暁がきらめく場所
突天 おまけ短編集
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※突天連載中に、動時間軸上で他のキャラは何をしているのか?というアンケートをとり、要望が多かったものを書き連ねて在ります。
ショートショートで、時間がぽんぽんと飛んでますので、こういうこともやっていたんだな、程度に思ってくださると嬉しいです。

リーレン&ロキシィ

「公王」
 完全に低まった声を出して、黒髪の青年リーレン・ファナスは背後で口笛を吹く男をにらんでいた。睨まれているのは、金褐色の短髪に、堂々とした体躯を持つミレナ公王ロキシィ・セラ・ミレナだ。
「今日という今日は、言わせて頂きたいことがあるんですけれどっ!」
「なに言ってんだよ。毎日、毎日、好き放題言っているくせによ」
 豪快に笑い出す。隆々たる筋肉がその度に、少しばかり動いていた。かなり強そうなのだが、リーレンはそれに臆することはない。臆するのは――一年前にやめてしまっている。
「いいえ、何時ものとはまた違います。はっきり申し上げますが、公王。あなた、方向音痴なんじゃないんですか!?」
「なんだ、今更気づいたのかよ」
 鈍い奴だなぁと言葉を付け加えて、ロキシィは大量の荷物を背中、両肩に抱えているリーレンの肩を叩いた。げっそりとした表情を浮かべて、やっぱり、やっぱりそうだったのかと、リーレンは呻く。
「アトゥール公子に聞いたんです。ロキシィ公王は、迷子になってあの村にたどり着いたなって。迷子ですよ、迷子っ!」
「なにいってやがる。迷い大人だ」
「そっちのほうが、情けないでしょうがっ!!」
 大声を出して、ぜぇぜぇと息をつく。ロキシィはうるさそうな顔で耳をふさぐと、やれやれと首を振った。
「おっかしいな。リーレンはおとなしくて、素直だって確約があったからつれてきてやったってのに。全然おとなしくないじゃねぇか」
「そうさせたのは、貴方ですっ!」
 息をあげながらも、反論は忘れずに、リーレンは叫ぶ。
 あれから、もう二年が経過してしまっていた。
 今、彼らはエイデガル皇国を出て、ザノスヴィア王国に入っていた。旅の連れ合いがロキシィであった為に、リーレンの魔力は抑えられ、他国に出ることも可能だったのだ。
 そして。今、彼らは深い森の中で立ち往生している。
「なんかそれに、ここって懐かしい感じがするんですよね。まさか公王、私をとんでもない所に連れ出すおつもりじゃないんですか?」
「とんでもないっちゃあ、とんでもないかもな」
 しれっと、ロキシィが答える。リーレンは横目で放浪公王を見やったが、彼が今何を考えいてるのかは、全く分からなかった。



 奥に、奥にと人を導くような深い森。
 旅を始めたばかりの頃は、森林の中を歩くだけでも息が上がってた。だが、あれからもう二年。流石に体力はまして、今ではリーレンも簡単に森の中を歩けるようになってきている。
 だからだろうか。当初はそれなりに荷物を持っていたロキシィなのだが、近頃は弓以外は持とうとしない。おかげで、リーレンはいつも荷物の中に埋もれていた。
「公王っ!」
「んだよ。もう根をあげたのか、根性ねぇなぁ」
「身軽な貴方に言われる筋合いなんて、全然ありませんっ!」
「なに言ってやがる。俺は、お前を鍛えてやってるんだぜ」
「お願いした覚えもありません」
「だろうなぁ。俺によろしくと言ったのは、フォイスだ。アティーファの父親。で、文句あっか?」
「………」
 いきなりリーレンは黙り込む。ロキシィはにやにやと笑いながら、どうなんだよと詰め寄ってきた。
「――ありません」
 ぐぅ、と謎のうめき声を発した後、リーレンはため息と共に答える。
 リーレンは、アティーファはフォイスの名前を出されると心底弱い。いかにリーレンを鍛えてやってくれとフォイスが言ったにしても、下男のようにこき使えとは言われているはずがないのだが、指摘することが出来なかった。
 心底辛いと思っていないから、文句を最後まで言い続ける気力が続かなかった。
「で、公王。そろそろ目的地を話して下さってもいいんじゃないんですか?」
「んー? 俺は目的地なんぞ決めんで旅するほうでね」
「と、いいながら。さっき、とんでもねぇ場所かもな、とかおっしゃってませんでしたか」
「若者は記憶力が良くていいねぇ」
 炯炯とした眼差しを細め、嫌味っぽくロキシィは腰をとんとんとたたいてみせる。老人のフリなどしないで下さいと一喝したのち、リーレンは背伸びをして遠くを見渡すようにした。
 今まで歩んできた道は、獣道でしかなかった。
 だが、今、遠くに見えてきた道は人が歩くために整備されたものに間違いはない。奥深くに進み、人里から離れようとしているように思えたのだが、逆に人里に近づきつつあるらしい。
 ロキシィはにんまりと笑い、
「ちっと迷ったが、どうやら夕暮れ前にはたどり着けそうだ」と声を上げていた。



「ミツハの様子が変?」
 腰まで棚引く、麗しい黒髪を惜しげもなく揺らして、リィスアーダは乳母の言葉に首を傾いだ。
 ミツハというのは彼女の十歳になった弟の名前で、彼はザノスヴィア国王の地位にある。
 気詰まりの多い国王の地位は、十の子供には重く不自由なものでしかない。十歳になったというのに、むずがって泣く姿は、まるで幼児のようだった。
「それで、何がどう変なの?」
 尋ねてやると、乳母は節くれだった手を頬に当てて首を傾ぐ。
「近頃、召し上がる食事の量が多すぎるのです」
「え? 食事の量?」
 そんなことなの、と疑問にゆれる十八歳の美しいリィスアーダの瞳を見上げて、乳母はふるふると首を動かす。
「姫。ミツハ様は、どうみても三人分は今召し上がっています」
「三人分!? それは……確かに奇妙ね。だってあの子は食が細いし。それで、お母様はなんとおっしゃっているの?」
「ミファエラ皇太后様の前では、ごく普通に一人分しか召し上がりません。その後で、もっと持って来いとおっしゃるのです。あれではまるで」
「――まさかミツハ、誰か友達でも引き入れているのかしら」
「姫様。ミツハさまのご友人に、そんな城内に潜むような怪しいものはおりませんよ」
 怖い顔をした乳母に、そうよね、とリィスアーダは答える。


