暁がきらめく場所
NO.01 血染めの結末
「逃げるしかないみたいなの、リーレン」
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「私たちが持っているんだよ。自分の力で魔力を織り成すことは出来ないけれど、魔力者の能力を抑制し、奪い取り己がものとする能力を……」
 ――抗魔力。
 エイデガル皇国だけが大量の魔力者を保護することが出来た、その理由。
「五百年前の建国戦争当時、エイデガルはザノスヴィアの魔力攻撃の前に壊滅寸前に追い込まれたことがあったんだよ。この劣勢を覆したのが、獣魂顕現だったと記されている。ようするに世界創生をなした神の眷属である獣魂は魔力を左右する力を持っていて、それを私たちに与えてきたんじゃないかって思うんだよね」
 風はまだ吹いていた。
 まるでアトゥールに戯れるように、守るように。
「獣魂が俺たちに与えた力」
 今、獣魂の金狼を従えてカチェイは抗魔力を行使する。
 轟音と共に光を迸らせて集まった大量の魔力は、抗魔力をもってしても、すぐに処理可能というわけでもない。対処しきれぬ魔力はカチェイに牙を剥き、激痛を走らせていた。
 脂汗が額を伝う。ただ、それを歯を食いしばって耐える。
「ダルチェ、走れ!」
 己がものとした魔力をカチェイは一気に解放する。
 銀の髪を風にまかせてレキスの若い公妃は走り出した。
 リーレンは白蝋のような顔色のまま、ただただ震えて光景を見守っている。
 魔力が奪われ、奪われた魔力をカチェイが行使する恐ろしい現実を。
「エアルローダの言っていた通りだったのか? 私たち魔力者は縛られて、支配されて、エイデガルに利用されてきたのか?」
 混乱と、信じたくない気持ちに、リーレンは歯の根があわなかった。
「いやだ、そんな……エイデガルが……アティーファさまたち皇公族が、魔力者を利用していただけだなんて」
 考えたくないと首を振る。
 けれど否定しきれなかった。事実は時に、刃物よりも非情で鋭い。
 彼ら自身は魔力者ではないような顔をして、心優しい隣人の仮面をかぶって、実は異質な魔力をもって魔力者を支配し利用し続けてきたのだ!
 認識がとてつもなく寒く、怖い。
「嫌だ……こんなの、こんなのは、嫌だ!!」
 恐怖で染められた過去から救い出してくれた、あの優しい時間が、自分の周りが、全て砂のように崩れていく。
 アトゥールは優しく笑ってくれていた。カチェイはいつも抱き上げてくれた。無邪気な笑顔で遊ぼうと手を伸ばしてくれていたアティーファと、眠れない夜に頭をなでてくれたフォイス。
 あれが偽りであるとしたら。
 自分はどうすればいいのか?
 考えて、答えが出なくて、叫びたくて、考えて。
 全ての思考が恐怖に傾き、ついに叫びだしたのに呼応して、リーレンの周囲がゆらいだ。
 目の前に立つカチェイが、驚愕した顔で名を呼んできている。けれどそれに答えることは出来ず、リーレンの視界は闇に塗りつぶされた。
 しん、とした静寂。
 何が起きたのかは分からなかった。
 ただ、なにか大きな魔力を行使してしまった後の倦怠感が彼の中にある。
 周りはすべて闇で、見えるものは何一つとてない。聞こえる音もない。不安に周囲を見渡し、歩み始めて、リーレンはかすかな音を耳に捉えた。
 誰かが歩む、わずかな衣擦れの音。
 音の方角から、突如柔らかな光が差し込んできて、目をつぶる。
「逃げるしかないみたいなの、リーレン」
 彼の名前を呼ぶ、声。
 知った声ではない。けれど圧倒的な懐かしさを感じ取ってリーレンは驚いた。
 意識していないのに体が震える。
 眩しさに閉ざしていた瞼を跳ね上げ、そこに女性を見つけた。
 豪華に波打つ黒絹の髪をゆらせて、ゆっくりと歩いている。
 ――誰?
 懐かしいのは間違いないのに、誰であるかが分からない。もどかしさに震えるリーレンの目の前まで進んできて、彼女は足を止めた。
「ここは狂い始めているの。ずっとここに居てしまえば、誰もが正気を壊されてしまうわ。リルカが消えて、現実が夢を壊して、ルリカは狂った。現実が自分を傷つけるから、夢を現実にするために狂ったのよ」
 悲しげに、彼女は首を振る。
 リーレンの名前を呼びながら、彼女の視線は彼をとらえない。もっと下を見つめて、哀切に満ちた声をつむいでいる。
 その声が、狂おしいほどにリーレンの胸をかきむしるのだ。
 懐かしい、懐かしい、懐かしい!と。
「私はリーレンを守りたいの。だから決めたの、逃げるって。この村を捨てるわ」
 彼女はそっと膝を折った。
 つられてリーレンは一歩下がる。
 子供がいた。黒い髪と黒い瞳。あどけない眼差しに絶対の信頼と慕情を浮かべた、子供が。
「どうしたの?」
 まだあどけないその声に、リーレンは殴られたような衝撃を覚えた。
 ――自分だ。
 これは、子供の頃の自分自身なのだ!
