暁がきらめく場所
突天 No.05
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 ソーク・ティオス。――自分と同じ場所に、永遠に現れないはずだった一人きりの弟。
「兄上」
 ソークはアトゥールに手を伸ばす。その手が自分を求め、声を与えられるたびに、体中の力が失われていくような感覚に襲われて眩暈がした。弟の眼差し、華奢な体躯、薄茶の髪。全てが、自分と同じ”血”を持つものだと必要以上に誇示していて、眩暈は更に悪化していく。
 ソークは兄の心情など気づかぬ様子で、距離を狭めようと歩いていた。アトゥールが半ば無意識に後退したのを見て、ソークは首を傾ぐ。
「兄上は、嬉しくありませんか?」
「嬉しい?」
「久しぶりですから。あの、子どもの日に別れて以来です。あの日、兄上が――」
 背後から差し込んでいた陽光が、ふと翳った。
 暖かかったソークの髪に影が落ちる。その”言葉”を口にしようとする顔が、濃い陰影の中で醜悪にゆがんだ。
 静かにさせたいが為に、我が子に毒を飲ませた母親がいた。
 痛みを理解できない、どこまでも健やかな弟もいた。
 死をもたらす痛みに、胸を押さえ兄は血を吐く。けれどそんな兄に、弟は”なにをしているんですか?”とあどけなく聞いた。
 過去。分断させて、仕舞いこんで、思い出せないようにした記憶たちの影。
「やめろっ!」
 アトゥールの悲痛な拒絶に、ソークは不思議そうにしてから、ゆっくりと振り返った。
「またなのね」
 人を不安にさせる音階の高い声が響く。小鳥のさえずりよりも高く、けれどソレよりも遥かに大きな女の声。
 アトゥールの身体が、新たな声の登場に大きく震えた。
 衣擦れの音。弟が、一歩下がる気配も感じた。
 長い衣と、地面を踏んで身体を支えるには小さすぎる足を包む、華奢な靴の飾りの一つ一つが、痛いほど目に飛び込んでくる。
「アトゥール。お前は本当に、苦しむだけね」
 なにもかもを振り切って逃げ出したい衝動がアトゥールの体を突き抜けて、堪えるのに労力を必要とした。完全にうつむいた視界に、白い手が伸びてくる。
「なんで……」
 子殺しは、皇国でも最大の罪。
 本来ならば死罪にあたる女を、死罪に出来なかった男は、罪の事実を隠した。彼女を高い塔に幽閉し、離れたくないと願って母の元に残った子供も共に。
 外に、居るはずのない二人だった。
 同時にティオス公王が守る人物であり、大きな権力をも持つ者でもある。
「なんで貴方たちが、こんなところに居るんですっ!」
 声を上げ、叫んだ勢いに助けられてアトゥールは顔を上げた。
 中年の貴婦人であるのに、いまだ少女のような顔をする女を認める。アトゥールが声を荒げたことに、心底驚いて不思議そうな弟ソークの顔も睨んだ。
 ディーテ。
 それがアトゥールの母親であり、かつて彼を殺そうとした女の名前だ。
「どうして? どうして居てはいけないの?」
 拒絶して下がった彼を、母親は追い詰める。細い手を再び伸ばして、アトゥールの顔にそっと置いた。
 大きな瞳の色は、青みが強い。隣に立っているソークに瓜二つだ。
「レヴルさまにそっくりね。私にはあまり似ていないわ。男の子は、母親に似たほうが幸せになるっていうけれど。本当だったのかしら」
 どこまでもあどけなく、ディーテは言葉を紡ぐ。お前は不幸せだと決め付けるような言葉だ。彼女は己が紡いだ言葉の不吉にも気づかず、そうそう、と嬉しそうな声を上げた。
「私ね、探したのよ。貴方はいつも、そうやって私に笑みを向けてこないから。痛いのがいけないってことは分かっていたから、探したの。あの時のやり方は駄目だったんだって、あとでレヴルさまに言われたわ。だからね、探したの。ずっと、ずっとね。見つけたから来たのよ」
「見つけた?」
「ええ。痛みがなくなる方法よ。誰もが幸せになれる、素晴らしい方法」
 夢を見る少女そのものの顔で、ディーテはアトゥールの頬から手を離して雲の上でも歩いているような足取りで進み、先ほど出てきた扉へと進む。中は緞帳で隙間を塞いであるらしく、薄暗すぎて中の様子は伺えなかった。
「母上はね、ずっと探していたんだよ。兄上のために。だって、兄上は痛いから母上を困らせていたんだからね。それさえなければ、一緒に居られたんだよ」
「なにを……」
 恐怖ではない気持ちが、初めて心の中に首をもたげた。
 これは違和感とでも、名づけるべき気持ちだろうか。
