暁がきらめく場所
突天 No.03
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 大量の書物というのは、沈黙という属性を持つかもしれない。そんな事を考えながら、アトゥールは通される通路の両側を埋める書籍の山を見上げていた。
 時間が許されていれば、一ヶ月は閉じこもっていたくなるような場所だ。
 国境の町イルードには、植物学の権威が住んでいる。知り合いではないが、読んだ書物に記されていたのを覚えていたのだ。
 公族であることを明かさずとも、訪れた家の者は快くアトゥールを迎えてくれた。それで、他人の家の書斎を目指しているというわけだ。
「本、お好きですか?」
 元は広かったのだろうが、今は狭まった廊下を案内して歩く娘が、苦笑しながら尋ねてくる。何故ですか?とアトゥールが尋ねると、娘はこの場所にきて呆れた顔をしないのは、本好きだけですよと笑った。
「――確かに、この場所に来たら頭を抱えそうなのを一人知っていますよ」
「まぁ。誰ですか、と聞いてもよろしいですか?」
「私の親友です」
 笑って見せると、娘も楽しそうに笑う。
「私、今ちょっと嬉しいんです。だって、お爺様を訪ねてくるのは皆様お年を召した方ばかり。貴方のように若い方がきたのは、三年に一度あったら良いほうですもの」
「教え子とかはいらっしゃらないんですか?」
 若い者が尋ねてこないという言葉に驚いて尋ねる。アトゥールの尋ね人の孫娘は、それがですねとまま息をついた。
 よほど話し相手に事欠いているのだろうと、なんとなくアトゥールは思う。
「お爺様は、馬鹿に説明するのは嫌いだから、弟子は取らないっていうんです。だから、お爺様がお話しする相手は、すでにそれなりの知識を得た方ばかり。自然、年齢がぐっとあがります」
「では、私も話はして貰えないかもしれませんね」
「それは大丈夫です。質問には答えるんですよ。でも、なぜそういう答えになるんですか? と聞くと。もう大変です。怒って口もきいてくれません」
 困ったお爺様でしょうと孫娘は呆れた声を出す。
 なんとなく思い出したことがあって、アトゥールは首を傾げた。そういえば昔、カチェイに「結果は教えても、過程を教えない奴」と言われた事がある。そういわれても、何が分からないのかが分からないのだから、心底困ったものだった。
「……もしかしたら、何故分からないのかが、分からないのかもしれませんよ」
「まぁ、良くお爺様の口癖をご存知ですね」
 大きな目を何度もまたたかせて、娘は振り返った。まさか自分と同じだとは答えれずに、なんとなく笑ってごまかす。
「お爺様は、その奥の部屋です」
「すみません、わざわざ案内していただいて」
「あのっ!」
 軽く頭を下げて、奥に進もうとしたアトゥールを、娘の声が止めた。
 振り返ると、暑いわけでもないのに頬を染めて、娘は「時間があったら、あとでお茶でも飲んで言ってください」と早口で言った。突然の申し出に返事をする暇もなく、娘は迅速にきびすを返すと立ち去っていく。
「どうやら、孫に気に入られたようじゃな。お客人」
 奥から低い声がした。
 知識の重なりと、時の重なりを合わせれば、そのような声になるのだろうか。そんな事を思わせる重厚さに、アトゥールは顔を上げて奥へと進む。
 ガラスに守られた炎が、ちろちろと赤い舌を出して燃えていた。
「突然伺ってすみませんが、一つ、確認させて頂きたいことがありまして」
 前置きもなく、アトゥールが柔らかに告げる。老人は孫でも見るような目をして、柔和な仕草で椅子を示した。
