秘めた焔 [後]
[前頁]目次

 テッドがかつて共に戦った、希望の炎をともしつづけた少年がそうであったように。
 ユアンは、目の前の弱者を捨て置くことなど出来ないのだ。
 すぐさま走り出し、落下する少女の体の下に、ユアン自身の体を緩衝材とするように滑り込ませる。いくら軽くとも、加速のついた体は、とんでもない衝撃をユアンに与えた。
 肋骨をやられたんではないか、と思えるほどに。激痛と同時に、みしり、と嫌な軋みを体から感じる。それでも少女を気遣おうと体を起こそうとして、ユアンは親友の声を聞いた。
「ユアンっ!」
 戦場で放たれる声というのは、こういうものだろうか。
 名前を呼ばれただけだというのに、ユアンは響きの中に含まれた意思を全て理解する。
 懸念と、心配と。――逃げろ、と命じられている。
「テッド!?」
 なんとか体を持ち上げかけた、その横をテッドが駆け抜けていった。
 すべるように矢筒から三本もの矢を抜き取り、続けざまにそれを放ってみせる。
 一本は、前をゆく仲間を二人も横転させられたことに憤って、速度を上げた馬の目を。
 一本は、怒りに震える声を上げながら、立ち上がりかけた男の肩に。
 最後の一本は、走り出そうとしたユアンのつま先の、指一本先に。
「テッド!?」
「ユアンッ! その子をつれて、逃げろ。まだ日は高いんだ、助けを呼んでこい!」
「な、そんなこと、出来るわけないだろっ! なんて僕だけが逃げるんだよ!」
「こんなところで喧嘩してる暇なんてないんだろ! 第一、その子はどうするんだよっ。二人だけで、あいつらに勝つ気でいるのか!?」
 叫びながらも、テッドは恐ろしいほど正確に矢を放っていく。
 彼の弓が正確無比であることを、ユアンは知っている。それと同時に、彼の親友がそれほどの持久力は持たぬことも、痛いほどに知っていた。
 ここで逃げるのが、最善だとわかっている。
 けれど、ユアンにはそれを決断できなかった。転がってしまった棒に手を伸ばし、少女をそっと横たえて、そのまま走り出す。
「勝つしかないだろ!」
 叫ぶと同時に、テッドに背後から襲いかかろうとしていた男の胸をつきあげた。
「な、この、バカ!!」
 叫ぶテッドの目が見開かれる。
 親友の武器は弓で、とてもではないが背中合わせで戦うには適していない。むしろ自分が盾となって敵をくいとめ、背後からの援護を受けるのが最適だったはず。
 ――もう少し冷静だったら。
 ――あの子を助けたいから、手を貸してくれといえれば。
 この状況は変わったのだろうか?
 そんなコトを考えながら、向かってくる相手を牽制する。
「ユアン、動くな!」
 疲れをにじませた声が、ユアンの耳に届く。
 ああ、もう消耗がはげしいんだ、そんなことをやけに冷静に考えながら、ユアンは押し込まれた剣を棒で受けた。
 二人の男が押し込んでくる剣は、とんでもない重さと痺れを与えてくる。
「く、うっ!」
 奥歯を食いしばって耐える。その背後で、ユアンが稼いだ時間をおしむように、テッドが弓を構えたのが見えた。
 突撃してくる、残った馬上の二騎のたてる、無常な音だけが聴覚を支配した。
「ま、ける、か!」
 叫ぶと同時に、ただ受けるだけだった棒にこめた力を一瞬抜いた。バランスを崩して、前に倒れこんできた男たちの、見開いた目を確認すると同時に、ユアンは前に踏み込む。がら空きの腹部めがけて、器用に棒を回転させて突きこんだ。
 ぐ、と。嫌な音を喉からこぼして、二人の男が地面に伏せる。
 それと同時に、引き絞った弓を、テッドは勢いよくはなった。
 ひょう、と。まるで風が嘆くかのような音をたてる。
 矢は吸い込まれるように、駆け込んでくる二頭の馬の頭を貫いていった。
 どっ、と。凄まじい音をたてて、人馬が横転する。
「やった!」
 すでに二人は倒し、厄介な騎馬は排除できた。これでなんとかなるかもしれない、そう思って声を上げて振り向いた、ユアンの視界に真紅の色彩が入ってくる。
 ――赤だ。
 血の、赤?
「テッド?」
「……悪ぃ」
 ぽつり、と呟くと同時に、テッドの手から弓が落ちる。
 そのまま、がくん、と膝が崩れたのをユアンはやけにはっきりと見つめていた。
 ――敵は、そう、五人だったのだ。
 二人はユアンが倒し、二つの人馬は転がっている。けれど、あと一人は?
「テッド!!」
 叫ぶと同時に、両手を伸ばす。
 突撃してくる敵を正確にほふるために、テッドは全ての意識をそちらに集中させていた。
 それはようするに、周囲には無防備になる、ということだ。防御をユアンに託すということだ。
(なのに、僕は、なんで!!)
 頭の中が真っ白になる。倒れこんでくる親友を受け止めた手が、じっとりと濡れていく。命が消えていく、ぬくもりを持った液体が流れていくのだ。
 目の前に、怒りに燃えた男の顔があった。
 手にした剣は、絵の具をぶちまけたような赤に染められている。
(テッドの、血だ)
 このまま死んでしまうのか、とか。自分も死ぬのだろうか、とか。
 なにか色々と考えた気もする。けれど、男が親友の血に濡れた剣を振り上げた瞬間、ユアンは何も考えられなくなっていた。