 過去を過ごした館は、今思えば異常な場所だった。外界から完全に遮断された家族だけの空間。精神的に”大人”である者は一人としておらず、四人だけの切り取られた世界だった。
 幼い頃は異常さを知らなかった。比べるものがないのだから、奇妙だと思えるはずがない。けれど、今は違う。外を知り、友を知り、幾多の争いを知った今は彼らを”おかしい”と思える。
 戻ってきた冷静な思考に支えられて、地面につける足に力を込めた。大地を踏みしめる感覚が、現実の確かさを伝えてくる。鞘に軽く触れているだけになっていた手に力をこめ、細剣氷華を握りしめた。
 罠であることは知っていた。
 村を制圧するようにと指示した兵は、夜半には村に付くだろう。この場所に赴くことを伝えておいた親友も彼には居る。
 解決不可能ではない。そう、自分はまだ負けていないのだ。
 そこまで考えて、アトゥールは冷静に深呼吸をした。
「ソーク」
 震えのない強い声が出た。苦悶の表情で、ただ儚く苦しんでいた兄しか知らぬソークは、凛とした兄の声を不思議がって首を傾げ「なに?」と尋ねる。
「お前は、あの塔で暮らしていたんだよね」
「そうだよ。あそこは、あまり色々なものがなくてね。代わり映えのない日々だったけれど」
 ソークの困惑を無視し、アトゥールは考える。
 外界からの刺激から遮断され、一箇所に閉じ込められ続ければ。何がよくて、何が悪いのかを判断する基準を人は失うだろう。子供のような判断力しか持たない女と、痛みを知らぬが故に、痛みがもたらす苦痛を想像することの出来ない少年との二人きりであれば尚更だ。
 恐怖と悲しみが増幅して、過去は歪に形を変えて、アトゥールの中に残った。
 過去を考えることは、肥大化した暗闇に打ちのめされるのと同義だった。それを見てしまっては、自分が生きていられるのかどうかさえ分からない。だからこそ、アトゥールは過去を封じ続けてきたのだ。
 今、彼は顔を上げる。
 澄み渡った青空が瞳に飛び込んできて、今は何も考えることが出来なかった幼い頃とは違うのだと、アトゥールは自分に叩き込む。
「ソーク」
 再び、そっと弟の名前を呼ぶ。
 唇はその名を呼ぶことに慣れていなかった。これが、自分達を隔てたあの”過去”から”今”へと流れた時間を表す証拠だ。
「私は、もうソークたちが考えているような子供ではないよ」
「兄上?」
「痛みに苦しむこともないし、状況に流されるだけの子供でもない。自分自身の痛みが問題になるのなら、それは自分で解決できる。今、外から痛みを排除させる必要なんて、私にはない」
 冷たい言葉だという自覚と共に、アトゥールは静かに言い放つ。
 ソークは突然の言葉に、珍しく健やかな笑みを口元から消した。
「痛みに苦しんでいない?」
「――もう終わったからね」
 信じられないとソークが首を振る。
「自分自身で終わらせることが出来る痛みだったのなら、なんで兄上は、母上に笑顔を見せて上げなかったんだい?」
「あの頃と今とでは事情が違う。今出来ることが、過去に出来たとは限らないのだから」
「分からない。分からないね、兄上。なぜ、そうまで兄上は母上を拒むのか。母上を苦しめるのか。そう――そうか」
 ソークが高く手を打った。
 軽快な音。抜けるように広がった青空の下ではよく似合う、明るい音だ。けれど、その音に今まで黙って佇んでいた男が反応した。
「なにか、ソーク様」
「僕はね、痛みさえなくなれば、兄上は優しい人になるんだと思っていたんだ。母上が望むように。隣に座って、母上の言葉に耳を傾けて、母上のために笑う。僕と同じようにね。でもそれは勘違いだったみたいだよ。兄上は、母上のために何かしようだなんて、思っていないんだ」
「……ソーク?」
 アトゥールの声に被さって、ソークが笑い声をたてた。こんな時でさえ、暗さの一点も感じさせない明るい声だ。
「ごめんね、兄上。僕はそんな拒絶を、母上に見せるわけにはいかないよ。兄上は父上に本当によく似ている。だからね、母上は兄上を手元においておきたいんだ。父上は忙しいからね。本当に数えるくらいしか会いに来てはくれない。母上はそれが寂しいとおっしゃる。だからね、兄上に来てもらわないと困るんだよ」
 ソークの厳しい声を合図に、周囲に走った緊張に殺気が加わった。どこに潜んでいたのか、訓練された兵士たちが周囲を取り囲む。
「ソーク、なにをしているの? 早く中にはいっていらっしゃい」
 恋する少女のように浮ついた声が、家の中から響いた。ソークはそちらを愛しそうに見つめ「もう少ししたらね」と答える。
