4主=イストです
「嵐がくるね」
珍しく甲板に出てきた軍師は、赤茶の長い髪を風に揺らせながら、低く呟いた。
頭上にきらめくのは暖かな太陽の日差し。鍛錬にはげむカールの低い気合の声が聞こえている、いつもと全く変わらぬ光景だ。
エレノアに手を引かれ、不思議そうな顔をしていた年若い軍主は首をかしげた。
「嵐? この風の流れでですか?」
「ああ、間違いないよ。このあたりは奇妙な海域でね。唐突に嵐がくるんだ」
ふっと言葉を切り、エレノアは目を細めて己が主とさだめた少年――イストを見やる。
「おそろしいほどに突然にくるのが特徴でね。残念ながら、オベルの船乗りたちはこのあたりに詳しくはないから知らないんだろう。まあ、あたしも詳しく知ってるわけじゃないけどね」
風に揺れていたエレノアの髪が、突然にふわりと彼女の肩に落ちる。にっと不穏な笑みを浮かべて、軍師はおなじく背に落ちてきたイストの赤いバンダナを見やった。
「嵐の直前には、いきなり風が停止するそうだよ」
イストは目を見張った。
エレノアはきびすを返し、あとは好きにしな、といわんばかりの態度だ。
それを見送って、イストは迷わずに声を張り上げていた。
彼は軍師の弟子であるアグネスや、信奉者であるターニャとは違った意味で、エレノアを信じている。――エレノアは、彼が請うて軍師にまねいた人物なのだ。彼女を信じずに、誰を信じろというのか。
軽快な足音をさせて、イストは甲板を走って声を張り上げた。
「ニコッ!! 乗組員たちに、嵐への警戒命令をッ!!」
「え!? イスト様、嵐って!?」
見張り台からニコが体を乗り出してくる。「悪い、説明する暇はないんだ!」と返し、イストはそのままマストに飛びついた。風を失って力を失った帆を、あげるために。
「イストッ!」
凛とした声が下から響いて、ケネスとタルが同じように上って来ていることを知る。
二人ならば説明は不要だ。眼下をみやれば、ポーラとジュエルが嵐に対応するべく甲板上の人々に声をかけているのが見える。嵐のただなか、甲板での作業が行える人間は少ない。先に退避させねば被害は拡大する一方だ。
(間に合うか?)
ケネスとタルの力を借りて、息もぴたりと帆をあげる。そのまま二人をおいて、イストは甲板に戻った。
「キカさんっ! 嵐がきます、キカさんの船の人たちにも命令をっ!」
「心得ている。すでに命令は流してある。オベルとガイエンの船には伝わっているか?」
「ニコがやってくれているはずです」
「ならば問題あるまい。――嵐がくると、エレノアが言ったのだな?」
「そうです。だから来ます。たぶん、すぐにも……っ!」
うなずいて、目を上げた瞬間。
突如凄まじい音が大海原に響き渡った。
銅鑼の音のようにと評するべきか、それともはらわたをゆすり上げるような衝撃といえばいいのか。先ほどまで晴れていたはずの空が、急速に暗く厚い雲に覆われると同時に、雷を叩き落してきている!
目もくらむ閃光に、一瞬視力を失った。
両手で目をかばい、イストは奥歯をぎりとかみ締める。
「甲板で作業する人間は、近くの柱にロープで体を縛り付けろっ! この嵐、普通じゃない!」
叫ぶと同時に、イストは船の中へ戻るべく走り出した。突然に修羅場とかした甲板を後にするのは胸が裂かれるようだったが、戻って聞かねばならない人がいる。
キカの毅然とした声が、「ここは任せろ」といった。
振り返れば、生きながら伝説となるほどの女海賊は、雷撃と同時にたたきつけてきた雨に長い髪をしとどに濡らしながら、見事に笑ってみせる。
その強い笑顔が、少年の背を押した。
(変だ、変だろ、この嵐はっ!)
