暁がきらめく場所
夏祭り
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 普段ならば碧の奇跡ともよばれるアウケルンから涼風が吹き寄せるのだが、今日に限って、風はそよとも走っていない。
 ずる、と手を持ち上げて、少女は額に浮いた汗を拭った。
「暑いよーっ」
 声が悲哀に満ちている。同時に体を支える気力もなくなったとみえ、上半身をテーブルの上につっぷした。
「うん」
 向かいから帰ってきた声も、かなりくたびれている。
 ――夏。
 例年では信じられないほどに気温は上昇し、エイデガル皇国全体が煮立てられているような気になるほどだ。
 毎年夏になると皇都に遊びに来るミレナ公国の元気娘、シュフラン・リリア・ミレナでさえも、平気な顔をしていたのは最初の頃だけで、今ではすっかりバテていた。
「アティーファ姉さま、暑いよぅ」
「……うん」
 答えたアティーファの声にも覇気がない。暑さと共に溶け出していきそうな脳みそで、一応、皇女らしいことを考えてはいた。
「今年の……農作物……大丈夫、かなぁ」
「流石に、ロキシィ父さまも帰ってきて、対策……練ってるって」
「――あ、そうだ。対策ねるために、シュフラン、アトゥールたちも今日くるって」
「え!?」
 一瞬元気を取り戻し、喜色満面の声をあげてから、シュフランは再びふらふらと椅子に戻る。
「う、嬉しい!! ……でも暑い……動けない……」
「――水竜呼びたい」
「アティーファ姉さま、それ、なぁに?」
「なんでもない」 
 ずる、とアティーファも頭をテーブルの上に転がして目を閉じる。
 水竜とは、エイデガル皇国と五公国を守護する獣魂の一つで、皇国の守護者である存在のことだった。――二年前、ファナス争乱と呼ばれている争いの中、皇国に帰還した聖なる存在。 
 その存在は、エイデガル皇国と五公国の主しか本来知りえないのだが、アティーファ以下何人かが、存在を突き止めていた。
 水竜は、初代皇王レリシュの血筋に繋がる者を、恋するように守っている。
「呼べば、くるだろうけど……派手、だから……ごまかせ、ないし」
 暑い、とうなる。
 湖に程近い日陰の中で倒れている二人の娘を、執務室から見下ろして、エイデガルの主は困ったように眉を寄せた。
「困ったものだな。このままでは、死者が出る」
 一人、ごちる。
 さてどうするものかとごちる皇王フォイスの目の前で、唐突に扉が開いた。よお、と明るく片手をあげてきた男の顔は見知ったもので、フォイスは早々に無視を決め込む。
「……フォイス、いきなり無視するこたぁねぇだろ」
「さて、どう対策を練るか」
「ひっさしぶりに帰ってきたんだぜ?」
「やはりどうにかごまかして獣魂を」
 存在そのものを無視したまま、フォイスはテーブルの上のティーカップに手を伸ばす。来訪者はむっとした顔をして、すばやくティーカップを奪い取った。
「おやおや、私の部屋にはどうやら幽霊が存在するらしいな」
「どこまで無視すんだよっ! おい!」
「うるさい、ロキシィ」
「――性格わりぃの変わんねぇなぁ。ったく。折角人が獣魂使うのに良い手があるからって帰ってきてやったのによ」
「お前の良い策なぁ」
「その不審そうな顔はなんだ」
「四十一歳にもなって、風格の一つもない男の戯言には、不審な顔で答えねばな」
「若々しいといえ」
「餓鬼くさいな」
 親友であるはずの男の事をしれっと酷評しつつ「まあ、聞くだけ聞いてやろう」とフォイスは笑う。
「――かなり海を越えたとこにある国でな」
「ふむ」
「夏になると祭りってのをやる。豊穣だとか、まあ色んな事を祈って踊るらしいんだよ。神事の一種だよな」
「それで?」
「その夏祭りってのをやってみるってどうだ?」 
 子供のようにロキシィが笑う。目を丸く見開いた後、フォイスは寒々と半目になった。
「それで? 神事が成功して、獣魂が光臨しましたとでもいうのか?」
「その通りだっ!」
「あほ」
 ふう、と息をつく。ロキシィが浮かべたつまらなさそうな顔を見上げ、思いついたようにフォイスは真剣な表情になった。
「いやまて。その案、使える部分もあるやもしれぬ」
「今更なんだよ」
「別にお前に感謝するつもりなど最初から毛頭ないのだから、それで良い。――行われていなかった行事を一つ作る。そこではりぼての竜でも作り上げて、祭り――だったか? の後に燃やす。炎が天を焦がしていくだろうさ。同時にひそやかに水竜を呼ぶ。なに、姿はなるべく隠せと命じれば、多少光っている程度になるだろう。そうなれば、光っているのは」
「燃やしたはりぼての方だと思う。――なるほど」
「よし。他の公族も緊急招集に答えて集まってきているからな。人出はある。すぐに準備を整えさせよう」
 すっくと立ち上がったフォイスの肩を、幼い頃からの友人の気安さか、子供のような顔でロキシィが掴み、引き寄せた。
「なんだ?」と眉をよせるフォイスに構わずに、なにごとかを耳打ちする。