「兄上、貴方から痛みを除けばいいのではないんだね。貴方からは――その、意志を奪わないと駄目なんだ」
「――何を言っている?」
「無駄だよ、兄上。だってここには兄上を守ろうとする者なんて、誰もいない」
「私を守る者はいなくても、私が守るべき者たちはいる。――痛みは辛いものだけれど、痛みがあるからこそ人は思いやる気持ちを手に入れる。痛みを失うかわりに、己の意志を失ってなんの意味がある。意志を失い、思考を失い、ただ生きていくだけならば、それは人形と同じにすぎないっ!」
 飛び退ると、アトゥールは方位を狭める人々の一角を突破し、壁を背後にした。多勢に無勢の戦いを繰り広げるならば、戦う場所を選ばねばならない。
 兄の迅速な動きに驚いて、ソークは高く笑った。
「痛みがなくなったっていうのは、嘘じゃないんだね! そんなふうに機敏に動いている兄上を見れるなんて、思ってもいなかったよ。でもね、兄上。僕には分からないな」
「――何が?」
「どうして人形ではいけないの?」
「……ソーク?」
「それを欲しがる人が居るなら。人間が人形であっても、構わないんじゃないかな」
「違う。――それで良いことなんて、一つもないっ!」
「分からない。兄上、ごめんね。分からないよ」
 ふるふると首を振る。最初からソークの傍らにあった男が、指示を強要するように一歩踏み出した。アトゥールは周囲に集まってくる人の気配に意識を向け、ある程度の数を判断する。
 クルテスの地理は、すでに頭に叩き込んであった。冷静な判断能力を失う前に、ウィドが放った斥候が持ち帰った報告から、村の地図を作り直していたのだ。
 右から四、左から六。正面に十。それだけを数えきった後、弟を呼んだ。
「なに?」
「お前は私よりも辛かったのかもしれない。けれど哀れみは向けない。お前は私の弟なのだから、それを自力で解決できる能力はあったはずだから」
「――よく、分からないよ」
 ソークが拒絶する。
 アトゥールの側から離れていなかった馬の横腹を叩き、外へと走るように指示をする。同時に向かってきた男達を相手に抜刀し、幾本かの剣を叩き落して走り出した。
 緞帳によって、隙間を完全に埋めた家々が広がる。
 斥候の情報によれば、村の外れに屈強な男達が警備をしている家があるとしていた。村に訪れた癒しの手の者たちを警戒した一部の村人たちが、閉じ込められているはずだ。
 癒しの手の正体は公妃と公子と騎士団だ。ならず者を装ったとしても、彼らにティオス公国民を公王の許可なしに殺すことなどは出来ないだろう。――痛みをとる術が、命にかかわることも知らない可能性が高い。
「おろかで……哀れだ」
 ごちながら、アトゥールは迫ってくる男達と器用に戦闘を続けながら走る。人前で滅多に剣を振るわない彼だが、その実力は皇国一の剣豪である親友のカチェイに唯一匹敵するほどの腕前なのだ。そう簡単に、彼を追い詰めることの出来る者はいなかった。
 細い路地を走る。
 村が異様な緊張に包まれたことが解るのか、樹に登ったネコが、怯えた目で走り去るアトゥールを見つめていた。
 緞帳によって隙間を封鎖した家がどれほどあるのかを数え、同時に無人なっている家も確認する。町外れに美しく並ぶ田畑の荒れ具合に、彼は眉をひそめた。
 変わり映えなど一つもなかっただろう、穏やかな日常が無残に破壊されている。
「……対応が、遅かったのかもしれない」
 後ろからの殺気に背をかがめる。先ほどまで彼の頭があった場所を、矢が通り過ぎて目前の地面に刺さった。
「剣と剣での戦いに利がないなら、飛び道具に頼る。まぁ、通常の判断だね」
 不敵に分析して、アトゥールは斜めに持ち下げて走る細剣氷華を目線の高さまで持ち上げた。公国民も、そしてディーテもソークも知らぬだろうが、細剣氷華には”獣魂”の意志が宿っている。飾りの宝剣ではないのだ。
 アトゥール・カルディ・ティオスは、ティオス公国を守護する獣魂”風鳥”に寵愛される者でもある。
 意識を集中し、風を呼ぶ。飛来する矢など叩き落せばよいだろうが、四方八方から打たれてはそれもままならない。いわゆる超常現象に頼るなど姑息かもしれないが、有効手段の行使をためらう彼ではなかった。
「風鳥っ!」
 静やかな、走っている者の唇からこぼれたとはとても思えぬ、柔らかな声が空気を走る。
 大気が振動して、アトゥールの髪がふわりと持ち上がった。普段は眠りについて公国を見守る存在が、声に応じて覚醒する。
 エイデガルと五公国に存在する抗魔力保持者の中で、こうもたやすく獣魂を行使することが可能なのはアトゥールだけだ。
