[第二話 灼熱を逃れて]

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最終話 灼熱を逃れて
 
 燐光のような光が彼を包む。  燐光のような光が彼を包む。
 清らかで、強さをも内包させる水の光を見守って、智帆は目を細めた。
 かすかに静夜の唇から声がこぼれる。閉ざされている瞼が動いて、覚醒が始まったことを、如実に物語った。「静夜」と、低く雄夜が囁いた。
「……ぁ……」
 ひどく辛そうに静夜の顔がゆがんだ。かすれた声は訴えるような響きを含んで、雄夜と智帆が唇に耳を寄せたる。
「……あつい」
 がっくりと雄夜が頭を下げる。智帆は涙ぐみながらうんうんと頷いた。しばらくして、静夜は眼を開けた。少女達がうらやむ大きな瞳が、ぱっちりと周囲を見渡す。
「夜になっても暑いなんて、絶対に詐欺だ」
「詐欺説には全身全霊をかけて同意してやる。してやるから、静夜」
「分かってる。智帆」
 覗きこんでくる友人の瞳を、冷静な眼差しで見やって静夜は頷いた。起き上がろうとする静夜を、雄夜が支える。そうされて初めて、彼は静かな視線を双子の片割れに向けた。
「雄夜」
「なんだ?」
「僕を信用してるわけ?」
「――世界の誰よりも」
「分かった」
 ふっきれた笑みを浮かべて、静夜は立ち上がった。力の全てを彼に注ぎ、今は淡い光となって消えていく蒼花に手を差し伸べる。くずおれた竜を抱いて、静夜は眼差しをあげた。
 普段、静夜は瞼を閉じて異能力を行使する。
 けれど今の彼は、恐ろしいまでの闘争心をむき出しにして、炎鳳館の一点を睨んでいた。
「邪気の力の核はあそこにあるけど、邪気をかたどる感情は分散しているよね? なにか分かってる?」
 尋ねれば、智帆が「勿論」と不敵な顔をした。
「巧と将斗がな、久樹さんと一緒に怪談話を作ったそうだ。それを聞いて怖がった教師の恐怖と、この地に残されていた悲しみの記憶が合わさって、あの邪気の少年が生まれたってわけだ」
「――なるほど」
 細すぎる首を傾いで、鋭い眼差しで静夜はぐるりと周囲に見渡した。双子の片割れに視線を移し、「他は?」と尋ねる。
「点在している邪気の力を、巧たちが片っ端から浄化させてる。将斗たちは邪気の警戒を引き付けて走ったままだ」
「菊乃ちゃんの体力から考えると、無理はもうさせられないよね──いちかばちか、雄夜、巧たちに炎鳳館に戻ってくるように伝えて。まだ力を持ってはいるけれど、邪気の力は確実に弱っている。なんとか封じれると思うから」
「静夜っ!?」
 流石に早すぎると驚いて智帆が静夜を見る。
 静夜に注がれた蒼花の力では、余力のある邪気を封じるには足りないはずだ。そんな状態で無理をすれば、消費するのは命そのものになる。
「大丈夫だよ。ここで命を懸けて、しかも落とすのは得策じゃないから。全員の力を借りる。ようするにね」
 地面に指先をついて、静夜は五芳星を描いた。
「静夜、いつからそんな怪しげな……」
「智帆、今はうるさい。五人を等間隔に配置するのに丁度いいだけで、深い意味はないんだから。将斗が来る前に、全員を頂点に配置させておいてほしいんだよ。将斗が入ってきた段階で完成させる。――菊乃ちゃんは、真ん中に立つ僕のところに」
「それでどうするつもりだ?」
 雄夜の静かな問いかけに、静夜は顔を向けた。
「全員の力を利用して、水の結界を張るんだよ。そうすることで、中に邪気を閉じ込める。邪気の力を滅するのは結界がする。僕がするのは、ただあの邪気を眠らせて、静かに浄化させていくことになるってわけだよね」
「……その結界、出来るのか? 俺たちはともかく、織田久樹の能力は炎だ。それに、俺たちの事を信用しきってはいないだろ?」
「しきっていないのはお互い様。でもね、僕はまあ彼は嫌いじゃない。それに……炎が暴走することは、今回に限ってはないと思う」
 静かに眼を伏せ、静夜は首を振る。僅かな動きに含まれた意味に、智帆だけが気づいて、彼もまた眼を細めた。
「静夜、やはり――そういうこと、なんだろうか?」
「多分。力を無理やり引き出されて、そうだろうって確信をもつようになった。本人に自覚はないみたいだけどね」
「自覚がない、か。厄介なことばっかりだよ。――まあいい、今はそんなこといってる場合じゃなかったな。雄夜、俺たちは校門から一番離れた位置に立とう」
「ああ」 
 迷うことなく、雄夜は静夜の側を離れた。対等であるべき双子でありながら、保護者の位置を取ろうとする雄夜が見せた珍しい行動に、静夜はふっと微笑む。
「一方的に守られるなんて、好きじゃない。やっぱりこの状況の方が正しい。――雄夜」
 鋭い声に、雄夜が漆黒の髪を揺らせて振り向く。不敵な表情を向けて、静夜は「位置に付くと同時に、久樹さんと巧を呼び戻してくれていい。その後で、将斗と菊乃ちゃんもだ!」と叫んだ。
 雄夜は静夜に良く似た表情を浮かべ、頷くと同時に走り出した。