 少年が、ついに、手にしていた棒を落とした。
 男たちは、そして、呆然とする。
 たった一人。先につぶしたのではないほうの、まだ少しあどけなさの残る少年の、死力を尽くした戦う様子に。
 そしてもたらされた被害の大きさに。
 馬は全てやられて、使い物にならなくなってしまった。
 まだ日が高いこともあって、戦っている最中に幾人かの旅人らしき人間たちが、悲鳴を上げて逃げていくのも見た。
 ――赤月帝国の兵士は、すぐにでもくるだろう。
「どうすりゃいいんだ」
 ぽつり、と呟いたのは、最初に棒を持った少年に馬をつぶされた男だ。
 暇つぶしにさらってきた少女が原因だったとは、さすがに思ってもいないのだろう。
「とにかく、早く去るしかないだろう。その前に、こいつらの」
「とどめを刺しておこうって?」
 声がした。
 男たちの誰のものでもない、全く別人の声。
 どこかまだ声変わり前の、あどけなささえ感じさせる、響き。――けれど。
「な、んだ?」
 男たちの本能が、なぜか逃げろ、と言っている。
 ぎちぎちに体は固まって、全員、おそるおそる声の方向を見やった。

 
 少年がたっていた。
 いや、少年の形をした、おそろしい魔力のかたまりがたっていたというべきか。
 両手をだらりとおろし、彼はまっすぐにたっている。体を覆うのは、ひどく清らかな水の気配と、おそるべき攻撃力をひめた雷の気配だ。
 茶色の髪が風に揺れている。伏せられたまなざしが、いまどんな色をしているのかは伺いしれない。――けれど、激しすぎるほどの怒りを宿していることだけはわかる。
「な、んだ、てめぇ」
 二つの紋章の気配。
 そんなものは、この時代に存在するはずがないのだ。
 ――なのに。存在するはずの無いものが、ここに、ある。
 かつて、今よりもずっと、紋章を活用していた時代にしか、ありえなかった複数の紋章を宿す事実が!
 ふわり、と。風が強く吹いた。
 俯き加減だった少年の額をそれがさらっていく。それと同時に、少年は左手をゆっくりと持ち上げた。
 額にくっきりと浮かび上がる、雷鳴の紋章。
 左手に浮かぶのは、流水の紋章。
 ――そこらの人間では、一生お目にかかることもないだろう、上位紋章だ。
「ひっ!」
 一人が悲鳴を上げた。
 少年は冷たい目をしたまま、一歩、足を踏み出す。
「別に、お前たちがやることなんて、俺には関係ない。けどな」
 歌うような声に、少年は底知れぬ怒りを宿す。
「そいつを殺そうとした。だから俺は、お前たちを許さない」
 