「剣を叩き落してるだけじゃ、駄目かな」
 周囲に迫りくる敵意の塊に、アトゥールは眉をひそめた。気を失わせておくべきだろう。死なせるわけにはいかないが、死なない程度ならば問題はない。
 目的の建物は近いはずだった。低い塀に飛び乗って、民家の庭先を通り過ぎ、再び塀を越える。降りた場所に三人ほどの追手がいて、アトゥールは軽やかに着地しつつ僅かに笑んだ。
「知ってるかな」
 男達の体が、緊張と殺気とで膨れ上がったように見える。けれどそれに圧倒されることもなく、世間話でもするかのように、アトゥールは長い髪をさらりと背に流して微笑んだ。
 エイデガル皇国に住むものならば誰もが知る、水竜をかたどった飾りと共に、宝珠が埋め込まれた紋章が襟元で光った。
 天領地の指揮権をフォイスがアトゥールに譲ったことを意味する紋章だ。
 紋章をつけるものは、フォイスの代理人の意味を持つ。その相手に危害を加えることは、エイデガル皇王に刃を向けることでもあった。
 男たちが、びくりと震えた。
 その様子に、アトゥールはティオス公王レヴルがディーテとソークを保護し、そして護衛のために男達を派遣していることを確信した。
 ティオス公王の命令があれば、ティオス公子に剣を向けることはたやすい。
 けれどエイデガルの民でもある男達は、エイデガル皇王に剣を向けることを躊躇うのだ。
「……不憫だけれどね、一応、私が剣を扱うところを見ることが出来るのは幸運らしいから。あとで自慢話にでもしておくといいよ」
 不敵に言い放ち、ふ、と腰を沈めた。最速と恐れられるアトゥールの剣が走る。男達が息を呑み、体勢を整えた時には、すでに背後に回りこまれていた。首筋に剣の柄を思い切り叩き込む。
 三人を相手にするのはたやすかった。
 一時的に静まった道を、再び走り出す。
 左右から再び人の気配が流れてきた。直進すれば目指す館が見えるはずだ。そして、アトゥールが想像するものが正しいとしたら。そこには。
 視界が、開けた。
 


 淡紅色をした、雲を引き詰めたかのような花の大地。



 アトゥールの顔色が変わり、白い歯が僅かに唇を噛んだ。きらめく日差しをあびて、それは静かに咲き誇っている。よく見れば大きな四弁の花びらは、淡紅だけではなく、純白に、紫紅をしたものもあった。すでに花を落とし、果実を実らせているものも多い。
 ――間違いなかった。
 医療に使うならば、得がたい効果をもたらしてくれる花だ。果実の中に含まれている種子から、乳液を採取する。これが――。
「……末期花」
 遠い、海を越えた国ではその花を”芥子”と呼ぶのだという。
 人の心を麻痺させ、穏やかなぬくもりに守られているような心持ちになるという。けれどそれに頼りきりになり、一日に十服以上使用するようになれば、中毒症状が出る。
 手足が震え、幻覚症状が起こる。使用を続けなければ、激しい倦怠感や脱力感が人を遅い、最後には衰弱して死に到ってしまうのだ。
 ゆるやかに。痛みを抱かず、まるで夢を見ているような状態のままで迎える死。
「こんなものを……」
 探していたのだ。自分を生んだ、あの母親は。
 痛みもない。苦痛もない。辛いこともない。そんな状態の中で、ただふわふわと笑って生きていくことを望む女が行き着いた、最高の”薬”。
 吐き気がした。
 何故、吐き気がするのかは解らない。
 そんなことを望む女が母親だからなのか、そんなことを望まねばならない人の心の弱さに憤るからなのか。そんな女の息子だからなのか。
 分からないけれども、一つだけ知っていた。
 この状況を解決し、末期花によって心と体を蝕また公国民を救い、失われた平穏を取り戻すこと。そして――。
「これを起こした者を、処罰すること……」
 出来るのだろうかと疑問に思った。
 花のあまりの多さと、むせる香気の中で。彼は一本続く道を走りながら思う。館を警備していた者たちがこちらに気づき、剣を手に向かってくるのを確認しながら。抜き身の剣を構え、攻撃をよけ、反撃を繰り出しながら。
 思うのだ。――自分に。母を、弟を、罰することなど出来るのか、と。
 唇を更にかむ。一つも怪我などしていない中で、なぜか胸が痛みを発するのを、アトゥールは意地で無視した。
 目の前に、今まで一度に対峙した数とは桁の違う人数が出てきたのが見える。今は、考えている場合ではなかった。



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