「公王っ!」
 いつ頃に作られたのかもわからぬ隠し部屋の中で、リーレンが音量は低めて怒りの声を上げた。
 とんでもないところに連れて行かれるだろう、とは覚悟していた。だが、まさか、ザノスヴィア王城の中に潜入させられるとは、誰が考えただろうか。
「うっせぇぞ、リーレン。ちったぁ黙っとけ。ばれるだろうが。あの姫さんは曲者だからな」
「癖者は私たちですっ! 大体、いつ貴方はミツハ国王と友達になったんですかっ!」
「一年前だよ。アティーファの誕生日があったろ。あのとき近くに行ってたんだよ。そこで、ザノスヴィアに戻る船にこそっと便乗したのさ。そこであのミツハってガキにあったわけだ。完璧にぶーたれてたのが面白くてよ、かまってたら懐かれた」
「他人の家の子供をかまうなら、公王、シュフラン公女を構って差し上げたらよいでしょう!」
「お堅いねぇ。しかたねぇだろ、成行きだ。それに、ザノスヴィアってのは心地よく滞在できる村とか少なくてよ。ここが一番楽なんだ」
「楽!? これが楽ですか!?」
 場内を巡回する人々をよけながら、散らばって存在する部屋の中で息を潜める。出るタイミングを教えてくれるのはミツハだ。
「楽だろう」
 なにせ楽してメシがくえる、と。ロキシィはからからと笑い出した。
 この男は本当に、常識というものが通用しないのだ。



「私」
 一目彼女を見たいと望む男達の羨望の的となっているザノスヴィアの姫君が、すっと剣呑な色を称えて目を細める。目の前では小さな体を更に小さく縮める子供が正座していた。
「ミツハには、友人を堂々と紹介できるような人間になってほしって思うわ」
「……だって、姉さま」
「だってではないの。どうして、こんなところにあんなモノを隠しているの?」
「あんなもの、はねぇだろ、姫さん」
 美しい姫君が見やった先で、寝台に押し込められたロキシィが手を振っている。その下敷きになっているのは、リーレンだ。
「私、堂々と門を潜ってきた者でなければ、人と認識しないことにしてます。それから、早くどいて差し上げてください」
「おや、人間扱いしねぇんだろ?」
「リーレンは別です。マルチナの思い人ですから」
 さらりと言い切って、絶世と称えられる顔に笑みを浮かべる。
 ザノスヴィアの一の姫リィスアーダと、魔力者のマルチナは双子の姉妹だが……体は一つしかない特異な身の上だった。
「やーれやれ。まさかばれるたぁね。まるでアティーファみてぇだな。城内の通路全部知ってるなんてよ」
「こうみえても、私もお転婆なんですよ。いつでも母さまの元にいけるように、通路検索は怠りません」
 答えながら、また、リィスアーダは弟に視線を戻す。
 小さくなっている弟が、上目遣いで姉を見上げた。ふう、とリィスアーダが息をつく。
「危険な者ではなかったからいいけれど。いい、ミツハ。誰に隠し事をしてもいいけれど、私とマルチナにはしないで」
「うん」
「なら、いいわ。それで、二人はなんの用事で?」
 ロキシィがどいたことで、ようやく起き上がることが出来たリーレンは頭を何度も下げる。けれどリィスアーダの問いには、首を傾げるだけだった。
「私は連れまわされているだけなので」
「そうなのですか? なら、ロキシィ公王、お答え下さい」
「そんな義務はねぇな」
「食事、差し上げませんよ」
「……。冷てぇなぁ、ザノスヴィアは。ああ、なんてことだ」
「なげいても無駄ですから。で、何用です?」
 流し目を公王にくれてやってから、年齢よりもずっと大人びて見える姫が王を睨む。何故だか楽しそうにロキシィは笑った。
「あのな、ミーシャに会いに来たわけだ」
「母さまに?」
「ああ。ミーシャは、ま、あの村唯一の生き残りだろ」
 ちらりと、ロキシィはリーレンをみやる。ああ、とリィスアーダが目を細めた。


 ザノスヴィア王城内のはずれに、ひっそりと佇んでいる邸宅があった。
 人が訪れることはまずない。庭先には小さな畑があり、そこには格好こそ整っていないものの、瑞々しい野菜が幾つもの実りを見せていた。
 この邸宅の主の名前は、ミファエラ。前ザノスヴィア王の妃であり、リィスアーダとミスハの母親に当たる女性だった。
 白い面を、ゆっくりと彼女は上げる。彼女は三つの気配にひどく敏感だった。
 一つはリィスアーダ。一つはマルチナ。そしてミツハ。
 ザノスヴィア前王ノイルによって魔力を封じられ、精神の均衡を崩しつづけているミファエラ――本名をミーシャというが――は、子供達の前では優しい母親であったのだ。
 魔力者たちが身を寄せ合って生きていた村に流れていた穏やかな日々を、昔語りする者は――もう、このミーシャしか存在しない。
 白いものが混じる髪を、邪魔にならないように結い上げたミーシャは、小さな邸宅の門前まで歩き出した。眼差しの先に、娘と息子の姿を捉えて目を細め――ついで、はっと息を飲む。
 ミツハは母親が穏やかな状態であることを確認して、笑顔になって走り出してくる。リィスアーダはほっとしたように笑みを浮かべた。ロキシィは軽く手を上げ、リーレンを前に押しやる。
「公王?」
「いいから、前に出てろ」
 訝しむリーレンに、詳しい説明はしてやらず、ロキシィはぐいぐいと彼の背を押す。仕方なしに前に出たリーレンが進むたびに、前方で立ち尽くした女の顔に浮かぶ驚きの色は濃くなっていった。
「……オリファ、さま?」
 飛びついてきた息子を抱きとめながら、ミーシャはついに声を上げる。
 母親の唇から出た言葉に、あっと声を上げたのはリィスアーダだった。
 ミーシャは、魔力者の村をまとめていたファナスの一族に使えていた娘だ。そして、彼女が命がけで守ろうとしたのはルリカで、ルリカの姉と兄がオリファとライレル。すなわち、リーレンの両親だ。
「思い出話、聞かせてやりたかったのですか?」
 突然出てきた父親の名前に驚くリーレンの側をそっとはなれ、リィスアーダはロキシィに小声で尋ねる。まぁな、とロキシィは鼻面をかいて見せた。少し照れているのかもしれない。


