暁がきらめく場所
NO.03 魔力者
笑い事ではありません! よりによって……っ
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「おやおや」
 のんびりと相槌をうつと、フォイスは腕を組んだ。
 実は彼は、最初からザノスヴィア使節団が姫君を伴っていることを知っていた。平時であろうが戦時であろうが、国を左右するのは情報の有無と考える皇王は、情報収拾に余念がない。
 大国エイデガルを治めるフォイス・アーティ・エイデガルは、早くに妃を失い、子供は妻の忘れ形見のアティーファだけだった。
 各国は争って王族の娘をエイデガル正妃の地位へと画策したが、ことごとく失敗に終わっている。
 ゆえにザノスヴィアが姫を伴った時点で、性懲りもなく正妃の地位を狙っていると想像するのはたやすかった。ただフォイスが気にしたのは、全てを断ってきた男を相手にどう交渉をしてくるかだったのだ。
「まさかアティーファが皇子ではないかと言い出すとはな」
 フォイスの独り言に聞き耳を立てていた使者は、また嫌らしい笑みを浮かべてみせる。
 ――幼稚に過ぎる。
 楽しくもないとため息をついて、フォイスは首を振った。
 エイデガル皇国の後継者たるアティーファは、ザノスヴィアの使者が主張するとおり、外国の使節団に顔を出すのを好まない。特別な理由があったほうがましだが、実際は公式の場に出ればアデル・ティオスの公子に格式ばった態度を取られるので、毛嫌いしているのだ。
 我侭な娘だとかるく笑って、フォイスはさてと考えた。
 リィスアーダとアティーファを対面させれば、全ては簡単に終わることになる。だがこんな子供のような外交を仕掛けてきた相手には、それなりの対応をするのが良かろうと考えたところで、フォイスはふっと視線を流した。
 謁見の間の左側にある扉の奥に気配がある。
 誰もいないはずだがと首をかしげたところで、思い当たることに一つ気づいて苦笑した。――どうやら自分の我侭娘が、こっそりと聞き耳を立てているらしい。
 父が察したとおり、アティーファは今、必死に笑いをこらえていた。おかしくて仕方なくて、声を殺すのにかなり苦労している。
 幼馴染みの側近候補は、皇女とは異なり本気で憤慨していた。
「笑い事ではありません! よりによってアティーファ様を男ではないか、などと言ってくるなど! 失礼すぎます!」
「で、でもさ、これは可笑しいよリーレン! 私のことを色々と言って来るのは沢山いるけど、男じゃないかって疑われたのは初めてだから。国民が期待して想像している美少女には程遠いけど、女だってのは変わらないのにっ」
 息が苦しいといいながら、お腹を押さえてアティーファは笑っている。リーレンは心底不満そうに唇を尖らせた。
「アティーファ様はっ!! かわ……えっと……あの、その……」
 可愛いし綺麗ですと続けようとしたのだが、途中で勢いが失速して立ち消えてしまう。アティーファは不思議そうに首をかしげ、幼馴染みの顔を覗き込んだ。
「どうした、リーレン?」
 近づいた顔がリーレンにはまぶしすぎて真っ赤になる。
 同じ部屋に忍んでいたアトゥールは、純粋なリーレンに苦笑しながらも、さりげなくアティーファの容姿を誉めた。続けて流れるように振り向く。
「力チェイ、エミナ」
「え!?」
 突然飛び出した名前に、アティーファはぎくりとした。
 こっそり部屋から抜け出して、侍女のエミナを困らせたことを思い出したのだ。逃げ場を求めてリーレンの背に張りついた皇女に、侍女は声を飛ばす。
「皇女! どうしてそんなに部屋から脱走を計るのが好きなのですか! その度に心配する私達の身にもなって下さい!」
「ご……ごめんなさい」
 しゅんと項垂れて、高貴な少女は謝る。エミナは溜息をついた。
「本当にもう。叱るとすぐに可愛らしくなってしまわれるんだから。おかげで私は皇女を叱れないんです。なんて罪なお方でしょう」
