暁がきらめく場所
微風 第三話

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「カチェイ公子っ。あそこにアトゥール公子がいらっしゃいますよ!」
 回想を打ち切って響いた声に、カチェイは思案を止めて顔をあげた。
 すぐ横手を、華麗な装飾が施された風鳥騎士団の旗艦が飛沫をあげて進んでいる。かなり接近していたことに驚きながら、カチェイは長い髪を風に流して佇む親友を見やった。
 ――少し痩せた。 
 思ってから、カチェイはアトゥールと会うのは三ヶ月ぶりだった事を思い出す。
 その時は、ガルテ公太子セイラスが、ファナス争乱の詳しい情報を入手しているという報告を受けた。皇都やレキス公国で不足している物資援助などについても相談した。
「俺らも真面目になったもんだな」
 かつては公太子でありながら、二人は国許に寄り付きもしなかった。
 それが、今では皇国と生国を守るために動いている。
 ――変われば変わるものだと思う。 
 しみじみと考えていると、隣を忙しく歩いていた騎士団員が足を止めた。古参の騎士で、カチェイがエイデガル皇国に来た頃から仕えている男だ。
 まず最初に口髭が目に入る。
 この男のことを、アトゥールは「髭を剃った顔は想像できない」と言ったものだった。
 年齢不詳の顔に笑みを浮かべて、騎士はカチェイから一歩下がった所に佇む。
「公子が真面目にしていて下さるのは嬉しいのですが。いつか真面目ではなくなった時を想像すると怖いですな」
 しみじみと呟く男を、カチェイは一瞥する。
「信用がないな。俺はもう一年も真面目を持続させてるぞ」
「一年では保証になりませんな。せめて十年は続けて下さらないと。私が考えますに、公子は奥方を迎え嫡子が誕生すれば、好き勝手し出すと思われます」
「……俺は放浪公王か」
 ロキシィの顔を思い出してげんなりとし、カチェイは振り向いて己が騎士を睨む。
 口髭の似合う騎士は返事をせず、無言で鉤爪のついたロープをカチェイに手渡してきた。接近した船と船の間ならば、移動出来てしまえそうな代物だ。
「……。お前なぁ。俺にこれで何をしろと」
「公子。やはりが皆期待をしておりますので、存分に派手なことをして下さい」
「期待?」
 低くうなるように言って、カチェイは周囲を確認した。
 なんと金狼騎士団員のみならず、船の向こうの風鳥騎士団までが目を輝かせている。
「俺は道化師かよ。ったく。――仕方ねぇなぁ」
 やれやれと息を付きながら、顔はニヤリと笑っている。
 カチェイは手渡されたロープを頭上で回転させた。一気に隣船の帆を支える柱目掛けて放り投げる。空気を切る音と共に、ロープは一度で柱に巻きついた。
 足元を蹴り、反動を利用して隣の船へと豪快に移ってみせる。
 歓声があがり、甲板が拍手で満たされた。
「これでね、こっちの船に恋する女でも待っていれば劇的だったんだろうね」
 着地したカチェイの頭上で声がする。
 やわらかな抑揚の声。少し皮肉な喋り方が懐かしくて、カチェイは目を細めた。
「顔だけなら、女が待ってる条件を満たすんじゃねぇか?」
「物語に出てくるのは、天下の美姫と相場が決まっているものだよ。私で可能なら、世の中の審美眼は下がったものだね」
「そう思ってるのはお前だけかもしれないぜ?」
 ふざけた会話をひとしきり交わしてから、二人は笑い出した。アトゥールは親友のために手を伸ばし、カチェイはそれを取って立ち上がる。
「久しぶりだな。アトゥール」
「三ヶ月ぶりって所かな。ところでカチェイ、なんだか少し大きくなったんじゃないか?」
「親父が側にいるとうるさいからな。鍛錬に行けば文句も聞こえねぇから、真面目にしてたらこうなった」