「僕たち、どこかに行くの?」
 日向のような笑顔で、幼い頃の自分は首をかしげている。
 リーレンに懐かしさを与える声の持ち主は微笑み、手を広げた。子供の頃の自分は当たり前のように、腕の中に飛び込んでいく。
「お母さん!」
 ――お・か・あ・さ・ん・?
 あまりの言葉に、リーレンの体がぐらりと揺れた。
「外の世界に行くの。私の妹たちの関係は壊れてしまったから。リルカはもういないし、ルリカは狂ってしまったわ」
「くるう?」
「リーレンには良く分からないわね。もう私たちの知っているルリカはいないわ。均衡が崩れて、この村の全ては違うものに変質していってしまうことでしょう。その前にね、私たちは逃げなくちゃいけないの。ここから、外に」
「お外ってリルカ叔母様が行ってしまった所?」
 首をかしげる。難しい言葉など分からないから、分かることだけを尋ねている。
「エイデガルという国よ。私たち魔力者と戦うと同時に、私たちを守るための行動も起こした国にいくの。猛く気高い行動を取った四人を先祖に抱いている国だわ」
「そっかぁ。じゃあ、リルカ叔母様とまた遊べるんだね。リルカ叔母様のやいたケーキ、早く食べたいよ!」
 大人の瞳に浮かぶ苦悩に気づかずに、子供はただ嬉しいことを見つけて笑う。無邪気な息子に苦笑して、彼女はそっと頭をなでた。
「ねえ、リーレン。私が焼いているケーキが不満なの?」
「不満じゃないよ。でも両方あったほうが嬉しいもん」
「我侭なリーレン。そうね、エイデガルにつくことが出来れば、リルカは喜んでリーレンの為にケーキを焼いてくれるわ。従兄弟も出来るかもしれないわね」
「従兄弟!? 僕のお兄ちゃんかお姉ちゃんになってくれるの?」
「それは無理ね。だって、リルカの子供はまだ生まれていないんだから。だからね、できたとしても弟か妹代わりになってくれるかもしれない子供よ」
「そっかぁ。僕ね、妹か弟欲しかったよ。それにね、お母さんとお父さんが一緒なら、どこに行ってもいいよ!」
「いい子ね、リーレン。ありがとう」
 なぜか泣き笑いのような表情で、彼女は幼い頃のリーレンを抱き上げる。
 ついっと周囲に向けた視線が、何かを警戒していた。
 何を警戒しているのか、それは見守るリーレンにはわからない。それどころか柔らかく差し込んできた光が消え始め、闇の中に母子の姿はまぎれようとしていた。
 動悸がする。
 何か言わなければと、リーレンは焦っていた。
 親の思い出など一つもなかったから、彼は親はいないと思ってきたのだ。けれどいないはずの母親が、なくした記憶の欠片が目の前にある!