「ま、その前に一つやることがあったからな」
 リーレンの横を通り過ぎ、ロキシィはたたずむミーシャの隣に立つ。
 不思議そうなまなざしでロキシィを見つめてから、ああ、と女は声をあげた。
「あなたは、たしか村にいらした若者のうちの――お一人ですね?」
「お、わかるか?」
 楽しそうに答えて、ロキシィは無骨な手を持ち上げる。丁度、ミーシャの額の上に掲げるような仕草で、わずかに丸められた掌の中には、美しい宝珠の姿があった。
 ミレナ公国の至宝、銀猫宝珠だ。
「――まさか……ロキシィ公王」
 リィスアーダが声をあげる。
 獣魂の宝珠の力を借りれば、無理な魔力封印を解除することが出来ることを身をもってリィスアーダは知っていた。リィスの双子の妹であるマルチナを救ったのが、その方法であったからだ。
「ロキシィさまは、あの方を救おうと思っていらっしゃったんですね」
 ほっとしたリーレンの声に、リィスアーダが視線を傾ける。
 目を細めてミーシャの白い面の上を、銀猫宝珠とロキシィ自身の抗魔力の光が照らし出す。
 彼女の中にある魔力を、いびつな形で封じ続け、精神をも破壊しっていった封じの鎖が壊れる。
「ま、こんなもんかな。劇的に直るってもんじゃねぇが、ひどくなることはねぇ。じきに心も落ち着くさ」
 神秘的な光景には似合いもせぬ低い声を放ち、ロキシィは一歩下がる。睫を伏せていたミーシャは胸の前で手を祈るように組んでから、そっと、まぶたを開いた。
「――リィス、ミツハ」
 やさしく、子供たちの名前を呼ぶ。それから彼女は顔をあげ、光景をやわらかい表情で見守っていたリーレンを見つめた。
「あなたは、オリファさまと、ライレルさまの子供ですね?」
「え? ――ええ。そうです。あの……」
「私はミーシャと申します。あの村の中で、ファナスの一族に使える役目をもっておりました。私が使えていたのは、優しく、そして脆かったルリカさまです。ああ、もう、あれから随分とたってしまったのですね」
「では、貴方は、私の父と母をご存知なんですか?」
「ええ。あの村の中では、ひどく辛い立場でいらしたかたがたです。けれど、私はあの方々が好きでした。とても優しくて、強い意志をもっていた方たちだったんです」
 思い出に浸るような眼差しで、ミーシャの心が過去に帰る。
 ザオスヴィア王ノイルによって、魔力を封じられ、精神を壊した者らしい不安定さは、今の彼女にはどこにもなかった。
「こんなところで立ち話も変ですね。どうぞ中にお入りください」
 にこりと笑い、娘と息子の双方の肩と背に手をおいてミーシャは小さな邸宅の中に入っていく。
 リーレンが思いだした過去の中にある光景を、共有できる者は殆どいない。
「過去は過去としてちゃんと持っとけ。フォイスがお前を旅に出した最大の理由がこれさ」
 俺はあいつに頼まれたからやってるだけだからな、と念を押し、ロキシィは家の中に入っていく。それを、慌ててリーレンも追いかけた。



やわらかな香気を放つ紅茶に、リーレンが目を細める。
「お母様がいれる紅茶は、一番なんだよ」
 一人、紅茶に蜂蜜を落としてもらいながらのミツハが、自慢そうな声を上げた。
 子供というのは敏感なもので、母親の状態がなにか良い方向に変わったと、気づいているらしい。隣に座ったのはロキシィで、切り分けられたケーキの大きさで、ミツハとなにか言い合っている。
 子供じゃあるまいし、と思いながら、リーレンは紅茶を口に運んだ。
 ふわり、と暖かい気持ちになる。
 それは、紅茶の香りだとか、味だとか、そういう問題ではなく。もっと深いなにかが隠されているような気がして、首を傾いだ。
「懐かしいですか?」
 やんわりと、ミーシャが尋ねてくる。二人の良く似た美しい顔に、ゆっくりとした笑みを浮かべていた。
「懐かしい?」
 オウム返しに尋ねる。
「ええ。この紅茶は、元々はあの村で行われていた煎じ方でいれたものなんです。ルリカさま、リルカさま、ライレルさま、オリファさま。この四人の母君にあたるかたが、紅茶がひどくお好きで。色々と煎じ方をかえていらっしゃいました」
「……はは、君……」
「ええ。リーレンさまの、お祖母様にあたる方です」
「おばあさん」
 なにやら、自分には縁のないと思っていた言葉に、リーレンは眩暈がする。
「お母様。お母様は、今でもあの村に帰りたいの?」
 リィスアーダが、ミツハが必要以上にケーキをとろうと伸ばす手をぴしゃりと叩きながら、尋ねる。そうね、と母親はゆっくり首を傾げた。
「一度ぐらいは。行きたい。そう思うわ」
「――どうして?」
「だって、リィス。あそこは私の生まれ故郷ですもの。ううん、そうじゃない。魔力者にとっては、きっとあそここそが故郷だわ」
 うっとりと、目を細める。
 その表情だけで、かつて平和だった頃。まだ、狂う前の”村”は、穏やかで優しい場所であったのだと、分かるものだった。
 リィスはぎゅっと手を握り締め、母親の顔を見上げる。
「じゃあ、私と、お母様の故郷は違うの?」
「リィス。人の故郷は、それぞれ違うものよ。それがどんなに心が近しいものであっても。そう、夫婦でも、恋人でも、家族でもよ。でもね、故郷というのは、魂が生まれた場所のことを意味する。そう私は思っているの」
「魂が、生まれた場所……」
「リィスをはぐくんだのは、このザノスヴィアの王都。ミツハも同じね。だから、二人の故郷はここだわ。私とマルチナの心に根付いたのは”魔力”そのもの。だから、魔力の象徴であったあの場所が故郷」
「ええ。それは、分かる気がする」
 睫を伏せ、手元の紅茶を覗き込む。 