「私は、罪なのか?」
「ええ。私が存じているだけでも、皇女が罪なお方であるが為に、最低で四人、お側から離れられなくなった人間を知っておりますわ」
「ええ? 誰のこと?」
「秘密です。ご自分で考えてくださいね」
 エミナはにっこりと笑って、皇女以外の三人に意味深な視線を送った。年長組はくすくす笑い、リーレンの頬はさらに赤みを増す。
「それで一体、何をしていらっしゃるのですか? 私はカチェイ公子に呼ばれて来ただけなので、事情が把握できていないのですけれど」
「ちょっとね。ザノスヴィアの使者が変なことを言ってて。……そうだ!」
 きらきらとアティーファは目を輝かせる。
「思いついたっ! エミナ、手伝って欲しいのだけれど、いい?」
「皇女のお願いを私が断るわけもありませんが。一体何を?」
 全員を手招いて、アティーファは耳打ちをした。全員呆気にとられ、顔を見合わせた後に笑いが起きる。
 謁見室で隣室に意識を向けていた皇王フォイスは、突然聞こえてきた微かな笑い声に、首を傾いでいた。



 エイデガル皇国に従う五つの公国は、他国との国境沿いと皇国の天領地に挟まれる位置に存在している。そのうちの一つがレキス公国で、エイデガル皇国より二百年ばかり古い歴史を持つザノスヴィア王国と隣接してた。
 レキス公国とザノスヴィア王国は、エウリスという川によって隔てられている。
 死者を誘う黒き翼を持つ古代の神エウリスの名前を関するこの川は、度重なる氾濫を繰り返し、上流から運ばれてくる肥沃な土を代償に、何万という人々が命を落とし続けてきた。
 エウリスは、豊かさと破滅を同時にもたらす恐ろしい川なのだ。
 この川の氾濫を深刻に受け止めたエイデガル皇国は、十年という年月をかけて、大掛かりな治水工事を行った。河を渡す巨大な石橋をも完成させ、アポロスと名付けている。
 当然、橋の所有と運営権はエイデガル皇国が保持している。
 けれどこれにザノスヴィア王国が噛み付いた。橋の半分はザノスヴィア王国の領地にあるのだから、貸料として食料と武器を寄越せと請求してきたのだ。
 治水工事を行う前に、エイデガルは周辺の土地を正式にザノスヴィアから買い取っている。にも関わらず売買契約は無効であり、依然として土地は自分たちのものだと主張している。
 大国エイデガルは、ザノスヴィアの申し立てを戯言と一蹴した。
 けれど突然、他国がザノスヴィア支持の態度を表明したのだ。これは皇国の力の肥大を恐れてのことだったが、これに当時の皇王でフォイスの母である慈母王マリアーナは激怒した。
 彼女の意思に従い、皇国および五公国は完全に戦時体制に突入し、ザノスヴィアを支持するならば、一戦構えるのを辞さずとの文書を送りつけている。
 結局、皇国と事を構える気概ある国は存在しなかった。
 ザノスヴィアとの関係悪化と、隣国でありながら事態を静観していたエイヴェルとフェアナ両国との親交が深まっただけで終わったのだ。
 それでも慈母王マリアーナは、戯言を口にしてまで食料を手に入れる必要のあるザノスヴィアの状況を憂えた。調査を行い、越冬の度に多くの民が餓死か凍死をしているという事実を知り、援助物資を送るようになったのだ。
 ザノスヴィア王国は、これをアポロスの賃貸料か単なる捧げ物だと考えている。だからこそ、貰って当然という態度をとり続けて今にいたるのだ。
 愛娘のアティーファが憤慨して爆発する前から、この状況はそろそろ解決せねばならんだろうとフォイスは考えていた。
 野卑たザノスヴィアの使者を見ていると、その気持ちはさらに強くなっていく。
「使者殿の要求は不思議なものが多すぎて困るよ。不思議はザノスヴィアの国芸であったようだな」
 思わず肩をすくめたところで、フォイスは入室を希望する涼しい声を聞き取って顔をあげた。誰の声だと一瞬いぶかったが、すぐに気づいて軽く笑う。