「よく、儂が前置きの長い口上が嫌いだとしっておったな」
「なんとなく、そう思いましたので」
「そうか。もしよかったら」
「私は貴方の孫にはなりえませんよ」
 にっこりと微笑を浮かべる。老人は皺に埋もれた眼差しを細めて、心地よさそうに何度も笑った。
「楽しいお方じゃな。で、儂に聞きたいというのはなんでしょうな?」
「この付近で、今まで栽培されていなかった花が目撃されていないかどうか。それを知りたいのです」
「花?」
「ええ。見かけは美しい花ですし、感謝すべき効能もありますが。それ以上に、恐ろしい花です」
「……なるほど。お客人、国に属される方かね」
「一応はそういうことになりますね」
 目を細め、示された椅子に腰をかける。長い髪は動くたびにアトゥールの周囲をそよいで、邪魔なことこの上なかった。
「昨日、子供が一輪の花を持ってきましたよ。綺麗だから、お姉ちゃんにあげると言うてな。孫は、儂の側に長く居るせいか、この付近の植物には詳しい。じゃが、その花はどこでも見たことがなかった」
「――四弁の花ですか?」
「その通りですな。正直ぎょっとしましたので、どこぞかに報告せねばならんのと思っていたところです。いや、来て頂いてよかったですよ」
「この近くに、対応に動ける医師はいますか?」
「一人。邪険にしても何故か儂になついておる、医師がおりますよ」
「では、その方をお貸し願えますか」
「貴方の頼みならば、断れますまいなぁ」
 にこにこと笑いながら、側近くの杖を手に立ち上がる。不思議な返答にアトゥールが首を傾ぐと、老人は側に歩んできて、そっと包み込むように彼の手を取った。
「ほんに、大きゅうなられましたな。儂が最後に見たときと、あまりに違っていらっしゃるので。最初は気づきませなんだ」
「――私を、ご存知なのですか?」
「知っておりますとも。儂は、昔貴方の父君の教師をしていたことがありましてな。その父君が、ある日非常召集を国中にかけた。医師だとか、薬草に詳しいものだとか、色々と。何事かと思って早船でたどり着くと、貴方がいらした。命の危機はさったものの、体力は回復しておられませんでしてな」
 ふっと、目を老人は細める。
 通された部屋の中で、体を横たえることなく、寝台の上で上体を起こしていた子供の光景を思い出すように。
「恐ろしい目をしていらした。子供に出来る目ではありませんでしたな。あれは絶望の色じゃった。驚いて、儂は頭を殴られたような気持ちになったものですよ。こんな目を、子供がする。一体何があったのか、と」
 表情を翳らせるアトゥールに、老人が何があったのかを話すことはありませんよと告げると、手を取ったままゆっくりと頷いた。
「けれど、今の貴方からは絶望の色が殆ど消えておる。儂はそれが嬉しゅう感じられますな。良い巡り合いがあったようですな」
「――そうですね。巡り合わせだけは、恵まれていたと思います」
「貴方が幸せになることを、祈っておりますよ。医師のほうには連絡をつけておきましょう。花の件ですが、やはり噂になっておるクルクスですかな」
「ええ。手遅れにさせるわけにはいきませんしね。少々手荒なことも、行わなくては、と考えてます」
「さようですか。この老人に手伝えることがあったら、いつでも来てくだされ」
「――確認させていただいてよろしいですか?」
「なんなりと」
「一回十服以上。こうなるともう……」
「人体的に、かなり危険といって間違いありませんな」
「分かりました。ありがとうございます」
 では、と頭を下げる。かなり様々なことが頭を駆け巡っているのだが、外見上は一つも焦りを伺わせずに、アトゥールは場を後にした。


 