 それが、まるで寂しがっているような仕草に見えて、リーレンには気になった。
「言葉を挟むのもどうかとは思うんですが。故郷は違っていても、みなさんの帰る場所は一緒なんじゃないんですか?」
「――え?」
「ここが……」
 立ち上がり、リーレンは小さな家の中を見渡す。
 時折精神の均衡を崩しながらも、その人としての性格が優しかった女を主とする家は、暖かさに満ちていた。娘を、息子を、案じる母親の気持ちが満ちていた。
「この家には、そういう暖かさがあると思います。もしかしたら、私にとっての故郷もあの村なのかもしれない。でも、帰る場所は別にあります。人は、そうやって――帰る場所を見つけて、そこを故郷とする子供達を送り出すんじゃないんでしょうか」
「次の、子供達……」 
 つぶやいた、リィスの隣でミツハが笑う。
「僕たちのこと?」
「うん」
 こっくりとリーレンがうなずく。ミーシャは嬉しそうに、微笑んだ。
「本当に、リーレン様はオリファ様にそっくり。そういう考え方も。優しい気持ちも」
「そういやぁ、オリファの奴は優しかったな」
 一人、食欲を満たすことに専念していたロキシィが口を挟む。ええ、と。幸せそうにミーシャはうなずいた。
「本当に。リーレンさまに見せて差し上げたかった。あの美しかった村を。優しかった人々を。いびつな形だったかもしれない。けれど、誰がみても狂っていると思う場所であっても。中に居た私たちにしてみれば、幸せだったのですから」
「幸せ?」
「幸せは、外から見ている人間に判別されることではありませんから。そこにいる、一人一人が判断することだと思っています。そして、私は幸せでした。ルリカさまにお使えして。ほかのファナスの一族のかたがたに触れ合って。リーレンさま」
 すっと、目を細める。今まで、皇公族に対し礼をとってきたことはあっても、まるで自分こそが皇族であるかのような対応を取られたことのないリーレンは、ひどく緊張して喉が干上がるのを感じた。
「あの村を、いとわしいと思わないで下さい。滅びてしまったかもしれない。今はなにも残らぬかもしれない。けれど、いつか――いつか、あの村に。足を向けてください。その時には、わたくしがご案内致しますから」
「……ミーシャさん?」
「ご案内したいのです。きっと、オリファさまもライレルさまの、あそこで貴方を待っていらっしゃるでしょうから」
 


