暁がきらめく場所
突天 No.01
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「国境付近の村の一つに、不可思議な動きがある?」
 文字を書く手を止め、彼はもたらされた報告に顔を上げた。長い髪が椅子の背もたれに引っかかって痛みが走り、青緑色の瞳を不快げに細める。
 アトゥール・カルディ・ティオス。
 大陸最大の領土を保持するエイデガル皇国に属する五公国の中で、北に位置するティオス公国の公太子である青年だった。
 アトゥールの前には、畏まった様子の男がいる。年の頃は二十代後半。鳶色の眼差しと、同色の癖毛が印象的な騎士団員の男だ。名をウィド・ロンメルという。
「なにやら、新たな宗教が流行っているようなのです」
「宗教だって?」
 ウィドの言葉に、アトゥールは首を傾げる。
 エイデガル皇国と五つの公国では、国教とする宗教を定めていない。
 五百年ほど前におきた建国戦争を悲惨なものにしたのは、最大の敵国であったザノスヴィア王国が宗教国家であったためだった。宗教は人を狂戦士とする。ゆえに、エイデガルでは政治と宗教は切り離すべきものだと考えてきた。
 国教が存在しておらずとも、民が信じる”信仰”は存在する。
 元々が農耕民であった為なのか、 自然を信仰する気持ちが高かった。そうして自然を具現化し神威が存在すると信じられ、獣魂信仰へと繋がっている。
 水竜が海。風鳥が風。金狼が炎。銀猫が雷。天馬が大気。獅子が大地。獣魂を従えるのが、女神・太陽神レイテルだとされている。
 風鳥の化身と信じられる風鳥宝珠を持つティオス公国は、自然強い風鳥信仰を持っていた。
「一体どんな宗教が席巻し始めているというんだ?」
 尋ねると、ウィドは資料を手によどみなく答える。
「癒しの手という力を持つ女性が中心になっているようです。彼女の元に訪れると、どんな痛みも必ず引くのだとか。完全治癒には到らないそうですが、痛みが引く為にかなりの人気を博している模様です
「――なるほどね。有り難いと思う気持ちがやがて妄信に変わり、宗教のようになっていったというわけだ」
 手にする羽ペンを持ち直し、手の甲を顎に寄せた。目が伏せられて、憂いの深い表情になる。
「いかがなさいますか?」
「公王陛下に一応報告をしておいてくれ。それから詳しい情報が欲しい。少し気がかりだからね」
「……お言葉ですが、公子。ご自分で陛下にご報告に上がられた方がよろしいのではないかと」
「ウィド。私に何か言ったか?」
 聞こえなかったふりをされて、ウィドは肩をすくめる。
「公子、私は風鳥騎士団の一員です。風鳥騎士団は公王陛下・公子殿下にお使えする存在。二つに分かれて動くような騎士団ではありませんでした。けれど、わが公国の騎士団は実質上二つにわかれています」
「分かっている。本国に残り公王陛下に忠誠を誓う者たちと、私とともにエイデガル公国に在住し、私に忠誠を誓う者たちと言いたいのだろう?」
「おっしゃるとおりです。そして私が誰に忠誠を誓うのか。それはご存知でいらっしゃるでしょう?」
「私は一度として、お前の忠誠を疑ったことなどないよ。だから、お前が私の為に言ってくれるのも分かってるし、お前の立場が苦しいのも知っているつもりだけれどね」
 ティオス公国には、新旧の反目が存在する。
 長らく国を留守していた、というよりも国に殆ど居なかった公太子に対して、ティオス本国の文武官は良い感情を持っていない。不満が湧き上がっていないのは、戻ってきた公子の手腕の鮮やかさに、文句を付けられないでいるだけだ。
 アトゥールがミスをおかせば、国内の不満分子は一気に反抗の狼煙をあげるだろう。
 不穏の中で公太子に味方をするのは、エイデガル皇国で共にあった風鳥騎士団員だけだった。ウィドは皇国在住の風鳥騎士団長であり、現在は副団長の地位にある。
「分かっていらっしゃるなら、尚更です。失礼ついでに申し上げますと、陛下は常に公子との会話を望んでいらっしゃるように見受けられますよ」
「――だから。そんな事くらい、知っているんだよ」
「公子、疲れた顔をしないで下さい」
 アトゥールの辛そうな溜息に、ウィドは慌てて手を上げる。
 さかのぼること二年。エイデガル皇国は激しい動乱に突き落とされた。争いの渦中に存在したアトゥールは、命を落としかけている。
 だが、その為であったのか。誰にも頼らず、誰にも本音を見せなかったこの公子が、信用できる者たちに対しては僅かながら心を許すようになってきていた。
 風鳥騎士団員として、同い年の主君に仕え続けるウィドにはそれが嬉しい。
 ウィドはエイデガル皇国に預けられたアトゥールと共に最初にやってきた、風鳥騎士団の団長の一人息子で、幼かった彼もエイデガルで共に育った。それゆえに、アトゥールが抱えている複雑な問題と葛藤の事実を、一応知識として彼は知っている。
