優しさの温度[上]
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 この船は。
 なぜだかひどく暖かい。
 そして当たり前のように。
 ここは優しさに満ちていた。

 
 夜の闇を切り裂いて、強い横風が突然に吹く。
 まったく海というのは気まぐれなものだ。
 肺腑をゆすりあげる振動に、生粋の海の民の生まれではないテッドは目をまわした。確かなものを求めてあわてて壁に手を伸ばしたが、触れる直前に船は大きくかしぐ。
 まずい!思ったときには、すでに派手に転がされていた。
 真の紋章を持つといえど、肉体が特別に頑丈になるわけでも、頑健になるわけでもない。
 壁に激突して、覚悟した以上の衝撃が来た。
 息が詰まる。
「ぐっ!!」
 肺に流れ込む空気が圧迫されて、胸がつぶされるように痛かった。続けてそれが突然に回復したせいで、激しくせきこんで胸を抑える。
 船が再び、波に囚われる気配を感じた。
 とにかくなにかにつかまらないと、と動こうとして、足首に走った激痛に力が抜けた。へなへなとうずくまってしまった所で、再び巨大な波の力を感じる。
(まずいっ!)
 危険をわかってはいたが、どうしようも出来ずに目をつぶる。
(夜の闇にまぎれれば、甲板にでてもいいだろうなんて、考えるんじゃなかった!)
 今更、後悔してもはじまらない。
 なるべく身体を縮めた瞬間、強い紋章の力の発動を感じた。
(ジーンと、ウォーロックと……マキシンと……)
 間違いない。巨大なゆれに気づいた紋章使いたちが、それぞれがもつ魔力を集中させて、嵐の力を分散させたのだ。
(俺にも、手助けできたことなのにな)
 たとえ離れていたとしても、魔力に距離はそう関係はない。知られぬようにサポートするくらい、普段のテッドならば容易なことだったはず。
 しん、と。巨大船に、平穏がもどった。
 変わりにどこかざわついた、人の気配があふれ始めるのを感じる。おそらくは眠っていた人々も目を覚まして、被害状況の確認や応急処置、けが人の救出に動いているはずだ。
(多分、あいつは先頭にたっているんだろう)
 27の真の紋章の一つ。ソウルイーターと同じく魂喰いを行う罰の紋章。
 彼は何時だって人々の中心にいて、ごく自然に笑うのだ。幸せそうに、楽しそうに。たとえ命を喰われようとも、それによって得られる”今”が大事なのだから、問題はないのだと言わんばかりに。
「あいつが、くるかもしれない」
(はやく、部屋に戻ろう)
 気が焦った。
 ひねった足の状態はかなり悪い。骨がやられなかっただけ、マシだと思うべきだ。
(右足はしばらく引きずるな。どうやって、戦闘を断れば……)
 怪我をしたから休ませてくれ、とは言えない。
 そんなことを言えば、やたらと世話をやいてくるアルドが、つきっきりで看病する!と言い張るだろう。罰の紋章保持者は笑って、全員でサポートするよと言うはずだ。
(ここは、優しすぎる)
 ため息を落とし、そろりと立ち上がった。
 ズキンッと走る激痛に、悲鳴をこらえて奥歯をかみしめる。息を何度も深く繰り返して、そろそろと足を出した。
「……っぁい」
 消え入りそうな、声を拾った。
「え?」
 促されて視線を流し、海図やら、宝捜しやら、映像を記録する箱を持った人間が集まっている、図書室を見やる。
「変、だろ?」
 夜中に人がいるような場所ではない。
 なにか邪悪な存在でも入り込んだか、それとも潜入した敵の間者でもいるのか?
 テッドは尊いと感じている命を、奪いたくないから逃げている。だから彼自身は、澄んだ青い目で人々を導く少年が、当然ながら嫌いなわけがなかった。
 彼も、彼の元に集う者たちも。
 過酷な運命を、笑って乗り越えようとするたくましさや、やさしさを、好ましく思わないほうが無理に決まっている。
 危害を加えようとする存在があるのなら、なるべく排除して少しでも守ってやりたかった。
(俺には、奪うことしか、出来ないけれど……)
 激痛をうったえる足を無視し、テッドはそろりと扉に手を伸ばす。追手をまきながら続ける150年の逃亡は、彼にそれなりの能力を与えている。気配を消すこと、気配を読むこと、殺気を感知すること。
 完全に気配をけして、テッドは部屋のなかにするりと入り込む。
「……うぅ」
 血の気が、ざっと、音を立ててひいた。
(これは?)