 雄夜の呼ぶ声を、久樹と巧は白梅館の十階で聞き、将斗と菊乃は大学部水鳳館横の桜並木の中で聞いた。
「なんだって!?」と久樹が声を張り上げる。大地の橙花と相性が高い巧が「雄夜にぃが、戻って来いって言ってるっ!」と返した。
 黒い霧のごとく迫り来る邪気に取り囲まれながら、将斗は強く菊乃の手を握り締めて、朱花の言葉に頷く。
「菊乃、もうちょっとで終るからなーっ! 巧たちがここを通り過ぎたら、その少しあとで、炎鳳館まで走る! それが終ったら、沢山休めるからなっ! だから、もうちょっとだけでいいから、頑張れっ!」
 励ましながらも、今だけでも菊乃を休ませようと足をとめる。僅かに操れるようになった光と朱花の力を借りて、邪気を防いで巧たちが通りぬけるのを待った。
「将斗っ!」
 つい先ほど離れたばかりの従兄弟の声が、泣き出したいほどに懐かしく将斗には感じられた。同時に、炎をまとう織田久樹の姿が、頼りがいがあるように見えてしまう。
「大丈夫かっ!?」と、久樹が駆け去り際に将斗に声をかけた。
「大丈夫だよーっ!」と、将斗は声を返す。
 炎鳳館に駆け戻って、久樹は仰天して息を飲んだ。倒れたはずの静夜が、蒼い光をたたえて佇んでいる。離れた場所に、智帆と雄夜がそれぞれ立っていた。
「久樹さん」
 夜半に眠る湖面の暗さにも似た圧倒的な闇をまとって、静夜が囁く。足をとめた久樹の横を、智帆に呼ばれた巧が走り去っていった。
「静夜?」
「言っておこうかなって。僕が悪かった。──。うーん、僕と智帆が悪かった」
「──はあ!?」
 いきなりの発言に、意味が分からずに久樹はぽかんとする。
「だって僕たちの態度って久樹さんに攻撃的だったから。知らなかったと思うけど、僕は久樹さんが嫌いじゃないよ。今回のことで、炎の異能力で邪気を生み出そうと思ってるわけじゃないって理解したし。今まで、本当にごめん」
「あ、ああ?」
 与えられた理解と謝罪に面喰い続ける前で、静夜は名前の通りの静けさを湛えたまま、「だから」と言葉を繋げた。
「久樹さんの力を僕に貸して欲しい。――今回の邪気は炎で滅したくないんだ、水で眠らせてやりたい」
 そう言って、強い眼差しを炎鳳館に向けた。
 悲しい声が木霊がする。
 きくえちゃん、と泣く子供の声が。――不用意に呼び覚ましてしまった、悲しみと恐怖の声が交錯する。
「熱と炎を寄代とするというのに、邪気の少年は炎を恐れるんだ。水は敵だろうに、彼の心は水を求めてる。理由は一つしかない。久樹さんたちが与えた形は、空襲によって苦しめられた人の姿だったから。彼らにとって、冷たい水は救いだったろうから」
「――救ってやりたい、と?」
「そう思うよ。邪気も、久樹さんたちもね」
「……俺?」
「そういうことで苦しむ人なんだって、僕は思ってるけど。さあ、将斗たちが戻ってくる! 久樹さんは、あそこにっ!」
 静夜は素早く位置を指で差し示した。久樹は何故だか胸にこみ上げてくるものを必死に堪えながら走り出す。「ありがとうなっ!」と、かろうじて言葉が口から滑り出た。
 声があがる。
 きくえちゃん、きくえちゃんと泣く子供の声が背後から。
 声が叫ぶ。
 離さないと叫ぶ邪気の声が、将斗たちが走りこんでくる背を追いかけて。
 邪気の力の核と、邪気の意識が、再び――一つになる。
「将斗はそこに残れっ! おいで、菊乃ちゃん!」
 凛とした声を、静夜が張り上げた。