 今は年老いていくばかりとなった両親の存在は、ウィドの心の大きな支えでもある。幼い頃、怯えて泣くたびに駆けつけてくれた父と、病気の度に付きっ切りで看病してくれた母の記憶こそが、彼に人としての優しさを与えていたのだ。
 ウィドが当たり前のように持つ拠り所を、アトゥールは持っていない。
「本当のことを申し上げますと、公子も陛下と話をしようと必死になっていらっしゃると思っています。出来ることなら、陛下のほうから公子との距離を縮める努力をして欲しい、とも」
「それは無理だろうね。あれで、とても臆病な人だから」
 少し笑うと、アトゥールは立ち上がった。
 さらりという音を立てて、淡い薄茶色の髪が揺れる。執務室に備えられた高窓から差し込んだ光にさらされて、金の波が漣を立てているようにウィドには見えた。その姿は、ティオス公王レヴル・セレス・ティオスに本当に良く似ている。
「分かりました。私の方から報告しておきます。それから情報の収集ですね」
「国境沿いには他国の者達が多くいるから、他国の宗教が入ってくる可能性が高いのは分かるんだよね。でも、一人の人間に心酔する形の宗教が発展するというのは、ちょっと問題が多い。用心に越したことはない」
「畏まりました」
 姿勢を正し一礼すると、ウィドは部屋を後にした。
 見送る形でアトゥールは顔を上げる。重い扉が完全に閉まり、部屋の中にしんとした静けさが戻って来たのを確認して、もう一度考え込んだ。
「癒しの手、ね……」 
 エイデガル以外で起きたことならば、魔力者の仕業と考えることも出来ただろう。だが、この国に魔力を行使する者はいない。アトゥールの心に、緊張が静かに持ち上がろうとしていた。



 彼女は傍らに座る女を、とろりとした眼差しで見上げていた。
 白い煙が漂っており、室内の透明度を著しく悪化させている。窓という窓に厚い緞帳が下げられ、昼日中だというのに室内は薄暗かった。
「痛みは、もうないでしょう?」
 あどけない声に女を見上げ、こっくりと彼女は頷く。
 彼女にとって、女はまさに救いの主だった。体中を貫くような痛みを取り除き、ひたひたと押し寄せてくる死の恐怖をも取り除いてくれた存在なのだ。
 女がどういう素性の人間であるのか、彼女は知らない。
 それどころか、女の年さえも知らなかった。
 最初は気になったのだ。どこからきて、どこに居て、名前が何で、何歳で、家族はあるのか。気になって、尋ねたくて、仕方なかった。
 けれど今、全てどうでもいい。
「どうか、ずっと、この村に居てください」
「私が居ることを、望むのなら」
 女は笑むと、足元にすがり付く彼女の髪を、指で梳ってやる。幾度も、幾度も、愛しむかのように。
 室内には彼女以外にも人間が数人いた。とろりとした目で、めいめい座り込んでいる。夢を見たまま現実に居る、人形のような人間達。
「さぁ、お眠りなさい」
 女が笑う。
 若くはない。おそらく四十はいっている。けれど声は幼く、笑みはあどけなく、まるで永遠の少女だった。
 足にすがっていた彼女は、安心しきった顔のまま目を閉じた。



 癒しの手が存在する。
 噂は瞬く間に近隣に流れ、ティオス公国の国境の村――クルテスは一躍有名になっていた。国境にあるイルードの町に、農産物を供給してきたクルテスは、増えた人口を捌くだけの物資は抱えている。けれどイルードに送る物資は滞り、食料の値段が上昇しつつあるという報告が、アトゥールの元に飛び込んできた。
「クルテスを閉鎖する必要がある。村に残る人々で、癒しの手に関与していない者達は一時的に避難させた方がいい」
 アトゥールは厳しい表情で告げると、公王の許可を得るべく立ち上がった。普段は理屈をこねて副団長のウィドを派遣するところだが、肝心のウィドが公都を不在にしている。
 勇猛なる副団長は、情報調達のために自らクルテスに旅立っていた。
 ウィドがもたらす情報のほうが、質が良いことはアトゥールも認めている。だが正直な話、腹心である副団長が側にいないの、味方の少ない彼には痛かった。
「副団長が公都を出るのを、認めた覚えはないっていうのに」
 溜息をついても、副団長が現れるわけでもない。長い衣を翻し、石の廊下を歩く。
 公太子でありながら、公王と彼とが会話する姿はティオス公家では殆ど見られることがない。二人の不仲は公城の誰もが知っており、繊細な顔立ちに温和な性格の公王レヴルを愛する者たちの多くが、ティオス公子アトゥールを良く思っていなかった。
 アトゥールが母親に殺されかけた過去を知らぬ者から見れば、彼こそが親を冷遇する冷血な者だと思われても仕方あるまい。
 小者や侍女にまであまり好まれていないのは、アトゥールが彼に恋する娘達に対して、はかばかしい態度を取らないというのも原因の一つだった。
 家柄で鳴らす姫君も、莫大な富を持つ商家の令嬢も、心優しき娘でも、彼の部屋に尋ねて中に招かれた娘は一人もいない。冷遇されたのが人気のない者であればよいが、人気のある娘であった場合は、とんでもない反感を買うことになっていた。