甲板を洗う海水が、すでに船の中に入り始めている。
雷と雨と同時に、暴風までもが訪れて、巨大な船の横腹を殴りつけているのがよくわかった。
嵐の際に最も恐ろしいのは、連れ立って走る船同士の衝突だった。キカの指示によって彼女の船は巨大船とは距離をとり、ガイエンとオベルの船も同じくしている。――こういうときに頼りになるのは、長年の経験をもつ船乗りたちの対応だった。
中に入り込む水は、船を重くし、沈没へと導く。
すでに海水をかきだす作業が、海面に近い第五甲板のあたりで始まっているだろう。
ずしん、と揺れを感じた。バランスを崩しかけてイストは立ち止まり、壁に手をそえて眉をよせる。
「変だ」
たしかにエレノアは気候をよむ。
けれどそれは雲や風や星の動きを観察した上で読むわけなので、長年の経験を持つ船乗りたちも、同じようなことを進言してくることが多い。
(でも、今回は。誰もなにも言わなかった。それどころか)
雨が当分降らねぇらしいから、水を補給しにどっか陸地によるか、と。今朝方、リノに言われたばかりだったのだ。
血相をかえて走るイストの視界の先に、とんでもない雷撃を受けて浸水をはじめた箇所の修理の指揮をとっていたリノが入る。「リノさんっ!」と声を上げ、走りながら続けて「エレノアさんは部屋にいますか!?」と聞いた。
人を指揮するとき、リノは上に立つ者としての輝きを放つ。破壊された箇所の補修は、命がけの作業になるのだが、彼に指揮された人々は迷わずにそれを行うのだ。
海に投げ出され、知恵も力も、なんの意味も持たなくなる海に、放りだされることさえ覚悟する。
ぞくり、とイストの肌があわ立つ。
海の恐ろしさを、遭難の恐ろしさを、彼は身にしみて知っている。
「エレノアだったら、さっき怖い顔して部屋に入っていったぞ」
「わかった。あとですぐに俺もいくから、リノさんしばらく頼みます!」
「任せておけよ。こんなときはフレアも役立つ。あまり無理はするな」
「ええ!」
言葉短く答えて、イストはさらに走った。サロンでは修理に奔走させるわけにはいかない者たちが、ルイーズの元に集められている。ラクジーやナレオは怯える人々を必死に励ましている様子だった。
誰もが、自分に出来ることを必死に行っている。
だからイストはこの船に集まる人々が好きだった。
何人かが彼に気づいたようで、声をなげてくる。それにひらりと手をふることで答えて、イストはそのまま扉を開けた。おざなりにノックをしてから、すぐにエレノアの部屋に入る。
「あたしはまだ許可しちゃいないよ」
「緊急事態ですから。エレノアさん、何を知っているんですか?」
「何をって、何を知ってると思うんだい」
唇の端だけで笑うようにして、エレノアは椅子に腰掛けたまま足を組む。
くい、と顎で前の椅子をしめされて、イストは素直に従った。
「まず第一に、これは通常の気候変化じゃありませんよね」
「なんでそう思ったんだい?」
「俺のところに、今日は天候が荒れるかもしれないって、誰も言いに来ませんでしたから」
「なるほどねぇ。まあ、そりゃそうか。あたし以外にも、経験ってやつで気候をよむやつがごまんといるからね。この船には。で、それだけかい?」
「エレノアさんが俺を試した、かなと」
イストは海の色を宿した瞳をすっと細める。間違いようのない怒りをそこに感じ取って、エレノアはわずかに肩をすくめた。
「なんであたしが、あんたを試す?」
「自分の力を託すにふさわしいのか。人が死んでいく責任を背負って、策を献じるにふさわしいのか。エレノアさんは時々、知りたがる顔をするから。俺は、あなたの策でなければ命をかける気になんてなれないのに」
「……まいったね」
はあ、と一つため息を落とす。それから珍しく消えそうな声で「悪かったよ」と呟き、エレノアは顔を上げた。
「この近くの海でね、昔沈没事故があったんだよ」
「沈没事故?」
「珍しい話じゃないって顔だね。そりゃあそうさ。ただ一つだけ違うことがある」
目を細めた瞬間、今まで以上に大きな横揺れが船を襲った。
バランスを崩したエレノアをとっさに庇う。二人、重なったまま壁にたたきつけられた。
方々で、人の悲鳴が聞こえる気がする。それと同時に、傷ついた人々を救わんとする紋章の波動も確かに感じた。
――時間はあまりない。
「なにが沈没したんですか!!」
「……紋章砲をうつための、核さ。あれがなんなのかはウォーロックしかしらない、人の手から離れた正真正銘の”核”が、時々こうやって嵐を呼ぶんだよ!」
そろりとイストから離れ、壁に手をついてエレノアは立つ。