 光の柱が天を貫く。
 周囲を照らしだす光の強さは、没したはずの太陽が再び天空に舞い戻ってきたかと思わせるほどだった。
 ただ一人、少年たちが保持する異能力によって生みだされる光景を目撃できない立花菊乃は、川中将斗に背を押されるまま、前へとまろびでた。
「菊乃ちゃん、もう、大丈夫だからね」
 優しく静夜は語りかけて、菊乃の小さな体を抱きこんでやる。菊乃を追いかけることに全てを掛けていた邪気は、突然に発生した光の柱に囲まれて、歩みを止めた。
「苦しみと悲しみから生まれた邪気。――偽りから生みだされた真実」
 静夜が優しい声を奏でる。
 黒い影でしかなかった邪気が、静夜の目の前で形を取り戻した。つやのない髪、かさついた肌、痩せこけた体に、ぼろぼろの服。それほど遠くない昔に、確かに存在した誰かの姿だ。
『きくえちゃん』
 切ない呼び声に、静夜に抱きこまれた菊乃が震えた。
 結界を作り支えるために異能力を奪われる中、将斗は必死に菊乃の名前を呼んだ。
 ――呼ばなければ、菊乃がきくえになる気がしたのだ。作り話から、邪気が生みだされてしまったように。
 望む気持ちが強いほうが、きっと勝ってしまう。
「将斗、くん」
 きれぎれの声をこぼし、菊乃は必死に静夜の腕にとりすがる。
「大丈夫。だから、怯えないでいい」
 静夜はそっと声をかける。けれど眼差しは邪気である少年を見据え、開いたほうの手を伸ばした。
「君は、誰を探している?」
 まるで泣きじゃくる子供をあやすような、静夜の声。
 水の気配に一歩後ずさりながら、それでも少年は恋うるように水をやどす光を見つめた。同時に、菊乃の姿を求めてさまよう。
『きくえちゃん』
「ずっと探しているんだ?」
 はじめて、少年が静夜の言葉に顔を上げる。
『二人で絶対に生き延びようって約束したのに。絶対に手を離さないって言ったのに』
「はぐれてしまった……」
『炎がっ!! 炎が落ちてきて、人が走って、つないだ手が離れた!! ずっと探している。探してる!! きくえちゃんっ!』
 叫んだ邪気の気配が激変する。彼の存在を支える力が浄化されていくことで、邪気は力を維持出来なくなりつつあった。猛々しさとおぞましさが薄れ、彼が抱く悲哀だけが面に出てくる。
 少年は泣く。
 守れなかった約束と、死んでいった人々と、苦しみぬいた痛みの記憶に。
『きくえちゃんに会いたい。きくえちゃんに。きくえちゃんじゃないの?』
 泣き叫ぶ声は、次第に細くなっていった。
 静夜の腕の中で、菊乃はなぜかひどくいけないことをしている気持ちになって、顔をあげた。そのタイミングが分かっていたかのように少年はうつむいて、紅茶色の瞳と目が合う。
「菊乃、ね」
 瞳から、涙が溢れだしてきていた。静夜はただ、菊乃が続けるだろう言葉を待つ。
「助けてあげたい。菊乃が、菊乃でなくなるのは嫌だけど! このまま、あの子が消えていくだけなのも嫌だよっ!」
「――菊乃ちゃんは優しいね」
「優しくなんてないよ。ただ悲しいの。すごくすごく悲しいのっ!」
「分かってる」
 そっと、少女の体を抱きしめてやる。そうして、静夜は透明な眼差しを将斗へと向けた。
「将斗っ! 菊乃ちゃんの心を守るんだ。光の力は道しるべとなる。将斗がいれば、菊乃ちゃんは菊乃ちゃんのままでいられるから!」
「静夜兄ちゃん!?」
「久樹さん!」
 静夜がなにかを求める声に、何を求められているのかを正確に久樹は悟った。
「分かってる。二人分、任せろって!」
「頼みます」
 久樹の声に背を押されて将斗は走り出した。当然ながら倍増する負荷に久樹は歯を食いしばり、なんとか結界を支えたまま、状況を見つめ続ける。
 静夜が菊乃の背をそっと押した。
『きくえちゃん?』
 泣きだして、顔を涙でいっぱいにした少年が顔をあげた。
「ごめんね。菊乃ね、きくえじゃないの。貴方が探してる、きくえじゃなくってごめんね」
『――違、う?』
「違うの。本当にごめんね、ごめんねっ!」
 菊乃の瞳から次々と涙がこぼれる。けれど気丈にも菊乃は前に進み、邪気である少年に手を差し伸べた。
「だめだ、駄目だよ、菊乃! 手を伸ばしちゃダメだー!」
 叫ぶ将斗の目の前で、菊乃の手に少年の手が重なった。初めて、自分のために伸ばされた手を、邪気の少年がとったのだ。