(苦痛を耐える、声?)
 今まで、幾度も聞いてきた、声だ。
 右手に宿す魂喰いの紋章ソウルイーターによって、いったい何人の人間の命が奪われてきただろうか。何人の死を看取ってきただろうか。
 何度も何度も、苦痛の声をきき、死の恐怖をきいた。
 救いを求める相手に、自分こそがその苦痛を与えているのだと、叫びたくて叫ぶことさえ出来なかった、あの瞬間。
 心のどこかが、だからいつも痛かった。――周囲を満たす死は、ソウルイーターのせいであると同時に、自分のせいでもあると、知っていたから。
(おれは、あまりに子供だった)
 体はどこもまでも小さく、考えるだけの頭もなく、生きるためにどうすればいいのか、わからずにただ震えていた。追われて、逃げて、ぼろぼろになって。怖くて怖くて、ただ泣いていたのだ。
 だから、取ってしまった。
(知っていたのに)
(側にある人を)
(この紋章は喰らうのだと)
 大丈夫か?と抱き上げてくれた腕がある。泣く自分を抱きしめて、お母さんと思って甘えていいのよ?と言ってくれた人もいた。そうやって庇護されて、守られて、いったい何人の命を喰らわせてきたのか!!
 優しかった人のことを思い出すたびに、涙がこぼれそうになる。だからテッドは唇を結んだ。
(忘れない)
 優しく笑ってくれた人の顔も、抱きしめてくれたぬくもりも。
 ――冷たくなって、命を失って、ソウルイーターに喰われていく様も。
「……うぅ」
 また、声がした。
 テッドはハッと意識を戻し、首を振った。
 手探りに中に入ると、部屋の中がひどいありさまになっているのがわかる。揺れるのが当然の船内では、棚に転落防止用の措置が必要なのだが、それが行われていなかったらしい。
 とにかく明かりをと思ってランプに火をいれると、散乱しているのは大量の本だということが分った。
「お、おもぃ……」
 今度ははっきりと声がした。
 凛としているような、どこか間延びしているような、不思議な印象をもつ女の声に、テッドは脱力してへなへなと座り込む。
「まさか」
 痛む足はそのままに、本の山に手を伸ばす。
 一冊ずつよけて脇に重ねると、ロングコートに似た衣装の白がみえ、金髪に近い茶の髪が覗いた。
「一体なにを……」
「あ、ありがとうございます。なんだ、エレノア様じゃなかったのね」
「……は?」
「いや、エレノア様だったら、貴重な本の無事を確かめにきてくれるかしら、と思ったの」
 アグネスにまた邪魔されたかしらと呟いて、部屋を図書室にしてしまった女は起き上がる。
 バサバサッとまた音がして、かろうじて棚に残っていた厚い本がおちた。「あ」と声をあげ、テッドはとっさに左手をのばす。
「きゃっ!!」
 気配に震えた女の頭に直撃する寸前で、テッドはそれをつかみ取る。しばらくの間ののち、そろりと目を上げた女は、少年によって本が受け止められたことを確認して息をついた。
「ありがとう」
「いや、別に」
 テッドはなるべく冷たそうに、ぶっきらぼうに答える。彼女はとくに何も感じなかったようで、本を揃えながら目を細めた。
「私はター二ャ。あなたはテッドさんでしょう?」
「そうだけど」
「なんで知ってる、って顔してるわね。こう見えてもエレノアさまを尊敬しているの、情報収集は怠らないのよ」
 眠たそうな印象の目に、ターニャは少しばかり鋭さをたたえる。テッドが驚いて、立ち去るタイミングを失った隙に、彼女は座るスペースをつくって体勢を立て直した。
「改めて。本当にありがとう。本に埋もれるのは本望だけど、さすがにそれで終わるのは、まだもったいないって思っていたの」
「だったら、俺にかまうな」
「この程度なら通りすがりの世間話と同じじゃないかしら? どうせかまうんだったら、お茶があったほうが様になってるわね」
 なにか持ってきてなかったかしらと、ターニャは埋もれた本の中から、持ち込んだ荷物を発掘しようと試みる。
 今のうちに退散しなければマズイとテッドは思って、立ち上がった背に声がかかった。
「あら、逃げないでほしいわ」
「……逃げる?」
 この船には、おせっかいと強引を集める紋章でもあるのか?と思いながら、テッドはひたすら面倒そうな表情を作る。
 外見年齢だけは、彼よりもよほど年上のターニャは、にこっと笑った。
