暁がきらめく場所
突天 No.04
前頁 目次 後頁


 クルテスは予断を許さぬ状況になりつつあった。
 国境では入国を求める人で溢れ返っている。他の四公国、およびエイデガル皇国からの入国希望者も後をたたなかった。
 アトゥールは兵を動かす権利を失ってはいたが、他国に支援依頼をながす権利を奪われたわけではない。隠密裏にアトゥールは早船を飛ばしに飛ばし、エイデガル皇国王フォイスに直接依頼する。
「ティオス公国を封鎖しろ、と?」
 相も変わらず、執務室で優雅に紅茶を喫していたフォイスは、大急ぎでやってきたアトゥールの言葉に首を傾げた。
 国を封鎖するということは、現在ティオス公国に入国を希望する全ての者たちを、強制的に追い返すことを意味している。
「それほどまでに深刻か?」
「ええ。放置すれば、国民の何割りかが再起不能に陥るかと思われます」
「なるほど。確かに深刻だ」
 紅茶を飲みきると、フォイスは羽ペンを手にとってアトゥールの持参した四枚の書類にサインをした。ティオス以外の四公国に流す依頼書だ。
「アトゥール、レヴルは引っ込んでいるのか?」
「ええ。それはもう。今なら亀にも負けないでしょう」
「ならばレヴルの知り合いか。あの男、時々有能な部分を全て無駄にするほどの間抜けぶりを披露してくるからな。まぁ、せいぜい尻拭いをしてやるといい」
 意味深な笑みを浮かべ、サインし終わった書類を返してやる。そのまま立ち上がると、鮮やかな宝玉をあしらった紋章をアトゥールへと放った。
「フォイス陛下?」
 不思議そうな声をアトゥールが出す。
「丁度ティオス公国とアデル公国の間の天領を守る騎士団長が、妻の産休一緒に取らせてもらいますと休みを申告して来た所でな。誰に代理をやらせようかと思っていたのだが」
「……陛下」
 アトゥールが青緑色の目を見開く。
 エイデガルを守る五公国の公族たちは、エイデガル皇王の申請があれば、五つの公国の間に存在する天領地を守る兵を指揮する権利を持つ。
 ――その権利を与えたことを意味するのが、フォイスが今放った紋章なのだ。
「持って行け」
 ティオス公国の兵を、アトゥールが今動かすことが出来ない状態にあることを、フォイスはすでに把握していた。エイデガル皇王が命じれば、天領地の兵は五公国内に進入することが許されている。
「すみません」
 素直に頭を下げると、アトゥールはそのまま踵を返す。残されたフォイスは首を傾げるようにして、幼い頃から長いこと見守ってきた青年の後ろ姿を見送った。
「やれやれ。しばらくは大変だな。そろそろ新旧交代させたほうが無難か?」
 ぼやくというよりも、楽しむような声を出す。
 状況からいって、アトゥールはすぐさま公国に戻るだろう。一瞬とはいえこちらに来たことをアティーファが知れば、何故顔を見せていってくれなかったのだと拗ねるのだろうなと、フォイスは考えて笑った。



 すぐさま皇王フォイス連名の書類を各公国に流すように指示をし、アトゥールはイルードへと戻った。天領地の兵に指示があればすぐさまクルテスに来るようにとも依頼をしておく。
 とりあえずの潜伏地とした宿には、花について尋ねに行った植物学の権威の老人から、”お尋ねの花はクルテス近くにて栽培されている模様”という言付けが入っていた。
「やはり」
 急がねばばらなかった。確たる証を手に入れてからと思っていたのだが、時間がない。このまま手を拱いていても、事態は悪化しこそすれ、好転はしないのだ。
「そういえば、ウィドは……」
 エイデガル皇国に一度いくので、人の流れの把握と医師たちの手配を頼んでおいたウィドの姿がない。不在なのかと宿の主に尋ねると、昨日から戻ってこないとの返事だった。
「――まさか……?」
 ある可能性に目を見張る。
 挫折を知らなかったウィドに、不用意に挫折を味合わせたのはアトゥール自身だ。自分で考えろ、とも言った記憶がある。
「クルテスに一人、行ったのか?」
 アトゥールの顔が青ざめた。