「戻られましたかっ!」
 宿に戻ったアトゥールを見つけて、風鳥騎士団副団長のウィドが安堵の声をあげた。出かけた時にはなかった引っかき傷や、打撲の痕が、むき出しの肌の上を走っている。アトゥールはやはりと小さく声を落とし、食堂にはよらずに部屋を示した。
 扉が閉まったことを確認し、ウィドが困惑した表情を主君に向ける。時折ひどい打ち身の箇所を、摩っていた。
「どうした?とか、大丈夫か?とか、そういう言葉は賜れないんでしょうか」
 情けない声をウィドがあげる。負傷というのは仰々しいが、打撲と擦過傷の数が多い。そんな姿に驚くのが普通だろうに、アトゥールには驚いた様子がない。ありえる事態だと予期していたという事になる。
「天網恢恢疎にして失わず。何も分かってない素振りで、実はなんでもご存知の公子を尊敬申し上げますが。せめて、少しぐらいはこちらにも教えて下さってもバチはあたらないと思います」
「別に私は全てを理解しているわけではないけれど」
 珍しく語気の荒いウィドの言葉を流して、アトゥールは邪魔な髪を結びとめる。
「情報が少なすぎる状態で、まさか、と思っていることを全て口にするのが良い方法だとは私には思えないからね」
「たしかに」
 主君の拒絶とも取れる言葉に、ウィドは食らいついた。
「可能性を全て口にするのは、良くないことだと思われます。けれどごく少数の相手に、こういう可能性もあると話すのは良いのではないですか? 私は話して頂けたほうが有難いです。検討をつけておいたほうが、情報を集めるには有利なのですからっ!!」
「ウィド」
 アトゥールの声が下がった。
 不機嫌になったというよりも、真剣になった時の声で、ウィドは息を呑む。
「ここにずっと居て、ずっと情報を集めていたのは誰だろうね」
「それは、私ですが」
「ウィドが私に、推論を話したことがあるかな」
「――それは……ありません」
「だから、私は推論を話さない。自らの思考で推論を出さぬ者に、私の考えを植えつけるのは危険だよ。先入観を与えてしまうわけだからね。お前達は……」
 アトゥールが何を思うのか、それが分からずにウィドはひどい焦燥感に囚われた。
「私は決して万能ではないのに。私を信頼しすぎているよ」
 静かに言い放って、アトゥールは厳しい言葉を放つ自分自身を戒めるように首を振った。気にしてくれるなとウィドに付け加える。
 副団長はうつむき、拳を握り締めて動かなかった。アトゥールはどこか遠くを見やって、言葉を続ける。
「……ウィドが使っていた斥候なのだから、精神的にすぐに不安定になるとは私には考えられなかった。ならば、正常な者を急速に正常ではなくしてしまうのは何なのか? 治りはせずとも痛みは取るというのは何なのか? 私がこれらを元に推論した。その傷は、報告に来た斥候を隔離した後に、つけられたのだろう?」
 説明をするアトゥールの瞳に、深い孤独が潜んでいることにウィドは気づかなかった。「そうです」と答えるのが、精一杯だった。
 アトゥールは少し休んでいたほうがいいと告げて、部屋を出て行った。
 ウィドは一人部屋に残されて、突然笑い出した両膝を抑えられずに、床に座り込む。
 分かっていると、ウィドはずっと思って来た。
 他人に頼らないアトゥールが、心に抱える闇の深さを。受けた傷の大きさを。だからこそ、常に一人で解決しようと痛々しいまでに抱え込んでいる現実を。
「私、は……」
 許容してやるべきだと思っていたのだ。彼の閉ざされた心を。
 教えてやるものだと思っていた。他人も頼るべきだと。
 ――して”やる”ものだと!!
