暁がきらめく場所
NO.05 魔力者
なんで、なんでこんなことになっているのよ!
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 アティーファの唖然とした声に、アトゥールが辛うじて頷いた。
 蒼天を封じたような色を持つ宝玉。
 皇国の建国史に登場する宝珠で、獣魂の宝珠と呼ばれる門外不出の宝だった。
 史実が最初に語るのは、建国戦争だった。
 礼儀作法を世に知らしめた功績のみを持つ小国エイデガルが、弱肉強食が当然の群雄割拠の時代を終わらしめた一連の戦を意味している。
 アティーファから数えて五百年ほど前におきた戦いを導びいたのが、後世にて覇煌姫(はこうき)と仇名される初代皇王にてエイデガル王国の末姫である、レリシュ・エリ・エイデガルだった。
 彼女には四人の兄姉と父王がいたが、彼等は末姫が特別である事を悟っていた。まさにレリシュは、戦乱に終止符を打つためにだけに生まれてきた娘だったのだ。
 レリシュは二十歳で玉座を譲り受け、一年間の準備期間をおいた後、天下平定の軍を起こす。その快進撃は、伝説として語り継がれるに相応しい激しさだった。
 レリシュ率いるエイデガル王国軍は版図を三倍に広げ、至上最大規模の国家を作り上げた。その後、豊かなる国力と軍力を背景に、大陸一の発言権を持つに至っている。
 レリシュは皇国樹立後、五つの公国を作りだした。
 彼女を支えた五人の人物。
 長兄レキス、長姉アデル、次兄ティオス、次女ミレナ。そしてエイデガルと敵対し滅ぼされた国の王子でありながら、彼女の軍師となったガルテに報いる為に。
 レリシュは夢で神から賜ったという宝珠を五人に贈っている。これこそが、高貴なる獣の魂が封じられたという、獣魂の宝珠なのだ。
 レキスに天馬宝珠。アデルに金狼宝珠。ティオスに風鳥宝珠。ミレナに銀猫宝珠。ガルテに獅子宝珠。そしてレリシュ自身が水竜宝珠を持つ。
 宝珠は国を意味し、建国戦争が”事実”であると証明する重要な証拠の一っだった。
「一体何事が起きたら、天馬宝珠を猛禽にくくりつけて送ることになる?」
 呆然としつつも、アティーファは共に出てきた書状を広げた。
『レキス公国の正式な血脈と民が滅せられる危険あり。天馬宝珠を一時的に皇家に返上すると共に、至急の援助を賜りたく、書をしたためる』
 短い文面にアティーファは眉を寄せ、書状をアトゥールに向ける。
「ダルチェのサインがある。これは?」
 アティーファが兄と慕うティオス公子は、絵画や書簡の鑑定までこなす。アトゥールは書状を受け取って飾り細工のようなルーペで覗きこみ「間違いないね」と断言した。
「本物のサイン……」
 サインの持ち主、ダルチェ・ハイル・レキスは、前のレキス公王の一人娘だ。現在はガルテ公国第二公子グラディールと婚姻を結び、二人連名でレキスの公王位にある。
「内容の信憑性はともかく。レキス公妃ダルチェが、正式な使者を立てられないほど切迫した状況にあると考えることに問題はないね」
 アトゥールの断言に、アティーファは緊張に瞳を震わせた。
「父上に報告してくる」
 自分で解決する出来ることではないと、アティーファは駆け出した。アトゥールは追わずに、考え込んで目を細める。
「異変が起きている可能性の高い、マルチナ姫のザノスヴィア王国。急を知らせたレキス公国。両国はエウリス河を挟んで隣同士、か」
 嫌な符号だと呟く青年の眼下では、碧玉の湖アウケルンが、変らぬ美しさを示していた。


 アティーファが父親の執務室に急ぐために飛びだしてきたのを、蒼水庭園から見やる二人の姿があった。
 一人はエイデガルに訪れた絶世の美少女であるザノスヴィア王女マルチナで、もう一人はマルチナに気に入られてしまったアティーファの学友のリーレンだ。