 裾をまくり、日焼けした逞しい腕を露にする。「ますます筋肉馬鹿への道を進むわけだ」とアトゥールは言って、船首へと歩き始めた。
 視線の先には、エイデガル皇城がある。
 皇城は、アウケルン湖の中州にたっている。
 石を詰め、木を組み、さらに土を盛って作った平地の上に建築されているのだ。
 エイデガル皇城を遠目から見る限りでは、争いがあったようには見えない。
 ――平和そのものだ。 
「一見すれば至極平和。でも近付けば、受けた傷跡が痛々しいのが今の皇城だよね。なんだか――今の皇家と五公国の関係と似ているよ」
 静かに言って息を落とす。
 カチェイは腕を組み「セイラスの動きは?」と尋ねた。


 ガルテ公太子、セイラス・ルン・ガルテ。
 建国戦争当時、鮮血の軍師と恐れられたガルテの直系子孫にあたる。家族を常に同伴させるという一風変わった性質の持ち主だが、甘い性格をしているわけではない。
 平時には相応しくない”軍師”の才能をもつ彼は、ガルテの再来を恐れられている。
 その彼は、アトゥールが見つめた先にあるエイデガル皇城内を歩いていた。
 かつん、かつんと、石畳の上に音が響く。腕にはあどけなく眠っている幼女がいる。彼の娘のセイカだ。
「ラス――っ!!」
 高い声がセイラスの背を打った。
 振り向けば飴色の巻き毛の女が、少年に手を掴まれたまま蹲っている。
 少年は困った顔で、女と、振り向いたセイラスを交互に見やっていた。
「父上、母上が」
 どうされたんでしょう?と続く声に触発されて、セイラスの腕の中の娘が目をあけた。続けて降ろしてと父にせがみ始める。降ろしてやると、四歳の娘は走り出して、二つ年上の兄に飛びついた。
「にーさま。どうしたのぉ?」
 にこにこと、やけに嬉しそうに笑っている。抱っこしてやると狸寝入りをする娘は、なぜか兄が大好きだ。――大きくなったらお父様のお嫁さんになるの、ではなく。お兄様のお嫁さんになるの、と言い出しそうだとセイラスは思っている。
「セイカは俺よりルシャが好きか」
 ためしに尋ねると、「にーさま、大好きっ!」と返事が来た。
 セイカの兄、ルシャのあいている方の手をしっかりと両手で握っている。
 兄は少し笑って、けれどやはり困ったまま母を見下ろした。
 蹲った母親のシャンティは、一歩も動こうとしない。
「ルシャ。セイカを頼むな。ちょっと先に歩いてていいぞ」
 大股で歩いて、セイラスは妻の側にたどり着くと、子供たちに言った。大人しい兄は頷き、兄が大好きな妹は不満もなく歩き出す。
「シャティ。虫がいたか?」
「――ラスーっ。上、上っ」
 俯いていた顔を上げると、シャンティの瞳には涙が浮かんでいた。
 気が強い女なのだが、足を何本も持つ昆虫にシャンティは弱い。
 息子と娘の前では、母の威厳を保つために、虫を見て悲鳴をあげてはいけないと思っている。そのために悲鳴は噛み殺すのだが、動けなくなってしまうのだ。
 動き出せば、虫が突進してくるような気がするとシャンティは言う。
 必死に上と訴える妻のために顔を上げて、セイラスは天井を歩いている虫を見つけた。流石にとってやれるような位置ではない。しばし考える。
「シャティ、目をつぶってろ」
「ラス?」
「いいから。早く」
 詩吟でも朗じているような夫の声を聞きながら、妻は目を閉じた。その隙に抱え上げて、セイラスは走り出す。子供たちにも走れと声をかけた。
「きゃーーっ! いやー! 虫の下ーーっ!」
 必死の我慢は報われず、シャンティの声が廊下に響く。
 それを庭に立っていた二人が聞きとめた。
「兄上と、義姉上の声だね」
「虫が現れたのかしら」
 のんびりとした声をあげた男に、銀髪を二つに分けて編み下げた女が答える。
 レキス公王夫妻、グラディールとダルチェだ。
