暁がきらめく場所
微風 第六話

前 頁 目次


 太陽が空から落ちてゆく。
 茜色に染められる空と、碧玉の湖アウケルンに落ちた光が、優艶な美しさを演出していた。
 城まで真っ直ぐに伸びた橋。
 人々は笑いあい、手を取り合い、気さくな様子で進んでいる。
 アティーファは、さざめく民の顔を見つめながら、少し微笑んでいた。
「どうした、アティーファ」
 やわらかな声が響く。振り返れば、エイデガル皇国軍を率いる軍の礼服をまとった父王が佇んでいた。腰には、先ごろの戦いでアティーファが保持していた御剣覇煌姫が下がっている。
「父上」
 名を読んでから、言いよどむように声をすぼめる。愛娘の態度にフォイスはしばし首を傾げて、手を伸ばし、額に掛かる娘の前髪を軽く払った。
「探し人か?」
「えっと……」
 目をそらす。態度が質問を肯定していて、フォイスは笑った。
「アティーファ、隠しごとは出来るようになるほうが後々便利だぞ。王の資格は、大嘘が平気でつきとおせるかどうかに掛かっているからな」
「――うん」
 こっくりと頷きながら、フォイスから贈られた華麗な衣装の裾をアティーファは握る。皺のよった布を見ながら、父親は娘が見ていた方角に視線を落とした。
 彼女の誕生日に行われる公式な演目は、既に全てが終わっている。皇族や公族、そして近隣の王族の者たちが談笑するエイデガル皇城の二階からは、下に集まった民たちの姿がよく見えた。
「父上。私は、彼等を守れる王になりたいって思ってる」
「そうだろうな」
「でも、私はもう既に民を裏切っている」
「私も裏切ったことがあるよ。言っただろう。リルカを選んだことが、すべての始まりとなった。けれどそれを悔やむつもりはない。所詮王も人の子。裏切りは発生する」
「うん。そう、思うようになった」
 かなりヒールの高い華奢な靴に包まれた足を踏み出して、前を見る。
 夕焼けに落とす赤に包まれた人々は、まるで血に染められたかのようだ。
 ――そして、選択を間違えれば血染めの光景は現実となる。
 よし、と呟いてアティーファは拳を握った。
「父上、私は強くなる。もっと強くなって、もっと国を強くして。エイデガルに謀反を起こしたら、痛い目にしかあわないんだ!って思わせるくらいに強くなる」
「なるほど。アティーファは誰かを警戒しているのか」
「――うん」
 ガルテ公太子、セイラス。
 この男には注意しておかなければ、必ず足元を掬われる。
 先ほど挨拶にきた彼の眼差しを見て、思い知ったのだ。
「多分、セイラスは知ってしまったんだ。決して崩れることなどないと思われているエイデガルでも、滅びることはあるのだと。滅ぼすことも出来るのだと」
「出来るとなると、やってみたくなる男だからな。あれは」
「セイラスはつまらないんだよ。持って生まれた才能を、活かす場所がないから」
 翠色の眼差しで前を見つめつづけながら、アティーファは呟く。
 セイラスは生まれる時代と生まれる国を間違えた男だろう。
 建国戦争当時や、小国が争いあっているような場所に生まれていたら。その頭だけで、国の一つや二つ切り取ってみせただろうに。
 彼は運悪く、すでにガルテ公国の公太子なのだ。切り取らずとも、持っている。
「それでも、セイラスはガルテ公国を滅ぼすようなことはしないはず。だとしたら、エイデガルは強くあり続けないといけない。レキスのほうは、きっとグラディールが抑えると思う」
「何故だ?」
「グラディールは。ただダルチェと自分と子供との暮らしが欲しいだけだから」
 娘の断言に、そうかと答えてフォイスは目を細める。
 どうやら愛娘は、一年前の争乱を経て、随分と成長してしまったらしい。
「こうなってくると、私が引退する日も近いだろうな」
「引退!? 父上、そんなことをおっしゃられては困ります」
「そうかな。親がいつまでも前に出張っているのも、よいものではないと思うのだが」
「せめてもう少しは働いていて下さい。まだ私は、父上が皇位を継いだときほどの年齢にもなっていません」
「それもそうか。仕方有るまい、老体に鞭打って働くか」
「なにが老体なんですか、父上」
 ころころと笑って、アティーファは父王の隣を擦り抜ける。そっと揺れる絹の色を眺めながら、「外か?」とフォイスは聞いた。
「はいっ!」
 目が少し輝いている。 
「求め人でもいたのかね」
 囁くように呟く。下からは、人々が踊るためにと楽隊が演奏を始めていた。