 マルチナはおっとりとアティーファを見やる。可憐な仕草は男を誘う艶に満ちていたが、今の彼女を好色に縛る眼差しはなかった。
 あるのはただ、走っている皇女を心配そうに見やるリーレンの眼差しがあるだけだ。
「アティーファは太陽のような人。あのように生まれてきたかった」
 ぽつりと、誰にも聞こえぬ小さな声をもらす。
 ザノスヴィアがエイデガルに仕掛けた子供騙しのような外交戦の結果、マルチナはエイデガル皇国に逗留しつづけていた。彼女が佇む蒼水庭園は、アティーファの私室を意味する場所で、ザノスヴィア使者団は乗りこめない。家臣を思えば自ら抜け出して逃げるべきだが、マルチナはそういう気分になれないでいた。
 アティーファがいると、何故だか体が暖かくなる。逆に彼女が側から離れると、どうしようもなく寂しくなって、体の中にある何かが首をもたげて自分を侵食してしまうような気がするのだ。
 同時に、何を失ったのかは分からないが、確かに失ってしまっている”何か”に、二度と会えなくなるような恐ろしさも感じている。
「――あ」
 マルチナの視線に気付いたのか、近くを駆け去ろうとしていたアティーファが足を止めた。大きな瞳をまたたかせてから、急いで側に寄ってくる。
「マルチナ、どうした? 寂しそうな顔をしている」
 急いで向かう場所があるだろうに、優しくアティーファが尋ねてくる。心地よくて、マルチナは口元をほころばせた。
「大丈夫。私のほうこそごめんなさい。リーレンをずっと借りてしまって」
 アティーファの側に駆け寄りたいだろう黒髪の魔力者の動きを牽制し、マルチナは囁く。アティーファは王女の手を軽く取った。
「いいんだ。遠くから来ているマルチナが、リーレンがいれば寂しくないっていうのなら。私とリーレンは家族みたいなものだから、ずっと一緒に居なくちゃいけないってわけでもないし」
 アティーファは暖かく笑う。マルチナは細くありがとうと言って、一緒に居たいですと言葉ではなく全身で嘆くリーレンを隠した。
「また後で来るから。リーレン、マルチナを頼む」
 罪なことを頼んで、アティーファは駆け去っていく。
 皇王の執務室までは、本来はそれなりの手続きがなければ近寄れない。だが一人娘のアティーファは別で、衛兵の敬礼を受けながら部屋に飛びこんだ。
「父上!」
 息を切ったまま飛び込んだアティーファに、のんびりと紅茶をすする父王フォイス・アーティ・エイデガルは顔を上げる。
「どうした、アティーファ。大変だと顔に書いておるようだが」
 ティーカップを飲むか?と尋ねるようにフォイスが掲げたので、アティーファは首を振る。娘はかなりの緊張をまとっていて、父親は軽く笑んだ。
「アティーファ。大変だと顔に書いても、相手の理解は得られんぞ。皇王家に名を連ねる以上、意志は正確に他人に伝達できるようにせんとな」
「父上は他人じゃない」
「そうとも。お前は私の可愛い娘だ」
 軽く答えてフォイスは娘を見やる。アティーファはむくれたが、気を取り治すと、報告したい事柄と問題点とを頭で整理した。
「父上。伝書令にレキス公国からの書状が舞いこんできたんだ。使者は勇敢な隼一匹。内容は、援軍を請うレキス公妃ダルチェ直筆の書と、天馬宝珠」
「天馬宝珠?」
 皇王の表情に、注視していなければ気付かぬほどの僅かな驚きが浮かんだ。アティーファは頷くと、持参した天馬宝珠を書状と共に机上に置く。
「アトゥールが、サインは確かにダルチェのものだと言っていた」
 サインの信憑性の高さも付け加えた。
 フォイスは肯くと、どこか少年めいた仕種で首を傾げ、椅子に背を預けて腕を組む。
「なるほどな。勝気娘のダルチェが助けを求めるとは緊急事態だ。それにしても」
 言葉を切り、フォイスはダルチェの書状を持ち上げる。