 精神をしばるおそろしい封印から開放された彼女は、ロキシィがリーレンに、彼が知らないでいる"故郷"を知らせるためだと気づいていた。さらに詳しいことを口にしようと、唇を開く。
「あの村がいつできたのか、それは私も知りません」
 そっと、言葉を唇からつむぎだす。
「ただ、この国で。魔力者が逃げるこむ場所といえば、人の感覚を狂わし、朽ちさせる"死の森"でしかなかったのが事実でした。だから、魔力者がそこに集まっていることは知らずとも、魔力者は追い詰められてここに来て……そして、増えていった」
 魔力を抑え、まるで魔力を持たぬ者のように暮らしつづけた民。
「無論、魔力を持たぬ者も生まれるようになりました。魔力さえ持たねば、外でも生きていくことができる。外に出ることを望む者は、過去の記憶を消すことを条件に、外に出しました。もちろん、偶然迷いこんできたザノスヴィアの民たちも、そうやって記憶を消して森の外に追いやっていたのです」
 村は閉鎖されて、細々と生きていった。
 少ない人口ゆえに、やがて生まれる子供達の血がこくなったことで生じる弊害を抱えて。
「血をこれ以上濃くしてはならない。それが私たちの間にあった共通の認識でした。血が濃くなればなるほど、生まれてくる子供の魔力は大きくなる。そしてその魔力を封じこめるために必要な労力はあがっていくのです。けれど――どんなに決まりごとを作っても、心がそれに反してしまう人もありました」
「それが、私の父と母なんですか?」
「ええ。お二人は、愛し合う気持ちを捨てることができずに苦悩を続けていました。村を守るのがファナスの一族の役目なのに、その役目を担う二人の禁断の恋に、まわりはひどく冷たかったんです。二人は、必死に心を偽っていらっしゃいました。――偽って見せると、おっしゃっていたのです」
「偽って見せると?」
 リーレンが疑問に首をかしげる。
 それが本当だとしたら、なぜ自分が生まれたのか。その疑問がありありと顔に浮かんでいて、ミーシャはリーレンをいたわるような表情を浮かべた。
「リーレンさまにとっては、おじい様にあたる方がライレルさまを殺そうとしたのです」
「えっ!?」
「ファナスの一族に生まれた者の魔力は高いのです。そんな一族に生まれた双子が、近親婚などしたらどうなるか。それを恐れたようでした。けれど企みは失敗し、オリファ様は激怒した。そしてお二人は心を偽るのをやめたのです」
 きゅっと、ミーシャは手を膝の上で硬く結ぶ。
 愛している故郷の村の、暗い一面を伝えるのは彼女には辛い作業だった。
「そして貴方が生まれました。お二人への風あたりはひどかったけれど、お二人は幸せそうで。そして、リーレン様を心から慈しんでおられました。それだけは――」
 わかって差し上げてくださいと続くのだろう言葉を、リーレンが珍しく遮る。
「だから。幸せだったと、おっしゃったんですね」
「そうです」
 ほっとしたように、ミーシャは笑う。
「お母様」
 唐突に、声が二人に割って入った。
 少女の声。リィスアーダと同じでありながら、決して同じではありえない者の声だ。
「マルチナ姉さまっ」
 母と姉の間に囲まれて、おとなしくしていたミツハが歓声をあげる。塗れた黒曜石のような瞳を細め、弟をやさしく見守ってから、再び少女は顔をあげた。
「お母様が、いつかリーレンさまをご案内するのなら。私も連れて行ってください」
「マルチナ?」
「私は魔力者として生まれた娘。その村の、娘ですもの」
 うれたさくらんぼのような唇を、きゅっと噛み、目を伏せる。
 双子として命を授かりながらも、生まれる前に宿るべき体を殺され、ひとつの体に二つの魂が宿ることになってしまった娘を、ミーシャはひどく切なそうに見つめた。
「ええ。一緒に行きましょう、マルチナ」
「その時は。リーレン様も一緒にいって下さいますか?」
 塗れたまなざしを、マルチナがリーレンに向ける。
 魔力者であるマルチナが、好意を寄せてくれていることを、リーレンは知っていた。その気持ちに答えることはできないと、はっきりと伝えてもいる。それでもよいのだと、マルチナは言った。現実に、今も好意をよせてくれていることに変わりはないらしい。
 リィスアーダの中で眠りつづけて、命を終えようと考えているマルチナの最後であろう願いに、母親であるミーシャは胸がいたんで仕方なかった。すがるように、リーレンをみやる。
「行ってやって下さい。この子は、思い出を抱きしめて眠りたいのです」
「眠る?」
「リィスとマルチナは、今までは共存していられました。けれど、この子たちも年頃の娘。人を好きになるでしょう。そして好きになったとき、一つの体に二つの魂が入っているような状態に耐えられなくなるでしょう。だからこそ、マルチナは"眠ろう"と思ったんです。リィスの中で」
「そんな――」
 あまりの言葉に、リーレンは絶句してそれ以上の言葉を継ぐことができない。行儀悪い格好で、他人の皿の上に残ったケーキを平らげ続けていたロキシィは顔をあげた。
「魔力者の中には、魂を分離する方法があるって話だ。かわいそうだと思うなら、もっと魔力を鍛えがあげてみせろや」
「え?」
 突然の提案に、全員がぎょっとした顔になる。
「あんだよ。そういう方法がな。アトゥールの奴が調べあげて、フォイスの奴に報告した。だから、おめぇの根性叩きなおし大作戦が終わっても、こうやって俺らは旅をしてるわけだ」
「……えっと、ロキシィさま?」
「んだよ」
「この旅って……目的、あったんですか」
「あったんだな、これが。おめぇの魔力を高めるには、あの村にいくのが一番の近道だからな。あそこにはまだ、おめぇの無事を祈りつづけてるオリファとライレルの魂も残ってるしな」
「あ、貴方にそんなまともな行動理由があったなんて」
「ああん!? てめぇ、生意気なこと言ってんじゃねぇ!」
 太い腕を伸ばし、思い切り強くロキシィはリーレンの頭をどつく。うげ、と謎の寄声をリーレンは発した。
「ちゅーこった。ま、しばらくここで休憩してからだな」
「じゃあ、遊べるね!」
 きらきらと目を輝かせ、ミツハがロキシィの顔を見上げる。手加減しねぇぞと、からからとロキシィは笑った。
 マルチナは、思いがけない展開に目を丸くし、そして上目使いでリーレンを見やる。
「私……」
「はい?」
「がんばりますから」
 そして傾国の器だと表される少女は、可憐な笑みを浮かべた。


 リーレン、ロキシィ、ミーシャ、マルチナの四名がザノスヴィア王都を出るのは、まだ――少し先の話だった。
カチェイ


 一点の曇りのない青に染められた空に、彼はため息を一つ投げた。
「なんだかなぁ」
 アデル公国は、海軍国家エイデガルの中では珍しく、山岳地帯を領土としている。とはいっても、山間に網の目のように張り巡らされた運河が存在するため、水軍国家としての体裁も失っては居なかった。
「つまんねぇなぁ」
 再びぼやく。アデル公城内の中に、やけに高い木を見つけ、そこをカチェイはお気に入りの場所に定めていた。木登り好きの魂は、そう簡単に消えるものではない。
「公子。休憩など取っている時間など、ないはずですが」
 下から、低い声が響く。無論それが誰のものであるのかをカチェイは知っていた。彼の側にもう長いこといる、髭面の騎士だ。名前は知っているのだが、つい、心の中で”髭”と呼んでしまう。
「今度はあの男、なにしやがったよ」
「なんだと思われますか、公子」
 あの男、とカチェイが呼ぶのは、一応彼の実の父親であるアデル公王のことだ。とはいっても、親子の間に親愛の情というものは一切存在していない。
 髭面の騎士は、木の下で腕を組み、カチェイが降りてくるのを待っている。仕方ねぇなぁとぼやいた後、髪をかき回して体裁を整えると、器用にカチェイは下へと降り立った。 「で、今日はなんだ」
「侍女の一人が粗相をしたとかで。突然、公城前の柱にくくりつけてしまっておいでです」
「はぁ!? くくりつけたぁ!?」
 なんだよそれ、と心底あきれた声を絞り出してから、大きな背を縮めため息をつく。
 アデル公国民たちに、最も人気のある男は、つい最近まで現公王だった。
 思いやりがあり、国の発達のためならば労力を惜しまず、常に民と国を思う王だったのだから、それも当然だろう。――だが。
 近頃、どうもアデル公王の行動がおかしい。
 些細なミスをみつけては、数時間にもわたって怒鳴りつける。粗相をした者を、どこかに閉じ込めてしまう。民が側によってきても、一瞥するだけで相手にしない。
 ――奇妙すぎる。
「頭おかしくなったのかよ、あいつ」
 面倒だ、面倒だとぼやきながら、カチェイは大股で歩き出す。公王が縛り付けてしまったのなら、どんなに周りが可哀想だと思っても、助けることは出来ない。それをしてやれるのは、時期公王であるカチェイだけなのだ。
「公子、ご機嫌が悪いですね。ティオス公国にいけないのが、そんなに腹立たしいですか」
「うるせぇぞ」
 ふんっ、とカチェイは胸を張った。


