて、扉を開く。
 差し込んでくる夕日の色に目を細め、彼は一気に走り出した。
 萱が運び込まれていく、その先の民家を目指して。
「絶対に来るよ。兄上は、この国の”公子”なんだから」
 萱が高く積まれていくのを見つめながら、ソークが囁く。
 傍らに立つがっしりとした体格の男は、落ち着きのない眼差しを萱とソークとに交互に向けながら、厚い唇を噛んでいた。
 彼は、公王レヴルに忠誠を誓って生きてきた男だ。
 レヴルが民を愛していることを知っているし、レヴルが民に危害を加えることなどないことも知っている。
 けれど、今――目の前で起きていることはなんなのか。
 ディーテとソークを守れ。それだけを命じられたので、彼は二人が行うことに目をつぶってきた。本当は、あの”花”が何を意味するのかを知っていたので、口を挟みたくて仕方なかったけれど。それでもレヴルを信頼して黙っていたのだ。
 だが。もしあの萱に火をつけられるような事が起きたら。
 脅しだと信じたい。そんなことはしないと思いたい。だが、そんな手段を使うこと自体が、男にとっては”信じられない”思いでいっぱいだった。
 気持ちが落ち着かない。この脅迫に、罠だと承知でアトゥール公子が姿を見せたら。その行為こそ賞賛したくなる。
 ――なぜだ?
 王に従っていれば、間違いなど一つもなかった。なのに今、生まれて初めて、それが壊れる予感に男は落ち着かない。
 ソークはただ笑っている。
 じっと見つめていると、ソークの唇が更に持ち上がった。つい、と動いた口元が更に笑みを深くしていく。
「来た」
 男は、勢い良く振り向いた。
 一瞬誰かがわからなかったのは、腰まで長く伸びていた薄茶の髪が、見事に短くなっていたからだった。短くなった髪を後ろで強く縛りとめ、すでに抜き放った剣を斜めに持ち下げている。
 近頃のティオス公家の人間は、どちらかといえば華奢で、儚い雰囲気を抱かせる容姿をした者が多い。公太子もその例にもれないのだが、今、男はとてつもない”何か”を感じ取って、一歩下がった。
 殺気ではない。これはむしろ――怒りだ。
「ソーク。お前は、どこの人間だ?」
「そうだね。僕は、母上の息子。それだけだよ」
「なら……」
 歌うように。音だけは穏やかに、アトゥールが言葉を続ける。
「お前は、ティオス公家の人間ではないと考えていいんだね」
「生まれたときから。最初からそうだよ。兄上はティオス公国の跡取りとして生まれ、僕は母上を慰める人形として生まれたのだから」
「望んで、人形に成り果てる。お前はそんなにも……弱かったのか?」
「弱い?」
 何故、と。硬直して佇む男の隣で、ソークは首を傾ぐ。
「望んで、得られぬのが怖いんだろう? 母上が欲しかったのは人形だったから。父上が欲しかったのは、理想と描く家族を演じる役者だけだったから。私たちの両親は、二人とも本当の意味での家族など望まなかった。だから私は家族を知らない。けれどね」
 息を一つつく。その仕草までも、歌を奏でるかのように優雅で、取り巻く人々の誰もが攻撃を控えて見守ってしまう。
「私は、それに甘んじはしなかった。父上が望むものを演じれば、暖かに見える家族が手に入ることは知っていたけれど。私はそんなもの、欲しくなかった。だから、私は偽りから離れた。誰を信用していいのかわからない、どうやって頼ればいいのかもわからない。子供以下の人間だったけれど」
 それでも、見つけたのだ。
 同じように不器用で、同じように子供以下だったかもしれなかったカチェイ。
 悲しみも苦しみも、無理なく抱え込んで笑いながら、父親のように接してきたフォイス。
 兄として、家族に向けるものと同等の信頼を向けてきてくれた、アティーファ。心の殻の中に閉じこもりながらも、そこから必死に脱却しようとし続けたリーレン。
 手に入れたのは、嘘のぬくもりから離れたからだ。
「でもね、兄上。母上が望んでいるものを取り上げたら、母上は生きてはいけないよ。それは可哀想だよ」
 レヴルも、ディーテも、歪な欲望だけを抱えたまま。何一つ変われずに、ただ生きていくだけだった。
「母上は死んでしまう。それが分かっているのに、母上が望むことをやめろというの? 兄上は」
「今の状態は、母上の望みを叶えるために、お前が死んでいるようなものじゃないか……」
 目をアトゥールが細める。
 まとっていたはずの怒りが離散して、剣を手に佇む彼は今ひどく悲しそうだった。たった一人の弟を、哀れむのではなく悲しんでいる。アトゥールの表情はソークには不思議だったらしく、彼は肩をすくめた。
「貴方は本当に変わってしまったんだね、兄上。あの頃の兄上は、そうやって誰かの事で悲しんだりはしなかった。兄上が悲しがっていたのは、自分自身のことだけだったじゃないか」
「お前は何も変わらない。あれから何年も経ったのに、ソークは何一つ変わっていない。私には、それが悲しい」
「平行線だね。僕と兄上とでは、悲しいと思う場所が違いすぎる」
 貴方には、母上の側に居てもらうよと、ソークが声を低めた。幅の広い、大ぶりの剣を抜き放ち、両手で構える。
「ソークが私にかなうとは思えないけどね」
「何故? 痛みに嘆いていただけの兄上が、僕より強いというの?」
 心底不思議そうに首を傾ぐソークに、アトゥールは首を振った。