「この文面はいささか簡潔すぎるな。何によって危険がもたらされたのかが分からん」
「父上、暢気に文章を添削している場合じゃあ……」
「ところでアティーファ。鑑定者のアトゥールはどうした?」
 話題をずらされて、娘は唇を尖らせる。曲者のように父親は笑った。
「私が父上に報告に行くと言って走り出した時には、ついて来る様子はなかったけれど」
「……なるほど」
「それがなにか?」
「こちらの話しだ。気にするな、愛しい娘よ」
 一人勝手に納得して、フォイスは机上にある報告書の一枚を娘に差し出す。きょとんとしたアティーファをフォイスは促す。
「レキスに派遣した外交担当者からの連絡が、昨日から途切れているという報告書だ」
「えっ!?」
 慌てて、アティーファは差しだされた報告書に食い入った。瞳が更なる緊張に深まっていくのを確認し、フォイスは立ちあがる。そのまま壁に貼ってある地図の前に立ち、エイデガル皇国とそれを支える五公国とを指差した。
「アティーファ。わがエイデガルと五公国とは、危険時に迅速な対策を取れるようにと、決まりごとがいくつかあったな? 一つは、お前が今立ち寄ってきた伝書令の設置。そしてもう一つが」
「午前と、午後に一度ずつに狼煙を上げること。中継地ごとに狼煙をあげる作業を繰り返し、皇都に各公国の無事を常に知らしめること」
「その通りだ。これによって、幾度もの危機を回避してきた。その狼煙が絶えた。すぐに確認させたところ、レキス公国の国境近くまでは上がっていたという。続報を待っているところに、お前がレキス公妃ダルチェの助けを求める書状を持参した。やはりなにか起きているな」
「父上はどう対処されるおつもりか?」
「エイデガル近衛兵団を向かわせるべく手配していたが。なるほど、どうするかな。じゃじゃ馬娘が、責任感と好奇心に胸を膨らませておるしな。――ところで」
 一旦言葉を切ると、フォイスは地図の前で体を扉の方向に向ける。来訪者の気配はないのでアティーファが驚いていると、父親は突然に「効果的な登場を狙っておらんで、入って来い」と言った。
 なにを?とアティーファが尋ねるよりも早く、扉が左右に開かれる。慌てて振り向いたアティーファの視界に、気配を消していた二人が立っていた。
 ティオス公子アトゥールと、アデル公子カチェイだ。
「それで。ティオスとアデル両公国はどう判断する。今回の事件」
「おそらくはこの事態、ザノスヴィアが絡んでいることが予想されます」
 アトゥールが性急な切り口を見せる。珍しいと感じたのか、フォイスはゆっくりと歩んで椅子に戻ると、冷えきってしまった紅茶に口を付けた。
 フォイスの態度は焦っている様子のアトゥールを揶揄しているようで、アティーファは慌てた。
「え、えっと。アトゥール、ザノスヴィア王国が絡んでいると考える根拠は?」
 黙したフォイスと、フォローしようとするアティーファを交互に見やって、アトゥールは目を伏せた。一つ苦笑して顔を上げる。今度は普段どおりの様子に戻っていた。
「皇女のご依頼で、ザノスヴィアを調べた際、気になる情報を見つけました。レキスとザノスヴィアの国境に掛かる橋、石橋アポロスに関することです」
 レキス公妃が危急を告げてくる前から、アトゥールはなんとなくレキスとザノスヴィアのことが気になっていたのだ。
 ただ、何が気になるのかが分からなかった。情報を集めるだけに留まり対策を講じずにいて、危急の知らせが飛びこんで来た。これは気付けなかった自分の失態だと、アトゥールは認識している。
 アトゥールの忸怩たる想いに気付いて、カチェイは口を挟んだ。
「分かっていたのは、些細な出来事の羅列だったからな。細かいつっこみが大得意なアトゥールでも、見落とすのも仕方ないさ」