 奇行を繰り返す父王によって、散々な目にあっている人々を救って歩きながら、カチェイは大きなため息をついた。
「あの男。絶対にわざとやってやがるぞ」
「そう考えるのが妥当でしょうなぁ」
 カチェイに付き従う、髭の騎士の声にも疲れがある。
「今日だけで、一体何人がエライ目にあってると思う。樹に縛られたのが三人。門前で正座させられたのが二人。おやつを奪われた従者が五人だっ!」
「おやつ、というのが随分と規模が小さいですな」
「ガキにしてみりゃ、一大事」
 はん、と心の底から搾り出した侮蔑の色を眼差しに宿して、カチェイは肩をすくめる。
「この事な、前にアトゥールに話したんだよ。そしたら、あいつなんて答えたと思う?」
「気にするな、とか。大人気ない、とか」
「違う」
 首を振る。カチェイは腕を組み、一度足を止めて髭の騎士を睨んだ。
「アデル公王はそろそろ引退を考えてる。しかし今の公王は人気がありすぎて、公太子がついでも”前公王はすばらしかった”だの”あの方が懐かしい”だのというに違いない」
「ははぁ。それは確かに」
 アデル公王。すなわちカチェイの父親ほど、国民に英雄視されている王は少ない。
「でだ。そんなことになったら、民が大事な公王にしてみたら、民のストレスがたまって可哀想でならない。だったらいっそ今少々嫌われておいて、ああ、王が変わってよかったと思わせる作戦だろう、ってさ」
「――アトゥール公子の考えすぎではありませんか?」
「いや、俺は奴を信じるね。たしかにあの男、民の不利は絶対にしねぇからな」
 全くもって嫌な奴だとぼやき、再びカチェイは歩き出す。彼の助けを待っている者は、まだまだ居るのだ。それを律儀に追いかけて、再び髭の騎士は足を止めた。
 丁度、全ての手紙が一度集められる建物の前だ。
「……。公子、手紙は出したばかりです。今、丁度付いてる頃でしょう。返事があるわけありません」
「誰もそんなこと言ってねぇだろうが」
「目がいってます」
「俺はガキかっ!」
 低く言い放つと、再びカチェイは歩き出す。
 態度は礼儀正しいとはいえないながらも、政務を忌憚なくこなしていくカチェイの様子に、信頼を寄せる者が城内で急速に増えつつある。
 アトゥール公子の言うことも正しいのかもしれない、と、公子の後姿をみながら髭の騎士は思いなおしていた。


 剣の柄を握りこむ、己自身の手を睨んで――カチェイは静止していた。
 大剣紅蓮。建国戦争当時、ティオスが保持していた剣であり――本来ならば、ティオス公国の宝剣であるべき剣だ。
 手に、吸い付いてくるような感覚を与える剣に秘められた、獣魂の感覚に息を詰める。本来公王位についてからでなければ知ることのなかった抗魔力の存在を、カチェイは随分前からしっていた。そしてその――有効性と、危険性も。
 胸元には、先ほど届いたばかりの親友からの手紙が入っている。
 読まずとも、何か無視できぬことが起きていることは、すぐに理解できた。
 他愛のない返事であったなら、こうも早い返事がくるわけがない。手紙でやりとりするよりも、機会を会う機会をつくって顔をあわせれば、大抵どんなことがおきたのかは分かるので、手紙に記す必要性を感じたことはあまりない。
 だが、クルテスの噂を聞き、アデル公国民もクルテスに流れようとしている現状に、”何かが起きてる”と踏んだ。それで手紙を出し――こうも早い返事がくる。
「なにが起きた?」
 手紙には、クルテスに直接赴くとだけ記してあった。事態が緊張をはらみつつあると理解した為だろうし、ティオス公国の国としての力を利用できぬということも意味しているだろう。とはいえ兵を派兵できるわけもない。出来るとしたら、単身変装でもして乗り込むことぐらいだ。
「公子、医師たちの手配は終わりました」
 横から、話しかける機会をうかがっていた騎士が声をかけてくる。振り向けば、見慣れた髭が視界に入って、カチェイは低く「ああ」と答えた。
 何か起きた際、最も必要になるのは医療の力だろう。国としての力があまり使えぬならば、大規模の医師を集めることも出来ぬのかもしれない。そう思い、念のためにすぐに動ける医師との連絡を取らせたのだ。
「ついでに、公子に救われた酒造りの職人が、これをお礼に献上してくれと」
 手にした瀟洒なガラスの瓶をささげるようにする。カチェイは初めて紅蓮を下ろすと、体を部下の騎士の方向に向けた。
「ああ、あいつ、酒造りの職人だったのか」
「そうですよ。腕が良いと評判です。かなり良い品ではないですかね」
 騎士が、酒の入った瓶をうらやましそうな目で見る。カチェイは肩をすくめた。
「飲みたいなら別にお前が飲んでもいいぞ」
「滅相もありません」
 大袈裟に首を振る。それから「公子は酒はお好きでしょう?」と言葉を続けた。
「一人で飲む気にはなれねぇな」
「なら、これは取って置けばよろしいですね。アトゥール公子と飲めばいい」
「あいつ?」
 ふい、と目を細める。
 アトゥールが”酒に付きあうよ”といったのは、二年前の事件の後のことだ。二人して怪我やら体力消耗やらで立っていることも出来なくなった時のこと。
 元々、アトゥールは酒を一切飲まない。酔うために酒を飲むならば、酔わない人間が酒を飲むのは無意味だと、言った事がある。
 そのアトゥールが、酒に付き合うといった。――変わりつつある自分達を、カチェイに実感させた言葉の一つでもある。