 お高くとまった公子様だと話す声がある。女性に興味がないのではないかと揶揄する声もある。しかもそれらは実際に声に出されており、親友であるカチェイの名前まで出されたところで、アトゥールは危うく転びかけていた。
「……冗談じゃない」
 頭痛を抑える顔をして、アトゥールは頭を振る。
「いくら私の自業自得だといっても、勝手に変な関係にされたらたまらないな」
 ぽつりと呟きながら、再び彼は歩き出した。
 公王の執務室に続く長い廊下の手前で、衛兵に来訪を告げる。しばらく待つと、奥から慌てた音がして、走ってくる人影が見えた。ティオス公王、レヴル・セレス・ティオスだ。
「……公王陛下」
 アトゥールの言葉に、レヴルはひどく落胆した表情をした。父上と呼び損ねたのと気づいて唇を押さえる。睨みつけてくる衛兵の目が痛かった。
 短く刈った髪には白いものが目立つが、他はアトゥールと同じ淡い薄茶色だった。瞳の色も青緑色で、親子であることが一目で分かる。
「アトゥール、父とは呼んでくれぬのか?」
 レヴルが父と子の関係を珍しく強調した。アトゥールから拒絶されるのを恐れるレヴルには珍しい態度に、息子は首を傾げる。
「すみません。父上。お願いしたい儀があるのですが」
「ここで立ち話をするのも何だろう。奥にいかないか?」
 続けざまのレヴルの親しげな態度に、アトゥールは眉をしかめた。
 レヴルは愛する相手を、どう大切にすればよいかを知らぬ男だ。
 それゆえ、とにかく隠してしまっておこうと考えてしまう。側に置いて嫌われるのが怖くて、居てくれと訴えることが出来ないほどなのだ。
 やはり裏がある。急ぎますのでと断りながら、アトゥールは目を細める。
「父上、クルテスで生まれた”癒しの手”という集団のことはご存知ですね?」
「ウィドから報告を貰っている」
「私は、あれを危険なものだと捕らえています。一時的にクルテスを封鎖し、癒しの手に接触する者たちを絶つ必要があるでしょう。既に他の四公国から苦情がきています。多くの公国民が、クルテス行きを希望して後を絶たないと」
「――だがな。癒しの手は、苦痛を訴える者の痛みを、排除してくれるというのだろう? それに縋るというのは、名医に群がる患者と同じ。クルテスを閉鎖させるのは、まだ早いのではないか?」
「……父上?」
 アトゥールは大きく目を見張り、父親を見つめる。
 人の心を急速に集め、それがティオス公国外にも伝播している状況は、楽観視してよいものではない。それを有能な王であるレヴルに分からぬはずがなかった。
「父上。癒しの手について、なにかご存知なのですか?」
「いや、報告の内容でしか知らぬ」
 妙に早く、しかもきっぱりと断言する。
 何かある。疑惑は確信となって、女性のように整ったアトゥールの顔に緊張が走った。
「分かりました。父上がそうおっしゃるのならば、しばらくクルテスを見守ることにしておきましょう。願いは変わりますが、父上」
「なんだ?」
「休暇を頂きたいのです」
「それは、一体何ゆえだ?」
「二年前の動乱以降の混乱は、ティオス公都に限ってはすでに回復したと考えています。ですが、公都以外の町や村がどうなっているのかを、そろそろ視察しておいたほうが良いと考えますので」
「それならば、公子が赴くと前触れをさせよう」
「いえ、公族が来るということで構えさせたくはありませんので。勝手に参ります」
 アトゥールは、自ら望むことを強引の押し切る強引さがある。それがレヴルに似ていない所だった。
 父親は困ったような顔になる。
「お前の身に何か起きては、一大事だ。細剣氷華を持っていくといい」
 細剣氷華とは、エイデガル五公国に伝わる国宝級の宝剣である。
 本来はティオス公国に伝わるのは大剣紅蓮だったのだが、二年前の争いで交換されていた。本来は許されないことだが、皇王フォイスの許可を得てそのままになっている。
「……父上。なにゆえ、氷華を持っていかねばならないとお考えに?」
「特に理由などはない。ただ安全だと思っただけだよ」
「そうですか。分かりました。では、拝借していきます」
 更なる追求を断念し、アトゥールは一礼をして公王の前から去る。
 衛兵がレヴルを慰める声が耳に入った。公王の気持ちを察することのない公子など、と憤る声だ。
 悲しいとアトゥールは思っても良いはずだった。
 ティオスの民に。昔と全く変わらない態度しか取らぬ父を。
「悲しい、か」
 そう思うことがないのは、自分の気持ちを理解してくれと期待していないからだった。期待し願わぬことが冷たいならば、確かに自分いう人間は冷たいのだと、アトゥールは思う。
 自分の執務室のある館に入ると、周囲の空気が一変した。

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