 白い、白い、煙の中で。
「楽になりたいのでしょう?」
 女はひどくあどけなく首を傾げて、目を見開いている男を見つめていた。癖の強い鳶色をした髪を女は撫でてやる。
 手足の自由を奪われている男に、優しくしてやる女の仕草はどこか歪だった。けれどそれを訝る様子はない。
 男はティオス公国風鳥騎士団副団長ウィド・ロンメルだった。
「違うの? 痛いのは嫌でしょう。だから来たのでしょう? 違うの?」
 また女が尋ねる。
 周囲に転がる人々はとろりとした眼差しで、煙管状のものを手にして口に運んでいる。
 その、異様な光景。
 自分の意見を述べていないだろうと、ウィドはアトゥールに指摘された。
 その後、彼は指示された事を行っていたのだが、主君の帰りをただ待つことが出来なくなってしまったのだ。”自分なりの答え”を見つけておかねばならない、という強迫観念に取り付かれて。
 気づけはクルテスに向かっていた。
 そして、今、捕らえられて転がされている。
「ま、さか――」
 虚ろな目をした人々。
「この人、多分助けを求めてきた人じゃないと思うよ」
 柔らかな声が突然背後から響く。
 その響きに懐かしいものを感じて、ウィドは振り向きたくなった。
「きっと、僕達を否定しに来たんだよ」
「否定?」
 あどけない声の、少女のようで少女ではない女は首を傾ぐ。
「どうして? 私を否定するの?」
「僕は否定したことがないから。何故否定するのかは、分からない」
 ごめんねと、背後の男は柔らかく告げる。
「あなたは良い子よ」
 にこりと女は笑って、傍らの煙管を一つ手にした。
「否定することなんて、ないの。だって痛いのは良くないこと。痛いと泣くわ。私を困らせるわ。だから痛みなんていらないの」
「なにを……言って」
 この女は異常だとウィドは強く思う。第一、あの煙管の中身は危険なはずだ。
「どこで手に入れたんだ! そんなものを。栽培は禁止されいるはずっ!」
「何を言っているの?」
 分からないわと、女はひどく悲しそうにした。煙管を下げようとした手を、ウィドの後ろから伸びてきた手が掴む。振り返れなかったウィドの視界に、初めて懐かしさを与える声の持ち主が入った。
「――え?」
 似ていた。
「ごめんね。こんなにも悲しい顔をさせるの、僕は嫌なんだ。大丈夫だよ、すぐに楽になってしまうから」
 にっこりと男は笑う。青みの強い瞳の色と、金に近い茶の髪。やさしげに細められたその眼差し。
 ――あまりに、似ている。
「貴方はっ!」
「大きな声をだすのも、ここでは禁止なんだ」
 やさしい笑みを崩さずに、彼は煙管をウィドの口に突き入れた。鼻を封じられれば、唇は息を吸い込もうとしてしまう。――煙管の先にこめられた、煙が肺腑に入り込んでくる。
 ――痛みはなくなるけれど、痛みの元が治るわけでもなく。
 ――幻覚が見えるようにもなり。
 ――摂取量が増えれば、時間が過ぎると異常なほどに苦しみだす。
「こ、んな……もの、は……」
「大丈夫よ」
 女が笑う。
 すぐ楽になるから。
 ウィドの意識は、そこで途切れた。



 今更正体を隠している理由はなかった。
 アトゥールは長く伸びている淡い色彩を持つ髪を結びとめ、国境を守る兵から馬を借り受りうけて、単騎クルクスへと急いだ。
「あの、大馬鹿者がっ」
 ウィドがクルクスに向かったことは、調べてすぐに分かった。医師の手配を済ませてくれた老人に、アトゥールは自分が戻らなければ出しておいてくれと、手紙を託してきている。
 自分が動いていることは、フォイス連名で書類を流した為に誰もが知っている。けれど有事の際、知っている事実だけでは国は動けない。何をし、何を疑い、何を対処したのかを知らせておく相手がいる。
 託せる相手は、アトゥールには一人しかいなかった。親友のカチェイだ。
 街道の両端に作り上げられた仮設住宅から、馬を飛ばす公子の姿に驚いた顔をする人々がいる。その瞳に宿る力が、クルテスに近づけば近づくほどに、変容していくのをアトゥールは敏感に察知していた。
 周囲への興味を失った虚ろな眼差しと、炯々とした鋭い視線で様子を伺う瞳だ。
「間違いない。癒しの手を守るように、公王自身に忠誠を誓う親衛隊に命じている……」
 けれど、レヴルがそこまで守ろうとする相手が誰なのかが、いくら考えてもアトゥールには分からないでいた。
「こんな後手に回った状態で、動かないと駄目なんてね」
 フォイスから指揮権を託された天領地の騎士団への指示を終えていて幸運だったとアトゥールは考えていた。