「……まっ……」
 呼び止めたい。
 待ってと叫んで、追いすがって、自分を認めて欲しい。
 闇の中に消えつつあった母親が、まるで声にならないリーレンの叫びに気づいたかのように、ふっと振りむいた。
 闇に同化しつつある黒絹の髪が、重く流れる。
「覚えておきなさい、リーレン」
 彼女の眼差しは、今、立ちすくむリーレンを確かに見つめていた。
「貴方はね、この村で生まれた最後の純血の魔力者だわ。魔力を封じあっているこの村の外に出れば、貴方が持つ恐ろしい魔力は貴方を殺すことになるかもしれない。だから、心を強く持って。……高い魔力を誇るがゆえに、心を壊しやすいファナスの一族の現実を乗り越えなさい。やがて世の中に産み落とされる、ルリカの子供と……狂気と戦いなさい、リーレン」
 言い含めるように、ゆっくりと告げて、彼女はふっと目を細めた。
「純血の魔力者? ファナスの一族? 狂気と、戦う?」
 震える声で呟くたびに、リーレンの中で思い出される実感があった。
 たとえば伸ばされていた手の温もり。優しくたしなめてくる声。無邪気に笑って走り回った、あの土の感触。
 ――体の中に帰ってくる、思い出たち。
「そうだ、私はあの村で育って。母さんがいて、父さんがいたんだ。双子の叔母たちもいた。……でも、あれはどこに? なんで……母さんと、父さんはいなくなってしまった?」
 記憶は欠落している。
 肝心なことがわからない。どうして忘れてしまったのかも分からない。
「リルカとルリカ。母さんの双子の妹たち。でも、この名前はどこかで……。そうだ、アティーファ様の母君の名前は、リルカだった」
 肖像画を見たことがある。エイデガルでは珍しい、青みがかった漆黒の髪と、瞳を持つ美しい女性だった。
 リルカという名前が同じなのは、偶然の一致と考えることも出来る。だがエイデガルでは珍しい黒髪黒眼までが一緒というのは、少し不思議だった。
「でも……アティーファさまの母君が、国外の方であったかどうかは知らないし」
 ひっかかるのも、事実。
 尋ねたくて顔をあげて、母と幼い頃の自分の輪郭さえ分からないほどに闇に同化しつつあることに、リーレンは目を見張った。
「待って、待ってください!」
 慌てて走り出し、消えようとする母を追う。
 土の上を走るリーレンの鈍い足音が暗闇に響く。それが延々と続くだけで、消えていく母との距離は一向に詰まることがない。焦りと、悲しさに叫びだしかけた時、響く音が突然に変わった。
 石畳を叩きつけたような、高い足音になったのだ。
「え?」
 足を止め、地面を見やる。
 暗闇の中で浮かび上がっていたのは、まさに白い石畳の路面だった。覚えがあると思ったリーレンの鼻を、鉄さびの匂いが打つ。
「これは……え、血の匂い?」
 誰が血を流しているのだと、焦って周囲を見渡す。
 長く眼下に続く石畳の回廊と、高い塔の土台が見えた。人の数は三人。一人は剣を担ぎ、一人は膝を付いて肩で息をし、一人は剣を手に構えている。
 ――誰と、誰と、誰だ?
 血の匂いは、膝を付いている人の影がある方向が濃い。
「レキスで異変に巻き込まれたんだ。それで、カチェイ公子が私の魔力を奪い取った。――じゃあ、ここはどこだ?」
 心臓が高く”どくん”と跳ねた。
 ぐるりと周囲を見渡す。闇の中に消えていった母の姿はもうどこにもない。十重二十重と押し包んでくる闇が、リーレンの周りにはあるだけだった。
 血の匂いはますますひどくなっていく。
 小柄な影が向ける剣は、膝を付いている影に襲いかかっているのが分かる。かわしているのも分かるが、まさに紙一重だった。もう一人の影は、近くの攻防など知らぬげに傍観している。
 ――なにかがおかしい。
「これは……この、光景はもしかしてっ」
 知っている人間の、危機かもしれなかった。
 自分を慈しんでくれていると、信じて疑ったこともなかった、大切だった人の危機かもしれないと。
「あ……」
 喉まで名前が出かかっている。けれど名前を叫ぶことが出来ない。その間に血の匂いはますますひどくなり、向けられている剣が切り裂こうとして。
「アトゥール公子っ!」
 リーレンはついに叫んだ。
 叫びに呼応したように、また彼の周囲に揺らぎが走る。
 闇が消え、木洩れ日のような柔らかな光が落ち、草木の香しい匂いが鼻を掠めた。
「それで、どうしたいって?」
 落ちついた声が、耳に届く。
 裏切られていたことが辛い今のリーレンには、胸に痛い声だ。それでも顔をあげて周囲を見渡し、彼は草原に座りこむ少年時代の自分を見つけた。
 ひどく辛そうな顔で、唇を引き結んでいる。薄茶の長い髪を風に舞わせるアトゥールが、隣で困ったように首を傾げていた。
「それで、なにがあった?」
「――馬鹿にされたんです」
「どうして?」
「魔力があって拾われて、同情されて皇女の側において貰っている捨て犬の癖に!って言われて。人間としての存在価値なんて、僕にはないって」
 悔しそうに、両手を握りしめてわなないている。
「だからといって、折角皇王陛下のご指示で通えるようになった学院を飛び出すことはないだろう?」
「だって……だって、悔しいから」
「悔しい、ね。まあそういう感じ方は悪くない。見返す方法はあるけれど、どうする?」
「方法って?」
「リーレンの頑張りと我慢が必要だけどね。私はあまり教えるのは得意ではないから」
「どうすればいいんですか?」
「簡単だよ」
 柔らかに微笑むと、本来ならばリーレンが気軽に口をきける相手ではない公太子は、腰を落として手を伸ばした。リーレンの黒い前髪がゆれて、頭を撫でてくれる。
 少年時代、リーレンはこうやって甘やかしてくれる彼が大好きで、密かに兄のように思っていたものだった。
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