 使者が不愉快そうにし、衛兵はうやうやしく扉を開いた。
「ようこそおいで下さいました」
 華やかでありながら、それでいて鋭さを秘める声が響く。
「ザノスヴィア王国の一の姫、リィスアーダ・マルチナ・イル・ザノスヴィア王女殿下。エイデガル皇国の第一皇位継承権を保持する、アティーファ・レシル・エイデガルと申します」
 厚い靴底の軍靴を高らかに響かせ、アティーファは奥へと歩を進めてくる。
 長い亜麻色の髪を短髪に見えるように工夫している。衣服は男性用の軍服で、肩から純白の布地をゆったりと留めて流していた。
 凛々しい立ち振る舞いと相まって、今の彼女はまるで少年だった。
「男装趣味をお持ちでいらっしゃるのか!?」
 頓狂な使者の声を受け流して、アティーファは父王にめくばせをすると、素早くリィスアーダ姫の細い手を取った。
「天が与えたもうた恩恵であられる姫君が、わたくしとの結婚を望まれるとは光栄の至りと存じます。しかも流石は英名の誉れ高いノイル陛下! わたくしを皇子とお認めになられた上での話し、アティーファ、いたく感動いたしました。この婚儀、わたくしは喜んでお受けいたしましょう!」
 反論させない早さで言いきると、アティーファはリィスアーダの手を引いて走りだす。
「え?」と、流石に驚いたのかリィスアーダが声をあげた。だがそれに言葉は続かず、彼女もまた走りだす。
 二人を飲み込んで、扉は閉まる。
 完全に閉まったことを確認すると、アティーファは悪戯っ子のように笑い出した。廊下の奥に自分の侍女を見つけて手を振る。
「エミナ、見ていた?」
「ええ。とても素敵でいらっしゃいました。公子方とリーレン様は、先に蒼水庭園に行かれました」
「先に?」
「ええ。皇女の大切な婚約者様をお迎えするのに、落ち度があってはならないとおっしゃって」
「確かにそうかもしれない」
 真面目に肯くと、アティーファは手を引く王女に瞳を向けた。
 虚ろな人形のようだった彼女の瞳が、どこか不思議そうに周囲を見やっている。
「蒼水庭園は、私が生まれた時に作られたものなんだ。小さな邸宅と、温室があるだけだけど。蒼水庭園は私室の意味合いも持ってるから、誰かが勝手に入ることは出来ない。――リィスアーダ姫をそこに案内してもいいいかな?」
「マルチナと……」
「え?」
「私のこと、マルチナと呼んでください」
 婉然とした笑みと共に、マルチナと呼んで欲しいと請う王女がアティーファを見つめる。潤みを帯びた瞳と、赤い唇は、男であれば生唾を呑みこみそうな艶麗さだった。
「マルチナ姫って呼べばいい?」
「呼びすてで」
「――? 分かった。じゃあ、私のこともアティーファと呼んで」
 こくりと肯いたマルチナに、アティーファは性的な魅力には乏しいが健康的な笑みを向ける。それから再び王女の手を取ると、気遣うようにゆっくりと歩き出した。
 エミナも静かに二人に従う。
 謁見の間に入ることは許されずに外で控えているザノスヴィア使者団の面々が、ゆっくりと連れ立って歩くアティーファとマルチナを見つけて顔をあげていた。
 本当に皇子だったのかと驚く声や、あんな子供に麗しいリィスアーダ姫を奪われて良いものかと憤慨する声も聞こえて、こっそりアティーファは息を付く。
「エミナ、マルチナは随分と人気者なんだな」
「そのようですわね。けれど、王家の姫君に向けるべきではない感情も渦巻いているようで、わたしは眉をひそめたくなります」
 姫君をこの手に抱くことが出来るのならば、国が滅んでも構わない!などと言い募る声まであるのだ。
「そうだね。マルチナは物じゃないのに、なんだか勝手なことばっかり言ってるみたいで腹が立つよ。マルチナ、疲れているのではない?」
「え?」
 熱におかされているような瞳を、ふっとマルチナが持ち上げる。