「それはもしかして、フォローをいれたつもりなのか? それとも私を馬鹿にしているのか?」
「無論、両方だ。お得だろ?」
 確信犯の笑みを浮かべて、カチェイはアトゥールを無視して更にさらに口を開く。
「レキス公国からの連絡は途絶えたが、隣接する石橋アポロスからは連絡は途絶えていないんだ。にも関わらず、アポロスからの苦情はまったく届いていない」
 アトゥールから前もって意見を聞かされていたことを、よどみない発言が証明していた。最後まで朗々と説明しきるのかと思いきや、いきなり沈黙して親友の肩を叩く。
「どうせなら、最後まで説明してみせるんだね」
「アトゥールの役どころを全部とるのも悪いだろ」
 二人、囁き声で悪態をつきあう。
 琥珀色の紅茶がゆれる陶器に口をつけつつ、沈黙を守っていたフォイスが二人の公子を見やった。
「五公国の公族は、揃いも揃って他人を無視するのが好きと来た。アティーファ、不敬罪ということでこいつらの足を踏んでやれ」
 大袈裟な仕草で首をふり、嘆きをあらわにする父親に、アティーファは鈴の音のような笑い声を転がせる。
「カチェイ。アトゥール。父上が寂しいとおっしゃるので、ひそひそ話は厳禁。それで、なぜアポロスからの苦情が届かないことが、ザノスヴィアの関与を証明するものになるんだ?」
 話しを咀嚼しようと真剣な様子のアティーファを、真顔に戻ったフォイスが手招きをする。
「人はどんなに素晴らしい状況を与えられても、常に不満を見つける生き物であろう?」
「……うん。不満こそが、改善したいという気持ちを煽り、文化を発達させてきたと思う」
「模範回答だな、アティーファ」
 フォイスは父親らしく優しく笑って、瞳を愛娘に向ける。
「橋が開通したことによって、人々はザノスヴィアへと赴くことが容易になった。とはいっても、国境を越えるには検問で検査を受けねば成らん。検査する人員の問題もあるから、一日で済まぬことも多い。こうなれば人は苛立ち、苛立ちはまわりとのいざこざを呼ぶ。どうにかしろ、あれはおかしい、あいつを罰しろと、訴えがこなかった日が今までにあるか?」
「ない、と思う」
「そうだ。それなのに陳情は途絶えている。石橋アポロスに異常なしと伝える知らせは届いている。二つの違いは一体なんだ?」
「知らせの違い。えっと……それは、国が定めたものと、民が届けろと依頼していたものの違いかな?」
 自信がなさそうに答えるアティーファの頭を、フォイスは思いきりよく撫でた。兄代わりを勤める二人の公子も、どこか満足そうな顔をしている。
「――父上?」
「正解だ、アティーファ。もたらされた苦情を陳情として皇国に届ける任務は、正式に決められたものではない。ゆえに規定に記されてもおらんのだ。外から赴任してきた者がいれば、驚くであろうよ。これはここの風習なのか?とな」
「……風習」
「決められたものは正常に行われ、人々が自発的に行っていたものは絶えた。アトゥール、お前が気になったのはこれだけではあるまい? もう一つ程度はあるだろう」
 意味深な言葉を向けられて、アトゥールは浅く顎を引く。
「一日ですが、正規の連絡も途切れています。翌日には通常通り復旧しました。誰も訝しまなかったようですが、私には気になります。風習が途切れているのですから、なおさらに」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。父上、アトゥール。カチェイまで、なんだか分かった顔をして。私だけが分かってないなんて! 考えるから、ちょっと待って」
 必死に考える皇女を、大人たちは微笑ましげに見守る。
 大人達が異変がありと判断し、なおかつザノスヴィアが関与すると答えを出すに至った情報は、全てアティーファにも与えられているはずだった。
