秘めた焔 [上]
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坊ちゃん=ユアンです

「ねえ、グレミオ。たまには気軽に、町の外に出かけたいな」
 椅子に深く腰掛けた状態で、食事を待っていた少年は足をぶらぶらと揺らせた。グレミオは両手でシチュー鍋を持ったまま振り向いて「坊ちゃん?」と不思議そうな声を上げる。
「だって出かけるっていったら、いつも大人数になるじゃないか。たまには、気軽に出かけてみたいところだよ」
「そんなことをおっしゃって。いいですか」
 きゅっと眉を寄せて、グレミオはシチュー鍋をそっとテーブルの上に置く。そのまま隣の椅子を軽く引いて座り、少年――赤月帝国を支える六将軍の一人、テオ・マクドールの一人息子であるユアンの目をじっと見つめる。
 けれどグレミオが声を出すよりも早く、ユアンは軽く両手をあげた。
「グレミオが言いたいことなんてわかってるよ。その頬の傷を毎日見てるんだ、わかるに決まってる」
「これは、坊ちゃんが気になさる必要なんて」
「気にする、気にしないの問題じゃないんだ。僕は狙われるに充分な”理由”を持っている人間だってことは知っておくべきだからね」
 まだ幼い頃、ユアンは赤月帝国に恨みを抱く者たちに誘拐されたことがある。グレミオの両頬に刻まれた傷跡はそのときに受けたもので、まだ子供だった彼は、それを見て震えると同時に、グレミオの与えてくれる愛情の深さにわんわんと泣いたものだった。
「でもさ、グレミオ。僕はもう小さな子供じゃないんだ」
「それは、まあ、そうですね」
「もう少ししたら、出仕するだろう?」
「ええ。坊ちゃんはさぞかし立派な将軍になるでしょうね。目に浮かぶようですよ」
「グレミオ、妄想はいいから、今は現実の話。だいたい出仕したばかりの頃なんて、帝国軍人の下っ端だよ? その下っ端がさ、お供がいなくちゃグレッグミンスターから一歩も出られないなんて変だと思わない?」
「坊ちゃんは下っ端などではありませんよ!」
「僕はね、グレミオ。父さんの七光りで偉くなろうなんて思わないんだ。だから最初は下っ端じゃないと困るくらいだ」
「坊ちゃん……」
 じーんと感動している様子をありありと見せて、グレミオは感極まった顔をする。
(いまだっ!)
 ユアンは悟られぬように拳をにぎって、唐突ににっこりと笑って見せた。
「やっぱり情けないよね。与えらるだろう任務を、即座にこなせないなんて」
「そうですね。テオ・マクドールの一人息子が、一人ではなにも出来ないというのは、マズイかもしれません。けれど」
 坊ちゃんは情けない貴族の子弟とは違いますよ、といいかけてグレミオは口を閉じる。ユアンが微笑を浮かべたまま、いきなり身を乗り出してきたのだ。
「人間何事も経験が大事ってところだよね。というわけで、明日でかけることにしたよ」
「は?」
「お弁当はもちろんいらないから。だって弁当持参で軍務につく人間なんて、どうかと思うからね。出かける時間や活動時間を判断するのも重要なことだろう? というわけだから」
 かたん、とわずかな音をたててユアンはテーブルを背にした。
「あ、でもそのシチューは夕飯に食べるから、持っていけるようにしてくれると嬉しいよ。やってくれるよね、グレミオ」
「え? ええ? あの、坊ちゃん」
「グレミオが僕を信用してくれてすごく嬉しいよ。あ、もちろんグレミオだったら、僕に経験が必要だって考えてくれるって信じてたけどね」
 じゃあちょっと用意しようと言ってユアンは部屋へと駆け上がって行った。あ、気をつけて、と条件反射のように言って見送ってから、グレミオは眉をよせる。
「えっと、ということは、テオ様がクレオさんとパーンさんと出かけていて。残っているのは私だけで。よろしく頼むぞ、といわれていて。……で? 坊ちゃんは自分の力で出かけられるようにならなくてはとおっしゃって。ようするに」
 がく、とグレミオは机に突っ伏した。
 だまされたーとうめき声をあげる。
 なんのことはない、彼がわが子のように思っている少年は、よりによって自分の許可を得た状態で、町の外に出かけようというわけだった。