 別段変わった様子でもないのだが、アティーファは軽く首を傾げた。人形のようだったマルチナが、先ほどから少しずつ意思を見せているような気がするのだ。
 見つめられて、マルチナは首をかしげる。慌ててアティーファは手を振った。
「ううん、ごめん、なんでもない。早く蒼水庭園に行って、一緒にお茶を飲もうよ」
「ええ」
 柔らかにマルチナが答える。
 ようやく見えてきた蒼水庭園の前でリーレンを見つけて、皇女は元気良く手を振った。
 
 
 
 二人の姫君が颯爽と姿を消した謁見の間では、使者が興奮しきった声を飛ばしていた。
「我が姫は、妻にと望む声が非常に高い珠玉の姫君。現王妃の第一子である姫君です。皇太子殿下との婚儀をとお願い申し上げましたが、同性を妻に迎える趣向をお持ちの方に嫁がせる為に参ったわけではございません! 姫は各国の笑い者にされ、まともな婚姻をあげることも不可能となりましょう!」
 人前には出れぬ理由があるのではと考えていた皇女が、リィスアーダを妻に迎えると発言したことを間に受けて、使者は意気揚揚とフォイスに詰め寄っている。
「さて、困ったものだな」
「困るのは私どものほうでございます。皇王陛下、責任を取って、リィスアーダ姫をめとられることを要求いたします」
「要求される筋合いも、取るべき責任も見つけることが出来ぬ。一体どうするべきか」
「なにをおっしゃられますか!?」
「エイデガル皇国の次期皇王は、アティーファであり、女皇王になるということはすでに明言しておるゆえな。だというのに、貴国は娘を男だと決めつけ、姫との婚儀を申し込んできた。それだけでも失礼きわまりないというのに、娘を同性を愛する趣向の持ち主だと勝手に決めつけてくる」
「事実は変えられるものではありますまい?」
 さらに勇ましく使者は声を張り上げる。フォイスは初めて不快を顔に現しつつ、軽く手をうって書記官を呼んだ。
 機敏な声がすぐに上がり、アティーファらが潜んでいた部屋とは逆に位置する場所から、書記官が姿を現す。
「今すぐ公式な文書の作成の準備を」
「かしこまりました。して、内容は?」
「ザノスヴィア王国が、娘であることが分かりきっているアティーファに対し、女同士の婚姻を強引に要求。リィスアーダ姫の体面を守る為に一芝居をうったアティーファの行動を異常と決めつけ、エイデガル皇妃の座を与えるようにと脅迫してきた、とな」
「なっ! いきなり何を!!」
 不当なと叫ぼうとした使者を、皇王は睨む。
「残念ながら、我等の意見を各国は受け止めるであろうよ! 貴国の人間の前にアティーファは姿を出したことがない。だが良い付きあいを続けておるエイヴェルとフェアナ両国の人間の前には、幾度も顔を見せているのだからな。アティーファを男だなどと疑うのは、貴国だけであろうよ!」
 鋭い糾弾に使者は目を白黒させる。フォイスはたたみかけた。
「このような文書を流されたくなければ、リィスアーダ姫が我が国に行儀見習いに来たと発表するのだな。さすれば当方も発表を控える」
 一方的に要求を付きつけ、フォイスは謁見の間から颯爽と立ち去った。行儀見習いにしろと言われて、使者は真っ青になっている。
 他国に姫を行儀見習いに出すというのは、王族を人質に出したことになるのだ。
 姫を伴って逃げ帰るべきだと気付いたが、リィスアーダは彼が入れない場所に移動してしまっていた。



 蒼水庭園の前でアティーファを迎えたリーレンは、二人の姫君の前でほっとした表情を浮かべていた。
「アティーファ様、ご無事ですか?」
「別に危険があるようなことをしに行ったわけじゃないんだから、大丈夫だよ。それよりもリーレン、紹介する。私の妻になるマルチナだよ」
 悪戯っぽく紹介すると、アティーファはマルチナを前に出す。
 ザノスヴィア王女は挨拶をしようと、唇を開いた。朱を含んだような唇が開かれていく様子はあまりに甘やかで、男の背筋に戦慄を走らせる。
