優しさの温度 [下]
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「えっ?」
 驚いたターニャ以上に、口走った言葉に驚いたテッドが、口に焼き菓子をくわえたまま目を見開いた。あまりに驚きすぎて、無表情が崩れて素の表情が表に出ている。
 ターニャは、ポンッと手を叩いた。
「幼い顔もするのね、なんだちゃんと子どもだわ」
「っ! 俺はッ!!」
「反論もしてくれるし。なんだか嬉しいわね」
 ターニャのペースに巻き込まれつづけて、ただただテッドは目を白黒させる。
「ねえ、テッドさんは本はお好き?」
「嫌いじゃない」
 ――人を、命を、無残にソウルイーターに喰らわせまいとするテッドは、いつだって人から逃げて暮らしている。それでも人の生活の全てから離れることが出来ずに、彼はよく本を手にしたのだ。
(俺には、絶対に出来ないことばかりだから)
 やってみたことが、本の中には沢山あった。
 たとえば。
 怒られるのを承知で悪戯をするとか。
 お弁当を片手に、いけるところまでいってみるとか。
 当たり前のように「またな」と言ってみるとか。
 ――友達を、作るとか。
 全ては本の中にあった。だからそれを読むとき、あまりのまぶしさに、自分もソレを体験したような気持ちで胸をこがしたことが何度もある。
 だから、テッドは、本が好きだった。
 ――なのに、俺はここにいる。
(この呪われた紋章が、誰かを喰うのか? また、俺が人を殺すのか?)
 背筋に走った氷のような予感に、テッドの血液が音をたてて下がった。
 早くに去らねば殺してしまうとまで感じられて、立ちあがりかけたテッドに、ター二ャはただ静かに言った。
「私はね、いつか人間は真の紋章の定めを、打ち破りうると思っているわ」
 今まで以上に脈略のない、けれど思考の海に沈みかけたテッドを引き上げるに充分な力を持つ発言だった。ゆっくりと視線をむければ、おくすることなくターニャは受け止める。
「私たちはこうやって生きているでしょう? 私たちはね、生まれる記憶を、記し、残し、知ることが出来るわ。――続く記憶だって、永遠の命だと思わない?」
 ター二ャの手がテッドの左手を握りしめる。まるで彼が背負う宿命に似た紋章が、右手にあることを知っているかのように。
「記憶は命と共に広がっていくわ。刻と共に、すごす日々の重みと共に、今日にない力を明日生むの。だからいつか、私たちはきっと勝つわ」
「紋章に、勝つ……」
「そうよ。罰の紋章に、きっと私たちのリーダーは勝つでしょう。それだって、語り継がれてきた記憶を、思いを、力に変えていっているに違いないんだわ」
 ターニャは一冊の本を手に取る。
 そしてそれを、ひどく愛しそうに、手でなでた。
「真の紋章を宿す者の殆どが、不老になるのは、待つためなんだと思う」
「待つ?」
「そうよ。紋章だって、開放されたいのではないかしら。それぞれが背負う世界を担う役割を、力を、定めを。まがまがしいだけの紋章など、本当は存在しないのでしょう? 罰の紋章は、いつか許しへと変わると聞くわ。だから、貴方の」
「どの紋章も、いつか変容する、と?」
 震えるような声で、テッドは尋ねた。
 ターニャはただ淡く笑って、本当に小さく肯く。
 巨大船に乗って、ターニャはテッドのことをいろいろな人から聞いたのだろう。人を避けていること、死にたくなければ近寄るなということ、不穏な紋章を右手に宿していること。本人は納得していないが、リーダーである少年との間に、たしかに絆めいたものを持っていること。
 様々な情報をまとめて、ターニャは気づいたのだ。――彼の手にも、呪われた真の紋章があるのだと。
「いつか、ね。……私、特別に、この戦いのことを本にまとめようかしらって思っているの」
「なぜ?」
「記録は残るでしょう? いつか貴方が……」
 気の遠くなるような時の果てに。
 いつかテッドが、再び希望をなくして、さまよいかけた時に。
 ――置いて行く人間として。
 ――時を越える人のために、それを。
「私たちとすごしたこの”時間”が、たしかにあったのだと証明するものを、残したいの。だから、どこかでそれを見かけたら。ねえ、持っていて欲しいの」
「あんた、面白いよ」
「そう?」
「あいつが、生き延びるって信じきってるだろ。それは俺のためだけじゃなくって、時の放浪者になるだろう、あいつの為でもあるんだろう?」
「ふふ、そうね。そうかもしれないわ。だって、後世にのこるのが、ミッキーさんの薔薇の騎士だけだったら、最悪でしょう?」
「それは、まあ、そうだね」
 ほんのすこし、テッドは笑った。
 ターニャはいたく満足そうに肯いて、「さて」と言って立ちあがる。