 ダルチェの腕の中には、生まれてからそれほど経っていない赤ん坊がいた。両親以外の大きな声に驚いて、むずがっている。
 慌ててグラディールがあやすが、赤ん坊はしかめっ面をしたままだ。代わりにダルチェが指を伸ばして我が子の柔らかい頬をつついてあやす。
 にこぉと笑った子供に、グラディールが唇を尖らせた。
「なんだか、ダルチェは僕のだと言われた気がしたよ」
「……グラディール?」
 怪訝というよりも、胡散臭い顔でダルチェは夫を見上げる。
 女の子が欲しいと、祈祷を始めかねない勢いだったグラディールの願いむなしく、生まれたのは男の子だった。
「勿論ダルチェと私の子供なんだから可愛いんだよ。かわいいけどね、ダルチェ。やっぱり世の中女の子だよ。想像してごらん、フリルのついたおそろいの服を着る母と娘っ!」
「私、フリル付きの服なんて着ないわ」
 一人妄想に浸る夫を一刀両断して、ダルチェは我が子を抱いたまま、廊下に向かった。高い悲鳴と共に、走ってくる音が聞こえてくる。二つは歩幅の小さな音で、一つはやけに大きかった。
「あっ! ねぇさまー!」
 セイカが廊下の先に、伯母にあたるダルチェを見つけて幼い声をあげる。
 伯母様とよぶのはちょっとということで、小さな甥と姪は、レキス夫妻を兄様、姉様と呼ぶのだ。
「久しぶり。元気?」
「うん。あ、ねぇさま。赤ちゃんはー?」
 小さな手を伸ばし、ダルチェの長い裳裾を掴む。慌てて失礼だぞと口をはさんだ兄のルシャに良いのよと言って、ダルチェはかがんだ。
 小さなセイカにしてみれば、自分よりも小さい者はひどく珍しい。
「かーわいい。ねぇさま、かわいいね」
 にこにこと笑い出す。兄のルシャも珍しそうに赤ん坊を覗き込んだ。
「おや、我が義妹殿だね」
 セイラスの顔にひっかき傷が出来ている。真面目な顔に走ったソレはやけに目だって、ダルチェは首を傾げた。
「お久しぶりです。義兄上、義姉上」
「お久しぶり。元気だった?」
 夫の腕に抱えあげられたままの体勢で、シャンティが挨拶を返す。
 なんとなく可笑しくなったところで、一時的に落ち込んでいたグラディールが姿をあらわした。
「セイラス兄上」
 兄弟の情愛を示すつもりか、グラディールが手を伸ばした。握手で再会を祝すのかと二人の妻は思ったが、セイラスは突然「女の子は可愛いぞ、グラディール」と言う。
 手を上げたまま、グラディールは固まった。
「義兄上、グラディールを刺激しないで下さい」
「ああ。悪かったな。兄というものは、即座に弟を苛めねばならないと相場が決まっているもんでね」
「ガルテだけの決まりでしょう?」
「そうとも言う。さあ、行こうシャティ。ルシャとセイカも。フォイス陛下に挨拶はしたのか、義妹殿は」
 立ち去ろうとしながら、セイラスが尋ねた。
 ダルチェは固まっている夫の隣で首を傾げ、こくんと頷く。
「それが何か?」
「いいや。アティーファ皇女殿下にもか?」
「ええ。お元気そうでしたけれど」
 もう一つ投げられた質問に、ダルチェはさらに首を傾げた。公族が、皇都に来て皇王に挨拶をするのは当たり前のことだ。
 何故にそんなことを、と尋ねる前に、セイラスは歩き出してしまった。
「そうか。グラディールはやはり話さなかったか」
 通路を折れ、弟と義妹が完全に見えなくなったところで、呟く。
 

「今回の戦いを起こした首謀者は、死んでいない」
 セイラスがグラディールに告げたのは、三ヶ月前の事だ。
 二人の赤子が生まれ、その祝いにセイラスがレキスを訪れた時のこと。
 グラディールは少し驚いた様子を見せたが、「そうでしたか」と呟いて、他の反応を示さない。
「怒りはないのか?」
 ワイングラスを受け取りながら、セイラスは弟に尋ねた。
「ありませんよ」