 遅れて外に出てきたカチェイが、マルチナを見てぎょっとした。まるで何かから逃げるように目をそらす。
 マルチナは男が自分にどういう欲望を抱くのかを知っていた。
 カチェイの反応に目を細め、それからそっとリーレンを見やる。
「――え?」
 衝撃。
 ――この男性は、自分を見てもなにも変わらない。
 自覚した瞬間、まだどこかぼんやりと拡散していたマルチナの意識が一気に覚醒を果たした。その激しさに、一瞬自分が置かれている状況が分からなくなって混乱する。
「マルチナ? 大丈夫?」
「……え? 私、は……。貴方、は?」
 動揺するマルチナの声を聞いて、アティーファは理解した。
 人形のようだったマルチナと、今の彼女は違う。
「私は、エイデガル皇国のアティーファ。一緒にいるのが侍女のエミナで、目の前に立っているのは私の幼馴染みのリーレン。奥にいる二人は私の兄みたいなもので、背の高いほうがアデル公子のカチェイで、髪の長いほうがティオス公子のアトゥールだ」
 一人一人の名前と、マルチナが何故エイデガル皇国にいるかを説明する。
「私が、アティーファと結婚するために?」
「正確に言うと、父上と結婚するためだったんだろうけれど。――マルチナ、何も覚えてないの?」
「ええ。なにか……今までずっと、なにかに従っていたような気がして。でも、何があったのかが……それだけじゃない、私、は?」
 細い指で額を押さえる。
 苦しげに寄せられる柳眉さえもが、男を誘っているように見えてしまう。
「とにかく、立っていらっしゃるのもお疲れになるでしょう。アティーファ様、マルチナ姫を中に」
「うん。そうだな。マルチナ、歩ける?」
「ええ。――ねえ、アティーファ」
「なに?」
 視線を持ち上げて、マルチナはリーレンを見やった。リーレンは心配そうな表情を崩さぬまま、大丈夫ですか、と問いかけてくる。
 マルチナが見たことがない表情だった。
 男であれば、それが誰であれ、マルチナに野卑た興味しか示しはしない。目の前の男から感じる暖かな心配は、ひどく新鮮だった。
「名前を、もう一度聞きたいの」
「え? ああ、リーレンの?」
「リーレンとおっしゃるのね」
「うん。そうだ、リーレン。マルチナを中に案内してあげて。私は凛毅(りんき)を呼んでくるから」
 くるりと軽やかに身を返して走りだしたアティーファを、カチェイとアトゥールの二人の公子が追った。エミナはお茶をいれますと言って、先に蒼水庭園の中に入っていく。
 二人きりになっても、リーレンの様子に変化はなかった。ゆっくりと手をマルチナに差し出す。
「ご案内いたします。マルチナ姫こちらに」
「貴方は……」
「どうかなさいましたか? そうだ、先に一つうかがいたいのですが、よろしいでしょうか?」
「私が答えられることならば」
「しばらくエイデガル皇国に逗留頂きたいのです。この蒼水庭園に。よろしいでしょうか?」
「それは……別に」
 問題ない、と口にしようとして、マルチナは小さい悲鳴をあげる。細い指で額を押さえ、頭痛を耐えているような表情を浮かべた。
「マルチナ姫!?」
 焦りを宿した、優しいリーレンの声。
 エイデガル皇国の滞在を拒絶せねばならないと、何故か強く思ってしまう”自分の中に響く声”を振り払って、彼女は手を伸ばした。
 差し伸べられたままだったリーレンの手に、マルチナの手が重なる。
「変わらない。貴方は、変わらないのね」
「――え?」
「残ります。問題はありません、エイデガル皇国に滞在することに」
 はっきりと口にした瞬間、先程とは比べ物にならぬほどの頭痛がマルチナを襲ったが、彼女は言葉を翻そうとはしなかった。
 目の前に、ごく普通の眼差しで自分自身を見る者がいる。その衝動が、今のマルチナを支えていた。

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