 しばらくして笑い出すと「良かろう」とフォイスは言った。


 緊急招集をかけられて集まってきた公族と各騎士団は、突然に皇都の大広場に幾つかの仮設建築を作れと図面を放られていた。
 子供を連れ歩くガルテ公国のセイラス・ルン・ガルテは、さすがに暑いので抱き寄せはせずに肩に手をおくにとどめた妻の顔を軽く見やる。
「さて、皇王陛下はなにをお企みだろうか」
 朗々とした声を勝気な瞳で受けながら、飴色巻き毛の美女である彼の妻は明るく笑った。
「今回ばかりは、ラスが想像してわかることではないかもね」
「おや、ひどい言われようだ。なんでだい、シャティ」
「なんとなくよ。だって、ラスが分かることは戦のこと、政治のこと。――こういうことじゃないものねぇ」
 くすくすと含み笑いをしながら、皇王から配られた図面を広げる。そうすると、彼と彼女の小さな子供たちが反応を示して、見せて見せてとせがんだ。
「これは困った。ガルテの再来と呼ばれ、私に分からないことは何一つないと思っていたんだけどな。まさかシャティたちが分かることが、私に分からないとは」
「あら、失礼ねっ」
 怒ったフリをしてみせてから、セイラスの妻シャンティは夫の手を柔らかくはずさせてしゃがみ込む。頬を紅潮させた子供たちは、図面をみつめながら、運ばれていく材木や道具に目を輝かせていた。
「遊び場に関しては、私たちのほうが詳しいに決まっているでしょう?」
 華やかな母親の声に、子供たちが幼い歓声を上げる。
「おや、兄上に義姉上」
 のんびりとした声が背後からかかり、一家はゆるやかに振りむいた。
 最初に一番小さなセイカが歓声をあげる。
「あーっ! グラディールお兄ちゃまっ! ねぇねぇ、ダルチェお姉ちゃまは?」
 手をしっかりと握っていた兄のルシャの手を振り払って、セイカは駆け出す。ひどく嬉しそうにグラディールが笑って抱きとめようとすると、ぼそりとセイラスが声を放った。
「女の子は可愛いだろ」
 ピシッ、と。笑顔のまま、グラディールが固まった。
 グラディール・ハイル・レキスは、婿養子としてレキス公家に入った、セイラスの弟だ。のんびりと優しい性格をしており、意図しては虫さえ殺したことがないと言われている。そんな彼は妻のダルチェが心底大事で、彼の夢は、妻にそっくりな娘を持つことだった。
 だがしかし。
 彼とダルチェの間に生まれたのは、男の子だった。一才になったばかりの可愛い盛りで、グラディールもそれはそれはわが子を可愛がっている。それでも、彼は女の子が欲しい。第一、一才になる長男は、グラディールから見れば、母親を独占しようとしているようにしか見えない。
「僕、お母さんをお嫁さんにしてあげる!」などと将来いったら、何に対しても手を上げてこなかった実績は崩壊してしまうかも、とまでグラディールは思っていた。
 だから、彼は、兄夫婦の娘が可愛くてならなくて、同時に羨ましくてたまらない。
「グラディール、どうしたの?」
 固まっている夫を見つけてダルチェが声をかける。ダルチェはと尋ねたセイカは顔をほころばせて、彼女の元に駆け寄った。
「ダルチェお姉ちゃま!! 見せて、見せてっ!」
「あら、セイカ。こんにちわ」
 苛烈な性格を誰よりも認識し、自分が子供を育てられるのだろうかと実は心配していたダルチェだが、その心配はとくになかったことを最近は自覚している。他人の子供と、自分の子供とではやはり意味が違っていた。ダルチェが自分の時間を持てるようにとグラディールは細心の注意を払っているので、今のところ、彼女が癇癪を起こしたことはない。
 ダルチェの腕の中の小さな男の子は、可愛らしい従姉妹のセイカの声に目を覚まし、何事かを喋るように口を動かしながら無心に手を伸ばす。
「義兄上、グラディールどうかしました?」
 いまだ固まって動かぬ夫に首を傾ぎ、ダルチェは義兄のセイラスに声をかける。意地の悪い視線を弟に投げてから、にっこりとセイラスは笑った。
「いや、なにもないさ。ところで我が義妹殿」
 わざと声を低め、何事かを囁こうとする。むっとした顔をしたシャンティが声を上げる寸前に、固まっていたはずのグラディールが立ち上がった。
「ダルチェ、行こう」
 両手を広げて、膝を落としてわが子をセイカに見せていた妻の体を抱きしめる。
 当然ダルチェは「暑いっ」と鋭い声を放ったが、グラディールはめげなかった。
「そんなに怒った顔をしてはだめだよ。この子が真似してしまうから。ほら、私たちの分担はあちらだから一緒に行こう。そのほうが楽しいから」
「グラディール?」
 不審そうな顔の妻の手を取り、セイカの頭をなで、ぽかんと見守る兄のルシャの頭もなでて、脱兎の勢いでグラディールはその場を後にする。
 シャンティは不思議そうに「最近、弟イジメに磨きがかかった?」と夫に尋ねていた。 

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