 穏やかな弟が、怒ったところをセイラスは殆ど見たことがない。怒らないのではなく、他人と怒る個所が違うのだろうと、兄は見当をつけている。
「義妹殿はどうかな?」
「怒ります。その身を滅ぼすほどに激しく」
 グラディールはそれだけ答えて、押し黙った。
 普段の雄弁さを考えれば、信じられないほどの無口さだ。だが、セイラスが知っているグラディールは何時も無口だ。
 全てにおいて、セイラスはグラディールに勝っている兄だった。
 生来闘争本能の薄いグラディールは、兄に勝てないことに激しく憤ったことはない。だが、親しみを感じたこともなかったのだ。
 二人は、一緒に育てられていない。出来の良かったセイラスは、甘やかさないためにと、教育係によって育てられた。その教育係の娘が、シャンティだ。グラディールは、隠居していた元宰相の老夫妻に育てられた。
 共有する思い出を、兄と弟は殆ど持たない。
「首謀者の名前は、エアルローダ。俺が調べたところ、フォイス皇王陛下の奥方、リルカさまの甥にあたる。魔力者だな。逆恨みでこちらに攻めてきて、レキスは手始めに滅ぼされたわけだ」
 グラスを手の中でまわしながら、セイラスが続ける。
 グラディールが興味を示した様子はない。ただ他人に聞かせてよい内容ではないと判断しているらしく、肴を持ってきた侍女を入れることはなかった。
 エアルローダをアティーファが殺さなかったこと。そしてその決断を公にしないために、公式記録をフォイスが改竄したことなどを伝えた所で、グラディールは片手を挙げる。
「それ以上おっしゃっても無駄です、兄上」
 弟の、突然の言葉だった。
「何が無駄なんだ?」
「私にいくら言ったとしても。私はダルチェにその話はしない。私はエイデガル皇国に反旗を翻すつもりはありません」
「何故だ?」
「それだけの実力はありませんし。赤ん坊にも母親にも、戦場はよくない」
 淡々と答えて、グラディールは立ち上がる。
 同じように立ち上がって、セイラスは肩をすくめた。
「怒りはないのか?」
 最初の言葉を繰り返す。初めて困った顔をしてみせて、グラディールは首を振った。
「自分たちの力が足りないから、レキスは一度滅んだ。それを解決なさったのは皇女で、私たちではない。私たちは何も出来なかった。処罰うんぬんで不満を訴える権利は持ちません」
 帰ってくださいと、グラディールは最後を締めた。
 ――怒っているのだ。
 ああ、と思った。
 初めて気づいた。
 グラディールが怒るのは、彼が好んでいる場所と時間を、他人に壊された時だけなのだ。
 セイラスが持ち込んだ情報は、彼が愛する平穏を崩すものでしかない。
「つまらないな」
「本音ですか、兄上」
 外套を肩に羽織り、扉から出て行こうとする兄の背に、弟が声を投げる。
「なんだ?」
「兄上は、才能をお持ちだ。けれど、その才能を使う場所がない。――使う場所が欲しいのではないですか?」
「小賢しいことを言うようになったな、グラディール」
「一応は」
「半分とはいえ、公王なのだから当たり前か。そうだな」
 考え込むように、指であごを掴む。
 動乱が起きれば、持って生まれた才能を使う機会が生まれるのは事実だ。大国に生まれてしまったがゆえに、危機などというものに対面することは殆どない。
「私は。そのエアルローダという少年よりも、自分の能力のなさを恨みます。そして、才能を使うために」
 グラディールが言葉を切る。
 一度も兄に歯向かったことのない弟。才能の違いを見せ付けられて、気にしないと思いつつも、何度も挫折してきたはずの弟が――兄を、睨む。
「乱を呼ぶなら。きっと私は、それを怒る」
 そう、三ヶ月前に彼は言った。

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