 肌で感じる空気がざわつき始めて、楽しそうに彼は顔を上げた。
「くるのかな」
 健やかな笑みを浮かべる。
 トロリとした目の人々が、彼の周りには転がっている。彼は人々を感慨もなく見やった後、柔らかく笑った。
「良かったよね。痛いのは辛いって聞くから。痛がる人を見てるのも、また辛い。それがなくなって、本当によかった」
 突き抜けるほどの温和さで囁き、彼は外に出る。
 淡い薄茶色の髪が、陽光に照らされて金に近くなる。青みの強い目を細めていると、村と街道とを続く道を走ってくる男を見つけた。
「なにかあったのかい?」
「近頃、ティオス公国以外からの来訪者がこなくなったことに、気づいていらっしゃいますか?」
「うん。気づいているよ。きっと国境が封鎖されてしまったんだろうなぁ」
「由々しき問題です。我々を警戒する者がいる、そういうことではありませんか」
「そうだけど。でも、ティオス公国で一番偉い人は警戒してないよ。大丈夫さ、もうすぐ警戒している人が来るから。それを待っているのだしね」
 見るものを暖かな気持ちにさせるような、そんな笑みを青年は浮かべる。
「それに楽しみなんだ。すごく久しぶりだし。だから、前にも言ったけれど、僕に似た人がこっちに来たら。迎え入れてくれないと、駄目だから」
「それは、理解しております」
「すぐにでも来ると思うよ。そうだ、あのなんだか頑固そうな人。どうしてる?」
「騎士団の者らしい男のことですか?」
「そうそう。せめて名前くらいは分かりたいんだけれど」
 細い指を顎にあてて、相槌を求めるように首を傾ぐ。男は首をゆるゆると振った。
「こちらが無理強いしなければ、煙管を使うこともしません。途中途中、低いうめき声が聞こえてきますから、辛いのは事実でしょうが」
「頑固だね。近くに居る人が頑固だと、頑固が移ってしまうのかな」
 大袈裟に肩をすくめて見せる。それから、青年は一歩足を前に出した。
「ねぇ、音が聞こえないかい?」
「音?」
「馬の蹄が地面を蹴る音だよ」
「――言われてみれば」
 男も、青年と同じように振り返る。同時に、色のついた狼煙があがった。
「ああ」
 青年が目を細める。
「来たみたいだ」
 そして、また笑った。



 何が起きているのかと理解するよりも先に。
 彼の心臓が高く、強く、鼓動を打ち始めていた。
 あってはならない、けれど”ある”だろう辿り着いた予測に、アトゥールは身震いをする。
 馬を飛ばす道の両端で、こちらを警戒する者があった。はっきりとした敵意を向けてきている。けれど手出しをしてくる様子はない。なんらかの意向を含んで、自分を誘導しているというわけだ。
「そう。これは……」
 仕組まれた罠なのだ。――他の誰でもない、自分を呼ぶために。
「――お誘いを受けてるんだって、分かっているのに一人で向かう。私は本当に成長しないね」
 自嘲の笑みを唇に乗せ、アトゥールは馬を飛ばす。長い髪は風に流され、陽光の中できらめきを見せていた。正体を隠すことをやめた彼の腰には、きらめきを発する宝剣――細剣氷華が揺れている。
 ティオス公子の顔は知らずとも、誰もが公太子だと分かる姿だった。それでも、人々の顔に歓迎が浮かぶことはない。ただ警戒が流れるのみだ。
 鞘に手を置き、片手で手綱を握って村の入り口である門を潜った。
 途端、全てが澱のような白さに淀んでいるように見えたのは幻だったのか、人々の心の現れだったのか。
 前方に人。
 すらりとした体躯を白い衣服で包んでいる。薄茶の髪は空に溶け、青みの強い翠の眼差しが笑みを含んでいた。
 やはりと思った途端、アトゥールは胸が痛んで、胸を掻き毟りたくなった。手綱を引いて馬の足を緩めさせる。停止を待たずに飛び降りた。
「綺麗だと思わないかい?」
 今にも抜刀しそうな勢いで笑顔の青年の隣に立っていた男は、驚いた顔で主君を見やった。青年は首を振って男を制したまま前に進む。
 顔に浮かべるのは、間違えようのない優しさと暖かさだ。
「僕が分かりますか?」
 青年が手を広げて囁く。馬から飛びおりたばかりのアトゥールに、抱擁を求めているような仕草だ。アトゥールは眼差しを細め、低く「分からないはずがない」と言った。
 記憶がある。
 遠い過去、閉塞した館で過ごした幼少時代。
 体を支配するのは苦痛だけで、安らぎなど一つも訪れなかった。隣にあったのは、いつも悲しい顔の母親と、健やかに笑う弟だった。
 ――自分が生きていく為に、欠けさせた記憶の中で。惨状を演じた一人を、忘れられるはずがない。
 羨んだこともある。健康さと明るさを。憎んだこともある。痛みを全く理解しない、その鈍感さを。
「……ソーク」
 幾年分かの思いを込めて、アトゥールはその”音”を唇から紡ぎ出した。
 青年は目を細め、感慨深げに囁かれた声を受け止める。ついと首を振り、どこか陶酔した様子で胸元を押さえた。
「僕は名前を呼ばれるのがとても好きです。特に、貴方に」
 言って、笑う。
 向けられたソークの健やかな笑みは、記憶にあるモノと同じすぎて、アトゥールは吐き気がした。
 有り得ないと思っていた。いや、正確にいえば有り得てはいけないと思っていたのだ。そんなことが起きて欲しくなかったから。

/目次/
竹原湊 湖底廃園
Copyright Minato Takehara All Rights Reserved.