 レキスからの報告。絶えた連絡。ザノスヴィア王国とエイデガルを分けるエウリス川と、石橋アポロス。寄せられなくなった苦情。一日絶えた正式の連絡。
 情報を何度も反芻して、アティーファはふと引っかかりを感じた。アトゥールが目を細め、そっと助け舟を出す。
「途切れた狼煙も、明日には復活するだろうよ。そして伝えるだろうね。――異常なしと」
「狼煙を上げるのは定期連絡で、正式に決まっている行為。――あっ! レキスを商人が出た形跡は!?」
 アティーファが目を輝かせる。父のフォイスは、不敵な笑みと共に肯いた。
「旅行者・商人の往来は、何日前からかは分かっておらんが、ここ二三日は確実に途絶えている。手紙のほうも同じだな」
「……途絶えた往来。それに」
 ふと考え込んでアティーファは眉を寄せた。
 奇妙な動きを見せる隣国ザノスヴィア。王直属の親衛隊は謎の出撃を繰り返して、どこぞかで確かに白兵戦を行っている。稚拙な外交戦によってエイデガルに訪れた王女は、王族でありながら、何故か王族ではないと思わせる雰囲気を持つ。こちらも奇妙だ。
「人の往来がないということは、アポロスやレキス公国が遮断・閉鎖された状態であることを示している? しかもただ閉ざされただけじゃなくて、なんらかの支配下に置かれた可能性が高い」
「であろうな。しかも支配下においた存在の指示によって、行うべきと決められている報告などはこちらに発信されている。異変はレキスだけでなく、ザノスヴィアでも発生している可能性はあるだろう。ザノスヴィア王女の様子は奇妙さが残る上、いくらなんでもあの外交のやりかたは稚拙に過ぎる」
「父上も、マルチナがどこか変だって思っていたんだ!」
 驚いて目を丸くしたアティーファのおでこを、軽く父親は苦笑と共にはじいた。
「こらこら、そこに気付かないほどに父親が馬鹿だと思っていたのか?」
「そうじゃない。ただ、私が思ったことは変じゃなかったんだって安心したんだ」
 ぷうと柔らかそうな頬をふくらませる。フォイスは快さげに笑った後、突然に厳しい表情になった。
「援助を求めたレキスには早急に対処する。今回は正確に事態を把握したアティーファの顔をたてて、お前を派遣することにしよう。カチェイ、アトゥール、アデル・ティオス公国の騎士団は動けるな?」
「すでに準備は整えております」
 冷静に答えるティオス公子アトゥールに、フォイスはニヤリと笑った。
「なるほど。それですぐにここに向かってこなかったわけだな。それにしても、レキスが手遅れになっておらねば良いが」
 懸念に目を細めながら、フォイスはレキスの美しき公都を思いだしていた。


 皇王フォイスが思いだすように、レキス公都は花の溢れる美しい都であった。平穏の証明のように、街路は全て石畳か白砂がしきつめられて平らとなり、往来する人々の乗りものは静かに進む。
 花の都レキス。
 麗しき都を、一人高い塔の上から女が見下ろしていた。レキス公国の守護をなす天馬を奉ずるこの塔の最上部には、入り口が重い鉄扉で閉ざされた小さな部屋が作られている。窓には防水加工が施された重い緞帳がかけられて、風雨を防いでいた。
 小さいながらにも、それなりの機能を持っている。携帯食料や水の入った瓶も蓄えられていた。天馬に感謝をつたえるべく、公族が一月はこもる部屋であるので、それも当然だ。
 緞帳をもちあげて見下ろした遠い大地は、一見美しいが、それは細部が判別出来ないからだと娘は知っていた。
「何故、こんなことにっ!!」
 吐き捨てた声には、激しさと共にまだ稚なさが残っていた。
 小部屋にたてこもっているこの娘が、エイデガル皇国に助けを請うた張本人、ダルチェ・ハイル・レキスだ。