「ようするに、酔うってのは己を無防備にするってことだからな。だから飲まねぇし、飲んだとしても酔わない。そういうことだろうさ」
 液体の入ったグラスを、無骨な手で握りながらカチェイはニヤリと笑った。同じようにグラスを持っていたアトゥールは目を細めて、「さあね」と気のない返事をする。
「なんかね、これに関しては理由を考えなくても良いって思うんだよね」
「珍しいこって」
 なんでも理由を考え、説明するタイプだろうがとカチェイが付け加える。アトゥールは悪戯のように首を振り、手にしていたグラスを目の高さに持ち上げた。
「酔うために酒を飲んでいる。そう考えると、意味はないんだけど。でもよく見てると、飲まないものでも酒の席に出るのは好きだって者はいるだろう?」
「まぁな」
「酒の出る席では、何かの鍵が開く。そういうものなのかな、とちょっと思ったんだよ」
「鍵?」
「もしくは、自分に対する言い訳かな」
 立ち上がると、そのまま窓辺によって背を預ける。夜の闇の中に落ちると、湖の青も漆黒となり、空と水の区別が付かない。
「普段は駄目だと思っていることでも、少しくらいはやっていいんじゃないか。そう思わせる”場所”なのかなと」
「なるほど。ま、そうかもな」
「で、他にも色々考えそうになったけれど、やめた」
 残り少なくなったグラスの中身を飲み干して、アトゥールは笑う。
「ようするに、こういう席が楽しいと思えれば、酔わない体質だろうが、飲めない体質だろうが、関係ないってことだなと」
「なるほど、ってことはだ」
 カチェイがからからと笑い出す。それから立ち上がり、親友の立っている側まで行くと、空になったグラスに酒を注ぎ足した。
「楽しいって思える気がしたわけだ」
「まぁね」
「で、楽しいのか?」
「楽しいか、って面等向かって聞かれて、楽しくないって答える人間はいないと思うよ」
 皮肉な笑みをアトゥールが見せる。
 カチェイは「それもそうか」と答えて、肩をすくめた。

フォイス


 神秘の湖、アウケルン。
 湖中ほどに白亜のエイデガル城を抱き、対岸にはにぎやかな城下町が広がっている。
 その湖の中に、アーチを組む柱に囲まれた静かな一角が存在していた。
 しん、と静まった空気。中に船をこぎいれると、途端に外の喧騒さが遠くへと去り、ただただ静けさのみが支配する空間となる。
「リルカ」
 一人、器用に船を漕ぎいれた男――エイデガル皇王フォイスは、小さく声を落とした。
「お前が命を失った日に、私はまだここにきたことがないな」
 手にしていた花束を、そっと水の上に流した。
 ここには多くの皇族たちが眠っている。アティーファを生み落とした直後に命を落とした、フォイスの妻リルカもだ。
「いつか、お前が死んだ日に。アティーファもつれてここに来ようとは思っているさ。アティーファは強くなった。お前が死んだのが、アティーファが生まれた日だと真実を明かされても。受け止めることが出来るだろうよ」
 あれは本当に強くなったぞ、と。フォイスは笑う。
 母と娘。両方が生きていたら、どんなに賑やかであったのだろうかと思ってしまって、呆れたように肩を竦めた。
 さわり、と。風が湖面を揺らす。船の上にいる、フォイスの元に波紋が集まった。
 それはまるで、リルカが世界に残した魔力の名残が、彼に何かをささやいているような光景。
 フォイスはただ湖面に走る波紋を眺めてから、さて、と声を出す。
「まだまだ私も忙しいものでね。またもや内乱を起こさせるわけにもいくまい。セイラスを封じるのは、まだアティーファには無理であろうからな。――いや」
 声を、落とす。それから喉を鳴らすように笑った。
「正直にいえば、そのほうが嬉しいな。あの年で、もう親の力なんぞ一つもいらないと態度で示されたら、私はこの年で引退せねばならん。流石に引退は寂しかろうな」
 まだ。まだ、甘やかしていてもいいだろう。
「それが終わったら。その時は、お前のことを常日頃思い出すような男になっても良いかなと、近頃は思うな」
 微笑を浮かべて、フォイスは再び船を皇城へと戻した。

アティーファとエアルローダ


 靴音を高く響かせる石畳を駆け抜けて、少女は亜麻色の髪を蒼天の空に流した。
 さらり、さらりと、梢が鳴らす葉音に似たかすかな音が耳をくすぐる。
「今日は随分と良い天気だな」
 目を細め、彼女は走っていた足を止めて歩き出した。
 そのまま進めば、皇城からアウケルン湖へと直接漕ぎ出せる水路にたどり着く。
「母上が、父上を待っているから。だからこの日は晴れの日が多いのかな」
 首を傾げて、アティーファは水路近くに転がっている大きな岩に腰掛けた。
 アティーファの父フォイスは、決まってこの日、アウケルン湖の奥へと赴く。今日という日が、フォイスの妻でありアティーファの母である人がなくなった日だ。
 普段、フォイスは失った妻のことをあまりアティーファに語らない。けれど、この日だけは特別で、父親は娘に母親のことを語るのだ。
 だから、アティーファは――この日だけは何があっても父親の側にいることに決めている。
 風が誘うようにそよぎ、エイデガルの皇女でる少女は顔を上げた。見慣れた姿が視界に入る。大きく手を振ると、船の上の父親も娘に向かって手をあげた。
「アティーファ、今日はここまで来ていたのか」
「うん。そうだ! 父上、午前中までに入ってきた苦情、全部目を通して、至急か至急じゃないかをより分けてみた。あってるかどうか、分からないけど」
 言葉が終わるにつれて、甘えた眼差しで上目遣いで娘は父親を見上げる。目に入れても痛くないほどに可愛がっている愛娘の頭をフォイスはなでて、「なら、あとでチェックしてやろう」と言った。
 指導者となるべき人間が、出来なくてはならないこと。それは洪水のようにあふれこんでくる情報の山を整理し、優先度を即座に判断し、対応を遅らせないようにすることだ。
 まだまだ子供のような顔をする娘だが、ここ二年で随分と成長したとフォイスは思っている。
「アティーファ。そろそろリーレンを呼び戻したらいいのではないか」
「え?」
 ふっと、新緑色の眼差しを大きく見開く。続けてまばたきを三度繰り返して、アティーファは花のほころぶような笑顔を見せた。少し離れて生活をすることで、リーレンを自立させるべきだ。そう諭され、彼を旅立たせて以降、アティーファはずっと彼が帰ってくるのを楽しみにしている。