「私は、昔とは違うと言ったろう。目の前の事実から、どういう可能性が考えられるのか。それを考えようともしないのは、致命的に愚かだよ」
 淡々とした兄の言葉に感銘を受けた様子もなく、ただソークは剣をゆっくりと持ち上げる。アトゥールは僅かに腰を落とした。
 二人が剣を構える仕草に、取り巻いていた人々が我に返る。今更だがそれぞれの獲物を構えて、アトゥールに対峙した。
 太陽は、かなり傾いている。
「あと、少し」
 誰にも聞こえぬほどの小さな声で囁いた後、アトゥールは先手を打って走り出した。ソークは臆することなく足を一歩引き、真っ向から向かってくる兄の剣を受け止めようと腕を持ち上げる。決して遅い動きではないのだが、アトゥールにはひどく緩慢な動作に見えた。
 ソークの体格は華奢で、力押しの技が多いティオス公家の剣技は、元々向いていない。幅の厚い剣を握る手の筋肉にかかる負荷も大きい。そんな状態の相手を、叩きのめすのは容易なことだった。
 けれど、今、弟を叩きのめすわけにはいかない。
 最優先せねばならないのは時間を稼ぐことだ。ソークの剣を叩き落して人質にとっても、民家につんだ萱に火をつけると脅されたらこちらが不利だ。
 より効果的に、萱をはずさせるように命じる機会を狙わねばならない。
 微妙に力を抜いて、アトゥールはソークの剣をはじいた。周囲を取り囲む男達は、二人の動きにあわせてじりじりと間合いを詰めてくる。だが、彼らの剣先には迷いがあった。――民を害する命令を下されて、困惑しているのがアトゥールには分かる。
 じりじりと、アトゥールは場所の移動を図る。広い場所での戦闘は避けたい。簡単なのは路地に引き込むことだ。
「兄上。どうしてそんなに僕たちを拒絶するの? 母上は、兄上を側においておきたいんだよ。それだけなのに、どうして?」
「私は、私の心を縛らせるわけにはいかない」
「どうしてそうなるんだろう、僕には本当に分からない」
 悲しげに眉をひそめながら、ソークは更に剣を押し込んでくる。そのたびにアトゥールが足を後ろに引くのを、自分の剣が兄を圧しているのだと彼は思っていた。
 人と接することなく、実戦経験もないソークには、駆け引きが理解できていない。相手を倒すためならば、どんな手段でも講じてくる現実を彼は知らないのだ。
「ソーク」
 つばぜり合いの状態なった時、アトゥールの背は石壁にたどり着いた。追い詰めたと思ったソークの眼差しが、少しばかりほっとした色を見せる。長い剣戟に疲れを感じて、早く終わらせたかったのかもしれない。そんな様子を簡単に見せてしまう弟が、アトゥールには苦しかった。
 何も知らない。――弟は、現実を知らなさ過ぎる。
「どうして、お前は……」
「兄上?」
 思いがけない、兄の切ない声に、ソークの瞳が初めて困惑に揺れた。
 何かを感じたのかもしれない。――感じることはまだ出来るのだ。
 そうは思ったが、アトゥールはソークの困惑を好機と判断し、突如つばぜり合いを続ける剣から力を抜く。全体重をかけるようにしていたソークは、支えを失った形になって、前につんのめった。自然牙を剥いてくる剣をよけるために、アトゥールは体を沈め、同時に強くソークの足を払う。
 弟が横転して、狭い路地の向こうに空が見える。
 浮かぶ太陽は殆ど沈みかかり、名残惜しげな茜色を静かに差し込ませていた。
「萱をはずさせるんだ、ソーク。私は、お前に民を害させるわけにはいかない」
 転がされて呆然とするソークに、アトゥールが言葉を落とす。ざわりと、周囲の男達に緊張が走ったのを、肌で感じ取った。
「お前は私の弟だけれども、ティオス公国の民を守る人間ではない。公族が民を害する命令を下してはいけないのだから。なのに、お前は萱を積んだ。動くことも出来ない民を、殺せと命じた。――彼らにそんなことをしろと命じること、それ自体が罪だというのに」
「何故? 父上は、彼らを使ってよいって僕に言ったんだよ。それに、彼らは眠っていたいだけなんだ。だったら、起きる可能性がある状態よりも。起きる可能性がなくなる状態のほうがいいだろう?」
 簡単なことなのに、と首を振って、ソークは地面に手をついた。転がされた反動で剣は手から離れたが、運良く遠くには行っていない。手を伸ばし剣を拾って、優雅な動きで顔を上げた。
「ああ、そうか」
 何かを思いついた声。
 アトゥールの胸が、ちくりと痛んだ。
 彼が次に何を言うのかは分かっていた。分かっていて――言わせるように仕向けたのだから。そして……それを言ってしまったら。
「兄上が母上の側にいるためには、兄上が守りたい存在も邪魔なんだね? それがあるから、兄上は僕の言葉を聴いてくれないんだ。そんなの、困るよ。だったらさ」
 言葉を一旦ソークがきる。どこまでも明るく澄んだ眼差しが細められて、彼はひどく晴れやかに微笑んだ。
「萱に火をつけてよ」
 ――言った。
 瞬間に、アトゥールは駆け出していた。抜き身の剣をすばやく走らせて、言葉を言い終えて口をつぐみ、息を吸い込もうとした喉元にぴたりと這わせる。
 何がおきたのかが把握できず、ソークは硬直していた。彼が手にしたはずの剣は、今なぜかアトゥールの靴の下にある。喉元には氷華の青い刀身があった。

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