 長い銀髪を二つにわけて編み下げているダルチェの横顔には、少女めいた硬質さがある。彼女は五公国で最も若き公王として即位した人物だが、彼女自身は当初それを拒絶していた。
 彼女の性格は激しく、苛烈だった。その上感情が激すると、歯止めがきかずに暴走することが多々ある。そんな性格の持ち主が公王位につくなど許されぬと、彼女は思っていたのだ。
 思いつめたダルチェは、皇王フォイスに直訴した。「我、公王の器にあらず」と。
 ダルチェの訴えを認めたエイデガル皇王は、レキス公王位を二人で勤めるようにと命じた。その相手こそが、彼女が永遠の伴侶にと選んだ男、ガルテ公国の第二公子グラディールだ。
 グラディールはダルチェとは正反対の性格を保持している。性格はきわめて優しく穏やかで、過激な判断をなによりも嫌う男だった。おそらくグラディールが一人で”公王位”につくことがあれば、一月で国は滅びると、有能な彼の兄セイラスは談じている。
 一人ずつでは未熟な二人が、二人揃って完全となった。上手く行っていること事態を不思議がられる二人は、互いを補いあって幸せに生きて来た。
 ――幸せだったのだ。
 ダルチェとグラディールの公王夫妻も、彼等に導かれる公国の民も。
 けれど今、塔にたてこもるダルチェの目前には、幸せの欠片も転がっていない。塔の上からは見えない細部で、建物が破壊され、人が殺され、打ち捨てられているのを知っている!
「なんで、なんでこんなことになっているのよ!」
 幸せが壊れた日は、呆れるほどに美しい青空が広がる昼下がりだった。
 前触れは一つもなかった。
 ふいに民が徒党を組んで街道を歩いているという報告が飛び込んで、首を傾げたのだ。人々が集まるような特別な行事が行われる日ではない。確認しようと手近な物見台に寄って、ダルチェとグラディールは息を飲んだ。
 距離が遠い為に、二人が確認できなかった最初の異変は、目に現れていた。そこは白くにごり、まるで死んだ魚のようになっていたのだ。二人がまず理解したのは、人々がふらふらと道を歩んでいることだった。
 おぼつかない足取りで歩む者の幾人かが横転し、進み行く人の群れが一箇所崩れた。倒れた者を救う手はなく、立ち止まる者さえいない。
「嫌っ!」
 ダルチェが悲鳴を上げた。視線の先で、人が倒れた者を踏みつけていく。一人、二人、十人。数えきれぬ数の者達が、人の背を、足を、腕を、胸を、顔を、容赦なく踏みつけて、壊して行く!
 白き石畳を塗りつぶすのは、赤黒い血と肉片と内臓の破片。
 ――滑稽に映るほどに凶悪な光景だった。
 城外でおきた異変は、瞬く間に被害を拡大し、対処の為に天馬騎士団と合流しようとした公王夫妻を襲った。辿りついた騎士団の駐屯地で、にごった目をした騎士団の抜いた白刃のきらめきが待ち構えていたのだ。
 苛烈すぎる妻と、優しすぎる夫は、性質の違いゆえに袂がわかれた。
 グラディールは向かってくる騎士団員に憐れを覚えて戦いを放棄し、ダルチェは陳腐な同情で戦いを放棄することなど考えず、二振りの短刀を構えて向かい来る人々の群れを突破する。
 慣れた城内をどう走ったのか、ダルチェは最後に天馬を奉じる塔にたどり着き、小部屋の重い鉄扉を閉ざした。
 ダルチェは待っていた。
 この部屋で飼っていた隼に書状と天馬宝珠を託し、エイデガル皇国からの援助がくるのを。この異常な事態には、人を操る魔力者が関わっていると、ダルチェは確信していた。
 まだ若い公妃を取り巻くのは闇。
 瞳をにごらせて迫り来る者達から、戦いを放棄して操られる者となり果てたグラディールから、逃れて彼女は孤独に待つ。
 そのダルチェを闇が見つめていた。
 燦燦と輝く太陽の真下でもなお、深い闇が彼女のこもる塔を見上げている。

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