「うーん」
 心底困った声をだして、少女は首をかしいでいた。
 目の前には、先ほど父王あてに飛び込んできた陳情の山が或る。とりあえずはこれを、皇王に渡すのか、担当する者に渡すのかを選ぶのが、今の自分の仕事だとアティーファは思っていた。
「どっちだろう、これ」
 二つの紙片を両手に持って、重要さが重さという形に出ないものかと、なんとなく両手で重さを量って試してみる。
 勿論そんなことで答えが出るわけもなく、侍女たちを全員下がらせた高い塔の上で、思う存分アティーファは悩んでいた。
 兄とも頼むアトゥール、カチェイの二人が母国へと戻り、幼馴染のリーレンが旅に出てから、アティーファは自分の部屋の場所を変えてしまってた。前に使っていた場所は広すぎて、いなくなった人がいない寂しさが余計に募ってくる気がしたのだ。
 今、アティーファが使用する部屋の上の階は、かつて彼女の母であるリルカが使用していた部屋だった。
 それを聞かされたのは二年前。以来、アティーファは父王に頼み込んで、その下の部屋を自分の部屋に定めている。
 高い塔の上は登ってくるのも難儀で、用があるものは近頃、入り口にそなえた鈴を鳴らすことになっている。それを聞いて、アティーファが階段を下りてくるのだ。
 だから、今、彼女が悩む言葉を耳にするものはいない。
「そんなことで重要性が分かったら、皇王なんてこの世にいらないんじゃないかな」
 ふ、と。背後から伸ばされた手に、両手にもっていた紙が奪われる。はっと大きな緑色の目を見開いてから、アティーファは勢いよく座っていた椅子を足で蹴った。反動で背後に倒れこむ椅子の背を、慌てたように抑えてくる手がある。首を上に持ち上げ、覗き込んでくる青い目を捜した。
「エアっ!」
「なんだい、ティフィ」
 いきなり椅子を蹴るなんて思わなかった、と続ける少年に、アティーファが笑顔を向ける。
「エアが抑えるだろう?」
「まあ、そうだけど。折角驚かそうと思ったのにな。ぜんぜん驚かないものだから、張り合いがないよ」
「そんなことない。驚いたよ」
 両手を降参の形に持ち上げる。けれど瞳には驚く色がまったくなく、エアルローダは苦笑した。
 本来ならば、エイデガル皇国内に存在してはいけない人物。それが、エアルローダだ。
 抗魔力結界が再び張られた直後は、エアルローダでさえも、魔力を発揮することは出来なくなっていた。けれどあれから二年。アティーファの心がエアルローダを認め、受け入れていることを皇国の守護者である水竜が認識したせいなのか、近頃では攻撃的な意味合いを持たない魔力の発揮が、可能になってきてる。
 そうなってくれば、皇都の中に入り込むことは用意で、こうやって頻繁にエアルローダはアティーファの前にだけ姿をあらわすのだ。
「エア、書類返して」
「返さない」
 すましてエアルローダが答える。まだ後ろに倒れそうになっている椅子を元の形に戻してから、少年は背を丸めるようにして、アティーファの顔を覗き込んだ。黒に近い、蒼い髪がさらりとゆれて、アティーファの額をくすぐってくる。
「こうやって近くでみてると、本当、エアは母上に顔が似てるんだなぁって思うよ」
「ティフィはフォイスにそっくりだよ」
「うん。よく言われる。特に目がそっくりだって」
 にっこりと笑いながら、手を持ち上げ、上にあるエアルローダの頬を包み込む。
「うーん、父上がみたら喜ぶのかな。母上にそっくりだって」
「さあ、どうだろう。顔が同じなら良いってことはないじゃないかな」
 穏やかに笑ってみせる。
 二年前、黒き憎悪をみにまとって表れた頃には決して見せなかった、穏やかな表情がアティーファには嬉しかった。
 

「なぁ、エア。変なことを聞いてもいいか?」
「嫌だ」
「……内容を聞いてから断ればいいだろ」
「変なこと、っていったのはティフィだよ」
 言葉のざれあいを楽しむように、くすくすとエアルローダが笑う。
 塔に備えられている石窓に、少年は腰掛けるようにしていた。少女は腰掛ける彼の前に立って、拗ねたように腕を組む。
「だって、変なことをいっている自覚はあるんだ。なのに黙ったままでいるなんて、フェアじゃないだろう?」
「ティフィは真面目だね。別に本気に嫌だって言ってるわけじゃない。正確にいえば、ティフィ」
 そっと目を細め、エアルローダはアティーファの首の後ろに手を回した。そのままやわらかく引き寄せ、自分と少女の額を合わせる。
「ティフィが望むなら。なんでもしてあげるよ。僕が保持する唯一のもの、この命は君に上げたんだから」
 ――永遠は生きてこそ訪れる。
 そう告げたのはアティーファで、永遠を誓ったのはアティーファとエアルローダの二人だ。
「……。うん。エア、だから、死ぬな」
「ティフィが望む間は」
「なら――私たちが死ぬときは、一緒なのかもしれないな」
 額と額をあわせたまま、アティーファが新緑の色をした瞳の色をまぶたで隠す。そのまま考えこむようにしてから、そっと手を上げ、エアルローダの肩を押した。
「魔力が発動している気配がないかなって。思ったんだ」
「魔力が? いや、そういう気配は感じないよ。第一、これほどまでの抗魔力結界が張られてしまった国の中で、魔力を行使できる者なんてそうはいないな。僕は、純血の魔力者くらいだ」
「そう、だよな。私も、魔力が動いている感じはしないって思う。でもな、エア。最近変なことが起きてるんだ。ティオス公国に、癒しの手って名乗る集団が突然現れたらしい。その集団は、”痛み”をとることが出来るらしいんだ」
「ふぅん。それはまた、危険だね」
「危険?」
「危険すぎることをしないために、痛みがある。いわば命を守るために、警告としてね。それを排除すれば、人はなんでも出来るようになるよ。あの時、僕が最初にしたのは自分の中にある痛覚を異常にすること、だったようにね」
「――命を守るための、警告……」
「ティフィは気になるんだ」 深刻な顔をする少女に、問いかける。こっくりと素直にアティーファがうなずくので、嫉妬の気配を一瞬表情によぎらせた後、エアルローダは笑った。

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