「貴方の忠告を無視して、貴方を不必要に悲しませることはしたくないわ。これからも、テッドさん的に、これくらいなら大丈夫って思う範囲でお話してくれると嬉しいわ」
「……」
 肯定も、否定も出来ずに、テッドはただ黙る。
 それでも、拒絶されなかったことに満足して、ターニャはひらりと扉へと向かった。
「さて、このあたりでバトンタッチするわね」
 かたりと音をたてて、ターニャは扉をあけた。
 罰の紋章の保持者が、ノックしようとした形で、固まっている。
「お前っ! い、いつからっ」
 座りこんだまま、テッドがぎょっとした顔になる。いや、ついさっきさと答えた二人を交互にみつめ、ひらりとかわしてターニャは部屋の外に出た。
「あとはよろしく。あとね、テッドさんは怪我してるみたいよ」
 さらりと言って、扉をしめてしまう。
「い、いらんことをーーっ!」
 テッドは頭を抱え込む。
「やっぱり。さっきの揺れでなにかあったんじゃ、って思ってたよ。元気だったなら、率先して防ぐために力を使うかうさ、テッドは」
 無理をして部屋に隠れてるんじゃと思ったけどいなかったから、心配したと言って彼はあぐらを組んで座りこむ。
「俺にかまうな」
「いやだ。それに、俺はいいんだ。俺はその紋章に喰われたりはしないんだから。いい加減さ、俺だけだったら許せよ」
 ほら、と言って彼はテッドのひどく捻った足に手を伸ばす。すでに赤くはれあがっているソレに眉を寄せ「応急手当てはするけど、ちゃんとユウ先生に見てもらえよ」と声をきつくした。
 テッドは肩をすくめ、真の紋章保持者を睨む。
「嫌だ」
「じゃ、アルドに言っちゃおうかな」
「――っ! そ、それ、それだけはなし!!」
「そう言うと思った。じゃ、もうちょっとして船内が落ち着いたら、一緒にいこうな。肩、貸すからさ」
「……お前、なんでそんなに俺に優しくするんだよ」
「俺はさ、テッドのことを友達だって思ってるから。テッドは違うっていうけど、俺はそう思っているんだ。だからそれだけ」
 訓練生の時に習ったのか。手際よく応急処置をして行く少年の手元を見つめながら、テッドは小さく頭を振った。
「俺は、お前のことを友達だって思ってない」
「うん、知ってる」
「俺は弱いから。きっと、友達なんてものが出来たら、立つことも出来なくなるに違いないんだ。お前があの船にくるまで、俺は逃げてたから。お前みたいに……」
 ぎゅっと、拳が握られる。
「応急処置は終わりな」と言って、青い目をした少年は顔をあげ、そっと手をのばして途方にくれた顔をしているテッドの頭に右手をおいてなでた。
「……俺が、とっても年上だって、お前は知ってるだろ?」
「知ってるよ」
「その手はなんだよ」
「テッド、人はやっぱり精神年齢だよ」
「なんだってぇ!?」
 暗に子供っぽいと言われていることに気づいて、テッドがめずらしく声の調子をかえる。それがまるで、彼が必死に隠している素の顔を見せてもらえたようで、少年は嬉しくて笑った。
「俺だって、ずっと弟分扱いだったから。弟って欲しかったんだよ」
「だから、俺はっ!」
「知ってるよ。でも、テッドは時々俺よりずっと子供に見えるのも確かだ。テッドは弱くなんてない。ずっと辛い目にあってきたのに、それでも命を愛しいと思えるのは、強さだよ」
 真正面から、彼は、テッドに言う。
「テッドは俺と違って弱いって言うけど。俺だって弱いよ? だって、俺は一人だったら逃げてただろうから。テッドはずっと一人だったのに、耐えてきた。ずっと、ずっと。誰かを巻き込まないために。だから」
 いったん、彼は言葉を切る。
 そして、青い目を細めて、彼は笑った。
「俺はテッドが気になる。一人にしたくないって思う。なぜって? 簡単だよ、俺が一人は嫌な人間だから。負けず嫌いでもあるから、テッドにも負けて欲しくないって思う」
 いつか一緒に、紋章の呪いにだって勝とうな、と彼は言った。
 ――一緒に。
 その言葉がどうにも胸に響いてしまって、わきあがってくるものをこらえる事が出来ない。頭をなでてきた手がテッドの肩にまだあるので、変に逃げることも出来ずに。
「お前、動くなよっ!」
 乱暴に言って、テッドは彼の肩に軽く額をつけた。
 ――泣けない子供が、涙は落とさずに、けれど泣いている。
「仲間、だよ」
 ぽつりと、テッドが言う。
「友達じゃなくて、お前は俺の仲間だ。世界でたった一人の」
「テッド?」
「生きろよ、俺も生きるから。まだ無理だけど、もう少ししたら。お前みたいに、生きれるようになりたいって、思うかもしれない」
 海に落ちる雨のように。
 しずかに、言葉が、胸に落ちてくる。
 罰の紋章の保持者である少年はうなずいて、ぽんぽんとテッドの背を軽くたたいて。
「たとえ距離は一緒じゃなくてもさ、そう願う気持ちはいつも一緒にいよう。だから一緒に」
 