「紋章砲!? ……だったら」
「待ちな! あんた、まさかそれを使うつもりじゃないだろうね」
「ほかに方法はあるんですか?」
「やれやれ。なければ使うってところだね」
だから言いたくなかったんだよ、とエレノアは言って渋面になる。この軍師が、彼女自身の手におえない事態を嫌うことを、イストはすでに知っていた。
(エレノアさんは優しいから)
認めないだろうが、彼女は全てを救いたいと常に願っているのだ。だからこそ出た犠牲は己のせいだと考えるので、想定外の出来事を嫌う。
「俺は使いますよ。だから、もしなにか手があるなら教えてください」
「人使いのあらい子だね」
「でもエレノアさんが選んだのは俺でしょ?」
イストはからりと笑って、そっと目を細めた。
エレノアはひどく眩しそうな表情をした。少年が見せるこの表情は、いつだって心に傷をおった者達に春の日差しのように舞い降りてくる。それでも感傷にひたるわけにはいかないので、エレノアは振り払うように首を振った。
「一つだけ。ただし、危険は伴うよ」
「危険を覚悟しないで、なにかをしようとは思ってません」
「わかった。いいかい、沈んだのはあくまで試作品だ。以前にウォーロックに聞いたよ。アレにぶちあたったらどうすればいい?とね」
紋章砲を生み出したことを後悔する老紋章使いは、紋章砲について一つも語ろうとはしない。けれど暴走するソレの対処方法をほかでもないエレノアから尋ねられれば、沈黙を守ることは出来なかったらしい。
「嵐を起こすということはね、力を使っているということに他ならない。だから紋章砲の核がある場所を正確に把握して、そこに直接すさまじい威力を持つ紋章を放ってやればいいそうだよ」
「すさまじい威力の?」
無意識に、イストは左手を持ち上げる。エレノアははっきりと不愉快な顔をした。
「それは駄目だ。他にいるだろ、この船には。生粋の紋章の使い手たちがね。それとも」
どん、と。エレノアは拳をつくって、イストの胸をたたく。
「あんたは全ての危険は自分が背負うべきだとでも考えるのかい?」
「まさか。そんなに傲慢じゃありませんよ。ただ普通、まず最初に自分にその力があるだろうかって考えるものじゃないですか?」
「まあ、そうだろうね」
「罰の紋章を使うのは、最後です。それが、俺のために力を貸してくれる人たちにたいする、礼儀だと思っているから。それまではどんなに辛くても、使うのを我慢しますよ」
はっきりと言い切ると、イストは強く頷いた。
この強さは目がくらむほどのまっすぐさが支えている。エレノアは太陽を直接見上げてしまったような気にさせられて「やれやれ」と呟くと同時に、羊皮紙を一枚取り出した。
「この荒れ具合と、風の動きから判断したよ。核は、この海域からは少し離れたところにある」
この島だね、とエレノアの指が地図の一点を示した。
「島? 船は沈んだんじゃなかったんですか?」
「沈んださ。ただその”核”は、船に取り付けられていたわけじゃないんでね。おそらくは波に運ばれたんだろうさ。そしてそこから、自分が沈んだあたりの海域を見つめているわけさ」
「見てるって、それじゃあまるで意思を持つかのようですね」
「持つかもしれないだろう? 真の紋章が意思をもつようにね」
さらりと言い切ると、エレノアは凄まじい揺れの中、壁をつたいながら外に出る。イストもあわてて外に出て、軍師に手をかした。
「どこへ?」
「あんたは行くんだろ」
「行きます」
「だったら、テレポート娘にあたしが説明をしなくちゃならない。なにせあの娘は、あんたが行った事のある場所にだけ飛ばすからね。だがあんたは行ったことがない。あたしは行ったことがある」
「い、一体、いつ行ってたんですか」
イストのびっくりした顔を見て、エレノアはくつくつと笑う。
「軍師ってのはね、どんなヤツでも好奇心の塊なのさ。アグネスとターニャもついてきたよ」
「知らなかった。俺も連れて行ってくれればよかったのに」
「ふん、次回からは考えておくことにしよう。その代わり、あの二人の騒ぎをあんたが止めてくれるんならね」
「……精進します」
ぺこりと頭を下げる。そのまま壁に何度もぶつかりながら、階段を下りる。
ビッキーは蒼白な顔色をして、鏡の前で座り込んで目を閉じていた。
彼女の持つ杖は紋章発動による光をともし続けていた。そうやって意識を船内に向け、海に落ちた乗組員たちを察知すると同時に、テレポートさせて船に戻しているのだ。
それがどんなに負荷の高いものなのか、想像するだけでも体が震える。