「馬鹿だ……」
 両手を額の上において、ウィドはうめく。
 二年前の戦いで、アトゥールの気持ちが前に向き始めたことに、騎士団員達は何一つ関与していなかった。アトゥールが自分で、自分の力で、前を向いたに過ぎなかった。
「勝手に……私が支えて差し上げねば、駄目な方だと思いこんで……」
 思えば何を支えたというのか。
「傲慢だ、私は。信用してもらえるだけの事は何一つしないで。頼ってくれないことだけを怒って。ぶつけて。――私は」
 生まれて初めての敗北感に、ウィドは打ちのめされていた。


 
 街中の雑踏を、器用によけて前に進む。
 眼差しには後悔が宿り、全体的に憂いの色が強く出ていた。
「私もまだまだ子供だね」
 とんでもないことを言ってしまったと、アトゥールは思う。
 ウィドは、エイデガルや五公国の者たちには珍しいことに、父親から騎士団長という地位を譲られた人間だった。無論、かなりの能力を持っているからこそ、譲ることが許されたのだから、実力に問題はない。
 けれど下積みを経験していないことが、ウィドに一つの弊害を与えていた。彼は気づいてないだろうが、他者を格下に見る選民意識を心に隠している。
 だからこそ、彼は鷹揚に構えていたのだ。全てを信用しない主君に対して、哀れむことが出来たから。
「彼は彼なりに頑張ってくれていることを、私は知っているはずだったというのに」
 溜息をついて、アトゥールは川のほとりまで出かけていって腰掛けた。静まった船着場が側にある。結んだ髪をそのままに、風になびかせていた。
 さやりさやりと、風が吹く。彼の側に風が擦り寄るのは偶然ではなかった。皇国、そして五公国の直系子孫は獣魂によって守護されている。ティオス公国を守護するのは風の獣魂、風鳥。そしてアトゥールは、稀にみる抗魔力の持ち主だった。
「なんだかこう、やりにくいものだね」
 一人で全てをこなせると思ったことはない。けれど他人を頼るのは好みではなかった。頼れば必ず、相手は心の中に入ってこようとする。――心を探られるのが、アトゥールは何よりも苦手だ。
 心の中に、闇を飼っていることを知っているから。
「それでも一人で出来るわけもなし。折り合いはつけなくちゃいけないって、分かってはいるんだけれど」
 そっと目を伏せる。エイデガル皇国にいる間は、あれでかなり楽であったことを今のアトゥールは知っていた。父親のような存在として、皇王フォイスが居た。信頼を寄せてくる妹、弟代わりもいた。そしてなにより――。
「やめた」
 思考を打ち切り、苦笑を口元に浮かべたまま立ち上がる。
 川の色と闇の色との区別が付かなくなった闇に沈んだ水面を、蹴立てて進む音した。驚いて顔を向ける。
「公子っ!」
 聞きなれた声が闇から響く。ティオス公都に残し、公王レヴルの様子を探れと命じておいた騎士だ。
「なにかあったのか?」
 声をかけると、すぐさま船を寄せてくる。騎士の顔には焦りがあった。
「公王陛下が、奇妙な命令をお出しになりました」
「奇妙?」
「ええ。次の月が満ちるまでの間、公王が命じる以外のことで、兵を動かすのはまかりならん、と」
「兵を動かすな、だって?」
「ええ。しかも、風鳥騎士団も例外にあらずと」
 大規模に兵を動かすには、当然だが公王の許可が要る。だが、大規模ではなく小規模なものであったら。たとえば領内で幅を利かせようとする盗賊団が現れたりとか、国境をおかされそうになったとか。そういう場合があれば、それぞれの責任者の判断で兵を動かすことは可能であるはずだった。――だがそれを禁止された。
「やはりね」
「公子?」
「確実に公王は”癒しの手”の正体を知っているんだよ。知っていながら、庇いたいと思っている。あの人は私と同じで、特別な誰かを作るのがひどく苦手だ。けれど、特別な相手が出来たとき。あの人はやたらと弱くなるし、甘くなる」
「公子は、癒しの手は公王陛下の知り合いだとお考えで?」
「おそらくね」
「わかりました。では、私たち公都に残る騎士団員は、公王陛下が親しくしていらっしゃる方の現在の様子を調べてまいります」
「ああ。頼む」
 鋭い眼差しでうなずくと、アトゥールは立ち上がった。
 公王。そして癒しの手。
 知り合いであるのは間違いない。だがアトゥールの耳には、父王が親しくしている者たちが不穏な動きをしているという情報は一つも届いていなかった。
「誰が? なんの目的で?」
 漠然とした形は分かってきたものの、確実なものが何一つない。アトゥールは袋小路に迷い込んだような心持ちになって、首を振った。

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