「というわけなんだ、テッド」
 夜のお茶でも飲もうかと思ったところで響いたけたたましい音に、テッドは飛び上がっていた。あわてて駆けて扉をあけ、そこに見慣れた笑顔を見つけて肩を落とす。
「はい、お土産」
 当たり前のような顔をして、テッドの親友であるユアンは手にしたものを差し出してくる。
「これ、グレミオさんのシチュー?」
「夕飯用のね。もらってきたんだ」
 グレミオのシチュー好物だろ?と言って、許可も得ずに家主の体を軽く押して中に入ってしまう。
「おいっ!」
「なに?」
 あくびれもせずにユアンは笑って、首をねじってテッドを見やった。
「なに?じゃないよ。勝手にやってきて、勝手に入るか? 普通」
「普通だったらしないよ。でもほら、僕とテッドの仲なわけだし。それとも」
 悪戯っぽい表情になって歩を進め、ユアンはわざと背をかがめて下から親友の顔を覗き込んだ。無駄に自信にあふれた表情に、テッドはうっと声を詰まらせる。
「今日は帰らないから、と言って出かけてきた僕をテッドは追い返す?」
「……そりゃ追い返せるわけないだろ。お前、そうなったら、野宿する気だろうが」
「だって恥ずかしいじゃないか、帰らないっていったのにのこのこ帰ったら!」
 からりと笑って、ユアンは質素なテーブルにおかれた椅子に座り込んだ。
 テッドの家には、必要最低限度のものしか存在していない。椅子さえ最初はなくて、少年の命令で無理矢理運び込んだほどだった。
『だって遊びに来て、椅子もないなんて嫌じゃないか!』
 無邪気さを装って笑って言ったとき、テッドがひどく複雑な表情をしたことを覚えている。
(テッドはいつだって、物を増やそうとしない)
 ユアンにしてみれば、テッドはただ一人の親友だった。
 どうやれば、自分が彼のことをどれだけ大切に思うかを、言葉にできるのかさえ分からないほど。
 身分なんて気にしないと口ではいうくせに、本当に気にしていない人間なんてほとんどいなかった。ユアンをあるがままに受け入れ、気にせずに接してくるのは、町から町をゆく旅人たちくらいのものだった。
 サーカスの一座であったり、探求をつづける知識人たちだったり。
(テッドだって、まるで旅人だ)
 いつだって旅立てるように。いつだって立ち去れるように。――痕跡を残さぬために、身につけられるものしか彼は持とうとしない。
 テッドが自分を大事な親友だと思ってくれるのは知っているし、訪れれば喜んでくれるのも知っている。けれどテッドが自分のそばを離れていく、という恐ろしい想像は、いつもユアンを苦しめていた。
「どうした?」
 不思議そうな声がかかる。
 ドア付近で物思うような表情をしていたはずのテッドが、気づけば反対側のテーブルについている。やかんを手にして、いつの間にやらいれてくれた茶を、カップに注いでくれているところだった。
「ううん、なんでもないよ。それでね、テッド」
「ん?」
「明日、町の外に出かけようよ」
「出かけようって。お前、簡単に言うけどさ。グレミオさんたちになんていうんだ?」
「甘いなあ、テッド。グレミオの許可はもう取ったよ」
「許可を取った? へえ、珍しい。あの人、過保護だからなあ。出かけるんだったら、自分も絶対に同行する!って言うと思ったけど」
「言うよねえ、普通だったら。だから言わせないようにしたんだ」
 にっと笑ってみせる。テッドはあきれたように口をつけていたカップを離し、まじまじと顔を見つめてきた。
「お前ってさあ、時々思うんだけど」
「かっこいい?」
「いや、それはそうなんだろうけど。詐欺師っていうか……いや、きっとお前、いいリーダーになるよ」
「リーダー? テッド、僕はなるとしたら将軍だよ」
「帝国六将軍?」
「そう。で、テッドを片腕にするんだ」
「俺をー? むちゃくちゃ言うなよ、そんなの無理に決まってる」
 

 テッドはそういって、目を伏せた。
 時々それは彼がみせる顔だ。
 あきらめている顔ではない。あきらめる顔だったらまだましだったろう。
 粗末な家の外につるされた、縄が風に揺れる音がする。
 はたはた。はたはた。
 まるでそれは、この家主の魂そのものを揺らしているようで。
 腹が立った。
 親友はいつだって、なにかに晒されて、なにかの矢面にたっている。
 自分の知らない、自分に知らされることのない、なにかひどく。
 重く、冷たく、非情で、冷酷な、ものに。
 けれど彼はあきらめた顔をしない。
 あきらめずに、ただ達観した顔をしている。――少しだけ希望を残した顔で達観し続ける、顔だ。
 僕の、知らない、顔。



「無理じゃない」
 きっぱりと言って、伸び上がってテッドの肩をつかんだ。親友は面食らうと同時に少し悲しげな目をして、やっとといった様子で「なにが」と答えてくる。
「特権ってものがあるんだよ、テッド。僕がちゃんと偉くなりさえすれば、テッドを副官にするなんて簡単だね」
「へえへえ。で、俺はお前に敬語で話すわけだ。マクドール将軍、なにかご命令はございませんか?とね」
「やだなあ、そんなの。でもさ、テッドってリーダー相手にだって敬語じゃ話さないと思うな」
「俺はそんなに礼儀のない奴かよ」
「そうじゃないよ。でもさ、テッドはきっと気に入った相手のためじゃなければ力を貸してくれないと思うんだよね。しかもリーダーそのものを気に入らないと、貸してくれないんだろうなあ」
 くすりと笑ってみせると、テッドは不思議な表情を浮かべた。
(また、あの顔)
 テッドは時々、本人は気づいてないのだろうが、誰かを思い出す顔をするのだ。
 そんな時はいつだって、ひどく優しい目をする。
 正直、腹が立ってしまったので、ユアンは親友の頬を両手でつねった。
「あ、あのなぁ」
「テッドって時々、誰かのことを思い出してるだろ」
「一体、なんの話をしてるんだか」
「いーや、絶対に思い出してる。全く失礼だなぁ、僕がここにいるってのに。で、誰? あ、もしかしてテッド、好きな子でもできた?」
「いないよ、そんなもん。それにな、好きな女の子を作るなら、お前が作っとけよ」
 テッドは少年の胸を押して、笑うそぶりをして少し俯く。ユアンの死角に入ったところで、少し目を細めた。


 ――思い出すのは、ただ一つだ。
『テッド、一緒に行こう』
 150年前に出会った少年。
 とてつもない闇も紋章を背負わされながらも、彼はいつだって全ての者たちの希望だった。
 定めに屈するどころか、定めさえも利用して、彼の守りたいものを守りきってみせた少年。最後にかわした会話は、今なおあせることなく胸の中にある。
『きっと生きることは出来るよ、テッドなら』
 ソウルイーターの定めに押しつぶされる寸前だった自分を、彼は生き抜くことで救ってしまった。いや違う。彼そこにあるだけで、人が心の中にしまいこんだ希望に火をつけるのだ。
 だから、ついていった。
 彼の光にひかれるようにして。――ならば。

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