 それっきり、男たちはなにも覚えていなかった。
 命まではとられなかったものの、恐怖と、あまりの激痛とに、事実を認識しきれなくなったのかもしれない。
 呻き声をあげる男たちを横目に、少年――テッドはゆっくりと歩いて、意識のないユアンの隣に膝をついた。
 そろりと左手を伸ばして、静かに紋章の力を発動させる。
「もっと早くに気でも失ってくれたらよかったんだけどなあ」
 少しだけ、困ったような声。
「ぼろぼろになっちまって。やられたフリしつづけるのも、なんか辛かったぞ」
 だって目の前で、この能力を晒すわけにはいかない。
 ユアンが怒るとおり、テッドは彼に隠していることが山ほどある。
 類まれな魔力も、戦闘力も、全て隠して生きているのだ。
 望めば、すさまじい破壊も癒しももたらすことが出来る魔力も。
 長時間戦い続けることが出来る体力も。
 今はただ、彼が右手に宿す紋章を封じるために使い続けねばならなかったから。やたらめったに使うわけには、いかないという理由もあったけれど。
 ぺたん、とテッドはそのまま座り込んだ。
「もう、そろそろ、限界だろうなあ」
 成長しない体の言い訳もできない。
 ユアンは自分の中にひそむ矛盾をうすうす気づいたのか、ひどく辛そうな顔をするようになっている。
「俺はさ、お前には知られたくないって思うんだ。ユアンと一緒にいるとさ、運命を背負う前の自分を思い出せる。こうだったんじゃないかって、思えるから」
 ごめんなと、呟く。
 今は誰もいない。
 ユアンが意識を取り戻すのも、まだ先だ。
 瞳いっぱいに涙があふれてくる。血に汚れてしまったユアンの顔がどこかぼやけて、まるで自分が小さな子供に戻ったような気分になる。
「ごめん、ごめんな、ユアン。俺はきっと、もうすぐ消えなくちゃならない。この紋章を背負っても、強く生きていけるようにはなったけど。ソウルイーターに、お前を喰らわせることなんて出来ないよ」
 とんでもなく、悲しかった。
 あと少ししか、きっと一緒にいられないだろう、現実が。
「でも、俺は後悔してない」
 お前に会えたことは、俺にとって幸せだったから。
 そう呟いて、テッドはぐいと涙をぬぐった。
 流水の紋章の力は、ぼろぼろになったユアンの体を確実に癒していく。もう少ししたら目を覚ますだろうから、気を失ったフリをまたしなくてはならないだろう。
 立ちあがったところで、ソウルイーターの意思を感じた。
 ソレを抑えるテッドの魔力が減少したことで、ぞろりと鎌首をもたげてくる。
「まだだ」
 ぽつんと、呟いた。


 150年前。
 テッドは紋章と時の呪縛にとらわれて、闇の中でうずくまっている子供だった。
 光を見つめることも、光を求めることも出来ずに。ただただ、耐えるだけの。
『……テッドッ』
 彼の名前を呼んで、彼の手をとって。
 絶望から引き上げて、希望となって、光を与えた少年に出会うまでは。
 彼が与えた希望の光は、今はテッドの中でもえあがる焔になっている。
 だから、今。
 テッドがあこがれた少年とまったく同じ強さで。
 彼自身も笑うのだ。
 やがてくる、別離を知りながら。魂をきられるほどの喪失を知りながら。
 テッドは今、笑っている。


[完]


[前頁]目次