 
「生きていくんだ」
 そう、言った。
 
 
 ターニャは実際に、群島でおきた戦いの事実を、歴史書としてまとめたという。いくつかまとめた本の中には、私感が多く入りすぎたものがあり、四流の資料だと酷評されているものもあった。
 その本を。
 かつて、手に取った少年がいる。
 時をこえる度に、物質は疲弊してちりとなっていく。だから少年は、みずから本を書き写して、持ち歩いていた。
「ねえ、テッド。君がもってるその本って、なんなのさ?」
 緑色のバンダナをした親友が、ふてくされた顔でテッドに言う。
 ペンを片手に、もう癖になった書き写す作業をしていたテッドは、顔を上げて窓に視線を投げた。
 一緒に住むことは出来ないし、長い時を共にすごすのも無理ではあるけれど。今のテッドは、数年はソウルイーターを御せるようになっている。
 前向きに。――彼のように、生きたいと願った。
 そう思った、150年前の記憶が、テッドに希望を与えたから、今があるのだ。そっと本を閉じて、彼は窓から部屋に入ってこようとしている親友の側による。
「内緒だな」
「テッドのけち。僕には一生のお願い!とかいって、なんでも聞くくせに」
 ぶーぶーと口で言っている。
 テッドはひらひらと手をふって、用意してくると言って、部屋をあとにした。残された少年は、そっと視線をテッドが書き写している本にむける。
「ひどく愛しそうな、目をするんだもんなあ」
 彼は、親友の過去をひとつも知らない。
 時々、ひどく辛そうな目をする理由も、苦しそうにする理由も、なにかに怯えている目をする理由も、知らないのだ。
 ――だから、知りたいと思ったのだ。
 彼がただ一つ、大事にしている、その本がなんなのかを。
 テッドの側には、たしかに彼を守る記憶がある。――守りたいと願う人にの思いが力となって共にある。
 
 
『一緒に生きような』

 
 先に駆けだしていった親友をおって、家を出た所でテッドは足をとめた。
 少し目を伏せて。
「いつか、また、会えるといいよな」
 小さく、笑った。

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