 思いが、菊乃の中ではじけた。

 きくえを探してさまよう少年。菊乃が想像することも出来ない地獄絵図の中を、少年が少女を求めてさまよっている。瓦礫の下を覗き、まだ煙のくすぶる残骸の上を歩き、ぼろぼろのままにさまよう。
「ああっ!!」
 心が、塗りつぶされていく。
 菊乃ではなく、きくえになっていく。
 約束をした心が、小さな胸の中を占めて――。少年に対して抱いた気持ちがふくらんで。……。――「菊乃っ!」
 声。
 声、だった。
 同時に背中いっぱいにぬくもりを感じて、菊乃は目を見開く。腕を引き、邪気から引き剥がした菊乃を求める少年の腕の中に倒れこむ。
 手が離れた。
 ようやく訪れた再会が、はじめて得た安らぎが、少女のぬくもりが奪われたことに邪気が気づく前に、静夜が駆け出して腕の中に抱き込んでやる。
「大丈夫だから、おやすみ」
 囁いた。
 子守唄のように、鎮魂歌のように、静かに。
 青い光をたたえる清浄な光が、急速に静夜の身体を包みこみ、同時に少年をも包み込んでいく。
 先程まで菊乃の手を握っていた手を、静夜が取った。
 少年は、気付かなかった。
 彼がきくえだと思った少女が、腕の中から離れたことも。再会の時が、奪われていたことも。
 ――きくえが、戻ってきていないことも。
『きくえちゃん』
 青い光の中、急速に力が眠りにつく中で、少年が囁く。
『もう、ずっと、一緒だね……』
 静夜の腕の中で、少年はそっと微笑んだ。
 邪気とは思えぬほどの――とても優しい顔をしていた。


 からん、と音が響く。
 光まばゆい結界が、その音を最後に壊れた。
 結界のために使い切った異能力の代償に、とんでもない脱力感が全員を襲う。
「将斗っ!」
 息を切らして巧が従兄弟を呼んだ。将斗は顔をあげ、一緒に菊乃も顔をあげる。
「将斗くん、終わった、の?」
「そう、みたいだ」
 呆然とした声をあげる。今更怖くなって、菊乃は将斗の首に抱きついた。
「菊乃、ここにいるねっ! 菊乃、菊乃じゃなくなっちゃったかと思った!」
「俺も、そうなるんじゃないかって……怖かった」
 抱きついて泣く少女の頭を将斗は撫でてやる。巧は二人の傍らに駆けよって、良かったと笑った。
「なんとか、終わった……のか」
 子供たちの様子を見届け、久樹は両膝に手をつく。肩で息をしつつ、能力を無理に使うことがここまで辛いことだったのかと、彼は内心驚いていた。
 今まで、久樹は何度も少年たちが無理をしてきたのを見ている。――それが苦痛を伴うものであることも知っていた。だが、知ることと実感することは意味が違っていた。今は無理をさせたくないと、心から思う。
 久樹は深呼吸を繰り返して息を整えて、立ち尽くしている静夜の側へと歩んだ。先に合流していた雄夜と智帆は、なぜかおろおろとして、静夜を見つめている。
 彼は今、一人で泣いていた。
「静夜?」
「なんか……悲しくって。なんでだろう!」
 助けることは出来たはずなんだけど、と静夜は必死に言葉を続ける。
 雄夜は無言のまま双子の片割れの肩に手をおいた。智帆は目を細め「悲しい事実は変わらないからだろ」と言った。
 水の力は、同調の力。
 邪気が抱いていた悲しみを菊乃が受け取ったように、静夜もそれを我が身として感じていることまでは、久樹にはわからなかった。ただ静夜は優しいんだな、と思う。
 月が昇り、本格的な夜が始まろうとしている。
 明日上るだろう朝の光を、あびることを今は約束された人々を守るために、夜が来るのだ。
「さーてっ! 戻ろう。ぼやぼやしてると、うるさいのに見つかりかねないし」
 久樹はそう言って、全員を追い立てる。
 立花幸恵に託してきた爽子に、久樹は今、異常なほど強く会いたいと思った。


 灼熱の中で、少年は眠る。
 偽りから生み出された、たった一つの真実。
 悲しみを抱いて、いつか癒される日を夢見て、眠っているのだ。
 月に照らされてきらめく、水に抱かれて。


[完]


後日談


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