 小鳥のような身軽さで、アティーファは階段を下りた。
 そこではっと目を見開く。驚いたように右手を見やり、慌てている幼馴染のリーレンを観察し、続けて傍らの少女を観察した。
「マルチナっ!」
 名前を呼ぶ。
 長い睫毛を震わせて、少女が顔を上げた。濡れた眼差しに、熟れたような唇。異性でなくとも震えるような衝動を背筋には知らせる異国の娘は、アティーファを認めて目を細める。
「アティーファ」
 どちらかというと低めの、甘やかな声で呼びながら、マルチナは黒絹の髪を空にたゆとわせる。アティーファは気忙しい仕草で友人の手を取った。
「久しぶり」
「ええ。本当に。お久しぶりだわ」
 おっとりとした声を出しながら、マルチナがなぜか胸の前で手を組んだ。それはまるでおねだりをする子供のような仕草だったので、アティーファは微笑む。
「なに?」
「アティーファ。私ね、お願いがあるの。聞いてくれるかしら」
「いいよ。マルチナのお願いなら。私に出来ることなら、言って欲しいな」
「今、外で曲がかかっているでしょう? 私ね、リーレンと踊りたいの」
「リーレンと?」
 驚いて尋ねると、こっくりとマルチナが頷く。目元が少し紅潮して、妖艶なことこのうえないが、本人にすれば照れて仕方ないのだろう。
「直接お願いしたのに、リーレンは慌てるばかりで了承してくれないの」
「そうなんだ。リーレン、マルチナが折角こういってるんだから、踊ってあげればいいのに。リーレン、踊れるだろう?」
 突然の成り行きに、完全に慌てているリーレンの顔を見上げる。
 彼にしてみれば、もし女性と踊るならばアティーファと考えていたのだろう。リーレンの純情さから言えば当然なのだが、アティーファは全く気付いていない。家族だと思っているのだから仕方ないが、哀れといえば哀れだった。
「いえ、その、私は」
「私は?」
 他に問題があるのかと、アティーファは首を傾げる。
 近頃はあまり表に出なくなったマルチナが望む全てを適えてやりたいのだ。アティーファの顔は少々きつくなっており、リーレンは肩を落として「分かりました」と答える。
 アティーファの背後で、マルチナの頬が紅潮した。
 それは本当に幸せそうな笑みで、アティーファのことしか目に入っていないリーレンでも、流石に目を見張る。
「マルチナ姫?」
「私は別に姫ではありません。マルチナと呼んで下さい」
「いえ、それでは余りに」
 困惑して話す二人を見守って、満面の笑みを浮かべアティーファは頷くと、そのまま外へとかけていく。小鳥のような後姿を見つめるリーレンを、切なそうに見つめて、マルチナは息を落とした。
「リーレン、わたし、貴方が好きです」
「――は?」
 突然の言葉に、リーレンは目を丸くする。
 アティーファが去っていた方向に向けていた瞳をはがして、初めてリーレンはマルチナを見つめた。魔力を常に抑えている反動で、かつて程ではないにしろ、妖艶さをかもし出してしまう少女の真剣な眼差しを。
「分かっています。貴方がアティーファが好きなことくらい。でも、貴方を好きになってはいけない理由はまだないわ」
「マルチナ、姫?」
「いいんです。返事なんて分かっているから。でも私は貴方が好きです。それを覚えていてください。覚えていてくれれば、私はきっと眠っていても恐くない。だって本当は生まれてこなかったはずの命だもの」
 マルチナは、母親の胎内に命が宿った際に父親によって殺されている。
 だが高い魔力を持つ者ゆえなのか。双子の絆のゆえだったのか。リィスアーダとマルチナは、一つの体に魂を宿らせることになったのだ。
 マルチナはリィスアーダにいったことはないが、本当は自分のほうが場所を借りている人間であると自覚している。なにせ父が殺そうとしたのは、魔力を持つ娘の方で、そして持っているのは自分なのだ。
 こんな歪な二つの魂の共存など、終わらねばならないとマルチナは思っている。だから前に出ないようにと、近頃は勤めているのだ。
「その気持ちは、嬉しく思います。だから覚えておきます。こたえることは、出来そうにもないけれど」
 生真面目なリーレンは、切実なマルチナの気持ちを受け流すことは出来ずに、律儀にこたえる。そんな彼が好ましくて、異国の少女は目を細めた。
 本当は、最初から成就しない相手だからこそ、安心して好きになったのかもしれない。成就する相手を好きになったら、なりを潜めて、リィスアーダの中でひっそりと生きていく決意が壊れてしまうかもしれなかったから。
「踊ってくれますか」
 リーレンは手を差し伸べた。
 思いもよらない言葉に驚いて、マルチナは顔を上げる。
「え?」
「今は、踊ってください。あまり上手じゃないんですが」
 ここだけの話しですが、昔随分と公子たちに笑われました、とリーレンが続ける。
 マルチナはくすくすと笑って、幸せそうに差し伸べられた手に手を重ねた。
 遠くで、一応は隣国の王族と会話をしていたカチェイとアトゥールが、驚いた顔で二人を見守っていた。