「言ったでしょう。私レベルでは、これは通りすがりの挨拶みたいなものだって。貴方がどう感じようと、私が感じたことが重要なの。わかる?」
「どんな論理だよ」
「私を知る人なら、実にターニャらしいと言うわ」
「あんた、いい性格してるよ。とにかく、俺は嫌なんだ。あんたがまだ本に埋もれて死にたくないなら、俺に……」
 かまうなと続けようとした唇に、ターニャの形のよい指が乗った。は?と絶句したテッドの手を、さっと取って座らせる。
 我にかえって逃げようとして、テッドは足首の痛みに奥歯をかんだ。ターニャはすこし怖い目をしてテッドをみつめる。
「私、興味を覚えた相手の話しはきくことにしているの。今ここでさよならしたってね、後日を作るわ。その方が、かまってるってことになるんじゃないかしら」
「そんなの、俺が納得しない」
「大丈夫、リーダーの許可をもうらから。テッドさん、彼の依頼は断らないものね。文句を言いつつも同行しているじゃない?」
 ごまかしたって無理なんですから、真実は嘘をつかないわとやられて、テッドはがくりと肩を落とす。
(どいつもこいつも)
 苛立ちを顔に出しても、ターニャは笑ったままだ。そういえば、こんなにも大人しそうだというのに、彼女は海賊達を相手にまったくひるむことなく、自説を展開していたという。
「なんの話を聞くって言うんだよ。俺は他の奴らとは違う。個人的に借りがあるから、力を貸しているだけだ。……目的があってここにいるんじゃないんだ、あんたの興味をさそうようなことは一つもない」
「あら、おそろいだわ。私だってエレノア様がいるからここにいるだけなんだもの。古い本を沢山持ってきてくれるとうれしいな、とか。その程度ね、希望は」
「あのなぁ……。あんた、この船は戦ってるんだぞ? いつだって生と死の瀬戸際なんだ。そんな程度なら」
「貴方だって、理由なしに乗っているのでしょう?」
「そりゃあ、そうだけど」
「……テッドさんは、人が死ぬのが嫌なのね。私を心配してくれたのでしょう? でも大丈夫よ、この船が戦いで負けるわけがないわ」
「なんで」
「エレノアさまがいるのだから」
 きっぱりと言いきると、ターニャは散乱した本から一冊を取りだす。どうやらそれは様々な資料を集めたスクラップのようだった。
「これはね、エレノアさまがかかわった出来事を私なりに集めたもの。どれをとってしても、エレノアさまの立てる策は常に最上だわ。エレノアさまの策で死ぬのなら、それが最低限の条件だったからってことね」
「あの軍師の策になら、命をかけるって?」
「かけるわ。でも、それはエレノアさまには言わない。だって、私はエレノアさまの策の為に死んでもいいけれど、エレノアさまは自分の策のために出る死者を辛いと思っていらっしゃるから。私は満足でも、エレノアさまには辛いなら。こんな気持ちをぶつけたりはしないわ」
 目を細めて、ターニャはひどく優しそうにテッドを見つめ「ああ、そうか」と呟いた。
「テッドさんに興味を抱いた理由、分ったわ」
「――え?」
「あなた、エレノアさまと同じ目をするの。自分の為に誰かを失いたくないって目だわ。その為に必死になってる、ね」
「……っ!!」
「ああ、ごめんなさい。そんなに踏み込んだこと、言える立場じゃないわね。でもこれだけは言わせてくれるかしら。そういう目をして生きる人はね、たいてい誰かに大事に思われているはずよ」
「思われたくなんてない……思われたら……」
 ぎっ、と。右手を強く握りしめて、テッドはうつむく。
「……この船って、とても寛容よね」
「あんたの話って、すぐに飛ぶんだな」
「深入りしてね、傷つけたくないの。言葉を相手にぶつけるのって、優しさからでても、愛しさからでていても、傷つけるときは傷つけるからね」
 ごめんなさい、と小さく呟いて、ターニャは引っ張り出したカバンから焼き菓子の缶を見つけ出す。「あった!」と笑って、蓋をあけてテッドにさしだした。
 それを、一つ。拒絶するのも忘れて、テッドは素直に取った。
「本当にここは寛容なのよ。いろんな人間の心を、するりと受けれてしまうんだものね。なんと形容するべきなのかしら、私は収集家であって史家じゃないから言葉が浮かばないけど。そうね……」
「――希望を守る、船」

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