 夕焼けが、闇に落ちてゆこうとしている。
 特に理由があって外に出たわけではなかった。ただ、なんとなく外に出なくてはいけないような気になって、飛び出したのだ。
 人々は明るい表情で、好き勝手に踊っている。飛び出してきた民の愛する皇女の姿に、歓声をあげて、誰もが喜んでいた。
 踊りは相手も決めずに行われているらしい。子供たちが踊ったり、女同士で踊っていたり。中には上背のある男同士が回りを笑いの渦に巻き込みながら、踊って見せている。
「エイデガルの民って、お祭り好きなのかもしれない」
 少しだけ呆れた声で呟いて、アティーファはさらに前に進む。
 丁度、一年前に最後の決着をつけた辺りを、無意識に目指していた。人通りが切れることはない。女官たちがいくつかの小屋を作って、飲み物などを配っている。それらを幾つか目撃した後、ふいにアティーファは腕を引かれた。
「え?」
 なんだ、と思った瞬間には体のバランスが崩れていた。もしや刺客が紛れ込んだのかと考えたのだが、なぜか胸が高鳴る。
 確かに、どくんと大きな音が胸ではぜた。
 視界に舞ったのは、色鮮やかな長い布だった。エイデガルのというよりも、フェアナの民が好んで使う色合いに近い。たっぷりとした布を惜しげもなく使い、肩から足首までを完全に覆っている。その上にショールをかけていた。
「ティフィ」
 声。
 さらに胸が大きく打つ。
 まさかと思った。後ろから取られ引かれた視界には、その鮮やかな布の色しか見えない。切れ切れに見たのでは、どうみても女物の衣服だった。けれど、その声は。
 手を勢いよく振り払う。思い切りよく振り向いて、蒼を見つけた。
「エア」
 名前を確かめるように呼ぶ。その声を聞きとめながら、エアルローダは目を細めた。
「なんて格好してる?」
「ばれたらまずいと思ってね。違ったかな」
「多分、まずいと思うけど。でも女装するなんて思わなかった」
 くすくすと笑う。一年前に姿を消して以降、エアルローダは全く姿を見せようとしなかった。魔力を感じたこともない。彼は完全に魔力を消してみせているのだと、アティーファは思っていた。
 消して――そして、側近くに居るのだと。
「ティフィ。永遠は?」
「私の中に」
 戯言にみせかけた、切なる問いに答える。
 しばし見詰め合って、アティーファはエアルローダの手を引いた。なに?と小声で尋ねる彼に、
「踊ろうっ!」
 と、笑いかけた。



 美しい少女二人が踊る。
 その姿に、一年前の争乱の影を見たものはいなかった。

竹原湊 湖底廃園
Copyright Minato Takehara All Rights Reserved.